巻八十二 列伝第五十二 孫盛 干宝 鄧粲 謝沈

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陳寿・王長文・虞溥司馬彪・王隠・虞預孫盛・干宝・鄧粲・謝沈習鑿歯・徐広参考資料(修晋書詔、佚晋史一覧表ほか)

孫盛

 孫盛は字を安国といい、太原の中都の人である。祖父の孫楚は馮翊太守であった1孫楚は巻五六に列伝がある。。父の孫恂は潁川太守であった。孫恂は潁川太守在任中に賊に遭遇し、殺された2王建国氏[二〇〇六]は巻一〇〇、王弥伝の「河東・平陽・弘農・上党諸流人之在潁川・襄城・汝南・南陽・河南者数万家、為旧居人所不礼、皆焚焼城邑、殺二千石長吏以応〔王〕弥」という流人の暴動記事を挙げ、このときであろうと推測している。。孫盛は十歳のときに〔西晋末の〕戦難を避けて長江を渡った3孫盛の生年は不明だが、①十歳のときに長江を渡ったこと、②いとこの孫統・孫綽といっしょに渡ったこと(孫楚伝附孫統伝)、③孫綽は咸安元年(三七一年)に享年五十八で卒していること(『建康実録』巻八、太宗簡文皇帝)、といったわかりそうでわからない程度の手がかりが絶妙に残されており、研究者がいくつか説を提出しているが、決定的な説はまだないはずである。。成長すると、博学で、名理4魏晋以降の清談で、事物の名称とその道理を分析する論理。(『漢辞海』)について論じることを得意とした。〔清談において、〕当時は殷浩が名声を独占しており、殷浩と対等に議論できるのは孫盛だけであった。あるとき、孫盛は殷浩を訪問した。清談をしながら向き合って食事をとることになったが、〔たがいに〕麈尾5払子。晋以降、名士の清談や僧の談義のさいに手に持ってふるうのに用いられた。(『漢辞海』)を勢いよく躍らせ、その毛がことごとく米飯の中に落ち、食事が冷えて温めなおすこと四度に及び、日が沈んでも食事を忘れているほどであったものの、理はとうとう定まらなかった。さらに孫盛は「医卜及易象妙於見形論(医学、占い、そして『易』の卦象は現実の事物の形象よりも精妙であることについての論)」を著わしたが6原文「著医卜及易象妙於見形論」。中華書局は「易象妙於見形論」のみに波線を引いているが、これは『世説新語』文学篇、第五六章に「殷与孫共論易象妙於見形」とあるのにもとづき、「易象妙於見形」のみを論著の題名としたのだと思われる。川勝義雄ほか[一九六四]が指摘するように、「易象妙於見形」とはこれ以前より名士らの討論テーマとして取り上げられていたのであろう。とはいえ、中華書局のようにこの部分のみを論題と読んでしまうと、「医卜」が浮いてしまって不自然さが残る。まとめて全部でひとつの論文テーマと読んだほうがまだマシであるように思われるので、その理解で訳文を作成した。、殷浩らはついにこの論に反駁できなかったため、これによってとうとう名が知られるようになった。
 起家して佐著作郎となったが、家が貧しくて親が老いていたため、小邑(県の長官)となることを求め、地方に出て瀏陽令に任じられた。長沙太守の陶侃7原文は「太守陶侃」。瀏陽(劉陽)は長沙の属県であるため、文脈上このように読むべきであろう。ところが、巻六六、陶侃伝によると、陶侃は江夏や武昌の太守には就いているものの、長沙の太守には就いていない。といっても、長沙とまったく縁がないわけでもなく、長沙は陶侃の封国である。そのあたりと混同してしまっているのかもしれない。あるいは「太尉」の誤りなのかもしれない。とりあえず訳文は文脈に従って「長沙太守」とした。そもそも郡に参軍職はないはずではあるのだが。は請うて参軍とした。〔陶侃が薨去し、〕庾亮が陶侃に代わると、〔孫盛を〕召して征西将軍府の主簿とし、参軍に転じた。その当時、丞相の王導が朝政をとりしきり、庾亮は〔成帝の〕元舅8もっとも年上の舅(母親の兄弟)。庾亮は成帝の生母・庾皇太后の長兄に当たる。の身分をもって外(地方)に駐留していたが、南蛮校尉の陶称は讒言を告げて両者を離間させたので、王導と庾亮はひどく不信感を抱いた。孫盛はひそかに庾亮を諫めて言った、「王公(王導のこと)は心が豁達で、いつも世俗の外への憧れをおもちですから、どうして凡人のようなことをしようとするでしょうか9「王導はこんなことを言っています/やっています」という内容の讒言だったのだろう。。これは必ずや、邪悪な連中が内外を離間しようとしているだけです」。庾亮はこれを聴き入れた。〔庾亮が薨去し、〕庾翼が庾亮に代わると、孫盛を安西将軍府の諮議参軍とし、まもなく廷尉正に移った。ちょうど〔庾翼が卒して〕桓温が庾翼に代わると、〔桓温は〕孫盛を留めて参軍とし、ともに蜀(李氏成漢)を征伐した。征伐軍が彭模に駐屯すると、桓温はみずから軽装兵を率いて蜀に入った。孫盛は老弱な兵と輜重を率いて後方にいたが、賊数千が突然襲来したので、孫盛の兵はみな驚いて狼狽した。孫盛は諸将を配置し、力を合わせてこれを防ぎ、すぐさま敗走させた。蜀が平定されると、安懐県侯の爵を賜わり、昇進を重ねて桓温の従事中郎に移った。〔桓温の北伐での〕入関と洛陽平定に従軍し10桓温は北伐を繰り返し、永和十年に関中に入って前秦と戦い、また同十二年には洛陽を平定・奪還した。、功績をもって呉昌県侯に進められ、地方に出て長沙太守に任じられた。家が貧しかったため、すこぶる蓄財していた。州の部従事が長沙郡に来たとき、監査してこの件を知ったが、孫盛の高名に感服していたので、孫盛を弾劾しなかった11部従事は州刺史の属官で、郡ごとに一人置かれ、不法の監察を主管したという。『宋書』巻四〇、百官志下、州刺史に「部従事史、毎郡各一人、主察非法」とある。。〔このことをめぐって、〕孫盛は桓温に書簡を送ったが、その言葉は勝手気ままで、「様子を見に州が部従事を派遣してきましたが、進んでは威鳳12威儀のある鳳凰。鳳凰は瑞鳥であり、かつ聖人の比喩でもある。の飛来のごとき美しさはなく、退いてはタカやハヤブサの狩りのごとき有用さはなく、湘川をうろつきまわっていて、おそらく怪鳥13奇異な鳥。不祥な人物の比喩でもある。だったのでしょう」14この当時の荊州刺史は桓温である。つまり当の部従事のボスである桓温に対して、「立派でありがたい御仁が来たのでもなければ、部下に置けそうな有能な人材が来たのでもなく、ぜんぜんありがたくない厄介なひとが来て参りましたわ」と軽口を叩いているわけである。と言った。桓温は孫盛の書簡を受け取ると、ふたたび部従事を派遣し、あらためて孫盛を調査させたところ、〔孫盛は〕ひどく収賄をむさぼっていた。檻車に孫盛を収容し、荊州(江陵)に到着すると、〔桓温は〕赦して罪に問わなかった。昇進を重ねて秘書監に移り、給事中を加えられた。享年七十二で卒した。
 孫盛は学問に励んで倦むことなく、若いころから老齢になるまで、書物を手離さなかった。『魏氏春秋』『晋陽秋』15現存しない。が、敦煌文献やトゥルファン文書のなかには、『晋陽秋』の残巻と推測されているものがある。岩本篤志[二〇〇五]を参照。『隋書』経籍志によれば編年体で、三十二巻、叙述範囲は哀帝まで。しかし、後文のエピソードに出てくる枋頭の戦いは哀帝以後の廃帝時代の出来事であることなどもあって、叙述範囲に関してはいろいろと議論されている(枋頭の戦いにまつわる逸話自体、『晋陽秋』に廃帝期の記述が存在しなかったことから生まれた俗説という感じもしないではないが)。書名の「陽秋」は「春秋」の意で(後述)、また『史通』摸擬篇に「孫盛魏晋二陽秋、毎書年首、必云『某年春帝正月』。夫年既編帝紀、而月又列帝名。以此而擬『春秋』、又所謂貌同而心異也」とあり、『春秋』の書法に倣っていたというから、『春秋』を意識して体裁を整えた史籍であったと考えられる。佚文は豊富に残されており、また周一良氏[一九九七]は、魏収『魏書』巻九六の僭晋司馬叡伝の取材源のひとつは『晋陽秋』であったと指摘している。
 書名の「陽秋」について付言しておく。「陽秋」は「春秋」の意で、「春」字を避けた表現である。簡文帝の母・鄭夫人は諱を「阿春」といい、織田めぐみ氏[二〇二〇]によれば、簡文帝の子・孝武帝が親政するようになって以後、「春」字が避けられるようになった。しかし『魏氏春秋』が「春秋」のままである理由は不明。
を著わし、ならびに詩賦や論難も数十篇作った。『晋陽秋』は、文章は朴直にして道理は正当であったため、みなが良史であると称えた。ほどなく桓温が『晋陽秋』を見ると、怒って孫盛の子に言った、「枋頭では確かに勝利を逃したが16枋頭は地名。黄河の北にあり、西晋時代は司州汲郡朝歌県の域内にあった。桓温は太和四年に前燕への北伐を敢行し、勝利を重ねて枋頭にまで到達した。しかし兵糧が底を尽いてしまい、桓温は撤退を決断したが、前燕の追撃を受けて甚大な被害を出してしまった。、どうして尊君(父親=孫盛)が言うほどであろうか。もしこの史書がこのまま広まれば、おのずと君の門戸に関する事に影響してくるだろう」。孫盛の子はすぐにぬかずいて謝罪し、「訂正させてください」と言った。その当時、孫盛は老年で、〔官から退いて〕家に帰っていたが、方正厳粛にして規則正しい性格で、子孫が白髪まじりになっているにも関わらず、家庭での教導はますます峻厳であった。この事態に至ると、子供らはみなで号泣して叩頭し、百口17原文まま。この時期の特徴的な用語。ここでは「一族」くらいの意味。中村圭爾氏[二〇一三]によれば、後漢末より散見する集団名称で、「一般的には、家族ないし日常的生活を共有する集団の人数を象徴的に表現したもの」(三三八頁)。のために切実に取り計らってほしいと頼み込んだが、孫盛はおおいに怒った。子供らはついにそのように記述を改めた18原文「諸子遂爾改之」。和刻本は「爾」を「竊」(ひそかに)に作っており、良さそうなのだが、いまのところ和刻本のみでしか確認できないので原文に従って訳した。。孫盛は〔『晋陽秋』で〕二種の定本を著わし、〔片方を〕慕容儁に贈った19このころ、慕容儁はもう死去しており、誤りであろう。中華書局の校勘記を参照。『史通』直書篇には「孫盛不平、竊撰遼東之本」とあり、桓温の意向に沿って改変したことに孫盛が不満だったため、遼東版を作成したという。。太元年間、孝武帝が広く異聞を求めた際に、はじめて遼東でこのバージョンの『晋陽秋』を入手した20『建康実録』巻九、烈宗孝武皇帝によれば太元十一年のこと。遼東の慕容氏が上表して送ってきたのだという。。双方を突き合わせたところ、異同が多く、『晋陽秋』はとうとう二種が並存することとなった21『隋書』経籍志などの後世の目録には、定本は一種しか記録されていない。ちなみにこの一連の逸話にちなんで、『集古今仏道論衡実録』巻甲、晋孫盛老子疑問反訊、集論者曰によれば、孫盛は「国史」の編纂を命じられており、その国史を奏上する前に孫盛は卒してしまったが、死後の太元十五年、子の孫潜がそれを上呈し、秘閣に収められたという(『集古今仏道論衡実録』はSATで大正蔵版の画像を閲覧。適切に読めているか怪しいので、誤読であったら申しわけない)。この「国史」を『晋陽秋』と同一の史籍と解せば、太元十五年になって本家版『晋陽秋』が秘書に収められたことになるが、一方で『建康実録』の紀年が正しければ、それに先立って太元十一年に遼東版『晋陽秋』を収集していたことになる。しかし本伝の時系列では、遼東版を得てから旧来の『晋陽秋』と比べているのだから、遼東版はあとから得たものであるはずである。『集古今仏道論衡実録』が言うところの国史は『晋陽秋』とは別であるか、あるいは『集古今仏道論衡実録』の紀年が誤っているかであろう。『晋陽秋』とは別に晋史を編むのも考えにくいが、すでに干宝の『晋紀』が存在するのにあらためて西晋を叙述範囲とする国史を修めるのも奇異であり、少々悩ましい史料である。。子に孫潜と孫放がいた。

〔孫潜、孫放:孫盛の子〕

 孫潜は字を斉由といい、豫章太守となった。殷仲堪が王国宝を討ったとき、孫潜は豫章太守在任中であったが、殷仲堪は強要して諮議参軍にしようとした。固辞して就かなかったが、憂慮のあまりに卒した。

 孫放は字を斉荘といい、幼くして聡明を称えられた。七、八歳のとき、荊州におり、父といっしょに庾亮の猟に随行した。庾亮は孫放に「君も来たのかい」と話しかけた。〔孫放は〕声に反応してすぐに答えた、「小となく、大となく、公に従いて、于(ゆ)きて邁(ゆ)く22原文は「無小無大、従公于邁」で、出典は『毛詩』魯頌、泮水。鄭箋に「于、行。邁、行也。……臣无尊卑、皆従君行而来」とあるのに拠って読んだ。」。庾亮はさらに「何の『荘』と『斉(ひと)しく』なろうと思ってるんだい?23「君の字(斉荘)はどういう意味?」っていう質問。もちろんおおまじめに訊いているのではなくコミュニケーションの一環。」とたずねた。孫放、「荘周に斉しくなりたいです」。庾亮、「仲尼には憧れないの?24「何の荘に肩を並べたいのか」と聞いておきながら「孔子はダメなの?」と言っているのはまったくコミュニケーションになっていないが、『世説新語』言語篇、第五〇章だとそもそも庾亮は「何に斉しくなりたいの?(欲何斉)」というふうに質問しており、これだと話が通じる。『世説新語』のほうが本来のやり取りの形を留めていると思われる。」孫放、「仲尼は生まれながらにして頭がいいです25原文「仲尼生而知之」。『世説新語』言語篇、第五〇章は「聖人生知」に作る。『論語』季氏篇「孔子曰、生而知之者、上也。学而知之者、次也」あたりにもとづくのだろうが、もっとも『論語』述而篇には「子曰、我非生而知之者。好古敏以求之者也」とある。。願っても近づけるおひとではありません」。庾亮は孫放をおおいに評価し、「王輔嗣(王弼)でもこれに勝るまい」と言った。あるとき、庾翼の子の庾爰客26庾翼の子・庾爰之のこと。『世説新語』では「園客」に作り、園客は小字であるという(識鑑篇、第一九章の劉孝標注)。『世説新語』排調篇、第三三章の劉孝標注に引く「孫放別伝」によれば、孫放らとともに学生であったというから、孫放とそれほど年齢は変わらなかった可能性もあるが、以下の口ぶりからすると、いくぶん庾爰之が年長であるように感じられるので、そのような理解で訳文を作成した。が孫盛を訪問した。孫放を見かけると、たずねて言った、「安国(孫盛の字)さんはどこにいるかな」。孫放は「庾稚恭(稚恭は庾翼の字)さんのお家です」と答えた。庾爰客はおおいに笑い、「諸孫はおおいに『盛』んになるだろうな。小さい子供ですらこのようなのだから」と言った。孫放は「諸庾の『翼翼』(繁栄しているさま)には及びません」と言った。それからほどなく、〔孫放は〕人に語って言った、「ぼくはわざとあいつの父の名を重ねて呼んでやったよ」27『世説新語』排調篇、第三三章、略同。自分の父親を字で呼んできた相手に対してこちらも相手の父親を字で呼び、さらに相手が父親の名をあてこすってきたらこちらも相手の父親の名をあてこすった、という話。字で呼ぶこと自体は失礼ではないと思うが、年齢から言えば孫盛と庾翼はだいたい同じくらいなので、孫盛と庾爰客の間にはけっこうな年齢差があるはずである。庾翼は孫盛の上司とはいえ、官名や尊称で呼ばずに馴れ馴れしく字で呼んだのは、礼を失していたのではないだろうか。。長沙相で生涯を終えた。

干宝

 干宝は字を令升といい、新蔡の人である。祖父の干統は呉の奮武将軍、都亭侯であった。父の干瑩は丹陽丞であった。干宝は若いころから学問に励み、広く書物を読んだ。才能をもって召され、著作郎となった。杜弢の平定で功績をあげ、関内侯の爵を賜わった。
 中興草創(東晋の初期)の際、まだ史官を置いていなかったので、中書監の王導が上疏して言った。

 そもそも帝王の足跡は、例外なくすべて記録し、編纂して典籍を作り、これを無窮に伝えてゆくものです。宣皇帝は四海を平定し、武皇帝は魏から受禅し、至徳大勲にして、事跡を上聖に比肩させておりますが、〔それら先帝の足跡を記録した〕紀伝は王府に存在せず28「紀伝」は原文ままで、史書をいう。これ以前、西晋時代に編纂された晋史について、『史通』古今正史篇に「晋史、洛京時、著作郎陸機始撰三祖紀。佐著作郎束晳又撰十志、会中朝喪乱、其書不存」とある。巻五一、束晳伝および『文士伝』(『初学記』巻一二、著作郎の叙事「西観 東郊」、引)によれば、束晳は三帝紀と十志を編纂したが、その史書は西晋末の戦乱で失われたといい、詳しい情報は残っていない。陸機の晋史は『隋書』経籍志に記録されており、西晋末の戦乱を経て後世に伝えられているが、この当時の江南政権がすでに収集できていたかは不明。前引の『史通』にあるように、陸機の晋史は三祖の紀で構成されていたといい、陸機「晋書限断議」(『初学記』巻二一、史伝の叙事「帝書 王籍」引)に「三祖実終為臣」とあるので、「三祖」は宣帝、景帝、文帝の三人を指すが、佚文のなかには武帝紀と見られるものがあり、正確なところはよくわからない。ともあれ、王導がここで言っている「紀伝が存在しない」とは、西晋末の戦乱の影響で、当時の江南政権が陸機と束晳の晋史を収集できていなかったこと、もしくは陸機の晋史は入手できていたけれども、その叙述が三祖に留まっていたこと、どちらかを言っているものと思われる。
 なお陸機の晋史について補説すると、劉知幾によれば「陸機晋書、列紀三祖、直序其事、竟不編年。年既不編、何紀之有」(『史通』本紀篇)とあり、三祖紀は出来事が書き連ねられているだけで編年されていなかったという。このような不備な体裁を取っていたそうだが、陸機はあえてそうしていたらしい形跡がある。前引の陸機「晋書限断議」に「三祖実終為臣、故書為臣之事、不可〔不〕如伝、此実録之謂也。而名同帝王、故自帝王之籍、不可以不称紀、則追王之義」とある(〔 〕は楊明『陸機集校箋』上海古籍出版社、二〇一六年より補った)。『隋書』経籍志は陸機の晋史を「晋紀」という書名で古史(編年体史)に分類しているが、これは陸機の晋史が形式的には三祖の「紀」で構成されていたからなのであろう。『陸機集校箋』一〇〇六頁の箋注一も参照。
、徳音は管弦楽器で演奏されていません29原文「徳音未被乎管絃」。『抱朴子』外篇、自叙篇に「徳音被乎管弦」と類例がある。本田済氏の『抱朴子』訳(平凡社、一九九〇年)に倣って解釈した。「徳音」はよき名声のこと。雅楽は疎くてよくわからないのだが、宣帝らを讃える楽曲自体は西晋時代にすでに作られていたものの、永嘉の乱の影響で江南に伝わらなかったようである。そのことをここで言っているのであろう。巻二三、楽志下、戸川貴行[二〇一四]、同[二〇一五]第二編第四章を参照。。陛下は聖明で、中興という隆盛の機運に当たっておられますから、国史(国の史官)を設置し、帝紀を編纂するべきかと存じます。上は祖先の功業を著述し、下は佐命の臣の勲功を記述し、事実に忠実な記録であることに努め、後世の手本を作り、天下じゅうの人々の願いを満足させ、人と神の心を喜ばせるべきでしょう。このことは、まことに太平のこのうえない美しさであり、王者のおおいなる基盤なのです。史官を置き、佐著作郎の干宝らに命じて、漸次編集に取りかからせるべきです。

元帝はこれを聴き入れた。かくして、干宝ははじめて領国史となった30原文「領国史」。「国史編纂事業を統領した」と読めなくもないが(というか、一般的にはそう読まれているのだが)、『史通』古今正史篇に「時尚書郎領国史干宝亦撰晋紀」とあり、肩書として記されている。先の王導の上疏にも「建立国史」とあり、その「国史」は官職を指していると考えられるが、本文のこの箇所の「国史」も「国の史官」という意味あいが強いのかもしれない。ここではあえてはっきり訳さずに訳文のようにすることにした。『建康実録』巻五、中宗元皇帝、建武元年十一月には「初置史官、立太学、以干宝・王隠領国史」とあり、王隠と同時期に領国史となったという(王隠伝では太興のはじめとなっているが)。。家が貧しかったため、要望して山陰令に任じられ、始安太守に移った。王導が請うて司徒府の右長史とし、散騎常侍に移った。『晋紀』を著わし、宣帝から愍帝まで五十三年間、全二十巻で、これを奏上した。その著書は簡略で31原文「其書簡略」。『建康実録』巻七、顕宗成皇帝、咸康二年三月に「辞簡理要」とあり、文章的にも内容的にも簡潔であったことをいうのであろう。、〔文章のスタイルは〕朴直にして婉曲に富み、みなが良史であると称えた32『隋書』経籍志によれば、干宝の『晋紀』は編年体。現存せず、佚文のみが伝わっているが、なかでも史論がまとまった形で残っていることでよく知られており、「武帝革命論」(『文選』巻四九など)と「総論」(本書巻五の史臣曰や『文選』巻四九など)がある。干宝は晋史の編纂に当たって、『左伝』を意識していたという(尾崎康[一九七〇]、渡邉義浩[二〇一七])。例えば『史通』二体篇に「晋世干宝著書、乃盛誉丘明而深抑子長、其義云、能以三十巻之約、括嚢二百四十年之事、靡有遺也」とある。『左伝』を意識したといっても、具体的にどういうことなのか個人的にいまいちピンと来ないが、(杜預によって経伝が比附された)『左伝』の構成に倣って晋史の作成を試みた、ということなのだろうか。戸川芳郎氏[二〇〇二]によれば、編年体は漢史を帝王中心の年代記(帝紀)にまとめようとした荀悦『漢紀』にはじまるが、その史体を『春秋』や『左伝』と結びつけて権威化する認識は、西晋時代に『竹書紀年』の研究が進んで以降生まれたものだという。そして『左伝』の体で史書を編もうとする考えは、干宝から起こったと指摘している。そうだとすれば、干宝の史書構想は当時の学術界の潮流において先進的であったと言えるのだろう。ほかに注目できる特徴として、臣下の事跡を記すために「譜注」という体裁を考案していることが挙げられる。『史通』載言篇に「昔干宝議撰晋史、以為宜準丘明、其臣下委曲、仍為譜注。於時議者、莫不宗之」とある。唐燮軍氏[二〇一四]は袁宏『後漢紀』が臣下の卒去の記事につづけて簡潔に事跡を記す体裁であるのを挙げ、これは干宝の「譜注」を援用したスタイルであろうと述べている(一八四頁注三)。個人的にはこの見解に賛同で、臣下の事跡を適宜、注の形式で記載していたのだと思われる。
 干宝は陰陽術数を好む性分で、京房や夏侯勝らの列伝に関心をもっていた33両者とも前漢の人物で、『漢書』巻七五に立伝されている。『漢書』のこの巻は陰陽や数術に長けた人物たちの伝が集められており、具体的にはこの巻のことを言っているのかもしれない。
 なお訳文の「列伝」の原文は「伝」で、既訳や先行研究の多くは「(経書に対する)注釈」という意味で解している。まずシンプルに考えて、そのような特定の用法で意味を取る必要性は薄いように思われる。また、確かに京房には『易』の伝があったそうだが、夏侯勝には何かの伝があったのかよくわからない。京房は『易』の京氏学家の、夏侯勝は『尚書』の大夏侯氏学家の、それぞれの創始者で、『隋書』経籍志の小序によれば、大夏侯のテキストは西晋末までは伝えられており、京氏易のテキストは西晋のころに教授者が絶えたが、書物は残ったといい、隋志にも京房の章句が記録されている。こうしたテキストであれば干宝も見る機会はあったと言えるが、はたしてこうした書物を「伝」と呼ぶものなのだろうか。先行研究・和訳はこうした不審点について説明しておらず、説得力に欠けると判断せざるをえないため、今回は従わないことにした。
。以前、干宝の父には寵愛していた侍婢がいたのだが、干宝の母はひどく嫉妬し、父が亡くなると、母はこの婢を墓室の中へ生きたまま押し入れてしまった。干宝ら兄弟は小さい年頃で、そのようなことがあったのをよく知らなかった。十余年後、母が亡くなり、墓を開いてみると、この婢が棺の上に倒れ伏していて生きているような様子だったので、車に載せて帰ったところ、一日経って意識を取り戻した。婢が言うには、干宝の父がいつも飲食物を持って来て婢に与え、その慈しみ深さは生きて実在しているかのようであり、家のなかの吉事や凶事はそのたびに婢に知らせてくれていたが、〔家人に訊ねて〕確かめてみるとぜんぶ言っていたとおりで、地中であっても身体を悪くした記憶はない、という34原文「言其父常取飲食与之、恩情如生、在家中吉凶輒語之、考校悉験、地中亦不覚為悪」。難しい。ここでは中華書局はこの句読に従わず、和刻本に従って「恩情如生在、家中吉凶輒語之」と句読した。また「(在)家中吉凶輒語之、考校悉験」の箇所は、先行研究などでは「婢が吉凶を予言するようになった」という意味で解していることが多いが、それだと後文の「地中亦不覚為悪」との接続具合があまりよくない。すなわち「家の中の吉凶を予言するようになった。地中も悪くなかった、とも言っていた」のような訳し方になり、文の流れが不自然になってします。後文の「地中亦不覚為悪」も考慮して、家中吉凶のくだりも地中生活を述べたものとして解釈してみた。この解釈も最善なものだとは思えないが(「考校悉験」の読み方が苦しい)、先行研究などでの読み方よりは個人的に納得できるので、この理解で訳文を作成した。。ほどなくこの婢を嫁がせると、子を産んだ。またあるとき、干宝の兄が病気になり、息が絶えたが、数日経っても冷たくならず、のちについに目を覚まし、天地の間(かん)のあらゆる鬼神現象を見たと言い、まるで夢から覚めたかのようで、自分が死んでいたことに気づいていなかった。干宝はこれらの経験から、ついに古今における神々の不思議な出来事や人物(人と物)が変化した出来事を選んで編集し、『捜神記』と名づけ、全三十巻にまとめた35『捜神記』は宋元のころに散佚したと考えられており、現在に伝わっている二十巻本は、明代に佚文などを集めて作成された本のようである。また八巻の本も今に伝わっているが、宋以降の後人による偽作らしい。詳しくは李剣国[二〇〇七]前言を参照。。それを劉惔に見せると、劉惔は「卿は鬼(神霊)の董孤36董孤は春秋・晋の史官。直筆の史官として著名。と評するべきだな」と言った。干宝は広くさまざまな話を採集したので、とうとう虚実をないまぜにしてしまった。そこで序を作成して自身の考えを述べた。

 書籍から先人が書き残した記述を調べあげ、当時の人々から過ぎ去った出来事を聴き集めたとしても、ひとつの耳目(ひとりの人間)がじかに見聞したことではないのだから、いったいどうして「真実を失っていることはない」と断言できようか。衛朔(衛の恵公)が国を失ったことについて、『春秋』の二伝で伝える内容が食い違い37『春秋』の紀年で言えば桓公十六年に該当の記事が見える。『左伝』は衛朔即位時のゴタゴタの影響とするが、『公羊伝』『穀梁伝』は周の天子に罪を得たからだとする。『公羊伝』と『穀梁伝』も微妙に内容が違っているため、実質的には三つの説があると言えるが、あまり細かいことは気にしなくていいかもしれない。、呂望が周に仕えたことについて、子長(司馬遷)は二つの説話を並列している38『史記』巻三二、斉太公世家を参照。実際には三つの説が載っているが、ここで干宝が言っているのは「或曰」として挙げられている二つの異説のことなのかもしれない。。このような例は往々にしてある。これらからうかがってみれば、見聞をひとつに統合することの困難さは、由来が久しいのだ。そもそも、赴告39「春秋時代、各国は主君の崩御・薨去や禍福の出来事をたがいに知らせ合っていた。前者を「赴」、後者を「告」と言った(春秋時各国以崩薨及禍福之事相告。前者称“赴”、後者称“告”)」(『漢語大詞典』)。他国からの報告ということ。の定辞(確実な言葉)を記載したり、国史の方策40原文「国史之方策」。列国の史官が公的に編んだ史籍をいう。に依拠したりしていても、なおこれらのごとくなのである。まして、はるかむかしを仰ぎ見て千年前の事柄を著述したり、はるか遠くを仰ぎ見て異域のさらなる外側を記述したりするのであれば、なおさら困難であろう。欠落した書物から断片的な記述をつなぎあわせたり、故老から過去の出来事を訊き尋ねたりして41原文「綴片言於残闕、訪行事於故老」。「欠落した書物(残闕)」の記述や「故老」の話は、前文の赴告や国史の記録からは漏れてしまったものとして挙げられているのではないかと思われる。、出来事を矛盾させず、文言を食い違わせないようにし、しかるのちに事実とする。このことが、まことに前史(過去の史書)には欠けているのである42このあたりの文章はとても難しく、句読の仕方も悩ましい。閲覧した既訳には首肯しがたかったので、既訳には従わずに解釈した。。されども、国家が注記の官43記録する官、すなわち史官をいう。を廃止せず、学士が読書の学業を絶やさなかったのは、〔史書の編纂によって〕失われる事柄が少なく、残される事柄が多いからではないだろうか。〔私は虚偽が混ざらないように注意を払ったけれども、〕このたび集成した本書に、もしも〔虚実を混交させていた〕前史〔と同様の過ち〕を受け継いでしまったところがあったとしても、私だけの罪ではない44原文「非余之罪也」。既訳では「先人の書物の記述を転載した部分に誤りがあったとしても、それは自分の罪ではない」という意味でおおむね訳されているが、少々無責任に過ぎるように思われ、違和感がある。虚偽が混じってしまうのは先人たちも犯していた罪だから自分だけの罪ではないよ、だから許してね、という弁明として読んでみた。。仮に、近世の出来事を探し集めたのに、粗雑にも虚偽が含まれてしまったならば、願わくは先賢や前儒と批判を分かち合い、それら先人の著作に肩を並べたく思う。そのようなことになっても、神道45原文まま。神秘霊妙な道のこと。がでたらめではないことを証明するには十分である。
 膨大な量の書籍や数多の学派の著作46原文は「群言百家」。春秋戦国のいわゆる諸子百家を指すわけではないと思われるので、訳文のように表現した。は読みきれないし、耳目で見聞した物事は記録しきれない。いま、八略47不詳。小南一郎氏[一九九八]は、原本の『捜神記』に立てられていた八つの篇を指しているのではないかと推測している(一〇四頁)。の主旨を敷衍するのに足るものをあらかた採用し、拙著を作ったにすぎない。将来の好事の士が本書の〔枝葉末節にはこだわらずに〕根元部分を取りあげ、〔本書に対し〕関心を寄せて注目を向けることはあっても、責め咎めることはないというのであれば、幸いである。

また干宝は『春秋左氏義外伝』を著わし、『周易』や『周官』に注釈をつけ、全部で数十篇あった。これらと雑文集は、すべて世に通行した48『建康実録』顕宗成皇帝によれば、干宝は咸康二年三月に卒した。

鄧粲

 鄧粲は長沙の人である。若くして高潔をもって名を知られ、南陽の劉麟之や南郡の劉尚公と志を同じくして友情を結び、みな州郡の辟召に応じなかった。荊州刺史の桓沖はへりくだった言葉と手厚い礼遇をもって鄧粲に請うて別駕従事にしようとしたので、鄧粲は桓沖の賢者を好む姿勢を嘉し、そこで起家して辟召に応じようとした。劉麟之と劉尚公は鄧粲に言った、「卿は道が広く、学も深く、多くの人々が尊敬を抱いている人間だというのに、にわかに節操を変えてしまえば、まことに人々の期待を失ってしまいますよ」。鄧粲は笑って返答した、「足下らは、隠に志をもちながらいまだ隠を知らない、と評せるでしょうね。そもそも隠の道というのは、朝廷にいても隠は可能ですし、市井にいても隠は可能です。隠は初めより我に在り、物に在らず49隠はもともと我が内に存在するのであって、外物に存在するのではない、ということ。」。劉尚公らはこれに反駁できなかったが、しかし鄧粲もまた、かくして名誉が半減したのであった。のちに足の病気をわずらい、朝拝50原文まま。天子や上官に謁見して拝礼する、という意味か。することができなくなったので辞職を求めたが、〔桓沖は〕承諾せず51鄧粲の官歴が不明なので、彼が誰に対して辞職を願い出たのか確定できないが、本伝の文脈的にはなお桓沖に仕えたままであろうから、ひとまず桓沖として解釈しておいた。、寝ながら業務を執るよう命じた。その後、病気が重くなったため辞職を求め、〔桓沖は〕これを承諾した。
 鄧粲は、父の鄧騫に忠信の発言があったにもかかわらず、世に〔父の名を〕知る人がいないことから、『元明紀』十篇を著わした52鄧粲の晋史は、『隋書』経籍志や類書などでは「晋紀」と題されているが、その「晋紀」は本伝の「元明紀」と同一の史書と一般的に考えられており、現代では鄧粲の晋史を基本的に『晋紀』と呼んでいる。隋志によれば編年体。現存しない。「元明紀」という名称からして、元帝・明帝時代が叙述範囲であったと考えられるが、佚文にはその時期以外の時事を記したものもあるため、いろいろ言われることもある。特徴としては、『文心雕龍』史伝篇に「按春秋経伝、挙例発凡、自史漢以下、莫有準的。至鄧粲晋紀、始立條例、又擺落漢魏、憲章殷周、雖湘川曲学、亦有心典謨。及安国立例、乃鄧氏之規焉」とあり、『左伝』に倣って史書に凡例を立てるはしりで、孫盛にも影響を与えたと評されている(「曲学」者ともさりげなく言われてしまっているけれど……)。もっとも、『史通』序例篇では凡例の嚆矢は干宝とされ、干宝が鄧粲や孫盛に影響を与えたと述べられているため、『文心雕龍』が勘違いしている可能性も高いのだが。なお『旧唐書』経籍志と『新唐書』芸文志には鄧粲の『晋陽秋』なる史書が記録されているが、何かの誤りであろう。。〔また〕『老子』に注釈をつけた。どちらも世に通行した。

謝沈

 謝沈は字を行思といい、会稽の山陰の人である。曾祖父の謝斐は呉の豫章太守、父の謝秀は呉の翼正都尉であった。謝沈は若くして父を亡くし、母に仕えて至孝であった。博学で豊富な知識をもち、経史(経書と史書)に習熟していた。会稽郡が主簿や功曹に任命したり、孝廉に挙げたり、太尉の郗鑑が辟召したりしたが、どれにも応じなかった。会稽内史の何充が召して参軍としたが、〔のちに〕母の高齢を理由に辞職した。平西将軍の庾亮が任命して功曹とし、征北将軍の蔡謨が板授53板授については巻六〇、皇甫重伝の訳注を参照。して参軍としたが、どちらにも応じなかった。隠居して母を養い、人付き合いをせず、農耕の合間に古典を研究した。康帝が即位すると、朝議で七廟の迭毀(入れ替えて壊す)について疑義が生じ、結論が決まらなかったため、太学博士の職をもって〔謝沈を〕中央に召し、疑義を質問した54「七廟」は天子の宗廟制のこと。後漢時代、皇帝ごとに宗廟を立てて神主を祀る従来までの制度を改め、世祖廟に世祖以後の天子の神主を置くようになった。魏晋以後、このやり方が定着し、太祖の廟に太祖を含めて七世代の祖先の神主を安置するようになった。これを七廟制という。世代が七人を超えると、上から順繰りに神主を太廟から祧廟へ移した。これを「迭毀」「毀廟」などという。本伝で問題となっているのは、昭穆である。太祖以外の六人は昭穆順に並ぶことになっていたため、天子の継承が父子世代でスムーズにおこなわれなかったとき、太廟にどの七人を安置するべきかが問題となってしまう。康帝は前代・成帝の弟であったため、対応をめぐって議論が起こったのであろう。訳者も礼制には疎いので、以上の内容に何らか誤解があったら申しわけありません。金子修一[二〇〇六]一七七―一八三頁を参照。。母の喪を理由に辞職した。服喪が満ちると、尚書度支郎に任じられた。
 何充と庾氷がそろって「謝沈には史才がある」と称えたので、著作郎に移り、『晋書』三十余巻を編纂した55現存しない。『隋書』経籍志に記録はなく、佚文も存在しない?ようで、詳細は不明。書名からすれば紀伝体で、現代史としての晋史を編纂したのではないか。全般的に情報が乏しいが、唐・太宗の「修晋書詔」(中華書局標点本『晋書』附載)に「思労而少功」とあり、この「思」は謝沈(行思)を指すと一般的に解釈されている。だとすれば太宗の時代には残存していたことになるはずである。隋志は「梁の目録には記録があるが、今は失われた」という旨の注記をよく記すが、謝沈の晋史はそうした言及すらもなく、あるいは伝わっていた謝沈の晋史を隋志が書き漏らした可能性がある。だが、三十余巻が唐代まで伝わっていたにも関わらず佚文が一条も見出せないというのも不思議な話になってしまい、梁代にすでに散佚していた可能性もありうる。なんにせよ、詳しいことはもはや明らかにできない。。ちょうどそのころに卒した。享年五十二。謝沈は生前に『後漢書』百巻56現存せず、佚文が少々残っている。、『毛詩外伝』、『漢書外伝』を著わしていた。著作は詩、賦、文、論にまで及び、すべて世に通行した。その才能と学識は虞預の右に出るほどであった。

陳寿・王長文・虞溥司馬彪・王隠・虞預孫盛・干宝・鄧粲・謝沈習鑿歯・徐広参考資料(修晋書詔、佚晋史一覧表ほか)

(2026/3/29:公開)

  • 1
    孫楚は巻五六に列伝がある。
  • 2
    王建国氏[二〇〇六]は巻一〇〇、王弥伝の「河東・平陽・弘農・上党諸流人之在潁川・襄城・汝南・南陽・河南者数万家、為旧居人所不礼、皆焚焼城邑、殺二千石長吏以応〔王〕弥」という流人の暴動記事を挙げ、このときであろうと推測している。
  • 3
    孫盛の生年は不明だが、①十歳のときに長江を渡ったこと、②いとこの孫統・孫綽といっしょに渡ったこと(孫楚伝附孫統伝)、③孫綽は咸安元年(三七一年)に享年五十八で卒していること(『建康実録』巻八、太宗簡文皇帝)、といったわかりそうでわからない程度の手がかりが絶妙に残されており、研究者がいくつか説を提出しているが、決定的な説はまだないはずである。
  • 4
    魏晋以降の清談で、事物の名称とその道理を分析する論理。(『漢辞海』)
  • 5
    払子。晋以降、名士の清談や僧の談義のさいに手に持ってふるうのに用いられた。(『漢辞海』)
  • 6
    原文「著医卜及易象妙於見形論」。中華書局は「易象妙於見形論」のみに波線を引いているが、これは『世説新語』文学篇、第五六章に「殷与孫共論易象妙於見形」とあるのにもとづき、「易象妙於見形」のみを論著の題名としたのだと思われる。川勝義雄ほか[一九六四]が指摘するように、「易象妙於見形」とはこれ以前より名士らの討論テーマとして取り上げられていたのであろう。とはいえ、中華書局のようにこの部分のみを論題と読んでしまうと、「医卜」が浮いてしまって不自然さが残る。まとめて全部でひとつの論文テーマと読んだほうがまだマシであるように思われるので、その理解で訳文を作成した。
  • 7
    原文は「太守陶侃」。瀏陽(劉陽)は長沙の属県であるため、文脈上このように読むべきであろう。ところが、巻六六、陶侃伝によると、陶侃は江夏や武昌の太守には就いているものの、長沙の太守には就いていない。といっても、長沙とまったく縁がないわけでもなく、長沙は陶侃の封国である。そのあたりと混同してしまっているのかもしれない。あるいは「太尉」の誤りなのかもしれない。とりあえず訳文は文脈に従って「長沙太守」とした。そもそも郡に参軍職はないはずではあるのだが。
  • 8
    もっとも年上の舅(母親の兄弟)。庾亮は成帝の生母・庾皇太后の長兄に当たる。
  • 9
    「王導はこんなことを言っています/やっています」という内容の讒言だったのだろう。
  • 10
    桓温は北伐を繰り返し、永和十年に関中に入って前秦と戦い、また同十二年には洛陽を平定・奪還した。
  • 11
    部従事は州刺史の属官で、郡ごとに一人置かれ、不法の監察を主管したという。『宋書』巻四〇、百官志下、州刺史に「部従事史、毎郡各一人、主察非法」とある。
  • 12
    威儀のある鳳凰。鳳凰は瑞鳥であり、かつ聖人の比喩でもある。
  • 13
    奇異な鳥。不祥な人物の比喩でもある。
  • 14
    この当時の荊州刺史は桓温である。つまり当の部従事のボスである桓温に対して、「立派でありがたい御仁が来たのでもなければ、部下に置けそうな有能な人材が来たのでもなく、ぜんぜんありがたくない厄介なひとが来て参りましたわ」と軽口を叩いているわけである。
  • 15
    現存しない。が、敦煌文献やトゥルファン文書のなかには、『晋陽秋』の残巻と推測されているものがある。岩本篤志[二〇〇五]を参照。『隋書』経籍志によれば編年体で、三十二巻、叙述範囲は哀帝まで。しかし、後文のエピソードに出てくる枋頭の戦いは哀帝以後の廃帝時代の出来事であることなどもあって、叙述範囲に関してはいろいろと議論されている(枋頭の戦いにまつわる逸話自体、『晋陽秋』に廃帝期の記述が存在しなかったことから生まれた俗説という感じもしないではないが)。書名の「陽秋」は「春秋」の意で(後述)、また『史通』摸擬篇に「孫盛魏晋二陽秋、毎書年首、必云『某年春帝正月』。夫年既編帝紀、而月又列帝名。以此而擬『春秋』、又所謂貌同而心異也」とあり、『春秋』の書法に倣っていたというから、『春秋』を意識して体裁を整えた史籍であったと考えられる。佚文は豊富に残されており、また周一良氏[一九九七]は、魏収『魏書』巻九六の僭晋司馬叡伝の取材源のひとつは『晋陽秋』であったと指摘している。
     書名の「陽秋」について付言しておく。「陽秋」は「春秋」の意で、「春」字を避けた表現である。簡文帝の母・鄭夫人は諱を「阿春」といい、織田めぐみ氏[二〇二〇]によれば、簡文帝の子・孝武帝が親政するようになって以後、「春」字が避けられるようになった。しかし『魏氏春秋』が「春秋」のままである理由は不明。
  • 16
    枋頭は地名。黄河の北にあり、西晋時代は司州汲郡朝歌県の域内にあった。桓温は太和四年に前燕への北伐を敢行し、勝利を重ねて枋頭にまで到達した。しかし兵糧が底を尽いてしまい、桓温は撤退を決断したが、前燕の追撃を受けて甚大な被害を出してしまった。
  • 17
    原文まま。この時期の特徴的な用語。ここでは「一族」くらいの意味。中村圭爾氏[二〇一三]によれば、後漢末より散見する集団名称で、「一般的には、家族ないし日常的生活を共有する集団の人数を象徴的に表現したもの」(三三八頁)。
  • 18
    原文「諸子遂爾改之」。和刻本は「爾」を「竊」(ひそかに)に作っており、良さそうなのだが、いまのところ和刻本のみでしか確認できないので原文に従って訳した。
  • 19
    このころ、慕容儁はもう死去しており、誤りであろう。中華書局の校勘記を参照。『史通』直書篇には「孫盛不平、竊撰遼東之本」とあり、桓温の意向に沿って改変したことに孫盛が不満だったため、遼東版を作成したという。
  • 20
    『建康実録』巻九、烈宗孝武皇帝によれば太元十一年のこと。遼東の慕容氏が上表して送ってきたのだという。
  • 21
    『隋書』経籍志などの後世の目録には、定本は一種しか記録されていない。ちなみにこの一連の逸話にちなんで、『集古今仏道論衡実録』巻甲、晋孫盛老子疑問反訊、集論者曰によれば、孫盛は「国史」の編纂を命じられており、その国史を奏上する前に孫盛は卒してしまったが、死後の太元十五年、子の孫潜がそれを上呈し、秘閣に収められたという(『集古今仏道論衡実録』はSATで大正蔵版の画像を閲覧。適切に読めているか怪しいので、誤読であったら申しわけない)。この「国史」を『晋陽秋』と同一の史籍と解せば、太元十五年になって本家版『晋陽秋』が秘書に収められたことになるが、一方で『建康実録』の紀年が正しければ、それに先立って太元十一年に遼東版『晋陽秋』を収集していたことになる。しかし本伝の時系列では、遼東版を得てから旧来の『晋陽秋』と比べているのだから、遼東版はあとから得たものであるはずである。『集古今仏道論衡実録』が言うところの国史は『晋陽秋』とは別であるか、あるいは『集古今仏道論衡実録』の紀年が誤っているかであろう。『晋陽秋』とは別に晋史を編むのも考えにくいが、すでに干宝の『晋紀』が存在するのにあらためて西晋を叙述範囲とする国史を修めるのも奇異であり、少々悩ましい史料である。
  • 22
    原文は「無小無大、従公于邁」で、出典は『毛詩』魯頌、泮水。鄭箋に「于、行。邁、行也。……臣无尊卑、皆従君行而来」とあるのに拠って読んだ。
  • 23
    「君の字(斉荘)はどういう意味?」っていう質問。もちろんおおまじめに訊いているのではなくコミュニケーションの一環。
  • 24
    「何の荘に肩を並べたいのか」と聞いておきながら「孔子はダメなの?」と言っているのはまったくコミュニケーションになっていないが、『世説新語』言語篇、第五〇章だとそもそも庾亮は「何に斉しくなりたいの?(欲何斉)」というふうに質問しており、これだと話が通じる。『世説新語』のほうが本来のやり取りの形を留めていると思われる。
  • 25
    原文「仲尼生而知之」。『世説新語』言語篇、第五〇章は「聖人生知」に作る。『論語』季氏篇「孔子曰、生而知之者、上也。学而知之者、次也」あたりにもとづくのだろうが、もっとも『論語』述而篇には「子曰、我非生而知之者。好古敏以求之者也」とある。
  • 26
    庾翼の子・庾爰之のこと。『世説新語』では「園客」に作り、園客は小字であるという(識鑑篇、第一九章の劉孝標注)。『世説新語』排調篇、第三三章の劉孝標注に引く「孫放別伝」によれば、孫放らとともに学生であったというから、孫放とそれほど年齢は変わらなかった可能性もあるが、以下の口ぶりからすると、いくぶん庾爰之が年長であるように感じられるので、そのような理解で訳文を作成した。
  • 27
    『世説新語』排調篇、第三三章、略同。自分の父親を字で呼んできた相手に対してこちらも相手の父親を字で呼び、さらに相手が父親の名をあてこすってきたらこちらも相手の父親の名をあてこすった、という話。字で呼ぶこと自体は失礼ではないと思うが、年齢から言えば孫盛と庾翼はだいたい同じくらいなので、孫盛と庾爰客の間にはけっこうな年齢差があるはずである。庾翼は孫盛の上司とはいえ、官名や尊称で呼ばずに馴れ馴れしく字で呼んだのは、礼を失していたのではないだろうか。
  • 28
    「紀伝」は原文ままで、史書をいう。これ以前、西晋時代に編纂された晋史について、『史通』古今正史篇に「晋史、洛京時、著作郎陸機始撰三祖紀。佐著作郎束晳又撰十志、会中朝喪乱、其書不存」とある。巻五一、束晳伝および『文士伝』(『初学記』巻一二、著作郎の叙事「西観 東郊」、引)によれば、束晳は三帝紀と十志を編纂したが、その史書は西晋末の戦乱で失われたといい、詳しい情報は残っていない。陸機の晋史は『隋書』経籍志に記録されており、西晋末の戦乱を経て後世に伝えられているが、この当時の江南政権がすでに収集できていたかは不明。前引の『史通』にあるように、陸機の晋史は三祖の紀で構成されていたといい、陸機「晋書限断議」(『初学記』巻二一、史伝の叙事「帝書 王籍」引)に「三祖実終為臣」とあるので、「三祖」は宣帝、景帝、文帝の三人を指すが、佚文のなかには武帝紀と見られるものがあり、正確なところはよくわからない。ともあれ、王導がここで言っている「紀伝が存在しない」とは、西晋末の戦乱の影響で、当時の江南政権が陸機と束晳の晋史を収集できていなかったこと、もしくは陸機の晋史は入手できていたけれども、その叙述が三祖に留まっていたこと、どちらかを言っているものと思われる。
     なお陸機の晋史について補説すると、劉知幾によれば「陸機晋書、列紀三祖、直序其事、竟不編年。年既不編、何紀之有」(『史通』本紀篇)とあり、三祖紀は出来事が書き連ねられているだけで編年されていなかったという。このような不備な体裁を取っていたそうだが、陸機はあえてそうしていたらしい形跡がある。前引の陸機「晋書限断議」に「三祖実終為臣、故書為臣之事、不可〔不〕如伝、此実録之謂也。而名同帝王、故自帝王之籍、不可以不称紀、則追王之義」とある(〔 〕は楊明『陸機集校箋』上海古籍出版社、二〇一六年より補った)。『隋書』経籍志は陸機の晋史を「晋紀」という書名で古史(編年体史)に分類しているが、これは陸機の晋史が形式的には三祖の「紀」で構成されていたからなのであろう。『陸機集校箋』一〇〇六頁の箋注一も参照。
  • 29
    原文「徳音未被乎管絃」。『抱朴子』外篇、自叙篇に「徳音被乎管弦」と類例がある。本田済氏の『抱朴子』訳(平凡社、一九九〇年)に倣って解釈した。「徳音」はよき名声のこと。雅楽は疎くてよくわからないのだが、宣帝らを讃える楽曲自体は西晋時代にすでに作られていたものの、永嘉の乱の影響で江南に伝わらなかったようである。そのことをここで言っているのであろう。巻二三、楽志下、戸川貴行[二〇一四]、同[二〇一五]第二編第四章を参照。
  • 30
    原文「領国史」。「国史編纂事業を統領した」と読めなくもないが(というか、一般的にはそう読まれているのだが)、『史通』古今正史篇に「時尚書郎領国史干宝亦撰晋紀」とあり、肩書として記されている。先の王導の上疏にも「建立国史」とあり、その「国史」は官職を指していると考えられるが、本文のこの箇所の「国史」も「国の史官」という意味あいが強いのかもしれない。ここではあえてはっきり訳さずに訳文のようにすることにした。『建康実録』巻五、中宗元皇帝、建武元年十一月には「初置史官、立太学、以干宝・王隠領国史」とあり、王隠と同時期に領国史となったという(王隠伝では太興のはじめとなっているが)。
  • 31
    原文「其書簡略」。『建康実録』巻七、顕宗成皇帝、咸康二年三月に「辞簡理要」とあり、文章的にも内容的にも簡潔であったことをいうのであろう。
  • 32
    『隋書』経籍志によれば、干宝の『晋紀』は編年体。現存せず、佚文のみが伝わっているが、なかでも史論がまとまった形で残っていることでよく知られており、「武帝革命論」(『文選』巻四九など)と「総論」(本書巻五の史臣曰や『文選』巻四九など)がある。干宝は晋史の編纂に当たって、『左伝』を意識していたという(尾崎康[一九七〇]、渡邉義浩[二〇一七])。例えば『史通』二体篇に「晋世干宝著書、乃盛誉丘明而深抑子長、其義云、能以三十巻之約、括嚢二百四十年之事、靡有遺也」とある。『左伝』を意識したといっても、具体的にどういうことなのか個人的にいまいちピンと来ないが、(杜預によって経伝が比附された)『左伝』の構成に倣って晋史の作成を試みた、ということなのだろうか。戸川芳郎氏[二〇〇二]によれば、編年体は漢史を帝王中心の年代記(帝紀)にまとめようとした荀悦『漢紀』にはじまるが、その史体を『春秋』や『左伝』と結びつけて権威化する認識は、西晋時代に『竹書紀年』の研究が進んで以降生まれたものだという。そして『左伝』の体で史書を編もうとする考えは、干宝から起こったと指摘している。そうだとすれば、干宝の史書構想は当時の学術界の潮流において先進的であったと言えるのだろう。ほかに注目できる特徴として、臣下の事跡を記すために「譜注」という体裁を考案していることが挙げられる。『史通』載言篇に「昔干宝議撰晋史、以為宜準丘明、其臣下委曲、仍為譜注。於時議者、莫不宗之」とある。唐燮軍氏[二〇一四]は袁宏『後漢紀』が臣下の卒去の記事につづけて簡潔に事跡を記す体裁であるのを挙げ、これは干宝の「譜注」を援用したスタイルであろうと述べている(一八四頁注三)。個人的にはこの見解に賛同で、臣下の事跡を適宜、注の形式で記載していたのだと思われる。
  • 33
    両者とも前漢の人物で、『漢書』巻七五に立伝されている。『漢書』のこの巻は陰陽や数術に長けた人物たちの伝が集められており、具体的にはこの巻のことを言っているのかもしれない。
     なお訳文の「列伝」の原文は「伝」で、既訳や先行研究の多くは「(経書に対する)注釈」という意味で解している。まずシンプルに考えて、そのような特定の用法で意味を取る必要性は薄いように思われる。また、確かに京房には『易』の伝があったそうだが、夏侯勝には何かの伝があったのかよくわからない。京房は『易』の京氏学家の、夏侯勝は『尚書』の大夏侯氏学家の、それぞれの創始者で、『隋書』経籍志の小序によれば、大夏侯のテキストは西晋末までは伝えられており、京氏易のテキストは西晋のころに教授者が絶えたが、書物は残ったといい、隋志にも京房の章句が記録されている。こうしたテキストであれば干宝も見る機会はあったと言えるが、はたしてこうした書物を「伝」と呼ぶものなのだろうか。先行研究・和訳はこうした不審点について説明しておらず、説得力に欠けると判断せざるをえないため、今回は従わないことにした。
  • 34
    原文「言其父常取飲食与之、恩情如生、在家中吉凶輒語之、考校悉験、地中亦不覚為悪」。難しい。ここでは中華書局はこの句読に従わず、和刻本に従って「恩情如生在、家中吉凶輒語之」と句読した。また「(在)家中吉凶輒語之、考校悉験」の箇所は、先行研究などでは「婢が吉凶を予言するようになった」という意味で解していることが多いが、それだと後文の「地中亦不覚為悪」との接続具合があまりよくない。すなわち「家の中の吉凶を予言するようになった。地中も悪くなかった、とも言っていた」のような訳し方になり、文の流れが不自然になってします。後文の「地中亦不覚為悪」も考慮して、家中吉凶のくだりも地中生活を述べたものとして解釈してみた。この解釈も最善なものだとは思えないが(「考校悉験」の読み方が苦しい)、先行研究などでの読み方よりは個人的に納得できるので、この理解で訳文を作成した。
  • 35
    『捜神記』は宋元のころに散佚したと考えられており、現在に伝わっている二十巻本は、明代に佚文などを集めて作成された本のようである。また八巻の本も今に伝わっているが、宋以降の後人による偽作らしい。詳しくは李剣国[二〇〇七]前言を参照。
  • 36
    董孤は春秋・晋の史官。直筆の史官として著名。
  • 37
    『春秋』の紀年で言えば桓公十六年に該当の記事が見える。『左伝』は衛朔即位時のゴタゴタの影響とするが、『公羊伝』『穀梁伝』は周の天子に罪を得たからだとする。『公羊伝』と『穀梁伝』も微妙に内容が違っているため、実質的には三つの説があると言えるが、あまり細かいことは気にしなくていいかもしれない。
  • 38
    『史記』巻三二、斉太公世家を参照。実際には三つの説が載っているが、ここで干宝が言っているのは「或曰」として挙げられている二つの異説のことなのかもしれない。
  • 39
    「春秋時代、各国は主君の崩御・薨去や禍福の出来事をたがいに知らせ合っていた。前者を「赴」、後者を「告」と言った(春秋時各国以崩薨及禍福之事相告。前者称“赴”、後者称“告”)」(『漢語大詞典』)。他国からの報告ということ。
  • 40
    原文「国史之方策」。列国の史官が公的に編んだ史籍をいう。
  • 41
    原文「綴片言於残闕、訪行事於故老」。「欠落した書物(残闕)」の記述や「故老」の話は、前文の赴告や国史の記録からは漏れてしまったものとして挙げられているのではないかと思われる。
  • 42
    このあたりの文章はとても難しく、句読の仕方も悩ましい。閲覧した既訳には首肯しがたかったので、既訳には従わずに解釈した。
  • 43
    記録する官、すなわち史官をいう。
  • 44
    原文「非余之罪也」。既訳では「先人の書物の記述を転載した部分に誤りがあったとしても、それは自分の罪ではない」という意味でおおむね訳されているが、少々無責任に過ぎるように思われ、違和感がある。虚偽が混じってしまうのは先人たちも犯していた罪だから自分だけの罪ではないよ、だから許してね、という弁明として読んでみた。
  • 45
    原文まま。神秘霊妙な道のこと。
  • 46
    原文は「群言百家」。春秋戦国のいわゆる諸子百家を指すわけではないと思われるので、訳文のように表現した。
  • 47
    不詳。小南一郎氏[一九九八]は、原本の『捜神記』に立てられていた八つの篇を指しているのではないかと推測している(一〇四頁)。
  • 48
    『建康実録』顕宗成皇帝によれば、干宝は咸康二年三月に卒した。
  • 49
    隠はもともと我が内に存在するのであって、外物に存在するのではない、ということ。
  • 50
    原文まま。天子や上官に謁見して拝礼する、という意味か。
  • 51
    鄧粲の官歴が不明なので、彼が誰に対して辞職を願い出たのか確定できないが、本伝の文脈的にはなお桓沖に仕えたままであろうから、ひとまず桓沖として解釈しておいた。
  • 52
    鄧粲の晋史は、『隋書』経籍志や類書などでは「晋紀」と題されているが、その「晋紀」は本伝の「元明紀」と同一の史書と一般的に考えられており、現代では鄧粲の晋史を基本的に『晋紀』と呼んでいる。隋志によれば編年体。現存しない。「元明紀」という名称からして、元帝・明帝時代が叙述範囲であったと考えられるが、佚文にはその時期以外の時事を記したものもあるため、いろいろ言われることもある。特徴としては、『文心雕龍』史伝篇に「按春秋経伝、挙例発凡、自史漢以下、莫有準的。至鄧粲晋紀、始立條例、又擺落漢魏、憲章殷周、雖湘川曲学、亦有心典謨。及安国立例、乃鄧氏之規焉」とあり、『左伝』に倣って史書に凡例を立てるはしりで、孫盛にも影響を与えたと評されている(「曲学」者ともさりげなく言われてしまっているけれど……)。もっとも、『史通』序例篇では凡例の嚆矢は干宝とされ、干宝が鄧粲や孫盛に影響を与えたと述べられているため、『文心雕龍』が勘違いしている可能性も高いのだが。なお『旧唐書』経籍志と『新唐書』芸文志には鄧粲の『晋陽秋』なる史書が記録されているが、何かの誤りであろう。
  • 53
    板授については巻六〇、皇甫重伝の訳注を参照。
  • 54
    「七廟」は天子の宗廟制のこと。後漢時代、皇帝ごとに宗廟を立てて神主を祀る従来までの制度を改め、世祖廟に世祖以後の天子の神主を置くようになった。魏晋以後、このやり方が定着し、太祖の廟に太祖を含めて七世代の祖先の神主を安置するようになった。これを七廟制という。世代が七人を超えると、上から順繰りに神主を太廟から祧廟へ移した。これを「迭毀」「毀廟」などという。本伝で問題となっているのは、昭穆である。太祖以外の六人は昭穆順に並ぶことになっていたため、天子の継承が父子世代でスムーズにおこなわれなかったとき、太廟にどの七人を安置するべきかが問題となってしまう。康帝は前代・成帝の弟であったため、対応をめぐって議論が起こったのであろう。訳者も礼制には疎いので、以上の内容に何らか誤解があったら申しわけありません。金子修一[二〇〇六]一七七―一八三頁を参照。
  • 55
    現存しない。『隋書』経籍志に記録はなく、佚文も存在しない?ようで、詳細は不明。書名からすれば紀伝体で、現代史としての晋史を編纂したのではないか。全般的に情報が乏しいが、唐・太宗の「修晋書詔」(中華書局標点本『晋書』附載)に「思労而少功」とあり、この「思」は謝沈(行思)を指すと一般的に解釈されている。だとすれば太宗の時代には残存していたことになるはずである。隋志は「梁の目録には記録があるが、今は失われた」という旨の注記をよく記すが、謝沈の晋史はそうした言及すらもなく、あるいは伝わっていた謝沈の晋史を隋志が書き漏らした可能性がある。だが、三十余巻が唐代まで伝わっていたにも関わらず佚文が一条も見出せないというのも不思議な話になってしまい、梁代にすでに散佚していた可能性もありうる。なんにせよ、詳しいことはもはや明らかにできない。
  • 56
    現存せず、佚文が少々残っている。
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