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序/嵆紹(附:嵆含)・王豹/劉沈・麹允(附:焦嵩)/賈渾・王育・韋忠・辛勉・劉敏元・周該・桓雄・韓階・周崎・易雄・楽道融・虞悝・沈勁・吉挹・王諒・宋矩・車済・丁穆・辛恭靖・羅企生・張禕
嵆紹
嵆紹は字を延祖といい、魏の中散大夫であった嵆康の子である。十歳にして父を亡くし、母に仕えるにあたっては孝行に篤く、謹直であった。父が罪を得ていたことから、私宅で安静に過ごしていた1父の嵆康は巻四九に立伝されており、また『三国志』巻二一、王粲伝附嵆康伝の裴松之注に引く諸書にも死の顚末が記されている。それらによれば、嵆康が親しく付き合っていた呂氏の兄弟が訴訟で争うことになり、嵆康が被告であった兄の弁護を買って出たところ、かねてより嵆康に恨みを抱いていた鍾会がこの機会に便乗して嵆康の排除を司馬昭に勧めたため、嵆康は罪に問われて処刑されたのだという。こういう経緯があるため、司馬氏にはなおさら出仕するわけにもいかなかったのであろう。『世説新語』政事篇、第八章の劉孝標注に引く「王隠晋書」には「時以紹父康被法、選官不敢挙」とあり、尚書吏部曹もまた司馬氏に忖度して嵆紹を選挙しなかったという。。山濤が選官(吏部尚書)を領すと、武帝に啓して言った、「康誥に『父や子の罪はたがいへ波及しない』とあります2原文「父子罪不相及」。現行の『尚書』康誥篇には見えないが、『左伝』昭公二十年に「在康誥曰、『父子兄弟、罪不相及』」と引用されている。。嵆紹の賢明ぶりは郤缺3晋の文公に仕えた人。郤缺の父の郤芮は晋の恵公に仕えており、文公が晋に帰還するや、文公から攻められるのを心配して反逆を起こしたが、失敗して殺された。郤芮の死後、郤缺は晋に出仕せずに過ごしていたが、たまたまある人物の目にとまって文公に推薦され、登用されるにいたった。に等しいですから、彼を顕彰してお召しになられるのがよいでしょう。秘書郎となさいますよう、要望いたします」。武帝は山濤に言った、「卿の言葉のとおりならば、秘書丞が務まるだろう。なにも秘書郎にかぎる必要はないさ4原文「何但郎也」。優秀な者であろうと起家の官は一律に秘書郎でなければならないわけではなく、才能があるなら丞でもいいじゃない、という意味で取った。ちなみに『世説新語』政事篇、第八章の劉孝標注に引く「山公啓事」によると、まず武帝が秘書丞の選挙を命じ(おそらく欠員が出たのであろう)、それを受けて山濤は嵆紹を推薦しつつ、まず秘書郎に任じるようにと求めた。すると武帝は「嵆紹が君の言うとおりの人物なら秘書丞でもいいじゃん」と言ったのだという。」。そうして詔を発布し、嵆紹を召し、〔嵆紹は〕起家して秘書丞となった5『世説新語』政事篇、第八章の劉孝標注に引く「晋諸公賛」によれば嵆康の没後二十年、同引「王隠晋書」によれば嵆紹二十八歳のときのことであったというが、本伝では十歳のときに父親を亡くしたというから年齢が微妙に合わない。山濤は竹林の七賢に数えらえる人物で、もともと嵆康とは友人関係にあった。曹魏の末年、尚書吏部郎に就いていた山濤は、異動に伴って自身の後任に嵆康を推薦したところ、嵆康は絶交の書(『文選』巻四三、所収)を送って拒否したというのは有名な逸話。山濤伝によれば、嵆康は誅殺の直前、嵆紹に向かって「巨源(山濤の字)がいる。おまえは独りじゃない(巨源在、汝不孤矣)」と言ったという。さらに『世説新語』政事篇、第八章には次のような話が伝えられている。「嵆康の誅殺後、山公は嵆康の子の紹を秘書丞に推薦した。〔それが聴き入れられ、任官の詔が下ったが、〕嵆紹は山公に就官するべきかどうかを相談した。山公は『君のために就職のことをずっと考えていたんだ。天地や四季ですら移り変わりがあるもの。まして人間ならなおさらなんだぞ』(嵆康被誅後、山公挙康子紹為秘書丞。紹咨公出処、山公曰、『為君思之久矣。天地四時、猶有消息、而況人乎』)」。「もう気にしなくていいんだぞ」という意味であろう。。
嵆紹が洛陽に入ったばかりのころ、ある人が王戎に言った、「昨日、群衆の中ではじめて嵆紹を見かけましたよ。えらい高いもんで、鶏の群れの中に野生の鶴がいるような感じですね」。王戎、「さては君、彼の親父を見たことがないんだな」6この話は『世説新語』容止篇、第一一章にも見える。嵆康伝や『世説新語』容止篇、第五章によると、嵆康は身長七尺八寸(約一八八センチメートル)で、容姿に秀でていたという。嵆紹も身長が高かったことをここで言っているのであろう。。昇進をかさねて汝陰太守に移った。尚書左僕射の裴頠も嵆紹の才能を高く評価し、「延祖を吏部尚書にすれば、天下じゅうの秀才を漏れなく登用するだろうに」といつも言っていた。沛国の戴晞は若くして才知を有しており、嵆紹の従子(おい)である嵆含と仲が良かった。世の人々は〔戴晞のことを〕遠大な志をそなえていると認めていたが、嵆紹はきっと大成しないと思っていた。戴晞はのち、司州刺史の主簿となったが、品行に欠けているとの理由で退けられた。州党7州(この場合は司州)の郷党くらいの意。は、嵆紹には人物を見分ける明知があると称賛した。豫章内史に転じたが、母の喪を理由に赴任しなかった。服喪が開けると、徐州刺史に任じられた。当時、石崇が〔徐州の〕都督で、その性格は横暴であったが、嵆紹は道をもって石崇を補佐したので、石崇は嵆紹にはなはだ親愛と敬意を加えた。のち、長子の喪を理由に職を辞した。
元康のはじめ、給事黄門侍郎となった。このころ、侍中の賈謐は外戚としての恩寵によって、年少でありながら〔侍中の〕位に就き、潘岳や杜斌などみなが賈謐の取り巻きになった。賈謐は嵆紹に交際を求めたが、嵆紹は拒絶して応じなかった。賈謐が誅殺されると、嵆紹は賈謐が権勢をふるっていた当時に殿中〔門下〕省(2021/12/9:修正)に身を置いていたにもかかわらず、悪人におもねらなかったことをもって、弋陽子に封じられ、散騎常侍に移され、領国子博士とされた。太尉、広陵公の陳準が薨じると、太常が諡号を奏したが、嵆紹が駁議して述べた、「諡号とは故人の功績を不朽に示すためのものです。おおいなる事跡はおおいなる称号を授かり、ささいな事跡はささいな称号を授かります。文や武の諡号は功徳〔が盛んであること〕を表わし、霊や厲の諡号は暗愚を表わします。ちかごろ、礼官8礼制の専門官。太常、博士など。は忖度していて、諡号は〔故人の事跡の〕本質にもとづいておらず、陳準の諡号は過分です。謬の諡号をおくるのが適当です」。事案は太常に下されて審理された。このとき、〔嵆紹の提案は〕聴き入れられなかったが、朝廷は嵆紹のことを畏怖するようになった9『三国志』陳群伝附陳泰伝の裴松之注に引く「陳氏譜」によると、陳準は潁川の陳氏。陳寔の子である陳諶の曾孫にあたる(なお陳群は諶の兄・紀の子)。太常がどういう諡号を奏したのかは不明。なお『資治通鑑』によると、陳準は永康元年に太尉に任じられてからほどなくして薨じたらしいが、恵帝紀によれば陳準が太尉に任命されたのは永康元年八月である。趙王倫が賈后らを討ったのが同年四月、趙王が即位したのが翌年正月のことで、ちょうど間の出来事である。。
趙王倫が帝位を奪うと、侍中に任じた10『資治通鑑考異』に引く「三十国春秋」だと、嵆紹は決して趙王に仕えず、恵帝が金墉城に幽閉されたあとも恵帝に侍直していたと記されている。「倫将篡位、義陽王威執詔示嵆紹曰、『聖上法堯舜之挙、卿其然乎』。紹厲声曰、『有死而已、終不有二』。威怒、拔剣而出。及恵帝遷于金墉城、唯紹固志不從従、直于金墉、絶不通倫、時人皆為之懼」とある。司馬光はこの『三十国春秋』の記述と本伝の記述のあいだには異同があると認めつつも、どちらも『資治通鑑』本文には採用しなかったと述べている。是非が決めかねるうえ、趙王がかってに侍中に任命したとも取れるため、どうにも判断ができなかったのであろう。『晋書斠注』は『三十国春秋』の記述のほうが嵆紹の忠義に篤い性格に適っており、そちらのほうが正しいとしている。。恵帝が帝位に回復すると、そのままその官職に就いた。司空の張華は趙王に誅殺されてしまっていたが、議者がさかのぼって張華の問題11名目上では、張華は命を張ってまで愍懐太子の廃位を止めるべきだったのにそうしなかった、という理由で趙王らに誅殺されたものと思われる。またこの議を発したのは斉王冏なので、本伝にいう「議者」はおそらく斉王を指すのであろう。張華伝を参照。を弁護し、その爵の回復を求めた。いっぽう、嵆紹はこれに反駁して言った、「臣下が君主に仕えるにあたっては、煩わしいことを取り払い、疑わしいことを取り去らねばなりません。張華は内外(中央と地方)で官位を歴任し、おおむね良い成績をあげたとはいえ、棺に蓋をされるにいたった罪は遠近に明白であり、禍乱の端緒を切ったのはまことに張華なのです。ゆえに、鄭は幽公弑逆の罪を責めて子家の棺を薄く削り(『左伝』宣公十年)、また魯は隠公を弑逆した罪を辱めて、『春秋』全篇にわたって〔首謀者の〕公子翬を貶めて〔、「公子」をつけずにたんに「翬」と呼んで〕いるのです。追加で名誉を辱める処置を下すには忍びありませんが、事件は甚大なものなのですから、張華の爵と官位を回復するべきではありませんし、無罪であると弁護するべきでもないと考えます」12このような論調に対する反駁としては、温羨の議が挙げられる(温羨伝所載)。最終的には張華の爵と官位は回復された。。このころ、恵帝は帝位に戻ったばかりだったので、嵆紹はさらに上疏して言った、「臣はこう聞いています。前轍を改めたならば車が傾くことはなくなり、往時の弊害を正したならば政治が退廃することはない、と。君主においては一統を尊び、朝廷に集った士人においては仕事に励んだからこそ13原文「太一統于元首、百司役于多士」。読めない。まず上の句だが、百衲本、和刻本ともに「太」を「大」に作っている。汲古閣本は原文と同じく「太」。そのうえで和刻本は「一統ヲ元首ニ大ニシ」と読んでいる。「大一統」は『公羊伝』隠公元年にも見える文言であるし、「太一(天帝)が君主を統べる」というのも意味がよくわからないので、ここは「太」を「大」に改め、和刻本に準じて読むことにした。なお汲古閣本および『晋書斠注』の割注によると、「一」の字を「乙」に作る本もあるようだが、どちらにせよ「太一」というふうには読まないのでここでは考慮しない。下の句については、和刻本は「司役ヲ多士ニ百ニス」と読んでいる。「百」の字は、特殊な読み方ではあるが「励」と読むケースがあり(『左伝』僖公二十八年の杜預注「百、猶励」)、特殊な用例だと思うので抵抗はあるが、この読み以外に文意を通じさせる解釈が浮かばないので、「努める」で意味を取った。「司役」は用例が少なく、本当に和刻本のように読んでよいのか不安を抱かせる一因ではあるが、字義から推して「仕事」を意味するものと解釈した。、上は周の文王が事業を興し、下は成王と康王が安寧を実現したのです。命をつなぎつつも死を忘れない、というのは『易』に記されている良き教義です14原文「存不忘亡、易之善義」。『易』繋辞下伝「是故、君子安而不忘危、存而不忘亡、治而不忘乱、是以身安而国家可保也」が出典。。願わくは、陛下は金墉城のことをお忘れなきように。大司馬(斉王冏)は潁水のほとりでのことをお忘れなきように15斉王は潁水付近で趙王軍の張泓と攻防したが、なかなか張泓を破れなかった。成都王穎は入洛後、斉王への援軍を派遣し、それでようやく張泓を降したという。趙王倫伝、斉王冏伝、成都王穎伝を参照。。大将軍(成都王穎)は黄橋でのことをお忘れなきように16成都王は黄橋で趙王軍で交戦し、敗北を喫している。そのあと、黄橋でふたたび戦い、勝利を収めた。趙王倫伝、成都王穎伝を参照。。さすれば、禍乱の兆しが芽生えることはないでしょう」。
斉王冏が輔政すると、建物をおおいに建造し、傲慢奢侈がますますひどくなったので、嵆紹は書簡を送って諫めた、「禹は粗末な宮殿であったことから美を称賛され、堯や舜は茨で屋根をつくり、それを茅でおおったことから徳を顕彰されました。屋根を高くし、家を蔀(しとみ)で覆うというのは、無益で危険なことです17原文「豊屋蔀家、無益危亡」。『易』豊、上六の爻辞に「豊其屋、蔀其家、闚其戸、闃其无人、三歳不覿、凶」とあるのが出典で、杜預によれば「無徳而大其屋、不過三歳必滅亡」(『左伝』宣公六年の注)という意味。とはいえ、蔀(しとみ)で覆うということの意味はよくわからない。障害物で家を囲うということだろうか。。ひそかに考えますに、太楽〔の官庁〕を壊して〔ご自身の〕建物を拡大し、工事を起こして三王18どの王を指すのか不詳。王豹伝で、斉王といっしょに起義した三人の王として成都王穎、長沙王乂、新野王歆が挙げられており、この三人のことか。のために邸宅を建造していますが、これらは現在、急を要する事業なのでしょうか。いま、大事がようやく定まったところで、万姓は顔を向けて仰ぎ見て、誰もが恩沢を待ち望んでいるのですから、建築工事という面倒を取り除き、謙遜という道理を深くご思念されるのが適当でございます。主君回復の勲功を〔みずからのふるまいによって?〕お棄てになってはなりません。矢石(戦場)の危険をお忘れになってはなりません」。斉王は控えめで従順な態度で嵆紹に返答したが、けっきょく聴き入れることができなかった。嵆紹が斉王を訪問し、政事について相談をしたときのこと。ちょうど斉王は宴会を開き、董艾や葛旟らを招待していっしょに時政を議論していた。董艾は斉王に言った、「嵆侍中は糸竹(管弦楽器の意)を得手としていますから、演奏させてみてはいかがでしょう」。左右の者が琴を進めたが、嵆紹は押し返して受け取らなかった。斉王は言った、「いまは宴会中だ。そうケチらなくてもよいではないか」。嵆紹は答えて言った、「公は社稷を回復されました。人の模範となり、世の規範を示し、そのお姿を後世にお伝えされるべきです。紹(わたし)は無能で見識がないにもかかわらず、かたじけなくも常伯(侍従の官)に就けていただき、印の綬を腰に帯びて冕冠をかぶり、佩玉を殿省19おそらく殿中の官府の意で、この場合は侍中が所属する門下省を指すと思われる。殿中の意。勤務先が殿中であること。(2021/11/18:修正)で鳴らしています。どうして糸竹を手にして伶人(楽官のこと)の仕事をなせるものでしょうか。公服を脱ぎ、私的な宴会の場だというのならば、どうしても辞退したいとは申しません」。斉王はおおいに恥じ入った。董艾らは不快になって退出した。しばらくすると、公的な案件をもって免官されたが、斉王は左司馬とした。旬日後(約十日後)、斉王は誅殺された。当初、〔洛陽で斉王軍と長沙王軍との〕戦闘がはじまると、嵆紹は逃げて宮殿へ行った。弩を手に持って東閤(宮城の東面の門?)のそばに滞在していた兵士がいたが、〔逃げてきた〕嵆紹を射ようとした。たまたま、殿中将兵の蕭隆という者がおり、嵆紹の顔つきや身なりが長者であるのを目にすると、ただ者ではないのかもしれないと思ったため、急いで前に出て〔弩から?〕矢を抜いた。このため、生き延びることができたのであった。最終的には滎陽の旧宅へ帰った。
まもなく、召されて御史中丞となり、拝命する前にふたたび侍中となった。河間王顒と成都王穎が挙兵して京師へ向かい、長沙王乂を討とうとした。天子は洛陽城の東に駐留し〔、成都王軍に備え〕た。長沙王は兵士に呼びかけた、「こんにち、西方(河間王)の征討にあたって、都督に誰を望むか」。六軍の兵士はみな言った、「願わくは嵆侍中を。〔嵆侍中のためならば〕力を合わせて先頭を突き進み、死すらも生と変わりません」。とうとう嵆紹を使持節、平西将軍に任じた。ちょうど長沙王が〔東海王越らに〕捕えられてしまい、嵆紹はふたたび侍中となった。公王以下、〔朝臣は〕みな鄴を訪問して成都王に謝罪したが、嵆紹らはことごとく排斥され、免官されて庶人とされた。ほどなく、朝廷がさらに北征の戦役(成都王への親征のこと)を起こすと、嵆紹を召して爵と官位を回復した。嵆紹は、天子が洛陽を出発したことから、〔辞令の?〕詔を受けるや馬を走らせ、〔洛陽ではなく〕行在所へ向かった。王師が蕩陰で敗北すると、百官および〔天子の〕護衛はことごとく散り散りになったが、嵆紹だけはおごそかに衣冠を正し、身をもって〔恵帝を〕守った。武器が天子の車に接触し、矢が雨のように飛んできた。嵆紹はとうとう恵帝のそばで殺され、その血は恵帝の服に飛び散った。天子は嵆紹を深く悲しんで嘆いた。事がひと段落すると、左右の者たちは服を洗おうとしたが、恵帝は言った、「これは嵆侍中の血だ。落としてはならない」。
これ以前、嵆紹が恵帝のもとへ出発するとき、侍中の秦準が嵆紹に言った、「このたび、難事に向かうわけですが、卿は駿馬をおもちですか」。嵆紹は顔色を正して言った、「天子が親征を起こし、正義をもって反逆を討とうとされているのですから、道理として必ずや『征伐はあるが戦争はない』ということにものでしょう20この言い回しについては盧欽伝附盧志伝の訳注を参照。。かりにも天子が敵の手中に落ちたならば、臣としての節義には所在があります21原文「臣節有在」。「有在」は「所在がある」「あるところにある」というぐあいの語。「節義の所在がある」、つまり「節義を果たすべきところがある」という意で、節義に殉じると言っているのであろう。。駿馬がどうして必要でしょうか」。この言葉を耳にした者はみな嘆息した。張方が恵帝を脅して長安へ移すと、河間王は上表し、嵆紹に司空を追贈し、爵を公に進めるよう求めた。ちょうど恵帝が洛陽へ帰還したため、この案件はけっきょく実行されなかった。東海王越が許に駐屯したさい、道中で滎陽を通ると、嵆紹の墓に立ち寄り22『太平寰宇記』には、嵆紹が葬られた場所は蕩陰県だと記されている。『太平寰宇記』巻五五、河北道四、相州、湯陰県、浣衣里に「晋侍中嵆紹葬所。按鄴中記、『恵帝師敗湯陰、千官皆走、独紹端冕帝側、以身捍主、遂至見害、血濺御衣。及事寧、左右欲浣之、帝曰、『此嵆侍中血、勿去』。詔葬県南。因名此地為浣衣里』」とある。よくわからないが、のちに郷里の滎陽に改葬されたということか。、嵆紹のために慟哭し、石碑を立て23このときのものなのかはわからないが、『芸文類聚』巻四八、侍中に「晋裴希声侍中嵆侯碑」が引かれている。文中には嵆紹の最期も記されている。「太安之初、権臣擅命、皇輿親征、次於蕩陰、六軍奔攻、兵交御輦、紹儼然端冕、正色以扞鋒刃、遂殞于御側」とある(この文中の「太安」は「永興」の誤りだと思われる。『晋書斠注』に引く呉鎬『漢魏六朝志墓金石例』を参照)。、ふたたび上表し、官位と爵の追贈を求めた。そこで懐帝は使者をつかわし、冊書を授け、侍中、光禄大夫を追贈し、金章紫綬を加え、爵を侯に進め、墓田一頃、客十戸を賜い、少牢をもって祀った。元帝が左丞相となり、承制すると、嵆紹が節義に殉じた一件は重大であるのに、追贈の礼遇はその勲功と徳にかなっていないことを理由に、さらに上表し、太尉を追贈し、太牢をもって祀ることを求めた。元帝が即位すると、忠穆の諡号を賜い、ふたたび太牢の祀りを加えた。
嵆紹は自分の意志を曲げずに行動することに遠慮がなく24原文「誕于行己」。「誕」は「ほしいままにする」で取り、「行己をほしいままにした」と読んだ。「行己」は『論語』公冶長篇に「行己也恭」という例があり、疏は「己れの行動」と読んでいるが、『晋書』など魏晋期の正史にみえる用例はこれとはややニュアンスを異にしているように感じられる。そうした用例は「行己意」という感じ、すなわち「自分の思ったとおりに行動する」「自分の意志に忠実に行動する」「自分の意志を曲げずに行動する」「自分の心のままにすきかってに行動する」という幅のある使われ方をしているように思われる。本文のこの箇所は、嵆紹のこれまでの行跡や列伝内における特徴づけを鑑みると、「自分の意志を曲げずに行動する」という意味だと思われ、そうしたふるまいを「ほしいままにした」、意訳して「遠慮しなかった」と訳出してみた。、ささいな節義を飾り立てなかった。しかし、度量は広かったが、節度はあり、人付き合いは良かったが、付和雷同はしなかった。従子(おい)の嵆含ら五人と同居し、実の兄弟のようにいたわって接した。嵆紹の門人や故吏は嵆紹の遺愛を忍び、墓のそばで服喪し、三年喪を終えた者は三十余人もいた。長子の嵆眕は父の風格をそなえていたが、早世したため、従孫の嵆翰に封国を継がせた。成帝のとき、嵆紹の忠義を追って述懐し、嵆翰を奉朝請とした。嵆翰には兄弟がいなかったため、みずから上表し、本宗に戻りたいと要望した。太元年間、孝武帝は詔を下した、「徳を称賛し、仁を顕彰するのは、哲王のすぐれた典範である。故太尉の忠穆公(嵆紹のこと)は徳を固守して高大であり25原文「執徳高邈」。『論語』子張篇「執徳不弘、信道不篤、焉能為有、焉能為亡」を意識した表現か。、否運においていよいよ高潔の風流を発揮し、その忠義は千年にわたって明らかである。彼の事績を思うたび、悲しみにうちひしがれ、心を傷めている。忠貞の人(嵆紹を指す)の後継ぎは、烝嘗の祭祀(祖先の祭祀)を長く存続させるべきである。このうえない節義をおおいに明らかにし、名教を重んじて奨励するゆえんだからである。嵆紹の宗族を探し、爵を継がせて祭祀を主宰させるように」。こうして、ふたたび嵆翰の孫である嵆曠を弋陽侯とした。
〔嵆含〕
嵆含は字を君道という。祖父の嵆喜は徐州刺史であった26嵆康伝によれば、嵆喜は嵆康の兄である。『三国志』巻二一、王粲伝附嵆康伝の裴松之注も参照。。父の嵆蕃は太子舎人であった27字を茂斉という。『文選』巻四三、趙景真「与嵆茂斉書」の李善注に引く「嵆紹集」に「趙景真与従兄茂斉書、時人誤謂呂仲悌与先君書、故具列本末。趙至、字景真、代郡人、州辟遼東従事。従兄太子舎人蕃、字茂斉、与至同年相親。至始詣遼東時、作此書与茂斉」とある。。嵆含は学問を好み、作文が得意であった。鞏県の亳丘に家があり、亳丘子とみずから号し、門を帰厚之門、室(部屋)を慎終之室と呼んだ。楚王瑋が掾に辟召した。楚王が誅殺されると、罪に問われて免じられた。秀才に挙げられ、郎中に任じられた。
このころ、弘農の王粋は貴公子28高官の子息くらいの意味であろう。をもって公主を降嫁され29王粋は王濬の孫だったと考えられる。王濬伝に「〔王濬〕卒。……子矩嗣。矩弟暢、散騎郎。暢子粋、太康十年、武帝詔粋尚潁川公主、仕至魏郡太守」とある。、邸宅はひじょうに盛大で、荘周の肖像を部屋に描き、広く朝士を集め、嵆含に肖像画の賛文をつくらせた。嵆含は筆を手にすると弔文を書き、〔一気に書きあげて〕文章に修正を加えなかった。その序に言う、「皇帝の婿たる王弘遠、その立派な池と高い屋根〔の豪邸〕に賢才を広く招待し、荘生が釣り糸を垂らしている肖像を図示し、先達が招聘を断った故事を表象し、真人を桷(角材のたるき)に彫刻を施した部屋に描画し、退士を進趣(出世欲や競争心みなぎる人)が集う広間に掲載した。意をまちがった場所に寓していると言えよう。〔荘子を〕弔うべきにして、賛(たた)うべからざるなり」。その辞に言う、「(難しい文章で、訳出に自信がもてないので省略します。荘子の思想をまったく理解できていない人間たちに尊敬されるなんて荘子がかわいそうだ、というような内容)」。王粋は恥じ入った顔をした。
斉王冏が征西将軍府の参軍に辟召し、武昌郷侯の爵を継いだ。長沙王乂が召して、驃騎将軍府の記室督、尚書郎とした。長沙王が成都王穎と交戦したが、成都王軍はますます勢い盛んとなるため、尚書郎は日中に〔尚書省を〕出て戦闘を指揮し、夜になると〔尚書省に〕戻って仕事をこなした。嵆含は長沙王に言った、「むかし、魏の武帝は軍事があるたびに掾属を増員しました。また、〔曹魏の〕青龍二年に尚書令の陳矯は、軍務があるのを理由に尚書郎の増員を上奏しました。いま、悪逆人が四方から迫り、王路(京師と通じる道路)は塞がっていますが、『逆さ吊り』という緊急事態でさえも30原文「倒懸之急」。「倒懸」(逆さ吊り)は『孟子』公孫丑章句上に「孔子曰、『徳之流行、速於置郵而伝命。当今之時、万乗之国、行仁政、民之悦之、猶解倒懸也」とあるのがおそらく出典で、趙岐の注に「倒懸、喩困苦也」とあるように、苦難の比喩。、いまのこの状況をしのぐものではないでしょう。〔当世の尚書省は〕曹に勤務して仕事をこなすというだけでも、なお尚書郎を増員する必要があります。まして現在だと、都官曹、中兵曹、騎兵曹は日中に〔尚書省を〕出て戦闘を指揮し、夜に〔尚書省に〕戻って仕事をしています。一人で二つの役をこなし、〔省の〕内外で疲弊しきっています。含(わたし)が考えますに、現在〔王師は全体で〕十万人ございますが、都督はおのおので主帥(部隊長?)を擁しています31原文「都督各有主帥」。ここの「都督」は長沙王のことではなく、成都王軍らを迎え撃つ王師の軍のなかの、各方面を指揮する将軍・都督のことを指すのであろうと思われる。たとえば嵆紹伝でも、このときに長沙王が兵士らに「西方の都督に誰を望むか」と聞いたところ、嵆紹を推してきたため、嵆紹を使持節、征西将軍に任命した、という記述が見えている。それら各「都督」の指揮下に将軍未満の「主帥」と呼ばれる隊長のような人々がいたのであろうと思われる。。〔その主帥を〕将軍に任命して綬を授け、大将(長沙王)にゆだねるようにいたしましょう32原文「委付大将」。各「都督」の所属にある「主帥」を取り急ぎ「大将」の指揮下に異動する、ということだろうと思われる。。尚書台の官吏を戦場に交ぜるのは適当ではありません」。長沙王はこれを聴き入れ、そこで尚書郎と尚書令史を増員した。
懐帝が撫軍将軍になると、嵆含を〔撫軍府の〕従事中郎とした。恵帝が北征すると、中書侍郎に転じた。蕩陰での敗戦があると、嵆含は逃げて滎陽へ帰った。永興のはじめ、太弟(懐帝?)中庶子に任じられたが、西方への道路が塞がっていたため、徴召に赴くことができなかった。范陽王虓が征南将軍となり、許昌に駐屯すると、ふたたび嵆含を従事中郎とした。まもなく振威将軍、襄城太守を授けられた。范陽王が劉喬に敗れると、嵆含は襄陽に駐留していた鎮南将軍の劉弘のもとへ逃げたが、劉弘は上賓の礼をもって待遇した。嵆含は博識聡明な気質で、賢才を推薦するのを好み、いつも趙武の諡号を加増し33趙武は春秋・晋の大夫。『史記』趙世家によると諡号は「文子」。趙武が胎児であったときに趙氏は族滅をこうむったが、母子は難を逃れ、のちに趙武は趙氏を再興した。どういう点を嵆含が顕彰したかったのかは不明。、臧文仲の罪を加重したがっていた34臧文仲は春秋・魯の大夫。『論語集解』公冶長篇に引く包氏の注によると名は辰、諡号は文。当時、知者との評判を得ていたらしいが、『論語』公冶長篇や同、衛霊公篇で孔子は彼のことを批判している。とくに衛霊公篇では、臧文仲は柳下恵が賢者であるのを知っていたにもかかわらず推挙しなかった、という批判をしており、本伝がいう「臧文仲の罪」というのもこのことを指しているのであろう。。ちょうど陳敏が乱を起こし、江州と揚州が振動したが、〔乱が波及した〕南越は道中が険しくかつ遠方であった。そのうえ、広州刺史の王毅が病死してしまった。劉弘は上表し、嵆含を平越中郎将、広州刺史、仮節とするよう求めた。出発前に劉弘が卒してしまったため、嵆含を荊州に留め、刺史の任を領させようと望む者がいた。嵆含は短気な性格で、劉弘の司馬の郭勱とはふだんから不仲であった。嵆含が自分の禍になるのではないかと郭勱は疑心を抱いたため、夜に嵆含を襲って殺してしまった。享年四十四。懐帝が即位すると、憲の諡号をおくられた。
王豹
王豹は順陽の人である。若くして剛直であった。最初は豫州の別駕従事になった。斉王冏が大司馬になると、王豹を〔大司馬府の〕主簿とした。斉王が驕慢になってゆき、天下の人心を失っていくと、王豹は書簡を斉王に送って言った。
豹(わたし)はこう聞いています。「王臣が忠誠を尽くすのは主君のためであって、わが身のためではない」(『易』蹇、六二の爻辞)というならば、主君を安んじ、世を静め、社稷を存続させる者であろう、と。このゆえに、人臣でありながらその主君を欺いた場合は、刑罰は誅殺でも足りませんし、人君でありながらその諫臣に逆らった場合は、霊や厲の諡号であっても不十分なのです。伏して考えますに、明公は虚心坦懐になって士人にへりくだり、心を開いて良き進言を受け入れ、誠心がはっきり示されているにもかかわらず、諫言が聴き入れられたことはいまだにありません35諫言は公的な利益のためになされるものであるのに、王はそのことをきちんと理解されていらっしゃらないのではありませんか、という話であろうか。。豹(わたし)が伏して思うに、晋の政治はじょじょに衰退し、元康年間以降、宰相の位に就いた者は一人として終わりをまっとうできていませんが、それはものごとの勢いがそうさせたのであって、不善の行動が毎回あったからではありません。いま、公は禍乱を平定し、国家を安寧にしておきながら、かえってさらに前代における滅亡の方法を踏襲し、中間(少し前)における顚覆の軌跡に倣い、そうすることで長く存続することを願っておられますが、〔そのようなことは〕寡聞にして聞いたことがございません36元康以来の宰相は、不善の行動があったわけではないにもかかわらず悲惨な終わりを迎えてしまったというのに、王は滅亡のきっかけとなるような行動をしているのでかなり不安を覚えます、ということであろうか。。いま、河間王は関西に根を張り、成都王は旧魏に広大な勢力を築き、新野王は長江と漢水の地(荊州を指す)に大きな封国を有しています。三方面の高貴な王は、おのおの勢い盛んであるのに乗じて、みな軍隊を擁し、要害の地に拠っています。〔これら三王に〕くわえて、明公は義軍を起こして反逆者を討ち、功績は天下を覆い、聖なる徳は光り輝き、名声は当世に響いています。いま、褒賞しがたい功績をもって、主君を恐れさせるほどの威権を握り、単独で京師に拠り立ち、一人で大権を振るっていらっしゃるわけですが、〔このようでは〕進んだ場合は高位に昇ったことを後悔し、退いた場合はハマビシが庭に生えるでしょう37原文「退則蒺藜生庭」。ハマビシは果実にトゲがある植物。ハマビシが茂って踏み入れない=人の訪問が絶えて荒廃しているかのようである、という意味らしい。『宋書』巻三二、五行志三、草妖に「義熙中、宮城上御道左右皆生蒺蔾。草妖也。蒺蔾有刺、不可践而行、生宮牆及馳道、天戒若曰、人君拱黙不能聴政、雖居宸極、猶若空宮、雖有御道、未嘗馳騁、皆生蒺蔾若空廃也」とある。。京師で大権を独占するというこのような境遇を希求して安全を望んだところで、そのような境遇が幸福をもたらすとはこれまで聞いたことがありません38原文「冀此求安、未知其福」。やや読みにくく感じる。『周書』巻三三、王悦伝に「君兵糧既寡、救援路絶。欲守、則城池無縈帯之険、欲戦、則士卒有土崩之勢。以此求安、未見其可」と、本文と酷似した文章が見えており、これを参考にして訳出を試みた。。そこで、浅薄な見識ではございますが、あえて愚心を申し上げます。
むかし、武王が殷を討伐し、諸侯を封建すると、二伯を立て〔て周公と召公をそれに充て〕、陝より東は周公が治め、陝より西は召公が治めました39原文「昔武王伐殷、封建諸侯為二伯、自陝以東、周公主之、自陝以西、召公主之」。「封建諸侯」と「為二伯」の間には脱文がありそうだが、さしあたり補語を挿入して文意が通るように試みた。この故事は『史記』燕召公世家「其在成王時、召王為三公、自陝以西、召公主之、自陝以東、周公主之」や、『公羊伝』隠公五年「天子三公者何。天子之相也。天子之相則何以三。自陝而東者、周公主之、自陝而西者、召公主之、一相処乎内」に記されている。『史記』だと「分陝」は成王の時期のごとくだが、本文だと武王の治世からおこなわれていたかのように述べられている。ただし上述したように、本文には誤脱がある可能性が考えられるため、ほんらい王豹が武王時期の故事として語っていたとは断定できない。「陝」は地名で、後漢の何休によれば「蓋今弘農陝県是也」(『公羊伝』隠公五年の注)。前引の『史記』『公羊伝』には周公と召公を「二伯」としたというふうには厳密には記されていないが、『漢書』王莽伝中に「時子尋為侍中京兆大尹茂徳侯、即作符命、言新室当分陝、立二伯、以豊為右伯、太傅平晏為左伯、如周召故事」とあり、おそらくは前漢代において、「分陝」の故事と『礼記』王制篇の「八伯各以其属、属於天子之老二人、分天下以為左右、曰二伯」という記述とが紐づけられて理解されるようになったのだろうと思う。なお、この『礼記』の記述によれば、「二伯」とは方伯が帰属するところの存在であり、「州伯者、何謂也。伯、長也」(『白虎通疏証』封公侯、設牧伯)とあるのも考慮すれば、「東西の諸侯の領袖」という立場なのだろう。。周の末世になると、覇者の時代になり、〔周は〕数州ほどの領域にすぎませんでしたが、四海の強大な軍を擁する諸侯は進入して天子の位を奪おうとしませんでした。そのようであったのは、戴くべきものの所在を天下がよく知っていたからです40原文「所以然者、天下習於所奉故也」。どういう論理で「分陝」の故事が正当化されているのか、よくわからない。訳者に読み間違いがあるのかもしれない。。いま、もし周の手法を重視して採用し、成都王を北州の伯として河北の王侯を統べさせ、明公は南州の伯となって南方の官長を治め、〔明公と成都王の〕各自が本官の職務に従いつつ41原文「各因本職」。よくわからない。中央の官職を帯びたまま、という意味か。このあとの注も参照。、各方面に出て居留し42原文「出居其方」。『三国志』武帝紀、建安十八年五月の条に載せる献帝の詔に「昔在周室、畢公・毛公入為卿佐、周・邵師保出為二伯、外内之任、君実宜之、其以丞相領冀州牧如故」とあり、「分陝」のさい、周公と召公は三公の位を保持したまま外に出て二伯になったと述べられており、本文で「出」と言われているのも、かかる故事認識にもとづくものと思われる。、徳を外に樹立し、忠を内に尽くし、毎年の歳末に統率下を引き連れて朝廷に貢納し、秀才を選抜し、賢人を任命して天子の百官とするようにしましたら、四海は長く安寧になり、万国はおおいに幸福となり、明公の徳は周公や召公と同一に置かれてこのうえない賛美を享受するであろうことはまちがいなく、滅亡へいたる道はふさがり、社稷は保たれることでしょう。明公に願わくは、高祖が婁敬の策を採用し43婁敬は劉敬のこと。『史記』巻九九に立伝。ここで言われている故事は、高祖五年に劉敬が長安を都とするよう高祖に勧めたときのこと。群臣の異論が多かったが、張良が賛同したため、高祖は劉敬の献策を採用したという。劉敬の言葉に「そもそももとの秦の地域は山にかこまれ河をめぐらし、四方が防壁で堅固であり、突如として異変がおこっても、そこで百万の軍勢をととのえられるのです。……陛下が関(函谷関)をはいってあの関中の地に都をさだめられますならば、山東の地に戦乱がおきましょうとも、あの秦のもとの領地だけは安全に保てます」([小川・今鷹・福島一九七五]一三一―一三二頁)とあるように、安全を確保するための計画であったとされる。ここで劉敬のこの故事が言及されているのも、王豹が自分の献策を指して「安全を得るためのものだ」と言いたいからであろう。、張良の足ふみの謀略で目が覚めた故事44『史記』巻九二、淮陰侯列伝に記されている話。高祖四年、斉を平定した韓信は高祖へ使者を派遣し、自分を仮の斉王にしてほしいと要望した。しかしこのとき、高祖は楚軍の厳しい攻囲を受けていたので、援軍をよこすどころか王を要求する韓信の要望に腹を立て、使者を怒鳴りつけた。すると張良と陳平が高祖の足を踏み、韓信を優遇しておかないと事変が起こるだろうと耳もとでささやいた。高祖はこの言葉で気がつき、ふたたび使者を怒鳴りつけ、韓信には仮の王ではなく真王がふさわしいと言ったのだという。王豹がこの故事を引いているのは、やはり自分の献策を指して「危険を回避するためのものだ」と言うためであろう。についてご思念し、深淵に臨むかのような危険を遠ざけ、泰山のごとき安泰を保たれますように。もしご聖思に合致するようでしたら、宛か許昌が都にふさわしいでしょう45原文「宛許可都也」。洛陽からの遷都を勧めているのではなく、南伯の都に宛か許昌を挙げているものと思われる。。
書簡は斉王の手元に届けられたが、返事はなかった。王豹は繰り返し書簡を送って言った。
豹(わたし)の書簡が進呈されて46原文「書御」。『後漢書』張晧伝「書御」の李賢注に「御、進也」とあるのに拠った。十二日になりますが、聖旨は高遠で、まだご審査いただけておらず、一文字のご命令も賜わっていませんし、可否のご判断を承(うけたまわ)ってもいません。考えますに、覇王の神宝47原文まま。文字どおり「神聖な宝物」の意で、すごく大事な物ということ。「神器」を天子の位の比喩に用いるごとく、覇王にとってすごく大事な宝物=覇王の地位、という意味か。や安危を決する秘術というのは、わずかな間でもおろそかにしてはならないものです。伏して思いますに、明公は大功をわきはさみ、大名をかかえ、大徳をいだき、大権を握っていますが、この四つの大きなもの〔をすべて兼ね備えるの〕は、天下が容認できないことであり、ゆえに賢者や聖人は戦々兢々とし、昼でも食事を取るヒマがないほどに忙しく働き、良いと称えられても良いとは思わなかったのです。むかし、周公は兄として武王を、主君として成王をもち、紂王の征伐に功績をあげ、親族の立場をもって輔政し、徳を固守して広大で、聖恩はあまねくゆきわたり、至忠至仁、至孝至親でございました。ところが、摂政することになると、四国で流言が広がったため、主君のもとを離れて出奔し、東に三年おりました。幸いにも風雨の異変が起こりましたので、成王は過ちに気づいたのです48「金縢」にまつわる逸話のことだと思われる。武王が崩じて周公が摂政することになると、管叔らが周公を中傷する流言を広めたので、周公は東に出奔した。のち、天の異変が起きるようになった。そのようなときに、かつて周公が武王の病気快癒を祈願した文書が金縢に収められているのを成王は知り、金縢を開いてその文書を読み、周公の忠誠がまことのものであるのに気づいて泣き、周公の徳を顕彰したところ、異変は止んだという。以上はおもに『尚書』金縢篇に拠りつつ簡略にまとめたもの。この逸話は『史記』魯周公世家にも見え、顔師古の『漢書』注にも簡潔に解説されている(とくに五行志下之下)。ただし、史料間で金縢を開いた時期(周公生前か没後か)、金縢を開いたあとの成王の対応(周公を呼び戻したか周公を改葬?したか)など、異同も目立つ。王豹がどのようなプロットの物語をここで引いているのかは定かではないので、無難な訳語表現を採った。。かりに皇天の感応や神人の観察49原文「神人之察」。「神人」はふつう、「神と人」を指すが、ここではたんに神を意味するか。に遭わなければ、おそらく、周公に降りかかったであろう禍は限りを知らないものとなっていたことでしょう。〔周公の〕摂政についても、〔周公でさえ〕なお召公と陝を境界とし、伯となったのでした50つまり、周公でさえも朝政の権力を独占したりはしなかった、と言いたいのだと思われる。これまで述べてきたことと合わせれば、周公のような人格者であっても朝政を補佐していることに批判が向けられ、災難をこうむったのだ、と説きたいのであろう。。いま、明公はご自身の功績や徳を周公と比べてみていかがかとお思いでしょうか。くわえて、元康年間以来、宰相に降りかかる禍というのは、潜在していた危機がひそかに発動し、予想だにできないものであり、伏在していた災禍が隠れて生起し、いつも一息つく間(ま)のことでした。どうしてのんびりとしながら生をまっとうできる計画を得られましょうか。過去の訓戒は遠いむかしのことではなく、公みずからがご覧になられています。君子たるもの、遠い先への配慮をしなければ、必ず近い先に憂慮が生じる、と申します51原文「君子不有遠慮、必有近憂」。『論語』衛霊公篇「人無遠慮、必有近憂」にもとづく言い方で、『論語集解』に引く王粛の注に「君子当思患而預防之」とあり、思慮して禍を事前に防ぐ、という意味の言葉として解されていたらしい。。憂慮が生じてからようやく気づくのですが、そうなってからでは悔いても詮方ありません。
いま、もし豹(わたし)のこの策を採用してくださるのでしたら(2021/4/23:訳文修正)、〔宗室を〕みな封国へ帰し、北は成都王に委ね、黄河を境界として〔明公と成都王とが南北の〕伯となり、成都王は鄴に滞在し、明公は宛に都を置き、千里四方の地(王畿)を広々とさせ、そして畿内の侯、伯、子、男とは、小国(伯子男)も大国(侯)もことごとく52原文「寛方千里、以与圻内侯伯子男小大相率」。読めない。和刻本は「寛方千里、以(もって)圻内ノ侯伯子男与(と)、小大相率ヒ」と読んでおり、おそらく中華書局の標点も同様の読み方をしているものと思われる。基本的にこの読み方に従って訳出を試みた。まず「寛方千里」についてだが、「方千里」は古制における王畿の広さとされている。「寛」はよくわからないが、前文をふまえると、洛陽(王畿)から諸王侯を出したあとの畿内のさまを「寛」(ゆとりがある)と言っているのではないかと想像した。王畿の外の諸侯は南北の伯が統べることになるわけなので、畿内に封国がある諸侯とは別途に盟約を結んだということなのだろうと解釈して読んでみたが、典故になるような経典の記述も見つけられなかったので、ひじょうに自信はない。、友好を結び、盟を誓い、協力して帝室をお支えなさいますように。貢納の法はすべて周の典範に倣いますよう53おそらく『周礼』秋官大行人に見える制のこと。王畿からの距離に応じて異なる礼物を貢献していたという。「邦畿方千里。其外方五百里、謂之侯服、歳壱見、其貢祀物。又其外方五百里、謂之甸服、二歳壱見、其貢嬪物。又其外方五百里、謂之男服、三歳壱見、其貢器物。又其外方五百里、謂之采服、四歳壱見、其貢服物。又其外方五百里、謂之衛服、五歳壱見、其貢材物。又其外方五百里、謂之要服、六歳壱見、其貢貨物」とある。。もし聖規と合致するようでしたら、まず成都王に書信をお送りし、協議なさるのがよいでしょう。〔そのさい、豹は〕小才ではございますが、行人(使者)を務めたく存じます。むかし、厮養の卒徒は燕趙の卑賤な者にすぎず54『史記』張耳陳余列伝に見える話だと思われる。「厮養」については、『史記集解』張耳陳余列伝に引く如淳の『漢書』注に「廝、賤者也」とあり、同、韋昭の『漢書』注に「析薪為廝、炊烹為養」とある。詳しい意義はわからないが、身分の低い下働きの者とおおまかに捉えておいてよいであろう。趙王が燕に捕えらえたとき、燕は趙に対し、趙王解放の見返りに領土の割譲を要求した。趙が使者を派遣しても、そのたびに殺され、変わらず土地を要求するため、張耳らは頭を抱えていた。すると、ある厮養の卒徒が、趙王のために燕へ出かけると告げて燕へ向かった。彼は趙王を捕えていた燕の将に面会し、うまく言いくるめて趙王の解放に成功した。本文で引いているのはおそらくこの逸話である。、百里奚は秦楚の商人でしたが、ひとたび言論を開陳するや、両国(趙と秦)は安泰になったのでした。まして豹(わたし)は暗愚とはいえ、大州の綱紀55「綱紀」は要職の意。ここでは具体的に(豫州の)別駕従事を指す。を務めたことがあり、さらに明公が起義して困難にあたったさいの主簿です。ゆえに、身分は低いとはいえ、必ずしも却下するべき言葉ではないと思います。
斉王は令を下して言った、「前後で進言を得たが、意を尽くしているので、ただちに別途、検討することにしよう」。
ちょうど長沙王乂が〔斉王を〕訪問してきたが、斉王の机の上に置かれていた王豹の書簡を目にすると、斉王に言った、「小子(こわっぱ)が骨肉を離間させようとしているというのに、どうして銅駝56銅駝は銅製のラクダ像のこと。曹魏の明帝が洛陽宮南面の閶闔門付近に設置したという。『水経注』巻一六、穀水注に「渠水又枝分、夾路南出、径太尉・司徒両坊間、謂之銅駝街。旧魏明帝置銅駝諸獣于閶闔南街。陸機云、『駝高九尺、脊出太尉坊者也』」とある。のそばで打ち殺さないのですか」。斉王は王豹の献策を評価できなかったうえ、とうとう長沙王の言葉を受け入れ、王豹の件を上奏した、「臣は、悪人が暴虐をほしいままにし、皇運が墜落したことに憤りを覚えましたため、成都王、長沙王、新野王と共同で義兵を起こし、社稷を回復しましたが、それは皇室のために力を合わせ、親親たる宗室と心の底から信頼しあって仕事をしようとしただけです。このことは、臣が日夜にわたってみずから誓っていることであり、けっして神に偽りはありません。ところが、主簿の王豹は最近に進言してきたのですが、あえて邪悪な考えをこしらえ、こんなことを申しています。臣がかたじけなくも宰相に就いていれば、きっと危険な目に遭うであろう、憂慮すべき事態はにわかに起こるもので、不吉の知らせはすぐにも届くであろう、と。臣と成都王とで分陝させ、藩国の王をすべて就国させようと望んでいます。上は聖朝のご聖識という御威光をあざむき、下は惑乱を助長するもので、人々の心に疑惑を抱かせて萎えさせてしまい、まさに『おしゃべりしあっていたけれど、背を向けたら憎しみあう』(『毛詩』小雅、十月之交)というやつで、巧妙に両端を〔双方に〕売り渡し57原文「巧売両端」。「両端」は「反対の二つのもの」のことで、「持両端」「挟両端」のように使われ、「どちらの陣営に付くか決めあぐねている」「どちらの陣営にも付かないがどちらにも通じている」という言い方を取るためによく用いられる語である。本文は『宋書』巻七二、文九王伝・建平宣簡王宏伝附景素伝「桂陽王休範為逆、景素雖纂集兵衆、以赴朝廷為名、而陰懐両端」の用例に見られるような、「片方の陣営に付いているが、場合によっては相手の陣営に付く」という意味あいに近いように思われる。すなわち、本文が言う「両端」の立場は斉王側と反斉王側の二つを指し、王豹はどちらの側とも親しく「おしゃべり」している一方で、かげでは相手の悪口や情報を片方に流している、と言いたいのではないかと思う。このように、情勢がどう転んでも自分に都合のよいように図るさまを「巧売」と表現しているのではないだろうか。、上を誹謗し、下をそしり、内の人を讒言し、外の者を離間し、悪事をたくらみ、姦計を指導し、労さずして猜疑を起こそうとしています。むかし、孔丘が魯を輔佐すると、すぐに少正卯を誅殺し58『荀子』宥坐篇に「孔子為魯摂相、朝七日而誅少正卯」とある。魯の国政を乱したと責められている。『史記』孔子世家も参照。、子産が鄭の宰相になると、まっさきに鄧析を処刑しました59『荀子』宥坐篇に「子産誅鄧析・史付」とある。鄧析は名家として著名。なお『左伝』では子産が誅殺したとは記されていない。『漢書』芸文志、諸子略、名家の顔師古注に「列子及孫卿並云子産殺鄧析。拠左伝、昭公二十年子産卒、定公九年駟歂殺鄧析而用其竹刑、則非子産所殺也」とある。。まことに思いますに、名と実を乱すこと、趙高がたぶらかしたような類いです60趙高が秦の二世皇帝に「馬です」と言って鹿を献上した、という著名な故事であろう。。王豹は臣として不忠、不順、不義ですから、即座に都街61原文まま。まちなか、大通りといった意味だが、それだと通じない。文脈からすると司隷校尉を指すと考えるのがよさそうで、だとすれば「都官」が正しいのかもしれない。に勅を下して尋問し、悪と正義を明らかになさいますよう」。王豹は死の直前に言った、「私の首を大司馬府の門に吊るしてくれたまえ。兵が斉王を攻めるのを見ようではないか」。庶民は王豹を冤罪だと思った。まもなく斉王は敗亡した。
序/嵆紹(附:嵆含)・王豹/劉沈・麹允(附:焦嵩)/賈渾・王育・韋忠・辛勉・劉敏元・周該・桓雄・韓階・周崎・易雄・楽道融・虞悝・沈勁・吉挹・王諒・宋矩・車済・丁穆・辛恭靖・羅企生・張禕
(2021/4/15:公開)