巻八十九 列伝第五十九 忠義(3)劉沈 麹允

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序/嵆紹(附:嵆含)・王豹劉沈・麹允(附:焦嵩)/賈渾・王育・韋忠・辛勉・劉敏元・周該・桓雄・韓階・周崎・易雄・楽道融・虞悝・沈勁・吉挹・王諒・宋矩・車済・丁穆・辛恭靖・羅企生・張禕

劉沈

 劉沈は字を道真といい、燕国の薊の人である。代々、北州(北中国)の名族であった。若くして州郡に仕え、博学でいにしえの事柄を好んでいた。太保の衛瓘が掾に辟召し、本邑(燕国)の大中正を領した。儒道を重んじ、賢者や才人を大切にした。霍原を郷品二品に推薦し、また張華〔の官爵回復の議が起こったときは、彼〕の無罪を弁護したが、どちらの文章も明快かつ厳格で、当時の人々から称賛された。
 斉王冏が輔政すると、左長史に召し、〔ついで〕侍中に移った。このころ、李流が蜀で騒動を起こしたので、劉沈に詔が下り、侍中をもって仮節とし、益州刺史の羅尚、梁州刺史の許雄らを統率させ、李流を討伐させた。進発して長安に駐留すると、河間王顒が劉沈を留めて〔自分の府の〕軍司とし、席薳を代わりに派遣したいと願い出〔て、聴き入れられ〕た。のち、雍州刺史を領した。張昌が乱を起こすと、河間王に詔が下り、劉沈に州兵一万人、征西府の五千人を統率させて派遣し、藍田関から進ませて張昌を討伐させるよう命じたが、河間王は詔に従わなかった。〔しかし〕劉沈はみずから州兵を率いて藍田に着いたが、河間王はその兵士を強制的に取りあげた。長沙王乂は劉沈に命令を下し、武吏四百人を率いさせて雍州へ帰還させた。
 張方が〔長沙王を攻めるために進軍し、〕京師に近づくと、王師はたびたび敗北した。王瑚と祖逖は長沙王に言った、「劉沈は忠義をそなえ、果断な人間で、雍州の兵力は河間王を制圧するのに十分でしょう。主上(恵帝)に啓して、劉沈に詔を下し、兵を起こして河間王を襲撃させる命令を下すよう、お勧めなさるのがよいと存じます。河間王は窮地に陥れば、きっと張方を呼び戻して自分を救援させるでしょう。これが良策です」。長沙王はこれを聴き入れた。劉沈は〔河間王討伐の〕詔を奉じ、檄を雍州じゅうに伝え、七郡の兵、守防諸軍(不詳。辺郡の辺塞兵?)、塢壁の兵士(不詳。内郡の拠点兵?)のべ一万余人を集め、安定太守の衛博、新平太守の張光、安定の功曹の皇甫澹を先鋒とし、長安を襲撃した。河間王はこのとき、鄭県の高平亭に駐屯し、東軍(張方軍)の声援(遠方から支援すること)となっていたが、劉沈の兵が決起したことを知ると、引き返して渭城に駐屯し、督護の虞夔を派遣し、歩騎一万余人を統率させ、劉沈を好畤で迎撃させた。交戦したが、虞夔軍は敗北したため、河間王はおおいに不安になり、撤退して長安に入ると、〔長沙王らの〕意図したとおり、急いで張方を呼び戻した。劉沈は渭水を渡ると軍塁を築いた。河間王は兵を繰り出し、〔劉沈の軍塁を〕攻めさせたが、そのたびに落とせなかった。劉沈は勝利に乗じて河間王軍を攻め、皇甫澹と衛博に精兵五千を統率させて長安門から〔長安に?〕入らせ、〔皇甫澹らは〕奮戦して河間王の帳のそばまで来た。〔しかし〕劉沈の率いる軍は到着が遅れており、河間王軍は皇甫澹らの後続軍がいないことを見て取ると、士気が高まったのであった。馮翊太守の張輔が軍を率いて河間王を救援し、不意に皇甫澹らを攻め、〔河間王の〕府の門でおおいに戦った。衛博父子はともに戦死し、皇甫澹も捕えられた。河間王は皇甫澹の勇壮を評価し、生かそうとしたが、皇甫澹は河間王に屈さなかったので、殺されてしまった。劉沈軍は最終的に敗北し、〔劉沈は〕敗残兵を率いてもとの軍営(たぶん渭水付近の軍塁を指す)に駐屯した。張方が将の敦偉を派遣し、夜に〔劉沈の軍塁に〕到来させると、劉沈軍はおおいに驚いて潰走し、〔劉沈は〕麾下の百余人とともに南へ逃げたが、陳倉令に捕えられた。劉沈は河間王に言った、「そもそも知己への配慮は軽く、三者(君、父、師)への節義は重いものです。君父の詔に逆らうべきではないですし、強弱を推し比べて命をまっとうするべきでもありません1義の所在を軽んじ、強い方に味方することで安全を得ようとするのはまちがっている、という意味。。袂を払って決起したとき、死は覚悟してあります。誅戮をこうむって塩漬けにされようと、ナヅナのように甘く味わえましょう2原文「葅醢之戮、甘之如薺」。『毛詩』邙風、谷風「誰謂荼苦、其甘如薺」が出典。自分がこうむっている害毒と比べれば、苦いと言われている荼(ニガナ)も、薺(ナヅナ)のように甘いものだ、という意味であるらしい。毛伝に「荼、苦菜也」とあり、鄭箋に「荼誠苦矣。而君子於己之苦毒、又甚於荼、比方之荼、則甘如薺」とある。殺されようとも、それはたいして苦に思わない、という趣旨でこのように発言しているのだと思われる。」。言葉は意気がこもっており、様子を眺めていた者は彼のことを憐れんだ。河間王は怒り、鞭うちを加えたあとで腰斬に処した。有識者はこう考えたという。河間王は主上に逆らい、従順にもとり、忠義の人を殺したから、その滅亡は遠くないことがわかる、と。

麹允(附:焦嵩)

 麹允は金城の人である。游氏とならんで代々の豪族であった。西州(西中国)では二氏のことをこう言っていた、「麹と游の家は、牛と羊をいちいち数えない。南には朱門3赤塗りの門のこと。転じて富豪・高貴の家を比喩するらしい。『世説新語』言語篇、第四八章の[川勝ほか一九六四]訳注(六四頁)を参照。がそなわり、北には青楼4青塗りの高層の楼台のことで、やはり転じて富豪の家を言うか。『文選』巻二七、曹子建「楽府四首」美女篇に「青楼臨大路、高門結重関」とあり、李善注に「列子曰、虞氏、梁之富人、高楼臨大路」とあり、[川合ほか二〇一八B]は「青く漆を塗った豪華な建物」と注している(四〇五頁)。がそびえる」。
 洛陽が転覆すると、閻鼎らは秦王鄴を長安で皇太子に立て、閻鼎が百揆を統べた。このとき、麹允は安夷護軍、始平太守であったが、心中では閻鼎の功績をねたましく思い、かつ権力の掌握をねらっていた。〔そこで〕閻鼎が京兆太守の梁綜を殺した件を利用し、梁綜の弟である馮翊太守の梁緯らと共同で閻鼎を攻め、これを敗走させた。〔さらに〕ちょうど雍州刺史の賈疋が屠各に殺されたので、麹允が代わって雍州刺史になった。
 愍帝が帝位につくと、麹允を尚書左僕射、領軍将軍、持節、西戎校尉、録尚書事とし、雍州刺史はもとのとおりとした。このころ、劉曜、殷凱、趙染の数万の軍が長安に迫ってきたが、麹允はこれを撃破し、殷凱を陣中で捕えた5おそらく愍帝紀、建興二年七月の条に記される戦い。劉聡載記の時系列だと、これ以前にも一度長安付近まで劉曜らが攻め込んでいたようであり、麹允は黄白城に拠って抗戦し、撃退したという。。劉曜はさらに北地を攻めてきたので、麹允は大都督、驃騎将軍となり、青白城に駐屯して北地を救援しようとした6愍帝紀、建興三年九―十月の条の記述とおそらく同じ。建興二年七月の戦いののち、劉聡載記によると、記述にやや不明確なところはあるものの、劉曜はいったん関中から撤収し、このときになってふたたび襲来したものと思われる。劉曜は北地への道中、手始めに馮翊を落としたようである。愍帝紀、建興三年十月の条に「劉聡陥馮翊、太守梁粛奔万年」とあり、劉聡載記に「劉曜又進軍、屯于粟邑」(粟邑は馮翊の属県)とある。。劉曜はこれを知ると、転進して上郡を侵略した7愍帝紀、建興四年四月の条と同じか。『資治通鑑』は北地侵略(馮翊陥落)に次いで上郡に侵略したとして、そのまま建興三年にかけている。。麹允は霊武に駐屯したが、兵が脆弱であったため進もうとしなかった8劉聡載記には「麹允饑甚、去黄白而軍于霊武」とあり、食糧不足で退いたようである。。劉曜はその後、ふたたび北地を包囲した。北地太守の麹昌は〔麹允へ〕使者をつかわして救援を求めたので、麹允は歩騎を率いて駆けつけた。北地城を去ること数十里のところで、賊(劉曜軍)は城の周りに火を焚き、その煙や粉塵は天をおおうほどであった。そして反間(スパイ)を放って麹允にウソを言わせた、「郡城(北地城)はもう陥落しました。火をつけられ、たったいま燃え尽きました。間に合いません」。麹允はこれを信じ、兵士は恐懼して潰走した9おそらくこのときのこととして、劉聡載記には「麹允与劉曜戦于磻石谷、王師敗績、允奔霊武」とあり、交戦していたようである。。数日後、麹昌は包囲を突破して長安へ向かった。とうとう北地は陥落した10愍帝紀、建興四年七月の条。
 麹允は慈愛深い性格であったが、威厳と決断力がなかった。呉皮や王隠のような連中は無頼の悪人であったが、みな高い爵を加えられた。新平太守の竺恢、始平太守の楊像、扶風太守の竺爽、安定太守の焦嵩は、みな征鎮(四征四鎮将軍号?)とされ、節を授けられ、侍中や散騎常侍を加えられた。村塢の主帥(リーダー)は、小さな者でさえ、銀青将軍号11銀章青綬の将軍号のことで、言い換えると官品四品の将軍号を指す。を授けられた。〔このようにして〕人心を得ようとしたのである。しかし諸将は驕ってわがままで、〔麹允の〕恩恵は下々まで行き届かず、人心はひどく離れていった。こうして、羌胡がこれに乗じて跋扈し、関中は混乱に陥った。劉曜は〔北地を破ると〕さらに長安を攻め〔て包囲し〕た12愍帝紀、建興四年八月の条。同条によれば麹允は長安小城にこもったという。。〔長安城内の〕百姓の飢えはひどく、死者が多数にのぼった。しばらく経ち、城中は困窮したため、愍帝は城から出て降ることにした。そのさい、嘆息して言った、「わが事業を誤らせたのは、麹允と索琳の二公だ」。愍帝は平陽に着くと、劉聡に幽閉されて辱めを受けた。麹允は地面に伏せて号哭し、立ち上がれないほどであった。劉聡はおおいに怒り、麹允を獄に閉じこめると、麹允は発憤して自殺した。劉聡はその忠烈を嘉し、車騎将軍を追贈し、節愍侯と諡号をおくった。

〔焦嵩〕

 焦嵩は安定の人である。当初、人々を率いて雍県に拠っていた。劉曜が京師(長安)に迫ったとき、麹允は国難を焦嵩に知らせたが、焦嵩はふだんから麹允を軽視していたので、「允のやつが本当に困るのを待ってから助けてやろう」と言った。京師が陥落すると、焦嵩もまもなく賊(劉曜)に滅ぼされた。

序/嵆紹(附:嵆含)・王豹劉沈・麹允(附:焦嵩)/賈渾・王育・韋忠・辛勉・劉敏元・周該・桓雄・韓階・周崎・易雄・楽道融・虞悝・沈勁・吉挹・王諒・宋矩・車済・丁穆・辛恭靖・羅企生・張禕

(2021/4/15:公開)

  • 1
    義の所在を軽んじ、強い方に味方することで安全を得ようとするのはまちがっている、という意味。
  • 2
    原文「葅醢之戮、甘之如薺」。『毛詩』邙風、谷風「誰謂荼苦、其甘如薺」が出典。自分がこうむっている害毒と比べれば、苦いと言われている荼(ニガナ)も、薺(ナヅナ)のように甘いものだ、という意味であるらしい。毛伝に「荼、苦菜也」とあり、鄭箋に「荼誠苦矣。而君子於己之苦毒、又甚於荼、比方之荼、則甘如薺」とある。殺されようとも、それはたいして苦に思わない、という趣旨でこのように発言しているのだと思われる。
  • 3
    赤塗りの門のこと。転じて富豪・高貴の家を比喩するらしい。『世説新語』言語篇、第四八章の[川勝ほか一九六四]訳注(六四頁)を参照。
  • 4
    青塗りの高層の楼台のことで、やはり転じて富豪の家を言うか。『文選』巻二七、曹子建「楽府四首」美女篇に「青楼臨大路、高門結重関」とあり、李善注に「列子曰、虞氏、梁之富人、高楼臨大路」とあり、[川合ほか二〇一八B]は「青く漆を塗った豪華な建物」と注している(四〇五頁)。
  • 5
    おそらく愍帝紀、建興二年七月の条に記される戦い。劉聡載記の時系列だと、これ以前にも一度長安付近まで劉曜らが攻め込んでいたようであり、麹允は黄白城に拠って抗戦し、撃退したという。
  • 6
    愍帝紀、建興三年九―十月の条の記述とおそらく同じ。建興二年七月の戦いののち、劉聡載記によると、記述にやや不明確なところはあるものの、劉曜はいったん関中から撤収し、このときになってふたたび襲来したものと思われる。劉曜は北地への道中、手始めに馮翊を落としたようである。愍帝紀、建興三年十月の条に「劉聡陥馮翊、太守梁粛奔万年」とあり、劉聡載記に「劉曜又進軍、屯于粟邑」(粟邑は馮翊の属県)とある。
  • 7
    愍帝紀、建興四年四月の条と同じか。『資治通鑑』は北地侵略(馮翊陥落)に次いで上郡に侵略したとして、そのまま建興三年にかけている。
  • 8
    劉聡載記には「麹允饑甚、去黄白而軍于霊武」とあり、食糧不足で退いたようである。
  • 9
    おそらくこのときのこととして、劉聡載記には「麹允与劉曜戦于磻石谷、王師敗績、允奔霊武」とあり、交戦していたようである。
  • 10
    愍帝紀、建興四年七月の条。
  • 11
    銀章青綬の将軍号のことで、言い換えると官品四品の将軍号を指す。
  • 12
    愍帝紀、建興四年八月の条。同条によれば麹允は長安小城にこもったという。
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