凡例
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劉弘/陶侃(附:陶洪・陶瞻・陶夏・陶琦・陶旗・陶斌・陶称・陶範・陶岱・陶瑧・陶輿)
劉弘は字を和季といい、沛国の相の人である。祖父の劉馥は魏の揚州刺史、父の劉靖は鎮北将軍であった1劉馥は『三国志』魏書一五に列伝があり、劉靖も同伝中に行跡が記述されている。。劉弘は政務を治める才能をもっていた。若年のとき、洛陽に住んでいたが、武帝と同じ永安里に家があり、しかも同い年で、いっしょに勉強に励んだ。〔そのような武帝との〕旧恩をもって太子門大夫に起家し、昇進を重ねて率更令に移り、太宰府の長史に転じた。張華は劉弘をひじょうに高く評価した。このため、寧朔将軍、仮節、監幽州諸軍事、領烏丸校尉となった。その統治には威厳と恩沢がおおいにそなわり、盗賊は跡を絶ったので、幽朔(中国北辺)の人々から称賛された。勲功と徳がともに盛大であることをもって、宣城公に封じられた。
太安年間、張昌が反乱を起こすと、使持節、南蛮校尉、荊州刺史に転じ、前将軍の趙驤らを率いて張昌の討伐に出撃し、方城(南陽の葉県にある城)から宛・新野に至るまで、通ったところはすべて平定した。新野王歆が〔張昌に〕敗北すると2新野王は襄陽に出鎮していた。樊城に張昌軍が迫ると、出撃してこれを防ごうとしたが、軍は潰走し、戦死した。巻三八、宣五王伝、扶風王駿伝附新野王歆伝、巻一〇〇、張昌伝を参照。、〔朝廷は〕代わって劉弘を鎮南将軍、都督荊州諸軍事とし、ほかの官はもとのとおりとした。〔このとき宛に駐留していた〕劉弘は、南蛮校尉長史の陶侃を大都護、参軍の蒯恒を義軍督護、牙門将の皮初を都戦帥として派遣し、進ませて襄陽を守らせた。張昌は軍をひとつに集めて宛を包囲し、趙驤の軍を破ったので、劉弘は退いて梁に駐屯した。〔ついで張昌は襄陽へ進んだが、〕陶侃と皮初らは連戦して張昌を破り、前後で斬首数万級をあげた。劉弘が襄陽に到着すると3原文は「及到官」。「到官」は「地方官の赴任先に到着する」の意。ここは荊州刺史・劉弘の「到官」を言っていると考えられるため、訳文のように訳した。、張昌は恐れて逃亡し、その衆はことごとく降り、荊州は平定された。
これ以前、劉弘が梁へ退却したとき、范陽王虓は長水校尉の張奕を領荊州刺史とし、〔荊州へ〕派遣した。劉弘が〔襄陽に〕到着しても、張奕は交代を受け入れず、挙兵して劉弘を拒んだ。劉弘は軍を派遣して張奕を討ち、これを斬ると、上表して言った。
臣は凡才でありながら、分不相応にも国恩をこうむり、州の長官に任じられ、天子の辞を奉じて罪人を討つこととなりました。ですが、怒りの一撃を下し、遠方で敵を打ち破ることができず、軍は宛から撤退するはめになり、職分からして顕戮4死体をさらして見せしめにする。(『漢辞海』)を受けるべきであります。〔にもかかわらず、〕にわかにお赦しをいただき、〔そのまま〕派遣されて職(荊州刺史)に就くよう命じられましたので、即座に進んで鎮所(襄陽)に到着しました。しかし、范陽王の虓がこれに先立って、前長水校尉の張奕を領荊州刺史とし、派遣しておりました。臣が鎮所に到着しても、〔張奕は臣の〕指揮を受け入れず、独断で挙兵して臣を拒みました。いま、張昌の悪党集団がやっと平定されたところで、張昌はまだ捕えられて梟首されていません。〔また荊州には〕益州・梁州の流人が零落してにわかに集まっており、無頼(寄る辺がない人)の連中はたやすく扇動されてしまいます。つむじ風が吹き荒れれば、海原に荒波が立つかのごとくでありますし5張奕の挙兵が大騒動になってしまえば、張昌や流人らも騒動を起こすであろう、という意味。、もしも居場所を失うことを心配したならば、どんなことでもやるでしょう6原文「苟患失之、無所不至」。文言自体は『論語』陽貨篇が出典。『論語集解』の読み方を参考に訳した。。〔裁可を仰ぐために〕上表してからでは、時機を逸してしまうのではないかと思いましたため、独断で軍を派遣して張奕を討ち、即座にその首をさらしました。張奕は反乱を欲していて、害毒を為さんとたくらんでいたとはいえ7原文「奕雖貪乱、欲為荼毒」。『毛詩』大雅、桑柔に「民之貪乱、寧為荼毒」とある。鄭箋に「貪、猶欲也。天下之民、苦王之政、欲其乱亡。故安為苦毒之行、相侵暴慍恚、使之然」とあるのに従って読んだ。、臣が劣弱で、任に堪えられなかったがゆえに、張奕に野心を抱かせてしまい、もって資斧(鋭利な斧)を要するに至った次第であります。能力不足8原文「覆餗」。出典は『易』鼎の九四の爻辞「鼎折足、覆公餗」。「鼎の中の食物がひっくり返って外にもれ出る。能力が任に堪えず失敗するたとえ」(『漢辞海』)。の刑罰をあえて引き受け、独断専行の罪をすすんで受け入れる所存です。
詔が下って言った。
将軍は文武の資質を兼ね備えているゆえ、過日に方夏9原文まま。辞書的には「中華(ないし中原)」の意味だが、ここでは「地方」の意味であろう。を委任したのであるが、宛城が陥落した罪は趙驤にある。将軍が派遣した諸軍は賊の大群を滅ぼしたが、張奕は禍乱を欲し、詔命にそむいたので、将軍は誅罰を加え、首を闕庭(朝廷)に送ってきたのである。事前申請がなかったという嫌疑があるとはいえ、古人には「〔国家に利益をもたらすことは、〕これを専決してもよい」(『公羊伝』荘公十九年)という義がある。深遠な計略を拡張し、南海(南中国?)を安寧させ、そうして車を推し進め〔て事業を助け〕るという期待に応えてくれたまえ。
張昌が下雋山に潜んでいたので、劉弘は軍を派遣して張昌を討ち、これを斬り、その衆をすべて降した。
当時、荊州の守宰(郡県の長官)は多く欠員になっていたため、劉弘は補充の選考を願い出ると、恵帝はこれを聴き入れ〔て、劉弘に人事を選考するよう命じ〕た。そこで劉弘は、〔人材の〕功績を評定し、徳を調べ、才能に応じて任命すると、論者からはなはだ称賛された。そして上表して言った。
中詔を拝受いたしました。臣に命じますに、資品10おそらく官資と郷品を指す。に従って選考し、欠員の官吏を補充するように、との由。そもそも、賞罰は臣下が専決することではなく、また「人材を見分けられるのは明哲」と申しますが、これは聖帝ですら困難であったことでした11原文「知人則哲、聖帝所難」。出典は『尚書』皐陶謨篇「禹曰『吁、咸若時、惟帝其難之、知人則哲、能官人』」。。まして、臣の暗愚な見識で処理できることではありません。しかし、万事には要点(政治)があり、〔その政治においては〕ささいな過失も犯さぬよう注意しなければなりません12原文「然万事有機、豪氂宜慎」。難読。「機」を「要点、かなめ」の意で取り、万事のなかにはかなめとなるもの(=政治・政務)があり、政務上ではささいな過失にも注意しなければならない、というふうに読んでみたが、前後の文章とのつながりは測りかねた。郡県の政治を不備にしておくわけにはいかないから、人事選考の命令を引き受けることにした、ということであろうか。『易』の佚文に「正其本、万事理。失之豪氂、差以千里」(『漢書』巻六五、東方朔伝所引)とあるのにもとづいた表現なのかもしれない。。謹んで詔書を奉じ、登用すべき人材を選びました。いったい、教化を重んじるには、有徳の人材を尊ぶのが最上であり、それこそが困難を救う手段です。それゆえ、最上なのは徳を立てることで、その次は功を立てることなのです13原文「太上立徳、其次立功也」。『左伝』襄公二十四年に「大上有立徳、其次有立功」とあるのが出典か。ただ本文は『左伝』杜預注とは異なる読み方をしているようであり、「有徳者を取り立てるのが最上で、その次は功績のある者を取り立てること」という意味だと思われる。。近ごろは戦難が多く、質朴の気風はますます衰えておりますので、そこで臣は、僭越ですが14原文は「輒」。「独断で」などの意味で、謙遜の意思を表示しているのであろう。徴士の伍朝を零陵太守に任命し、かくして動乱の世の悪弊を懲戒し、退譲の節操を養育せんと願う次第です。臣は武事を不得手としておりましたため、過日は宛から敗退してしまいましたが、長史の陶侃、参軍の蒯恒、牙門の皮初が力を合わせて誅罰を加え、悪人を滅ぼしました。陶侃と蒯恒はおのおの初めから終わりまで軍事に携わりました。皮初は都戦帥を務め、その忠勇は軍中第一でありました。漢沔の地(荊州北部)が沈静化したのは、まことに皮初らの勲功です。『司馬法』に「褒賞を即座に与えるのは、善を為すことが速やかな幸福につながるということを人々に知らしめんとするからである」とあります15原文は「賞不踰時、欲人知為善之速福也」。『司馬法』天子之義篇には「賞不踰時、欲民速得為善之利也(褒賞を即座に与えるのは、人々が速やかに善を為すようになるという利益を欲するからである)」とあり、後半は微妙に違うが、『司馬法』からの引用句として扱った。。もし〔皮初らに〕通例以上の報酬がなければ、功績のために身命を投げ捨てる軍士を励まし、猛々しい勇者の志をいたわることができません。そこで臣は、皮初を襄陽太守に任命し、陶侃を府(南蛮校尉の府?)の行司馬とし、功績を評定する仕事を担当させ、蒯恒を山都令とします。詔は、散職の人材16原文は「散」。「散官」という場合の「散」と同じ意味。実質的な職務がないさまを言う。をもって欠員を補充するようにと臣にお命じでしたが、しかし沶郷令の虞潭は忠誠正直で、〔張昌討伐の〕義挙を首唱し、〔県内の政治では〕善人を登用し、そうして取り立てた才能のない者を教化して勤勉になるように導きました17原文「挙善以教不能者勧」。出典は『論語』為政篇「季康子問、『使民敬忠以勧、如之何』。子曰、『臨之以荘、則敬、孝慈、則忠、挙善而教不能、則勧』」。『論語集解』に「包曰、『挙用善人而教不能者、則民勧勉』」とある。。そこで臣は、僭越ですが虞潭を転任させて醴陵令に任命します。南郡の廉吏である仇勃は、母が老齢で病状が重かったため、賊(張昌軍)が到来しても母を守って逃げ出さず、〔賊から〕拷問に遭い、もう少しで命を落とすところでした。尚書令史の郭貞は、張昌が〔自分の政権の〕尚書郎とし、朝議のことについて尋ねようとしましたが、〔郭貞は〕逃走して出仕せず、張昌がその妻子を人質にしても、ますます遠くに逃げてゆきました。仇勃の孝行は、危機的状況において明白に示され、郭貞の忠誠は、強大な悪人を前にして発揮されました。〔両者は〕おのおの四品(郷品を指す)とはいえ、ともに臣子への教訓となり、長く教化に利益をもたらすことができましょう。そこで臣は、僭越ですが仇勃を帰郷令とし、郭貞を信陵令とします。以上の皆は、功績と行動がつりあい、名実相伴っております18原文「功行相参、循名校実」。両句とも「名実ともにそなわっている」という意味だと思われる。。〔彼らの〕行状19原文まま。彼らのこれまでの経歴というよりも、今回の戦争での行動履歴を指すのではないかと思うが、はっきりと断言はできない。を列記し、公文書にて詳しく申しあげました。
朝廷は「皮初は功績があるとはいえ、襄陽は名郡でもある。爵位や礼物は慎重に授けねばならないのだから20原文「名器宜慎」。『後漢書』列伝五、来歙伝に「愚聞為国者慎器与名、為家者畏怨重禍」とあり、李賢注に「器、車服也。名、爵号也。言名与器不可妄授也」とある。貴賤を表示する礼物や爵位は慎重に授与しなければならないということ。、〔襄陽太守の位を〕皮初に授けるのはふさわしくない」とし、そして前の東平太守の夏侯陟を襄陽太守とし、ほかはすべて劉弘の案を聴き入れた。〔しかし〕夏侯陟は劉弘の婿であった。劉弘は〔荊州に〕教を下して言った、「そもそも、天下を統治する者は天下〔の人々〕と心をひとつにしなければならず、一国を教化する者は一国〔の人々〕と信頼しあわなければならない。もし姻戚でなければ登用できないというのであれば、荊州の十郡は十人の娘婿でなければ治めることができないのであろうか」。そこで上表した、「夏侯陟は〔臣の〕姻戚でして、旧制では監督を禁じています21『後漢書』列伝五〇、蔡邕伝に「初、朝議以州郡相党、人情比周、乃制婚姻之家及両州人士不得対相監臨」とあるのが相当するか。。皮初の勲功は報われるべきです」。詔を下し、これを聴き入れた。
かくして、劉弘は農業を奨励し、刑罰を緩め、租賦を減免すると、毎年豊作となり、百姓は喜んだ。あるとき、劉弘が夜に目覚めると、城壁の上で夜番をしていた者の嘆き声がとても辛そうなのを耳にし、とうとうその者を呼び寄せて様子をじかにうかがった。その兵は年齢六十過ぎにして、病弱で襦(短い上着)も着ていなかった。劉弘はこの兵を憐れみ、そこで主者(担当者)をとがめて処罰し、ついには〔困窮している兵士に〕韋袍(なめし革の長上着)と複帽(綿の入った帽子)を支給することとし、運送して給付した22原文「遂給韋袍複帽、転以相付」。「転以相付」はよく読めない。『太平御覧』巻六九三、袍に引く「劉弘教」に「将士寒窮者給一韋袍複帽」とある。。旧制では、峴山・方山の沼沢で百姓が漁をすることは禁止されていた。劉弘は教を下して言った、「礼によれば、名山の大沢は封鎖せず、民とその利益を共有するという23『礼記』王制篇に「名山大沢不以封」とあり、『後漢書』列伝七一、独行伝、劉翊伝に「名山大沢不以封、蓋為民也」とある。。現在、公私ともども〔土地を〕併合しており、百姓は手を置くスペースもない。〔峴山と方山の規制を解くことについて〕何か言うべきことがあろうか24原文「当何謂邪」。この読み方でよいのか自信はもてない。。すみやかにこの法を改めよ」。また、酒室(酒を製造している部屋?)の中で言った、「斉中酒、聴事酒、猥酒はどれも米麹を用いて造っているのに、品質の優劣は三等に分かれている。〔むかし、越王句践が〕濁り酒を川に流して兵士と分かち合ったように、三軍の兵士と甘苦を共にすべきであるから25原文「投醪当与三軍同其薄厚」。越王句践は酒を長江に流して兵士と分かち合ったという(『呂氏春秋』季秋紀、順民など)。この故事をふまえた言葉であろう。、今後は酒を区分しないようにせよ26この酒のくだりは文脈が唐突で、いまいち意味がつかみかねるため、誤読しているかもしれない。」。そのころ、益州刺史の羅尚が李特に敗れ、使者をつかわして〔劉弘に〕危急を知らせ、食料を要望した。劉弘は〔荊州の郡県に〕文書を発布し、〔羅尚へ食料を〕供給させようとしたが、州府の綱紀27比喩表現で、要職の意。州では別駕や治中を指す。宮崎市定[一九九七]二九九頁および補注二七を参照。は、運送路が遠く、文武ともに官府は窮乏していることを挙げ、零陵から米五千斛を一度だけ運送して羅尚に提供することを求めた。劉弘は言った、「〔道の遠さを理由に挙げる〕諸君らは『まだ真剣に考えていない』だけだ28原文「諸君未之思耳」。『論語』子罕篇「唐棣之華、偏其反而、豈不爾思、室是遠而。子曰、『未之思也、夫何遠之有』」をふまえた言い方。〈「唐棣の華はひらひらと揺れる。そなたを思わぬことなどあろうか。行かぬのは家が遠いから」という詩がある。先生が言われた。「まだ思い方が足りないね。何の遠いことなどあるものか。」〉(土田健次郎訳『論語』筑摩書房、二〇二三年)。。天下はひとつの家であり、あちらとこちらに区別はない。私がもし羅尚に食料を支給すれば、西顧の憂いはなくなるであろう」。とうとう零陵の米三万斛を羅尚に支給し、羅尚はこれのおかげで守りを固められたのであった。当時、荊州には流人が十余万戸おり、流浪して貧窮し、多くが盗賊になっていた。そこで劉弘は流民に田地と食料を給付し、流民のなかから賢才を抜擢し、資29原文まま。ここでは官資ではなく、素質を指すか。に応じて登用した。また当時、総章や太楽の伶人30総章と太楽はともに楽官府の名称。伶人は音楽演奏に従事する官人のこと。は戦乱を避け、多くが荊州に来ていた。ある者が、〔彼ら伶人に〕音楽を演奏させてみてもよいのではないか、と〔劉弘に〕勧めたところ、劉弘は言った、「むかし、劉景升(劉表)は天下の礼楽が崩壊していたことから、杜夔に命じて天子のために雅楽を編集させ、雅楽が完成すると、それを庭で演奏させようとした。すると杜夔は、『天子のために雅楽を編集しましたのに、それを庭で演奏するというのは、おそらく将軍の本意ではないでしょう』と言った。私はかねがねこの逸話に感嘆している。いま、主上(恵帝)は蒙塵し〔鄴に拘束され〕ているというのに、私はいまだ臣としての節義を発揮できずにいる。家妓(私宅で養われている妓女)がいたとしても、音楽を楽しむべきではないというのに、まして宮廷の雅楽ならばなおさらであろう」。そこで郡県に命令を下し、伶人を慰撫させ、朝廷が〔洛陽に〕戻るのを待ってから、もとの官署に送還させた。〔朝廷は〕張昌平定の功績を論評し、劉弘の次子ひとりを県侯に封じるのがふさわしいとしたが、劉弘は上疏して固辞したので、これを聴き入れた。侍中、鎮南大将軍、開府儀同三司に進められた。
恵帝が長安に行幸し、河間王顒が天子を傀儡にすると、劉弘に詔を下し、劉喬の継援(後方支援?)を命じた。劉弘は、張方が残虐であることから、〔張方を重用する〕河間王は必ず敗れるだろうと確信し、使者をつかわして東海王越の指揮を受けることにした。そのころ、天下はおおいに乱れていたが、劉弘は江漢の地(荊州)をもっぱら監督し、威厳は南方に行き渡っていた。まえの広漢太守の辛冉は劉弘に縦横の策略31原文「縦横之事」。抗争している諸王らと政局に応じて同盟を結び、自存を図ることを言うのであろうか。を説いたが、劉弘はおおいに怒り、これを斬った。河間王が張光を順陽太守とすると、南陽太守の衛展は劉弘に説いて言った、「彭城王が以前に東へ逃げたとき、よからぬ発言がありました32原文「彭城王前東奔、有不善之言」。この彭城王は釈を指すが、この件の詳細は不明で、したがって正確な読み方もよくわからない。巻四、恵帝紀、永興二年八月に「車騎大将軍劉弘逐平南将軍・彭城王釈于宛」とあるのが関連するか。。張光は太宰(河間王)の腹心ですから、張光を斬って旗幟を鮮明にする33原文「明向背」。「向背」は「味方につくことと、そむき離れること」(『漢辞海』)。それを「明」らかにするというのは、要するに河間王に付くのか叛くのか、態度をはっきりさせるという意味であろう。べきです」。劉弘、「宰相(河間王)の過失が、どうして張光の罪であろうか。他人に危害を加えて自分の安全を図ろうなどというのは、君子のなさぬことである」。衛展はこの件に深く不満をもった。
陳敏は揚州を侵略すると、〔ついで〕兵を率いて西へ上ろうとした。そこで劉弘は〔自身が帯びている〕南蛮校尉の職を解き、まえの北軍中候の蒋超に〔南蛮校尉を〕授け、江夏太守の陶侃と武陵太守の苗光を統率させて、大軍でもって夏口に駐屯させた。さらに治中の何松に建平・宜都・襄陽の郡の兵を統率させて派遣し、巴東に駐屯させ、羅尚の後詰とさせた。また、南平太守の応詹に寧遠将軍を加え、三郡(建平・宜都・襄陽)の水軍を統率させ、蒋超のあとに続かせた。陶侃と陳敏は同郡で、しかも同じ歳に吏に推挙されていたので、陶侃を讒言する者がいたが、劉弘は陶侃を疑わなかった。そして陶侃を前鋒督護とし、陳敏討伐の任務を委ねた。陶侃は自分の子と兄の子を〔劉弘のもとに〕送って質任としたが、劉弘は彼らを送り帰し、〔陶侃の兄の子に〕言った、「賢叔(おじさん=陶侃)は征伐に出撃するし、君の祖母は高齢だから、すぐに家に帰るのがよかろう。匹夫の交わりですら約束を破らぬもの。まして大丈夫ならばなおさらだ」。陳敏はとうとう境界を踏み越えようとしなかった。永興三年、詔が下り、車騎将軍に進められ、開府とほかの官についてはもとのとおりとされた。
劉弘は〔郡国から物資や人員を〕徴発するたびに34原文「弘毎有興廃」。『三国志』魏書一五、劉馥伝の裴松之注に引く「晋陽秋」は「毎有興発」に作る。そちらのほうが意味が通ずるため、文を改めて読んだ。、自筆で郡守や国相に文書を送り、丁寧かつ誠実に説明していたため、人々はみな感激し、競ってこれに応じていた。みなは「劉公の文書一枚を得るのは、十人の部従事よりも効き目がある35原文「得劉公一紙書、賢於十部従事」。部従事は州の官で、所属の郡の監察をつかさどったという(『宋書』巻四〇、百官志下、州刺史)。十人の部従事が郡国を督促してようやくかき集めた量を、劉弘は文書一枚で集めたという意味であろう。」と言い合った。東海王が天子を〔長安より〕奉迎すると、劉弘は参軍の劉盤を督護として派遣し、諸軍を統率させて東海王に合流させた。劉盤が帰還すると、劉弘は老齢と病気を理由に、州刺史と南蛮校尉の職を解き、分けて部下に授けようと思ったが、そのことを上表する前に襄陽で卒した。男女ともども嘆き悲しみ、まるで親友を亡くしたかのようであった。
以前、成都王穎が〔鄴から〕南へ敗走したとき、成都王は本国(封国の成都)へ行こうとしたが、劉弘は成都王の通行を拒んだ。劉弘が卒すると、劉弘の司馬の郭励は成都王を主人に推戴しようとしたが、劉弘の子の劉璠は劉弘の遺志を尊重したため、〔劉璠は〕黒い喪服を着用して36原文は「墨絰」で、黒い喪服を言う。通常の喪服は白いが、服喪中の者が従軍するときは黒い喪服を着用するのが礼とされていた。、府兵を率いて郭励を討ち、濁水で戦ってこれを斬り、襄沔の地(襄陽一帯)は静まったのであった。これ以前、東海王は、劉弘は劉喬に付いて自分を裏切るのではないかと疑っており、〔劉弘が〕指揮下に入ったとはいっても、内心ではまだ不安であった。劉弘が成都王を拒み、劉璠も郭励を斬ると、朝廷はこれを嘉した。東海王は劉璠に自筆の書簡を送って彼を称賛し、上表して劉弘に新城郡公を追贈し、元の諡号をおくった。
〔朝廷は〕高密王略を劉弘の代わりに〔荊州へ〕出鎮させたが、〔高密王は〕盗賊を抑止できなかった。〔そこで朝廷は〕詔を下し、劉璠を起家させて順陽内史としたところ、江漢の領域(荊州)は落ち着き、帰心した。高密王が薨ずると、山簡がこれに代わった。山簡が〔荊州に〕到着すると、劉璠が人心を得ていることを知り、百姓が劉璠に迫って主人に推戴してしまうことを心配し、上表してこのことを述べたので、このため〔朝廷は〕劉璠を中央に召して越騎校尉とした。劉璠も百姓から迫られるのではないかと憂慮していたので、辞令の書類を受け取ると、すぐさま身軽で洛陽に至り、そのあとで使者をつかわし、家族を迎えた。僑人37原文まま。荊州に寓居していた人、つまり流人を指す。このすぐあとに出てくる侯脱は長安出身であったらしい。の侯脱や路難らが〔劉璠の家族を〕交代で護衛して都に送り届け、送り終えると〔荊州へ〕去って行った。〔こののち、〕南夏(南中国)はとうとう混乱するに至ってしまった。父老は劉弘を追慕し、召伯を詠った「甘棠」の詩38「甘棠」は『毛詩』召南の篇名で、人民が召伯の政治を懐かしんで作った歌とされている。であっても、これをしのぐことはなかった。
劉弘/陶侃(附:陶洪・陶瞻・陶夏・陶琦・陶旗・陶斌・陶称・陶範・陶岱・陶瑧・陶輿)
(2026/6/5:公開)
