凡例
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- 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。
陳寿・王長文・虞溥/司馬彪・王隠・虞預/孫盛・干宝・鄧粲・謝沈/習鑿歯・徐広/参考資料(修晋書詔、佚晋史一覧表ほか)
習鑿歯
習鑿歯は字を彦威といい、襄陽の人である。宗族は富裕で、代々郷豪であった。習鑿歯は若いころから志を抱き、博学で知識が広く、文筆をもって称賛された。荊州刺史の桓温は辟召して従事とした。江夏相の袁喬は習鑿歯を高く評価し、しばしば彼の才能を桓温に推薦したので、西曹主簿に転じ、信任が厚くなった。
そのころ、桓温には大志があった1帝位をうかがう野心をいう。。蜀人で天文の知識がある者を探し求め、〔荊州に〕来させると、夜に〔その者の〕手を握って国家の命運の長短について質問した。〔その占星術者が〕答えて言う、「世祀2原文まま。宗廟の祖先祭祀を指すと思われる。はまさしくとこしえであることでしょう」。桓温は言いづらいのではないかと疑い、そこで言葉を飾って言った、「君の言うとおりであれば、私にとって幸福というだけでなく、人民すべてにとって幸福であろうな。だが、きょうの話はもちろん語り尽くされなければならない。きっとささいな災厄があるはずだろう。それについても話すがよい」。占星術者、「太微、紫微、文昌の三宮の気の変化はかくかくしかじかのとおりでありまして、決して不安はございません。五十年先までは論じるまでもないでしょう」。桓温は不快になり、会談を止めてしまった。後日、〔桓温は〕絹一匹と銭五千文を送り届け、占星術者に贈った。占星術者は馬を走らせて習鑿歯を訪問し、言った、「私の家は益州にあり、命(めい)を授かって遠方(荊州)へ下って参りました。いま、命を受けて自裁することとなりましたが、遺骸を〔益州の家へ〕送るすべがありません。君の手厚い仁愛をよすがに、墓碑と棺を作って〔この地に埋葬して〕いただきたいとお願いに上がりました」。習鑿歯はわけをたずねると、占星術者は言った、「絹一匹を賜われたのは、僕に自裁せよと命じておられるのです3原文「賜絹一匹、令僕自裁」。『芸文類聚』巻八五、絹に引く「又曰」(「晋陽秋」)には「賜絹、令僕自絞」とあり、このとおりであれば、「この絹で首を吊れ」と解釈していたらしい。。銭五千文をお恵みになられたのは、これで棺を買えということです」。習鑿歯、「君、もう少しで誤って死ぬところでしたね。君は聞いたことがありますか、『あなたは星宿を知っているけれども、身体を覆う衣服はない』という〔古諺の〕意味を4原文「君嘗聞干知星宿有不覆之義乎」。とても難解。明の楊慎『秇林伐山』巻一三、星宿不覆は、『嵆康集』巻八に所収の「宅無吉凶摂生論」に「知星宿、衣不覆」という古諺が引かれていることを指摘し、占術士が多く困窮しているさまを言うものだと解している。これに従った。中華書局の校勘記によれば、「干」は「子」に作っている場合があるらしく、原文のまま「干」でも訳せなくはないのだが、「子」のほうが意味は取りやすいため、いったん「子」で訳すことにした。「有」も「衣」の訛誤かもしれない。。これらの贈品は、絹をもって君をからかい、銭をもって道中の費用を与えたのであって、つまり君が去ることを許しているのですよ」。占星術者はおおいに喜び、翌日、すぐに桓温を訪問して別れの挨拶をした。桓温が去る理由をたずねると、〔占星術者は〕習鑿歯が言ったことをそのまま答えた。桓温は笑って言った、「習鑿歯は君が誤って死んでしまうのを心配したが、君ははたして誤って生きながらえたわけだ。なれば、三十年むなしく儒学の書物を読むよりも、なんでもかんでも習主簿にたずねたほうがよいのだな」。
昇進を重ねて別駕に移った。桓温が征伐に出撃するときは、習鑿歯は従軍することもあれば、留守をすることもあったが、それぞれの場所で職務に励み、つねに機密をつかさどる立場に身を置き、政務をこなして成績をあげ、書簡での議論に長けており5原文「善尺牘論議」。「尺牘」は竹簡・木牘を指し、転じて書簡をいう。つまり文章で応酬する議論が得意であったということ。、桓温は習鑿歯を高く評価して厚遇した。その当時、清談や文章の士である韓伯、伏滔らはそろって〔習鑿歯と〕友情を結んで親しくしていた。のちに〔習鑿歯が〕使者となって京師に至った際、簡文帝も〔習鑿歯を〕はなはだ重んじた。〔荊州に〕戻ると、桓温は質問した、「相王6宰相の王のこと。当時の簡文帝はまだ帝位に就く前であった。はどのような御方であった?」習鑿歯、「これまでの人生で見たことがない御方でした」。この返答により、桓温の意向におおいにもとってしまったため、戸曹参軍に左遷された7もちろん習鑿歯はそういう意味で言ったわけではなかったと思うが、この答え方だと「簡文帝は桓温(いままで会ったことがある人)よりもすごい」という意味になってしまうのである。。そのころ、桑門8梵語sramanaの古い音訳。のち「沙門」が多く使われる。(『漢辞海』)の釈道安なる者がおり、弁舌にすぐれて才知があり、北方から荊州へやって来た。習鑿歯とはじめて対面すると、道安は言った、「弥天9空いっぱい、満天の意。の釈道安です」。習鑿歯、「四海の習鑿歯です」。世の人々はすばらしい返しだと評した。
これ以前、習鑿歯は羅崇と羅友の二人の舅(母親の兄弟)といっしょに州の従事となった。〔習鑿歯が〕別駕に移ると、座席(地位)が舅の右に飛び越えてしまったため、〔習鑿歯は〕たびたび〔舅の位について?〕要請していた。桓温がのちに激怒し、ひどく怒り心頭になると、二人の舅を抜擢して、あいついで襄陽都督とし、〔一方で〕習鑿歯を地方に出して滎陽太守とした。
桓温の弟の桓秘も兄同様に才気があり、平素より習鑿歯と親しくしていた。習鑿歯は郡守を罷免されて帰郷すると、桓秘に書簡を送って言った。
去る五月三日、襄陽に着きました。〔故郷の景色が〕目に入っても悲しみを覚えるばかりで、嬉しい気持ちはほとんどなく、この悲痛な体験はもとより書信で説明できることではありません。いつも舅(おじ)さまにご挨拶へうかがうときは、〔襄陽城に〕北門から入っていきます10上田早苗氏[一九七〇]によれば、習氏は襄陽城より南方の地に居住していた。習鑿歯もおそらくその地で生活していたはずである。その彼が襄陽城を訪れるのに北門から入ったというのは、水運で移動していたからなのかもしれない。。〔その際に〕西のかた隆中を望むと、臥龍(諸葛亮)の吟詠を想像し、東のかた白沙を眺めると、鳳雛(龐統)の声を思い浮かべます11白沙は襄陽城東方の地名。この地に龐統など龐氏が居住していた。『水経注』巻二八、沔水「又従県東屈西南、淯水従北来注之」注に「士元居漢之陰、在南白沙、世故謂是地為白沙曲矣」とある。上田[一九七〇]も参照。。北のかた樊墟(樊城)を見やると、鄧老(鄧遐)の偉大さを想起し12訳文で補ったように、この「鄧老」はおそらく鄧遐を指す。巻八一、鄧嶽伝に附伝がある。習鑿歯とほぼ同時代人で、同じく桓温に仕えた。習鑿歯『襄陽耆旧記』によれば襄陽太守に就いたことがあり、その際に襄陽北の沔水で人害をなしていた蛟を斬って退治したという。、南のかた城邑(城内の街並み)を見回すと、羊公(羊祜)の風格を思い知ります13羊祜は荊州都督として約十年ほど襄陽に駐留していた。その統治は百姓に慕われていたようで、羊祜の没後、襄陽城南の峴山にある、羊祜がふだん休んでいた場所に廟と碑が立てられたという。。〔西の〕檀溪に視線を移すと、崔徐(崔州平と徐庶)の友情が思いやられ14檀溪の北側に徐庶と崔州平の居宅があったという。『水経注』巻二八、沔水「又東過襄陽県北」注に「〔檀〕溪之陽有徐元直・崔州平故宅」とある。、〔東の〕魚梁洲に目線を走らせると、二徳(龐徳公と司馬徳操)の遠い時代が偲ばれます15魚梁洲は沔水にあった中洲。龐徳公はこの洲に居住し、司馬徳操は洲の対岸に住んでいたという。『水経注』巻二八、沔水「又従県東屈西南、淯水従北来注之」注に「沔水中有魚梁洲、龐徳公所居、士元居漢之陰、在南白沙、世故謂是地為白沙曲矣。司馬徳操宅洲之陽、望衡対宇、歓情自接、泛舟褰裳、率爾休暢、豈待還桂柁于千里、貢深心于永思哉」とある。上田[一九七〇]も参照。。〔そうした感慨を覚えながら〕いつも必ず、周辺をぶらぶらして一日を過ごし、失望に打ちひしがれ、車に乗ったままうろうろし、感極まって涙が溢れ出てきます。それにしましても、〔ここ襄陽は〕魏の武帝が酒宴を開き、孫堅が斃れた地にして16孫堅は劉表が拠る襄陽城を攻囲中、襄陽城南にある峴山で戦死した。、裴杜(裴潜と杜襲)がかつて居留し、繁王(繁欽と王粲)がむかし居住した場所です17裴潜、杜襲、繁欽、王粲は、みな後漢末の動乱時に荊州の劉表のもとへ避難した人士たちである。。遺跡が今なお残っており、星の連なるがごとく視界に満ちています。こせこせした常人やつまらない凡人にとっては、その方寸を感動させるには足りないでしょうが。
そもそも芳しい香りは椒蘭18サンショウとアララギ。香りのよい薫き物。(『漢辞海』)から起こり、清らかな響きは琳琅19美しい玉石のこと。転じて「玉の触れ合って鳴る音」(『漢辞海』)。から生ずるもの。命世20「世に名をとどろかす」とかそういう意味の言葉のようだが、ニュアンスをうまくつかみきれておらず、日本語に置き換えられないため、このまま訳出した。巻六、元帝紀の訳注を参照。にして補佐を務める者は、功績を立てて事業を拡大するという遺風21原文「可大之余風」。不詳。「可大」は『易』繋辞上伝「易知則有親、易従則有功、有親則可久、有功則可大、可久則賢人之徳、可大則賢人之業」をふまえた表現か。ほかに手がかりもないので、これを意識して訳した。を必ず伝えるでしょうし、高尚にして徳をみがく者は、名勝のような足跡22原文「明勝之遺事」。不詳。和刻本は「明、恐当作名」と注している。「名勝」にしたところでいまいちわからないことに変わりないのだが、とりあえずこれに従ってむりやり読んでみた。を必ず残すことでしょう。かつての八君子23さきにその人柄を想像していた八人、すなわち諸葛亮、龐統、鄧遐、羊祜、崔州平、徐庶、龐徳公、司馬徳操を指すと思われる。にいたっては、千年後ですら、その義が彼らの為人(ひととなり)を想起せしめるでしょう。まして、遠く隔たっていない時期(=現代)であればなおさらではありませんか。昔は昔、今は今、どうして現代の秀才が過去の偉人に及ばないなどとわかるものでしょうか。百年後、どうして私と足下が景升(劉表)24劉表は後漢末の群雄。襄陽を本拠に一大勢力を築いた。上田氏[一九七〇]によれば、劉表は荊州の州治を襄陽へ移し、襄陽豪族の協力を得て切り盛りした。習鑿歯のような常陽豪族層からすれば、親しみを感じる郷土の偉人というところであったのだろう。といっても、なぜここであえて劉表を喩えに出したのかはよくわからない。と同等に見なされないなどとわかるものでしょうか。
習鑿歯の風格が卓越していたさまは、このようであった。
このころ、桓温は野望をたくらんでいたので25桓温は帝位簒奪の野心をもっていたとされる。、習鑿歯は滎陽太守在任中に26原文は「在郡」。一般的に「郡守に在任中」という意味で用いられる表現であるため、時系列は前後してしまうが訳文のように解釈した。実際、『世説新語』文学篇、第八〇章に「出為衡陽、性理遂錯、於病中猶作漢晋春秋」とあり、同、劉孝標注に引く「続晋陽秋」に「左遷戸曹参軍、衡陽太守。在郡著漢晋春秋」とある(「衡陽」か「滎陽」かの異同はあるが)。、『漢晋春秋』を著わしてこれを制止しようとした。〔その著述は〕漢の光武帝から始まり、晋の愍帝で終わった。三国時代において、蜀が漢の宗室をもって正であったとした。魏の武帝は〔その子孫が〕漢から受禅して晋に禅譲したとしても、なお簒奪とし、晋の文帝が蜀を平定するに及んで、ようやく漢が滅亡して晋がはじめて起こったとした。世祖の諱の炎を引いて「炎興」と解し27炎興は蜀最後の元号であり、かつ「炎が起こる」という意味。、蜀の後主の諱の禅を引いて「禅受」と解し28「禅」はゆずる、「受」はさずけるの意。ここの原文は「引世祖諱炎興而為禅受」だが、中華書局の校勘記が引く説に従い、「引世祖諱炎為炎興、而後主諱禅為禅受」に改めて読んだ。『三国志』蜀書一一、向朗伝附向寵伝の裴松之注に引く「襄陽記」(習鑿歯の著作)にも似た話が伝えられている。、天の心は勢力〔の優劣〕をもってして強制できないことを明らかにしようとしたのである。全五十四巻であった29『漢晋春秋』は現存しない。『隋書』経籍志によれば編年体。佚文は豊富に残っている。。その後、足の病気のため、とうとう民間のなかに見捨てられるにいたった30原文「遂廃于里巷」。「里巷」は郷里や街中の意味で、要するに民間を言う。民間のなかにまぎれて存在を忘れられたということであろう。おそらくさきの書簡は、こうして公けの舞台から退かざるをえなかった心境を述べたものではないだろうか。。
襄陽が苻堅によって落とされると31孝武帝の太元四年(三七九年)のこと。、苻堅は平素より習鑿歯の名声を耳にしていたので、道安(前文に登場していた桑門)といっしょに車で迎えて召し寄せた。接見して語り合うと、おおいに喜び、ひじょうに手厚く金品を贈与した。また習鑿歯は足が不自由であったことから、〔苻堅は〕諸鎮へ送った文書で、「むかし、晋氏は呉を平定したが、その利益は二陸(陸機と陸雲)を得たことであった。いま、〔私は〕漢南(襄陽)を落としたが、得た人士はわずかに一人半であった32原文「獲士裁一人有半耳」。西晋とちがって、二人に及ばない人数であったということ。道安を一人、習鑿歯を半人と数えていたらしい。『高僧伝』巻五、義解二、晋長安五級寺釈道安伝に「安公一人、習鑿歯半人也」とある。習鑿歯は足が不自由であったことから「半人」と表現したという、ふつうにひどい話。」と言った。まもなく、病気を理由に襄陽へ帰った。ほどなくして襄陽と鄧城が晋に復帰すると33孝武帝の太元九年(三八四年)のこと。、朝廷は習鑿歯を中央に召し、国史を担任させようとしたが34原文「使典国史」。干宝伝では「建立国史」「領国史」とあり、「国史」は官名のごとくであったが、ここでは「典」なので、この「国史」は職務内容、すなわち国史の編纂を指すと考えられる。、〔習鑿歯は〕ちょうど卒してしまい、果たせなかった35『建康実録』巻九、烈宗孝武皇帝によれば、習鑿歯が卒したのは太元九年十月のこと。。〔習鑿歯は〕最期のまぎわに上疏して言った。
臣はつねづね次のように考えていました。皇晋は魏を飛び越えて漢を継承するべきであり、魏の後裔を三恪とするべきではない、と36三恪は三代前までの王朝の子孫のこと。晋朝の場合は魏、漢、周の三王朝。暦数を継いだ王者はこれら前代の王者の後裔を礼遇すべきであると考えられていた。その三恪から魏を外すべしというのは、つまり過去に暦数を継いだ正統王朝として魏を遇するべきではない、という主張である。。しかし、〔臣の〕身分は卑しく、官位も低く、上呈するすべがありませんでしたから、この愚考を胸に秘めたまま、三十余年になります37『建康実録』に従えば習鑿歯が没したのは太元九年(三八四年)であるから、三十余年前といえば三五〇年前後、すなわち穆帝期である。そのころは習鑿歯が桓温の僚佐となって間もない時期のはずであり、官歴のかなり早い段階からこのような歴史のアイデアをもっていたことになる。『漢晋春秋』を著わした目的が桓温批判であるというのが仮に事実であったとしても(もっとも、『漢晋春秋』の編纂目的を桓温批判とするのは俗説にすぎないと思うが)、この歴史観そのものは出仕当初から構想されていたのであろう。。いま、重病におちいり、生命を保ちがたい状態にありますが、それでも結局、このこと38原文は「此」。「三十余年のあいだ自身の考えを朝廷に具申できなかった」ということを指すのだと思われる。が心残りです。〔わが身は〕この愚考とともに朽ち果てるべきなのでしょうが、つまらぬわが心には、ひどく未練を覚える考察なのでございます。そこで、つつしんで病身をおしながら、論一篇を著述し、以下のとおりに書き上げました39習鑿歯はすでにこれ以前、以上の歴史観のもとに『漢晋春秋』を編纂していた。よって、彼がここで悔いているのは、自身の思想を世に書き残せなかったということではなく、彼の歴史思想を朝廷に上呈できなかったということである。。どうか陛下におかれましては、古義(古典が説く道理)を考究し、不変的な模範を探し求め、高遠として遥か先まで洞察され、臣が卑賤であるのをもって臣の意見を棄却することのございませんよう、お願い申し上げます。
論に曰く。(以下、習鑿歯が執筆した仮想問答形式の論文。)
ある人がたずねて言った。「魏の武帝の功績は中夏(中原)を覆い、文帝は漢から禅譲を受けました。それなのにあなたは、漢が滅亡して晋が興った、とおっしゃる。真理とは思えません。それに、魏が廃棄されてしまうと、晋の道も損なわれてしまいます。どうして晋の臣下があなたのそのお考えに賛同できるでしょうか。」
〔私は〕答えて言った。「この考えは、まさしく晋を尊ぶためのものです。しかし、卓絶した歌唱や旋律と調合した音曲でも、常人の耳には心をゆさぶる悲哀の音楽と聞こえないように、見方が異なり、考え方が違っていれば、たとえ奇才を有していたとしても、〔私の考えを〕理解できる者はいないでしょう。君のために説明させてください。
むかし、漢氏が統治する力を失うと、九州は崩壊して分裂しました。三国がその間隙に乗じ、鼎立すること数世代、戦争が日々絶えず、血が流れること百年、各国は一地方における平安を得ていたとはいっても、実際は戦乱状態です。宣帝は当時の情勢に迫られ、魏氏(曹操)の権力に制せられ、しばらく雌伏して時世に従い、とうとう軍役に拘束されましたが、輝く才能を覆い隠し、水中に潜伏する龍のごとく下位に潜み隠れ、頭を下げて恭順の姿勢を示し、足を重ねて立ってちぢこまり、身をかがめて息をひそめました。道には免れがたい困難があり、身は霜を踏むような険路40原文「履霜之険」。「履霜」は『易』坤の初六の爻辞「履霜堅氷至」に由来する表現。「霜を踏んだら、近いうちに固い氷が張る」という意味で、ここから「霜を踏む」は「災難の兆し」の喩え。ここでは「やがて大きな禍が降りかかりかねない危険な道」という意味であろうか。を進みました。危機的であったと言えましょう。魏の武帝が没すると、大難から逃れることができ、それからようやく〔動きはじめて〕南は孟達を捕え、東は辺境の海沿い(公孫氏)を平定し、西は強力な蜀を抑制し、戻っては諸夏(中原)を慰撫し41正始の変を指すかのごとくだが、そちらは後文で挙げられているため、そのことではない。おそらく魏の明帝から輔政の後事を託されたことを指すのではないか。、呉人による侵入の鋭鋒をくじき、世から嫌われていた曹爽の党派を一掃し、霊木の根を植えて中嶽をまたがり42原文「植霊根以跨中嶽」。「植霊根」は事業の基礎を樹立したことの比喩表現であろう。「中嶽」は狭義には嵩山を指し、広義には中原を指すらしいが、要するにここでは「中原に勢力を築いた」と言いたいのであろう。、多くの優秀な人材を取り立てて子弟を助けさせました。命世の志が大きく広がったうえに、非常の事業(帝業をいう)も強固になりました。景帝と文帝がこれを継承し、神々しい威光は世に冠絶していました。反逆者(毌丘倹ら)を平定し、かくてその勲功を打ち立て、梁益の地(蜀)を余さず占領し、たちまち西極43原文まま。そのまま読めば「西方の極辺」だが、蜀を指すか?を征伐しました。功績は皇天に匹敵し、勲績は古烈(いにしえの勇士)に等しく、高大な規範と輝かしい天運が、まことにもはや明白でした。武帝に至って、ついに強大な呉を併呑し、宇宙を統一し、四海を清定し、二漢と軌を同じくしました。三国の大害を取り除き、漢末の戦乱を鎮め、九域の暗黒を切り開き、千年の盛大なる功績を立てたのは、すべて司馬氏です。それなのに、魏を尊んで漢を継承したことにし、晋をもって魏を継承したことにし、〔これらの継承関係の〕義を唐虞になぞらえ44唐は堯、虞は舜を指す。漢・魏・晋への交代を、堯が舜へ位を譲った故事になぞらえたという意味。、みずからを純臣に擬しています。どうして口惜しまずにいられましょうか。
もしも魏を、王者に代わるにふさわしい徳があったと見なすのでしたら、魏の道(道徳)は不足していました〔から、そんなことはありません〕。戦乱を鎮めた功績があったと見なすのでしたら、孫氏と劉氏が鼎立していました〔から、そんなことはありません〕。道が不足していれば当時の世を支配したとは言えず、当時の世が魏に支配されていなかったのならば、魏はいまだかつて天下の主人になったことがありません。王者としての道が曹氏に不足していたのならば、曹氏はいまだかつてたった一日の王者にもなったことがありません。むかし、共工は九州に覇をとなえ、秦王政(始皇帝)は区夏を占有して治めましたが、〔両者とも〕華戎を征服し、六合を専制統治したのに、それでもなお帝王のなかに並べられず、戦国の人主のなかに埋没しています45原文「淪没於戦国」。天下を統一した君主と見なされず、戦国の世の一君主と数えられた、ということであろう。こうした正統認識は、例えば前漢の劉歆が理論的に論じている。劉歆の認識については石合香[一九九六]、佐川繭子[二〇一三]を参照。もっとも、劉歆の議論はかなり高度に理論づけられており、習鑿歯のようなシンプルな論じ方はしていない。習鑿歯がここで示している歴史認識は、おそらく当時においてすでに常識化していたような見方であり、特に劉歆を意識してこういうことを言っているわけではないと思われる。。まして、しばしのあいだ数州の民を支配し、威勢がその境域内に及んだだけで、尊んで一代に見なすことができるのでしょうか。
もし、晋はかつて魏に仕えていたから、という理由で、皇徳を損なうのを恐れ、禅譲の名分を惜しんで拘泥し、〔それゆえ魏と晋を〕分かつことはできないと考えているのでしたら、はなはだしく混乱した理解です。なぜでしょうか。〔まず「皇徳を損なうかもしれない」という懸念についてですが、むかし新末後漢初に〕隗囂は隴西に割拠し、公孫述は蜀で帝号を称しました。蜀や隴西の人々は隗囂らの役務46原文は「役」。兵役や労役など。に服従していたとはいえ、大義をもってこれを選び取った人が、かの時においてどうして存在したでしょうか47原文「蜀隴之人、雖服其役、取之大義、於彼何有」。「取之大義」が難しい。和刻本は「之ヲ大義ニ取ニ」と訓じているが、雰囲気でそう読んでいるだけのような印象もある。ひとまず「これを取るに大義をもってす」と読むことにしてみた。「舍生而取義(生を捨てて義を取る)」(『孟子』告子章句上)をふまえた表現の可能性もある。。また、呉や楚が王号を僭称したとき、周室はまだ滅亡していませんでしたが、楚の子文(闘穀於兎)や呉の延陵(季札)は貶されていません。宣帝は魏に仕えましたが、生命の危機に迫られたからであり、とまる木を選んだわけではまったくありませんでした48原文「挙非択木」。『左伝』哀公十一年「鳥則択木、木豈能択鳥」をおそらくふまえた表現。主体的な自由意志の行動ではなかったということ。「挙」は動詞として読むべきか、それとも副詞として理解すべきか判断つかず、とりあえず副詞で訳した。。どうして美徳を損なうことになるでしょうか。〔次に「禅譲の名分が惜しい」という点についてですが、漢魏交代および魏晋交代の際の〕禅譲の義は、堯舜の故事と同じでありません。内実を比較して名分を定めようとすれば、〔そのことは〕まちがいなく後世において明らかにされるでしょうし、人々はおのおの異なる考えをもつのですから、どうして事実を隠しきれるでしょうか49原文「校実定名、必彰於後、人各有心、事胡可掩」。意味のつながりが読み取りにくく、難しい。「人各有心」に関しては、『毛詩』大雅、抑に「民各有心」とあり、もしかするとこれを引用したつもりなのかもしれないが、ひとまず引用句とはみなさなかった。人それぞれで考えが異なること、多様なこと、ひとつにまとまっていないことをいう。禅譲と堯舜の故事は別のものという事実はちょっと調べればわかってしまうから、後世には必ず気づかれるだろうし、いろいろな考え方があるのだから疑問をもつ人も出るだろうし、その事実をいつまでも隠しきれるわけがない、という意味であろうか。そもそも禅譲は堯舜の故事とはちがう(「禅代之義、不同堯舜」)という論点も、どうしてそう考えるのか具体的でなく、この箇所は本来の文章から省略があるのかもしれない。。空想的な魏を建立して己れを卑下するのと50原文「定空虚之魏以屈於己」。「空虚」は現在の日本語と同じような意味。漢や晋と同格の正統な帝王としての魏は、晋の空想上のイメージにすぎない、ということであろう。、義を拠りどころにして魏を低く下げるのとでは、どちらがよいでしょうか51ここの文章は「A、孰若B」の構文で、「もちろん後者のBがよい」という意味。。そもそも命世の人物とは、正しい心で人に接し52原文「夫命世之人、正情遇物」。出典がありそうだが見つからない。「正情」は用例もあまりなく、『漢語大詞典』は「荘厳な態度(端荘的情態)」とするのだが、あまりしっくりこないため、ここでは「正しい心」という意味で取ることにした。、仮の機会であっても、必ず義理と武勇を兼ねて振るいます53原文「仮之際会、必兼義勇」。和刻本は「之カ際会ヲ仮テ」と訓じているが、ここはシンプルにそのまま読み下せばよいと思われる。これまでの行論からして、宣帝が曹操に仕えていた時期は真なる機会ではなく、雌伏の期間であった、というのが習鑿歯の認識であろう。そうした仮の期間であったとしても、義勇を振るうのが命世の士である、という流れだと思われる。。宣帝の祖先は漢に功績を立て、〔司馬氏は〕代々その功労に手厚く報いられていましたから、〔宣帝が漢へ〕報恩せんとする思いも深かったのでした。魏の武帝は傑出していましたが、志は主君を傾けることにあり、徳は平素より積まれず、義は薄氷よりも軽薄で54原文「義険氷薄」。意味がやや読み取りにくく感じるが、「すぐに割れる氷よりも危険」=「氷よりも薄い」と解釈し、訳文のように訳した。、宣帝はこれに協力していたとはいえ、情としていったいどうして重かったでしょうか。形式としては当時に屈したとはいえ、意志としては百世までまっすぐ伸ばしていたのであり、感情を抑えて自己を保全し、心の奥底で憤慨していたのです。道義心から服従して北面し55原文「道服北面」。「道服」がよくわからないが、文脈から推測すれば、おそらく「まごころより服従する」という意味であろう。、純臣の節義を抱いていた、というわけではありませんし、曹氏に命を尽くし、世を救済する功績〔を立てること〕を忘れた、というわけでもなかったのです。
そもそも、「大業を成した」というのは、成し遂げた者に結びつくのであり、〔成し遂げた者が〕拠りどころとした者には結びつきません。「大功を立てた」というのは、やり遂げた者を言うのであり、きっかけを起こした者を言うのではありません56原文「夫成業者係於所為、不係所藉、立功者言其所済、不言所起」。言わんとするところはだいたいわかるのだが、きちんと訳文を作ろうとするとなんだか難しい文。この解釈で少々自信はない。。このため、漢の高祖は楚の懐王から命令を授かり、劉氏は亡秦を滅ぼした機会に乗じ〔て興起し〕ましたが57原文「劉氏乗斃於亡秦」。和刻本は「斃当作弊」と注記しており、たしかにそう改めたほうがよさそうな印象を覚えるが、「亡秦を斃ぼすに乗ず」と読めそうなので原文のまま読んだ(ただしこの読み方だと前句と対にならないのが気がかりではあるが)。、〔漢は〕二偽(秦と楚)を飛び越えて遠くさかのぼって〔周を〕継承し、近世を論評せずに〔劉氏の〕功績を計算したのです58原文「不論近而計功」。「近」は特に秦と楚を指すか。それらの働きは論じずに、最終的に天下平定の大功を成し遂げた劉氏の功績のみを論じる、という意味で取ってみた。。〔また〕聖典で五徳の推移を考察し59原文「考五徳於帝典」。単純に興起した順番で継承関係を定めたわけでないということ。「帝典」は、『漢語大詞典』によれば儒家の著作を特に指す意味があるという。この箇所もそのニュアンスが含まれているように思われるが、「経書」などと断定的・特定的な訳語を当てるのはためらわれたので、訳文のような訳語を取ってみた。漢の五徳終始の歴史に関しては『漢書』巻二五、郊祀志下の賛曰にまとめられており、これによって概略してみると、漢の創業時は漢の徳を定めていなかった。文帝のとき、相勝説による土徳説が提唱されたが、これは周(火)→秦(水)→漢(土)という継承関係を主張するもので、五徳終始的には秦を継ぐ説であった。文帝期には土徳説は採用されるに至らなかったが、武帝期になって採用された。その後、前漢末に劉向・劉歆父子が相生説による火徳説を提唱し、周(木)→秦(水=閏)→漢(火)という、秦を外した継承関係を説いた。そして後漢・光武帝の建武二年になって、相生説による火徳が採用されたのである。岩本憲司[一九九七]、平澤歩[二〇二二]第二章第一節・第三章第二節・第四章第二節を参照。なお佐川繭子氏[二〇〇七]によれば、秦を王朝交代の推移から除外する認識は劉向父子以前からはすでにあらわれていたという。楚に関しては、共工と秦を閏位と位置づけつつ水徳に当てている劉歆「世経」でさえ言及がなく、論外といったところだったのだろうか。、力政に迷い込まなかったので60原文「不疑道於力政」。「力政」は「武力による支配・政治」(『漢辞海』)。徳政とは正反対のありかたを言う。『漢書』巻二七、五行志中之下の顔師古注に「政亦征也、言専以武力相征討。一説、諸侯之政、当以徳礼、今王室微弱、文教不行、遂乃以力為政、相攻伐也」とあり、同、巻九二、游狭伝の顔師古注に「力政者、棄背礼義専任威力也」とある。、楚を継承したという称号を劉季はもたず、周を継承したという大業を漢は有したのでした。これを採用すれば優美となるうえに、みずからの徳も重厚となるからです。およそ天下に関する事柄は、喩えを過去〔の出来事〕から借りることによって現代〔の状況〕を理解できるようになるものですから、過去の出来事にして将来への証拠とするのに十分な事例をもって、その事柄を判定するのです61原文「定之往昔而足為来証者」。読みづらい。第一の直感的には「定之往昔」と「足為来証」とに分けて読みたくなるが(実際、和刻本はそう読んでいる)、それだと意味が取りづらい。やや変則的だが、「定之(これを定める)」に当たって「往昔而足為来証者(往昔にして来証と為すに足るもの)」を根拠とする、という区切り方なら意味は取れる。そこでこの解釈で訳出を試みた。。陽秋(春秋)の時代、呉と楚の二国はどちらも称号を僭称していた王でした。かりに楚の荘王が鄢郢を譲って有徳の人を尊び62鄢郢は楚の都のこと。ここでは転じて楚の全域の喩えであろう。、呉の闔閭が三江を捧げて命世の人を奉じたとしましょう。その命世の主君や有徳の人主は、あるいはこの機会を足がかりにして天命に応じたり、あるいはこの機会に従っておおいに天下を有したりするでしょうが63原文「或撫之而光宅」。「光宅」には「都を立てる」という意味もあるが、ここは『尚書』堯典篇の「光宅天下」をふまえたのであろうと解釈した。、彼らは必ずみずからを周に結びつけ、呉や楚を尊んて一代と見なさないであろうこと、明白でしょう。まして、勲功を積み重ね、戦乱を鎮めて民衆を安んじ、暦数の選ぶところ64原文「数之所録」。この解釈でよいのか、自信はない。、民衆の与するところとなり、燕噲のような授与をたのみとせず65燕噲は戦国・燕の王。宰相の子之に国を委ねた。『史記』巻三四、燕召公世家を参照。、世襲の権力を頼りとせず、朝廷で計略を謀って辺境を統御し66原文は「長轡廟堂」。「長轡」は長い手綱の意で、「長期的に有効な統制方法の比喩(比喩長遠有効的控制手段)」(『漢語大詞典』)。ここでは長期というより辺境に対する統治という意味であろう。「廟堂」は宗廟や朝廷を指すが、いわゆる「廟算」のように、そうした場で政略・戦略を協議することを言うと思われる。、呉と蜀をともに滅ぼし、奇策をめぐらすこと二紀67紀は期間を数える単位。一紀は十二か年。にして天下を平定し、魏の武帝が臣従させられなかったところを服従させ、歴代にわたって取り除けなかったところを払い除けた者68すなわち宣帝、景帝、文帝、武帝の三世代四人を指す。であれば、なおさら〔漢を継承するべきであり、魏を尊んでそれを継ぐのは誤り〕ではありませんか。
漢末の戦乱から五、六十年、呉と魏は道理に逆らいながらも強大で、蜀は正に拠りながらも弱小であり、三家とも統一を果たすことができず、万民は久しく主君不在でした。いったい、天下を定めるという大功を立て、天下じゅうの人々から推戴されるのと、道理に暗い人間から推戴されたり、微弱の勢力から尊崇を受けたりするのとでは、どちらがよいでしょうか69ここの文は「A、孰如B」の構文で、前出の「孰若」構文と同じだが、ただしこちらのほうでは「Bがよい」というニュアンスまでは含まれていない。。天に配されて帝となり、三代に肩を並べることが、どうして曹氏に対し頭を下げて恭順の意を示し、不正に対し足をそばだてて恐れかしこまることに、比するのでしょうか。実情に即して真実を判断し70原文「即情而恒実」。中華書局校勘記の推理に従い、「恒」を「衡」に改めて読んだ。、天下を取っても恥じるところはないことが、どうして事実を偽って虚偽〔の名分〕にかこつけ、将来に混乱をもたらすことに、匹敵するのでしょうか。したがって、故旧の恩義をもって魏の後裔を封ずるのはかまいませんが、三恪のうちに〔魏は〕並べられるべきではないのです。晋をもって漢を継承させれば、功績の実際のありようがはっきりとし、名分を正して事実に当たれば、事情の実際のありさまにもぴったり合うでしょう。いったいなぜ、無意味に不正の魏を尊んで、わが道から大道を損なわせてしまうのでしょうか71原文「虧我道於大通哉」。読み違えているかもしれない。。
むかし、周人は祖先の徳を歌って、殷を滅ぼした功を追述しました。仲尼は大孝の道を明らかにして、〔祭祀で祖先を〕天に配する義を高らかに論じました。しかし、〔始祖として配天されていた〕后稷が〔堯や舜に仕えて〕職務にいそしみ72『毛詩』大雅、生民の詩序に「生民、尊祖也。后稷生於姜嫄、文武之功、起於后稷、故推以配天焉」とあるように、后稷は配天されていたとされる。、〔克殷の始動者として歌われていた〕古公亶父がまだ殷を滅ぼしていなかったのは73原文「聿来未以翦商」。「聿来」は、『毛詩』大雅、綿の「聿来胥宇」が典故。鄭箋に「聿、自也」とある。詩のこの箇所は古公亶父が岐山のふもとに移ってきたことを歌ったところで、ここから察するに、本文の「聿来」は「古公亶父が岐山のふもとに移ってきても」「古公亶父の時代になっても」という意味ではないだろうか。さしあたりこの解釈で訳文を作成してみた。古公亶父は周の文王の祖父に当たる。『毛詩』魯頌、閟宮に「后稷之孫、実維大王、居岐之陽、実始翦商、至于文武、纘大王之緒」とあり、鄭箋に「翦、断也。大王自豳徙居岐陽、四方之民、咸帰往之、於時而有王迹、故云是始断商」とあるとおり、詩ではこの古公が岐山へ移って王業がはじまった(=克殷の事業がはじまった)と歌われている。また『史記』巻四、周本紀にも「〔西伯崩、〕諡為文王、……追尊古公為太王、公季為王季、蓋王瑞自太王興」とある。、司馬氏が曹氏に仕え、三祖(宣帝、景帝、文帝)が魏の世に仮住まいしていたこととは異なっています74ここでこのような比較がなされているのは、司馬氏の三祖を周の后稷や太王らに喩える発想が当時おそらく存在したからなのであろう。これまで論じられてきたように、習鑿歯の考えでは、宣帝は魏に迫られてやむなく仕えていたのであって、本心から臣従していたわけではなかった。三祖が「仮住まい」(原文は「寓」)していたというのは、司馬氏のこのような心の態様を表わしていると考えられる。しかし后稷などの周の祖先は、そのように心を偽って堯舜や殷に仕えていたわけではなかった。周が司馬氏とは異なると言っているのは、この差異を指しているのだと思われる。この直後の文でも、司馬氏の臣としての節義には欠けるところがあったと論じられている。。かつ、魏がみずから君主となる道は不正でしたから、三祖が魏に臣として仕える義は不完全でした。義が不完全だったため、〔三祖は〕道路を借りて75原文は「仮塗」。現代ふうに言えば「ただ乗りして」という意味であろうか。高大な計略をめぐらしたのであり、道が不正だったため、君臣の節義は通常とは違っていたのでした。しかしながら76「以上のように三祖の臣としての節義には不健全と見なしうる点があったが、しかしながら」という論理のはこびかと思われる。、〔三祖はみずからの〕道を拡大させていて魏を補佐しなかったけれども、反逆して天下を奪い取ったという嫌疑はなく、手を組んだままで〔魏のために〕粉骨砕身しなかったけれども、戦乱を鎮めた功績はある77原文「高拱不労汗馬而有静乱之功」。「高拱不労汗馬」は「魏のために必死に働かなかった」という意味かと思われる。というのは、要するにその勲功が四海の王たるにふさわしかったからであり、その義が天子の位に登るのに十分だったからであり、わが徳は周に比べて恥じ入るといっても、かの魏の道は〔不正で〕殷とは異なっていたからなのです。
いま、あなたは共工が帝王に並べられないことに疑いをもたず、漢が周に結びついて秦に結びつかないことに疑問を抱いておりませんのに、なぜ唯一魏に関しては、なおも判断に悩んで〔私が述べたことを〕呑み込めないのでしょうか。そもそも、主君を尊ぼうとしながら、主君を堯舜の道へ後押しすることを知らず、国を重んじようとしながら、かえって国を不利益な土地へ配置することが、どうして君子の崇高なる義でありましょうか。かりにまだご理解いただけないとしても、このあたりにて終わらせてください。」
子の習辟強は、才気と学問に父の風格があり、位は驃騎将軍府の従事中郎にまで至った。
徐広
徐広は字を野民といい、東莞の姑幕の人で、侍中の徐邈の弟である78徐広は『宋書』巻五五にも列伝があり、内容的にはそちらのほうが詳しい、というより『晋書』の徐広伝は『宋書』徐広伝のダイジェスト版のようなものである。『南史』巻三三にも簡略な列伝が立てられている。徐邈は巻九一、儒林伝に立伝。。代々学問を好む家柄であったが、徐広にいたってはとりわけ精通しており、諸子百家や数術の書物もすべて目を通して究めていた。謝玄が兗州刺史となると、〔徐広を〕従事に辟召した。譙王恬が鎮北将軍となると、〔徐広を〕参軍に任じた。孝武帝の時代、〔朝廷は徐広を〕秘書郎に任じ、秘書省〔の蔵書〕の校書をつかさどらせ79原文「典校秘書省」。和刻本は「省」を衍字ではないかと指摘している。『宋書』徐広伝は「校書秘閣」に作る。徐広の校書については『北堂書鈔』巻五七、著作惣「料簡四部」に引く「檀道鸞晋陽秋」に「孝武好覧文芸、勅著作郎徐野民、料簡四部見書、凡三万六千巻」とある。永田拓治氏[二〇二〇]によれば、徐広の校書は孝武帝の寧康年間にはじまり、その約三十年後の義煕四年に完了し、『晋義煕四年秘閣目録』にまとめられたという。、秘書省の職員を増設した。員外散騎侍郎に転じたが、なおも領校書とされた80原文「仍領校書」。干宝伝では「領国史」の解釈をめぐってあれこれ述べたが、この「校書」は官職ではなく明らかに職務内容であろう……と思いたいのだが、『宋書』徐広伝は「領校書如故」とあり、官職の帯領の常套句のごとくである。この当時に校書郎という官が存在したとは聞かないが、ひとまずここもぼかした訳文とした。。尚書令の王珣は徐広を深く尊敬しており、推挙して祠部郎とした。その当時、会稽王世子の元顕は録尚書であったが、百官に〔自分へ向かって〕敬礼させたがっていた。内外の官人はこの意向に迎合し、徐広に〔百官が元顕へ敬礼することを正当化する〕議を立てさせたが、徐広はつねづね〔この件を〕恥と見なしていた。元顕が中軍将軍府の参軍に召し、領軍将軍府の長史に移った。桓玄が輔政すると、大将軍府の文学祭酒とした。義熙のはじめ、詔を奉じて車服の儀注書を編纂した。鎮軍将軍府の諮議参軍に任じられ、領記室とされ、楽成侯に封ぜられた。員外散騎常侍に転じ、領著作となった。列曹尚書が奏上して言った81『宋書』徐広伝によれば義煕二年のこと。。
〔いにしえは〕左史が〔主君の〕発言を記述し、右史が出来事を記録しました。『乗』と『志』は晋と鄭で著わされ82『乗』『志』は歴史書の名称。春秋時代、諸侯国にはそれぞれ歴史書があったとされており、『乗』は晋の、『志』は鄭の歴史書の名称として伝えられていた。『孟子』離婁章句下に「孟子曰、『王者之迹熄而詩亡、詩亡然後春秋作。晋之乗、楚之檮杌、魯之春秋、一也」とあり、『史通』古今正史篇に「又当春秋之世、諸侯国自有史。故孔子求衆家史記、而得百二十国書。如楚之書、鄭之志、魯之春秋、魏之紀年、此其可得言者」とある。鄭の『志』はもっと古い出典があるはずだが、見つけられなかったので『史通』を引いておいた。、『春秋』は魯の史官によって記されました。聖代(晋朝のこと)が『中興記』を作成して以来83原文「自聖代有造中興記者」。中華書局の句読に従って「中興記」を書名として読んだが(和刻本も同様の読み方)、『宋書』徐広伝は「自皇代有造、中興晋祀(皇代が功業を成し遂げ、晋の祭祀を中興して以来)」と作っている。訳は『晋書』に従って作成することにしたが、聶溦萌氏[二〇二〇]は『宋書』が正しいとする。実際、『晋書』の文だと「者」が意味不通になってしまっている。、道風の帝典は84原文「道風帝典」。後文の「玄風聖迹」と対応していると考えられる。そうだとすれば、「道風」は「奥深くて根源的な風格をもつ」といった意味だろうか。「帝典」は「帝王の典範」くらいの意味であろう。、史書に燦然と記されています。しかし、太和(廃帝の元号)以降、世代は三朝(廃帝、簡文帝、孝武帝)を経ましたが、その玄風の聖跡は85原文は「玄風聖迹」。「玄妙なる風格をもつ皇帝の事跡」といったところであろう。、たちまちに昔の出来事になってしまいました。臣らが詳細に検討しましたところでは、著作郎の徐広に勅を下し、国史の編纂を命じるのが適当かと存じます86要するに、太和以降の晋史を編集せよ、というわけである。かくして完成したのが、後文の『晋紀』である。逆に言うと太和以前の晋史はすでに整っていたということになるが、それを永田拓治氏[二〇二〇]や聶溦萌氏[二〇二〇]は孫盛の『晋陽秋』と推測している。確かにちょうど符合するのだが、『晋陽秋』は干宝の晋史と西晋時代の叙述がかぶっていることがやや気がかりである。。
こうして徐広に勅を下して編集させた。驍騎将軍、領徐州大中正に移り、〔ついで〕正員散騎常侍、〔さらに〕大司農に転じたが、なおも領著作はもとのとおりとされた。義煕十二年、『晋紀』を編纂した。全四十六巻87現存しない。『隋書』経籍志によれば編年体。佚文が残っている。。上表してこれを上呈した。そして史官の解任を請うたが、承認されなかった。秘書監に移った。
これ以前、桓玄が帝位を奪って、安帝が宮殿から出たとき、徐広はそれに陪従し、その悲哀は左右の人々の心を震わせた。劉裕が受禅し、恭帝が帝位を譲ると、徐広ひとりが悲しみ、涙と鼻水をともどもに流していた。謝晦がこれを見ると、徐広に言った、「徐公さま、少々度がお過ぎではないかと……」。徐広は涙を止めて言った、「君は宋朝の佐命、私は晋室の遺老。悲しい事と喜ばしい事は、まことに時を同じくしないのさ88原文「固不同時」。「悲喜は同時にやってこない(こもごもやってくる)」という意味で読んだ。「時」には「時代」というニュアンスも含まれているのかもしれない。」。そしてふたたびすすり泣いた。かくして老衰をもって職を辞し、帰郷することを請うた。読書を好む性格で、老いてもなお倦まなかった。享年七十四で家に卒した89『宋書』徐広伝によれば、劉裕は即位後に徐広へ中散大夫を授けたが、徐広は隠退を申し出て、それが承認された。そして元嘉二年に卒したという。つまり宋ではほとんど活動していない。が、最終官歴は宋の中散大夫になるからか、宋史に立伝され、隋志でも肩書は宋である。。徐広の『答礼問』は世に通行した。
陳寿・王長文・虞溥/司馬彪・王隠・虞預/孫盛・干宝・鄧粲・謝沈/習鑿歯・徐広/参考資料(修晋書詔、佚晋史一覧表ほか)
(2026/3/29:公開)
