巻六十二 列伝第三十二 劉琨(1)

凡例
  • 文中の〔 〕は訳者による補語、( )は訳者の注釈、12……は注を示す。番号をクリック(タップ)すれば注が開く。開いている状態で適当な箇所(番号でなくともよい)をクリック(タップ)すれば閉じる。
  • 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。

劉琨(1)劉琨(2)劉琨(3)附:劉群・劉輿・劉演祖逖附:祖納

 劉琨は字を越石といい、中山の魏昌の人で、漢の中山靖王勝の後裔である。祖父の劉邁は国家を治める才能があり、相国(司馬昭)参軍、散騎常侍となった。父の劉蕃は清廉高潔にしてつましく、位は光禄大夫にまでいたった。劉琨は若くして儁朗(有能かつ快活であること)の目を得て1原文「少得儁朗之目」。「之目」は『晋書』に散見する表現で、本伝での用例のように、人の才能や行状を評した二字に「之目」と付ける使い方が一般的のようである。当人の才行を表す評語のことを「目」(項目)と呼んでいるのだと思われる。、范陽の祖納とともに雄豪(勇壮かつ豪快)をもって名声を博した。二十六歳のとき、司隷校尉の従事2職官志によれば、司隷校尉の従事史には都官従事、諸曹従事、部郡従事がある。となった。当時、征虜将軍の石崇は河南の金谷澗に別荘を有し、世の名士たちの筆頭であったが、賓客を招いて毎日詩賦を制作していた。劉琨はその会合に参加したが、彼の詩文は世にすこぶる認められた。秘書監の賈謐が朝政を掌握すると、京師の人士は誰もが賈謐に心を傾けた。石崇、欧陽建、陸機、陸雲といった者たちは、みな節操を曲げ、文才をもって賈謐に仕えたが、劉琨兄弟もその取り巻きのなかにおり、〔この賈謐の取り巻き連中のことを〕「二十四友」と号した。太尉の高密王泰は〔劉琨を〕掾に辟召し、頻繁に昇進して著作郎、太学博士、尚書郎を歴任した3『文選』巻二五、贈答三、劉越石「答盧諶詩并書」の李善注に引く「王隠晋書」に「初辟太尉隴西秦王府、未就。尋為博士、未之職」とあり、高密王の府と博士には就いていないらしい。
 趙王倫が政権を握ると、劉琨を〔趙王の府の〕記室督とし、〔ついで趙王の府の〕従事中郎に移らせた。趙王の子の荂は劉琨の姉婿であったため、劉琨父子や兄弟はそろって趙王に親任されたのである。〔趙王が〕帝位を簒奪すると、荂は皇太子となり、劉琨は荂の太子詹事となった。三王(斉王、成都王、河間王)が趙王を討伐しようとすると、〔趙王は〕劉琨を冠軍将軍、仮節とし、孫秀の子の孫会とともに宿衛兵三万を統率させ、成都王穎を防がせた。〔劉琨らと成都王は〕黄橋で戦ったが、劉琨は大敗して帰還し、河橋を焼いて守りを固めた。斉王冏が輔政すると、劉琨父兄はみな当世に名声をあげているのを理由に、特別に赦免し、兄の劉輿を中書郎に任じ、劉琨を尚書左丞に任じ、〔ついで劉琨は〕司徒左長史に移った。斉王が敗れ、范陽王虓が許昌に出鎮すると、〔劉琨を〕召して司馬とした。
 恵帝が長安に行幸すると、東海王越は天子の奉迎を謀り、劉琨の父の劉蕃を淮北護軍、豫州刺史とした。劉喬が范陽王虓を許昌で攻めると、劉琨は汝南太守の杜育らとともに兵を率い、范陽王を救援しようとしたが、到着するまえに范陽王は敗れた。劉琨は范陽王といっしょに河北へ敗走したので、劉琨の父母はとうとう劉喬に捕えられてしまった。劉琨は冀州刺史の温羨を説得して、〔刺史の〕位を范陽王に譲渡させた。范陽王が冀州刺史を領すと、劉琨を派遣して幽州〔刺史府〕へ行かせ、援軍を王浚に要請させた。〔了承されたので、劉琨は〕突騎八百人を得て、范陽王とともに黄河を渡り、共同で東平王楙を廩丘で破り、南に進んで劉喬を敗走させ、ようやく父母を取り返した。また石超を斬り、呂朗を降し4どちらも長安(河間王顒)から劉喬の援軍として派遣されていた。恵帝紀、永興二年の条を参照。、こうして諸軍を統率し、天子を長安で奉迎した。功績によって広武侯に封ぜられ、食邑は二千戸とされた。
 永嘉元年5『資治通鑑』は光煕元年十月にかける(永嘉元年の前年)。中華書局の校勘記は、懐帝紀、永嘉元年三月の条に「并州諸郡為劉元海所陥、刺史劉琨独保晋陽」とあり、さらにこのあとの表の文中に「九月末得発」と劉琨が述べていることから、永嘉元年以前に劉琨が赴任していたのはたしかであろうと推測している。また、『世説新語』言語篇の劉孝標注に引く「王隠晋書」には「年三十五、出為并州刺史」とあるが、本伝によれば劉琨は享年四十八で、元帝紀によると劉琨が殺されたのは太興元年である。逆算すると永興二年(光煕元年の前年)になるが、この年はまだ恵帝が洛陽に戻っておらず、范陽王も在命で、劉琨は王に仕えていた可能性が高いため、「王隠晋書」の記述では整合は取れない。、并州刺史となり、振威将軍をくわえられ、領匈奴中郎将とされた。劉琨は赴任の道中で上表した。「臣は頑迷で、志にも際限がございますが6原文「志望有限」。出世欲そんなにないですという謙遜。、機会に恵まれ、とうとうかたじけなくも過分な職任を授かりました。〔今年の〕九月の末に出発しましたが、道は険阻で山は峻厳であり、胡賊(匈奴劉氏)が道路をふさいでくれば、そのたびに少数で多勢を撃退しました。危険をかえりみずに進み、苦難につまずいて、辛苦をなめつくしましたが、即日に先日に壺口関に到着しました7恵帝を迎えて以降の劉琨の足跡が不明なので推測になるが、劉琨および劉輿兄弟は范陽王に気に入られていたようなので、彼に仕えていたのではないかと思われる。本伝附伝の劉輿伝に「虓薨、東海王越将召之」とあるのは、劉輿が范陽王の薨じるまで王のもとにいたことを示しているし、事実、成都王穎伝に「属虓暴薨、虓長史劉輿……」とある。その范陽王はというと、恵帝が洛陽に帰還してのち、鄴に出鎮していたようである(成都王穎伝、『資治通鑑』光煕元年八月の条を参照)。すなわち、劉琨は劉輿とともに鄴の范陽王のもとにいた可能性が高いと考えられる。光煕元年十月に范陽王が薨じると、劉輿は洛陽の東海王に召され、劉琨を并州刺史とするように進言しているが(本伝附輿伝)、前の訳注で触れたように、『資治通鑑』は劉琨の刺史任命を同月(光煕元年十月)のこととしている。劉琨も劉輿に同行して洛陽に来ていた可能性はあるが、劉琨は劉輿には同行せずに鄴に留まっており、鄴から赴任していったのではないかと思う。(2020/12/4:訳文および注を修正)。州の境界を渡って以来、臣は困窮のさまを目のあたりにしています。〔困窮した民は〕移動して四方に散らばり、〔当地には〕十人に二人も残っておらず、老人を連れ、弱者を支える人々(流民のこと)は道路から途切れませんでした。当地に残っている者はというと、妻子を売り、生き別れて家族を見棄て、死んだ者は災難を積み重ね8原文「死亡委危」。「委危」は「委厄」と作る本もあるが、どちらにしても難読(中華書局の校勘記を参照)。和刻本も「可疑」と注記している。その和刻本は「厄ヲ委(ツ)ミ」とどうにか読んでおり、訳文はこれに従うことにした。、白骨は原野にあふれ、悲しみの声は和気9陰陽の気が結合している状態のこと。ここでは、陰陽のバランスを崩してしまうほどに并州が苦境していることをこのように表現しているのであろう。を損なっています。胡人ども数万は四方の山に満ちており、足を動かせば掠奪にあい、目を開けば賊が視界に入ってきます。食糧の輸入を要請できたのは、壺関(壺口関の西南)だけでした。しかし、〔壺関への〕二本10和刻本は「二」を「一」に作るべきだとする。そうかもしれない。の道は天下の険道でして、数人が道を遮ってくれば、こちらは百人でも進めないようなところであり、公私の往来で亡くなる者が多数おります。困窮した城のまわりを囲んで守っていますが、薪を得ることができず、耕作用の牛がいないばかりか、農具も不足しています。臣の愚昧をもって、この至難にあたるわけですから、憂いが堂々めぐりするかのように繰り返し起こり、寝食するいとまもございません。臣が伏して思いますに、この州(并州)は辺境と申しますけれども、実際には皇畿に近く、南は河内に通じ、東は司州と冀州に連なり、北は異俗をふせぎ、西は強虜をこばんでいます。この地は、勁弓(弓の名手)、良馬、勇士、精鋭の源泉なのです。物資の輸送を待ってから、臣に課せられた命をまっとうするべきだと存じます。いま、尚書に上言し、この州へ穀物五百万斛、絹五百万匹、綿五百万斤を〔輸送するよう〕要請いたします。陛下に願わくは、臣の上表を滞りなく〔尚書へ〕送り11原文「時出臣表」。「出」は「付」、すなわち尚書へ転送することと取った。しかし、後文で「裁可ください」と言っているのと齟齬してしまうので、この理解は誤りかもしれない(裁可してから尚書に付すと思われるため)。とはいえ、和刻本は「時出」を「可疑」と注しているので、そもそも原文がおかしい可能性がある。、すみやかに裁可なされますよう」。朝廷はこの要請を許可した。
 このころ、東嬴公騰は晋陽から鄴へ出鎮することになったが12懐帝紀によれば永嘉元年三月のことだが、『資治通鑑』は光煕元年十月にかける。『資治通鑑』は、光煕元年十月に鄴に出鎮していた范陽王虓が薨じ(恵帝紀も同じ)、同月に范陽王の後任として東嬴公が鄴へ、東嬴公の後任として劉琨が晋陽(并州刺史)へ移るという人事がおこなわれ、永嘉元年三月に東嬴公を新蔡王に昇格し、ひきつづき鄴に出鎮させるという人事がなされたと時系列を整理している。、并州は凶作であったため、百姓は東嬴公に随行して南へ下ってしまった。〔東嬴公に随行せず、并州に〕残った戸は二万に満たず、寇賊13そこまで厳密に読む必要もないとは思うが、「ともに賊を表し、外部から来るものを「寇」、内部から出てくるのを「賊」という」(『漢辞海』)らしい。があちこちに現れ、道路は断絶していた。劉琨は募集して千余人を得ると、進みながら戦って、晋陽に到着した14『資治通鑑』の記述は本伝とやや異なっており、「劉琨至上党、東燕王騰即自井陘東下、……琨募兵上党、得五百人、転闘而前、至晋陽」とある。。〔晋陽では、〕官府(たぶん刺史府)は焼き壊され、倒れた死体が地面を埋め尽くし、生き残っている者は飢えて衰弱し、生きた顔色をしておらず、荊棘は林となり、豺狼は道路に満ちていた15棘荊と豺狼は悪事と悪人の比喩か。。劉琨は荊棘を刈って除き、遺体を集めて埋葬し、官府を築き、市場と監獄を建てた。盗賊があいついで不意に襲来してくると、いつも城門を戦場としたので、百姓は楯を背負って耕作し、矢筒を帯びて草むしりした。劉琨は慰撫してねぎらったため、はなはだ民心を得た。この当時、劉元海は離石におり、〔晋陽から〕三百里ほど離れていた。劉琨はひそかに人をつかわし、劉元海の部の雑虜を離間させると、〔劉琨に〕降った者は一万余落であった。劉元海はおおいに恐れ、とうとう蒲子に城壁を築き、この地に居を移した。〔劉琨が〕赴任して一年経たないうちに、流人が少しずつ戻り、鶏や犬の鳴き声がふたたびにぎやかになった。劉琨の父の劉蕃は洛陽から晋陽へ向かったが、〔洛陽から〕逃げ出した人士は多くが劉琨のもとへ帰した。劉琨は人を思いやって人心を掌握するのは長けていたが、統制する能力は欠けており、一日のうち、帰する者が数千いたかと思えば、去る者もあいついだのであった16『世説新語』尤悔篇に「劉琨善能招延、而拙於撫御。一日雖有数千人帰投、其逃散而去、亦復如此、所以卒無所建」と、本伝とほぼ同趣旨の記述がみえ、また同、劉孝標注に引く「鄧粲晋紀」にも「琨為并州牧、糺合斉盟、駆率戎旅、而内不撫其民、遂至喪軍失士、無成功也」とみえている。。しかも、〔劉琨は〕もともと贅沢で、音楽と女色をたしなみ、しばらくはみずからこの欠点をなおそうと努めていたが、すぐにふたたび意のままにふけるようになった。
 河南の徐潤は、音律に通じていることをもって貴勢と交際していたが、劉琨は彼をたいへん気に入り、晋陽令に任命した。徐潤は寵遇を恃みとし、驕慢になって自分勝手に振る舞い、劉琨の政事に干渉してくるようになった。奮威護軍の令狐盛は剛直な性格で、しばしばこのことを諌め、あわせて徐潤の排斥を劉琨に勧めたが、劉琨は聴き入れなかった。これ以前、単于の猗㐌は東嬴公騰を救援した功績を挙げたので17『魏書』序紀によると、昭帝十年の条(晋の永興元年)に「并州刺史司馬騰来乞師、桓帝(猗㐌)率十余万騎、帝亦同時大挙以助之、大破〔劉〕淵衆於西河、上党」とあり、同十一年の条に「劉淵攻司馬騰、騰復乞師。桓帝以軽騎数千救之、斬淵将纂毋豚、淵南走蒲子。晋仮桓帝大単于、金印紫綬」とある。、劉琨は猗㐌の弟の猗盧を代郡公とするよう上表し18『魏書』序紀によれば、猗㐌は昭帝十一年(晋の永興二年)に没している。弟の猗盧が推薦を受けているのはこのためなのであろう。懐帝紀は永嘉六年のこととし、『魏書』序紀は穆帝三年=永嘉四年のこととする。『資治通鑑』は永嘉四年にかける。本伝の記述の前後関係からみても、永嘉四年と取るのがよさそうではある。、〔猗盧に〕中山で劉希軍と合流させていた。王浚は、劉琨19和刻本は「琨字、疑当作盧」と注し、つまり猗盧と読むのが自然だと考えているようである。しかし、劉琨と王浚がいがみあっていたのはもろもろから確認できるので、このままでもとくに問題はないように思う。が自分の統治域を侵していることから、しばしば襲来して劉琨を攻めたが、劉琨は防ぐことができなかったため、名実ともに損なわれつつあった20王沈伝附浚伝にも「〔劉〕琨使宗人劉希還中山合衆、代郡、上谷、広寗三郡人皆帰于琨。浚患之、遂輟討〔石〕勒之師、而与琨相距。浚遣燕相胡矩督護諸軍、与疾陸眷并力攻破希。駆略三軍士女出塞、琨不復能争」と、本伝と同趣旨の記述がある。なお『資治通鑑』によれば劉希は高陽内史であったという。また『資治通鑑』によると、劉琨が猗盧を代公に推薦したのも王浚は気に食わなかったようで、「時代郡属幽州、王浚不許、遣兵撃猗盧、猗盧拒破之。浚由是与琨有隙」(永嘉四年十月の条)ともある。。〔このような情勢のなかで〕徐潤も令狐盛をそしって劉琨に言った、「令狐盛は公に帝号を称するよう勧めようとしています」。劉琨は讒言を見抜けず、すぐに令狐盛を殺してしまった。劉琨の母は言った、「おまえは経略21天下を経営し、四方を攻め取って平定する。(『漢辞海』)を広めることも、豪傑を統率することもできず、自分より優秀な者を排除して安心したいだけじゃない。それで何か成功できるとでも思っているのかい。こんなことをしていたら禍が絶対にふりかかってくるわ」。〔劉琨は〕従わなかった。令狐盛の子の令狐泥は劉聡のもとへ奔り、〔劉琨の〕実情をつぶさに話した。劉聡はおおいに喜び、令狐泥を郷導(先導役)とした。たまたま上党太守の襲醇が劉聡に降り、雁門の烏丸がふたたび〔劉琨に〕そむいたので、劉琨はみずから精鋭を率いて出撃し、防衛していた。劉聡は子の劉粲と令狐泥を派遣し、隙に乗じて晋陽を襲撃させると、太原太守の高喬は郡をもって劉聡に降り、劉琨の父母はともに殺された22『文選』巻二五、贈答三、劉越石「答盧諶詩并書」の李善注に引く「王隠晋書」には「劉聡囲晋陽、令狐泥以千余人為郷導、琨求救猗盧、未至、太原太守高嶠反応聡、逐琨。琨父母年老、不堪鞍馬、歩檐不免、為泥所害」とある。王隠はこのような情報をどこから得たのだろうか。。劉琨は猗盧を率い、力を合わせて劉粲を攻め、これをおおいに破り、〔劉粲軍の〕死者は十人に五、六人であった。劉琨は勝利に乗じて追撃したが、さらに勝利することはできなかった。劉聡はまだ滅ぼせないと考えた猗盧は、劉琨に牛、羊、車、馬を贈り、将の箕澹、段繁らを留めて晋陽を守らせた。劉琨の志は〔父母の〕復讐にあったが、兵力が脆弱なので断念し、号泣して立ち尽くした。負傷者をいたわり、居を陽邑城に移して逃げ散った兵を集めた23この晋陽の攻防は、懐帝紀、『魏書』序紀、『資治通鑑』によると永嘉六年(北魏の穆帝五年)のこと。本伝では省かれているが、懐帝紀と劉聡載記によれば、晋陽の陥落(高喬の降服)にともない、劉琨は常山へ敗走したそうである。そして猗盧へ援軍を要請し、猗盧とともに并州へ戻り、猗盧の力によって劉氏を晋陽から追い出すと、晋陽北方の陽曲に駐留、という時系列のようである。さらに『資治通鑑』によれば、そもそも漢軍が晋陽を攻めて来たとき、劉琨は「東出、収兵於常山及中山」とある。つまり、劉琨は晋陽が陥落するまえにすでに晋陽を出ており、常山と中山で兵員を確保して救援に向かったが、到着前に高喬が降ってしまって晋陽が落ちてしまったので、常山へ引き返した、というふうに司馬光は整理している。司馬光がこの理解の根拠に挙げるのは、劉琨「上太子牋」(『資治通鑑考異』引)に「聡以七月十六日復決計送死、臣即自東下、率中山、常山之卒、並合楽平、上党諸軍、未旋之間、而晋陽傾潰」とある記述である。彼はこちらを是とし、本伝の「烏丸とかがそむいていたから劉琨は出撃中だった、その隙を突かれて晋陽を攻められた」という経緯を誤りだとしている。劉琨自身の文中にみえるとなると確実性は高いが、ただし本伝後文に掲載されている盧諶らの上表には「屠各乗虚、晋陽沮潰」と、本伝と合致する説明がされており、劉粲らが「隙を突いた」というのは事実の一側面を伝えた表現である可能性は残っている(もちろん、そもそも盧諶らの記憶が誤っている可能性もある)。実情を明らかにするのは困難に思われるが、ともかくも本伝、というより本伝のベースとなった資料の由来を考察する材料にはなるかもしれない。
 なお本伝では省略されている(?)が、『魏書』序紀によれば、今回にかぎらず劉琨はかなり頻繁に拓跋氏に援軍を要請している。

劉琨(1)劉琨(2)劉琨(3)附:劉群・劉輿・劉演祖逖附:祖納

  • 1
    原文「少得儁朗之目」。「之目」は『晋書』に散見する表現で、本伝での用例のように、人の才能や行状を評した二字に「之目」と付ける使い方が一般的のようである。当人の才行を表す評語のことを「目」(項目)と呼んでいるのだと思われる。
  • 2
    職官志によれば、司隷校尉の従事史には都官従事、諸曹従事、部郡従事がある。
  • 3
    『文選』巻二五、贈答三、劉越石「答盧諶詩并書」の李善注に引く「王隠晋書」に「初辟太尉隴西秦王府、未就。尋為博士、未之職」とあり、高密王の府と博士には就いていないらしい。
  • 4
    どちらも長安(河間王顒)から劉喬の援軍として派遣されていた。恵帝紀、永興二年の条を参照。
  • 5
    『資治通鑑』は光煕元年十月にかける(永嘉元年の前年)。中華書局の校勘記は、懐帝紀、永嘉元年三月の条に「并州諸郡為劉元海所陥、刺史劉琨独保晋陽」とあり、さらにこのあとの表の文中に「九月末得発」と劉琨が述べていることから、永嘉元年以前に劉琨が赴任していたのはたしかであろうと推測している。また、『世説新語』言語篇の劉孝標注に引く「王隠晋書」には「年三十五、出為并州刺史」とあるが、本伝によれば劉琨は享年四十八で、元帝紀によると劉琨が殺されたのは太興元年である。逆算すると永興二年(光煕元年の前年)になるが、この年はまだ恵帝が洛陽に戻っておらず、范陽王も在命で、劉琨は王に仕えていた可能性が高いため、「王隠晋書」の記述では整合は取れない。
  • 6
    原文「志望有限」。出世欲そんなにないですという謙遜。
  • 7
    恵帝を迎えて以降の劉琨の足跡が不明なので推測になるが、劉琨および劉輿兄弟は范陽王に気に入られていたようなので、彼に仕えていたのではないかと思われる。本伝附伝の劉輿伝に「虓薨、東海王越将召之」とあるのは、劉輿が范陽王の薨じるまで王のもとにいたことを示しているし、事実、成都王穎伝に「属虓暴薨、虓長史劉輿……」とある。その范陽王はというと、恵帝が洛陽に帰還してのち、鄴に出鎮していたようである(成都王穎伝、『資治通鑑』光煕元年八月の条を参照)。すなわち、劉琨は劉輿とともに鄴の范陽王のもとにいた可能性が高いと考えられる。光煕元年十月に范陽王が薨じると、劉輿は洛陽の東海王に召され、劉琨を并州刺史とするように進言しているが(本伝附輿伝)、前の訳注で触れたように、『資治通鑑』は劉琨の刺史任命を同月(光煕元年十月)のこととしている。劉琨も劉輿に同行して洛陽に来ていた可能性はあるが、劉琨は劉輿には同行せずに鄴に留まっており、鄴から赴任していったのではないかと思う。(2020/12/4:訳文および注を修正)
  • 8
    原文「死亡委危」。「委危」は「委厄」と作る本もあるが、どちらにしても難読(中華書局の校勘記を参照)。和刻本も「可疑」と注記している。その和刻本は「厄ヲ委(ツ)ミ」とどうにか読んでおり、訳文はこれに従うことにした。
  • 9
    陰陽の気が結合している状態のこと。ここでは、陰陽のバランスを崩してしまうほどに并州が苦境していることをこのように表現しているのであろう。
  • 10
    和刻本は「二」を「一」に作るべきだとする。そうかもしれない。
  • 11
    原文「時出臣表」。「出」は「付」、すなわち尚書へ転送することと取った。しかし、後文で「裁可ください」と言っているのと齟齬してしまうので、この理解は誤りかもしれない(裁可してから尚書に付すと思われるため)。とはいえ、和刻本は「時出」を「可疑」と注しているので、そもそも原文がおかしい可能性がある。
  • 12
    懐帝紀によれば永嘉元年三月のことだが、『資治通鑑』は光煕元年十月にかける。『資治通鑑』は、光煕元年十月に鄴に出鎮していた范陽王虓が薨じ(恵帝紀も同じ)、同月に范陽王の後任として東嬴公が鄴へ、東嬴公の後任として劉琨が晋陽(并州刺史)へ移るという人事がおこなわれ、永嘉元年三月に東嬴公を新蔡王に昇格し、ひきつづき鄴に出鎮させるという人事がなされたと時系列を整理している。
  • 13
    そこまで厳密に読む必要もないとは思うが、「ともに賊を表し、外部から来るものを「寇」、内部から出てくるのを「賊」という」(『漢辞海』)らしい。
  • 14
    『資治通鑑』の記述は本伝とやや異なっており、「劉琨至上党、東燕王騰即自井陘東下、……琨募兵上党、得五百人、転闘而前、至晋陽」とある。
  • 15
    棘荊と豺狼は悪事と悪人の比喩か。
  • 16
    『世説新語』尤悔篇に「劉琨善能招延、而拙於撫御。一日雖有数千人帰投、其逃散而去、亦復如此、所以卒無所建」と、本伝とほぼ同趣旨の記述がみえ、また同、劉孝標注に引く「鄧粲晋紀」にも「琨為并州牧、糺合斉盟、駆率戎旅、而内不撫其民、遂至喪軍失士、無成功也」とみえている。
  • 17
    『魏書』序紀によると、昭帝十年の条(晋の永興元年)に「并州刺史司馬騰来乞師、桓帝(猗㐌)率十余万騎、帝亦同時大挙以助之、大破〔劉〕淵衆於西河、上党」とあり、同十一年の条に「劉淵攻司馬騰、騰復乞師。桓帝以軽騎数千救之、斬淵将纂毋豚、淵南走蒲子。晋仮桓帝大単于、金印紫綬」とある。
  • 18
    『魏書』序紀によれば、猗㐌は昭帝十一年(晋の永興二年)に没している。弟の猗盧が推薦を受けているのはこのためなのであろう。懐帝紀は永嘉六年のこととし、『魏書』序紀は穆帝三年=永嘉四年のこととする。『資治通鑑』は永嘉四年にかける。本伝の記述の前後関係からみても、永嘉四年と取るのがよさそうではある。
  • 19
    和刻本は「琨字、疑当作盧」と注し、つまり猗盧と読むのが自然だと考えているようである。しかし、劉琨と王浚がいがみあっていたのはもろもろから確認できるので、このままでもとくに問題はないように思う。
  • 20
    王沈伝附浚伝にも「〔劉〕琨使宗人劉希還中山合衆、代郡、上谷、広寗三郡人皆帰于琨。浚患之、遂輟討〔石〕勒之師、而与琨相距。浚遣燕相胡矩督護諸軍、与疾陸眷并力攻破希。駆略三軍士女出塞、琨不復能争」と、本伝と同趣旨の記述がある。なお『資治通鑑』によれば劉希は高陽内史であったという。また『資治通鑑』によると、劉琨が猗盧を代公に推薦したのも王浚は気に食わなかったようで、「時代郡属幽州、王浚不許、遣兵撃猗盧、猗盧拒破之。浚由是与琨有隙」(永嘉四年十月の条)ともある。
  • 21
    天下を経営し、四方を攻め取って平定する。(『漢辞海』)
  • 22
    『文選』巻二五、贈答三、劉越石「答盧諶詩并書」の李善注に引く「王隠晋書」には「劉聡囲晋陽、令狐泥以千余人為郷導、琨求救猗盧、未至、太原太守高嶠反応聡、逐琨。琨父母年老、不堪鞍馬、歩檐不免、為泥所害」とある。王隠はこのような情報をどこから得たのだろうか。
  • 23
    この晋陽の攻防は、懐帝紀、『魏書』序紀、『資治通鑑』によると永嘉六年(北魏の穆帝五年)のこと。本伝では省かれているが、懐帝紀と劉聡載記によれば、晋陽の陥落(高喬の降服)にともない、劉琨は常山へ敗走したそうである。そして猗盧へ援軍を要請し、猗盧とともに并州へ戻り、猗盧の力によって劉氏を晋陽から追い出すと、晋陽北方の陽曲に駐留、という時系列のようである。さらに『資治通鑑』によれば、そもそも漢軍が晋陽を攻めて来たとき、劉琨は「東出、収兵於常山及中山」とある。つまり、劉琨は晋陽が陥落するまえにすでに晋陽を出ており、常山と中山で兵員を確保して救援に向かったが、到着前に高喬が降ってしまって晋陽が落ちてしまったので、常山へ引き返した、というふうに司馬光は整理している。司馬光がこの理解の根拠に挙げるのは、劉琨「上太子牋」(『資治通鑑考異』引)に「聡以七月十六日復決計送死、臣即自東下、率中山、常山之卒、並合楽平、上党諸軍、未旋之間、而晋陽傾潰」とある記述である。彼はこちらを是とし、本伝の「烏丸とかがそむいていたから劉琨は出撃中だった、その隙を突かれて晋陽を攻められた」という経緯を誤りだとしている。劉琨自身の文中にみえるとなると確実性は高いが、ただし本伝後文に掲載されている盧諶らの上表には「屠各乗虚、晋陽沮潰」と、本伝と合致する説明がされており、劉粲らが「隙を突いた」というのは事実の一側面を伝えた表現である可能性は残っている(もちろん、そもそも盧諶らの記憶が誤っている可能性もある)。実情を明らかにするのは困難に思われるが、ともかくも本伝、というより本伝のベースとなった資料の由来を考察する材料にはなるかもしれない。
     なお本伝では省略されている(?)が、『魏書』序紀によれば、今回にかぎらず劉琨はかなり頻繁に拓跋氏に援軍を要請している。
タイトルとURLをコピーしました