巻七 帝紀第七 成帝 康帝

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系図西晋元帝(1)元帝(2)明帝成帝・康帝穆帝哀帝海西公簡文帝孝武帝安帝恭帝

 目 次

成帝

 成皇帝は諱を衍、字を世根といい、明帝の長子である。太寧三年三月戊辰、皇太子に立てられた。閏月戊子、明帝が崩じた。己丑、太子が皇帝の位についた。大赦し、文武の官の位を二等加増し、配偶者がいない高齢の男女、親がいない幼子、子がいない老人に帛を賜い、一人につき二匹を下賜した。〔明帝の〕皇后の庾氏を尊んで皇太后とした。
 秋九月癸卯、皇太后が臨朝し、称制した1称制は「称制詔」(『漢書』巻三、高后紀、顔師古注)。皇帝の政務を代行して決裁すること。。司徒の王導が録尚書事となり、中書令の庾亮とともに朝政に参与して補佐した。撫軍将軍の南頓王宗を驃騎将軍とし、領軍将軍の汝南王祐を衛将軍とした。辛丑、明帝を武平陵に埋葬した。
 冬十一月癸巳朔、日蝕があった。広陵相の曹渾が罪を犯したので、獄に下し、〔そのまま獄中で〕死んだ。

 咸和元年二月丁亥、大赦し、改元し、五日間の酒盛りを賜い、配偶者がいない高齢の男女、親がいない幼子、子がいない老人に米を賜い、一人につき二斛を下賜し、京師の百里以内は一年免税した。
 夏四月、石勒が将の石生を派遣し、汝南を侵略させると、汝南の民は汝南内史の祖済を捕えて〔晋に〕そむいた。甲子、尚書左僕射の鄧攸が卒した。
 五月、洪水があった。
 六月癸亥、使持節、散騎常侍、監淮北諸軍事、北中郎将、徐州刺史、泉陵公の劉遐が卒した。癸酉、車騎将軍の郗鑑を領徐州刺史とし、征虜将軍の郭黙を北中郎将、仮節、監淮北諸軍2「事」字がないのは原文まま。とした。劉遐の部曲の将である李龍と史迭は、劉遐の子の劉肇を推戴し、劉遐の位を継がせ、郭黙を拒もうとしたが、臨淮太守の劉矯がこれを攻めて破り、李龍を斬って、首を京師に送った。
 秋七月癸丑、使持節、都督江州諸軍事、江州刺史、平南将軍、観陽伯の応詹が卒した。
 八月、給事中、前将軍、丹陽尹の温嶠を平南将軍、仮節、都督〔江州諸軍事〕、江州刺史とした。
 九月、旱魃があった。李雄の将の張龍が涪陵を侵略し、涪陵太守の謝俊を捕えた。
 冬十月、魏の武帝の玄孫である曹勱を陳留王に封じ、魏を継がせた。丙寅、衛将軍の汝南王祐が薨じた。己巳、皇弟の岳を呉王に封じた。車騎将軍の南頓王宗が罪を犯したので、誅殺された。その一族を貶めて〔姓を〕馬氏とした3巻五九、汝南王亮伝附宗伝によれば、「謀反」を弾劾されている。そのさい、南頓王は捕縛に来た右衛将軍と兵を構えて抵抗したが、味方に裏切られて殺されてしまった。列伝には「謀反」の具体的内容は記されていないが、『建康実録』巻七、顕宗成皇帝、咸和元年十月に「庾亮誣南頓王宗陰与蘇峻謀叛」とあり、蘇峻と結託して謀叛をたくらんでいたと糾弾されたらしい。南頓王はもともと王導、庾亮らとは関係が悪かったとされる。。〔連座によって〕太宰の西陽王羕を罷免し、弋陽県王に降格させた4西陽王は南頓王の兄に当たる。巻五九、汝南王亮伝附羕伝には「咸和初、坐弟南頓王宗免官、降為弋陽県王」とあるのみで、詳しい事情はわからない。。庚辰、〔京師の〕百里以内の五歳刑以下の罪人を赦免した。この月、劉曜の将の黄秀と帛成が鄼を侵略した。平北将軍の魏該は集団を率いて襄陽へ逃げた。
 十一月壬子、南郊でおおいに閲兵した。王侯の国の秩俸を改定し、〔食邑の編戸が供出する租調のうち、王侯に配分する比率を〕九分の一とした5原文「改定王侯国秩、九分食一」。西晋時代の諸侯の俸秩にかんしては越智重明氏[一九六三]第二篇第四章、藤家礼之助氏[一九八九]第二章第三節の考察がある。越智氏は、食邑の各戸から本来の税率に従って徴発した租調のうち、一定の割合を俸秩として諸侯に割き、残りは官に納入すると理解している。つまり「九分の一」などの比率は各戸の供出した租調に適用されるものとする。藤家氏は、食邑のうち一定の割合の戸が供出する租調をすべて諸侯の俸秩に充てるとする。すなわち、「九分の一」などの比率は食邑に適用されるとする。どちらを妥当とすべきか判断できないが、今回は越智説に従って訳出した。
 また比率にかんして、越智説だと西晋=三分の一、元帝太興元年=九分の一制が導入され、三分の一と九分の一が並置、咸康元年(本文)=すべて九分の一に改定、とする。藤家説では、西晋の江南諸国=三分の一、西晋の江南以外の諸国=九分の一か十分の一、元帝太興元年=江南諸国が九分の一に改定、とし、本文の咸康元年には言及していない。これもどちらが妥当であるか判断つかないが、ともかく九分の一に改めたということで訳文では踏み込まなかった。

 石勒の将の石聡が寿陽を攻めたが、落とせず、そのまま逡遒と阜陵に侵攻した。司徒の王導に大司馬、仮黄鉞、都督中外征討諸軍事を加え、石聡を防がせた。歴陽太守の蘇峻が将の韓晃を派遣し、石聡を討伐させると、〔韓晃は〕これを敗走させた。
 この当時、甚大な旱魃があり、六月からこの月まで雨が降らなかった。
 十二月、済㟭太守の劉闓が下邳内史の夏侯嘉を殺し、そむいて石勒に降った。梁王翹が薨じた。

 咸和二年春正月、寧州の秀才の龐遺が義軍を挙げ、李雄の将の任回や李謙らを攻めたので、李雄は将の羅恒と費黒を派遣し、任回らを救援させた。寧州刺史の尹奉は裨将の姚岳と朱提太守の楊術を派遣し、龐遺を救援させた。〔李雄軍と〕台登で戦ったが、姚岳らは敗北し、楊術は戦死した。
 三月、益州で地震があった。
 夏四月、旱魃があった。己未、豫章で地震があった。
 五月甲申朔、日蝕があった。丙戌、豫州刺史の祖約に鎮西将軍を加えた。戊子、京師で洪水があった。
 冬十月、劉曜は子の劉胤を枹罕に侵攻させ、とうとう河南の地を奪い取った6原文「遂略河南地」。枹罕は隴西方面の県で、『中国歴史地図集』東漢版で確認すると、黄河の南に位置する。ここの「河南」はオルドスや洛陽近辺を指すのではなく、西方の河源に近いほうの黄河以南を指すのであろう。
 十一月、豫州刺史の祖約、歴陽太守の蘇峻らがそむいた。
 十二月辛亥、蘇峻が将の韓晃を姑孰に侵入させ、于湖を破壊し、殺戮した。壬子、彭城王雄と章武王休がそむき、蘇峻のもとへ逃げた。庚申、京師は戒厳した。護軍将軍の庾亮に征討都督を授けた。右衛将軍の趙胤を冠軍将軍、歴陽太守とし、左将軍の司馬流とともに軍を統率させて蘇峻を防がせた。〔司馬流軍は蘇峻軍の襲撃を受け、〕慈湖で戦ったが、司馬流は敗れ、戦死した7『魏書』巻九六、僭晋司馬叡伝に「衍仮庾亮節為征討都督、使其右衛将軍趙胤、左将軍司馬流率衆次于慈湖。韓光晨襲流、殺之」とあるのに従って訳語を補った。司馬流は『建康実録』顕宗成皇帝、咸和二年十二月に伝が附記されており、宗室であったという。「流、字子玉、国之宗室。性懦怯、不閑軍旅。時率水歩二千、南上遇賊、懼形于色、臨陣方食、不知口処、問左右吾口何在。既而合戦、軍敗遇殺」とある。。驍騎将軍の鍾雅に節を授け、水軍を統率させ、趙胤とともに先鋒とし、蘇峻を防がせた。丙寅、琅邪王昱を会稽王に、呉王岳を琅邪王に改封した。辛未、宣城内史の桓彝と蘇峻が蕪湖で戦ったが、桓彝軍は敗北した。車騎将軍の郗鑑は広陵相の劉矩に軍を統率させ、京師に向かわせた。

 咸和三年春正月、平南将軍の温嶠が軍を率いて京師の救援にかけつけ、尋陽に駐屯し、督護の王愆期、西陽太守の鄧嶽、鄱陽太守の紀睦を派遣して先鋒とした。征西大将軍の陶侃は督護の龔登を派遣し、温嶠の指揮を受けさせた。鍾雅、趙胤らは慈湖に駐屯し、王愆期、鄧嶽らは直瀆に駐屯した。丁未、蘇峻が横江から〔長江を〕渡り、牛渚に登った。
 二月庚戌、蘇峻が蔣山に到達した。領軍将軍の卞壺に節を授け、六軍を統率させた。卞壺と蘇峻は西陵で戦ったが、王師は敗北した。丙辰、蘇峻は青渓柵を攻め、風を利用して火を放ったので、王師はふたたび大敗した。尚書令、領軍将軍の卞壺、丹陽尹の羊曼、黄門侍郎の周導、廬江太守の陶瞻がそろって殺され、死者は数千人にのぼった。庾亮も宣陽門内で敗れ、とうとう弟たちや郭黙、趙胤らを引き連れ、尋陽へ敗走した。こうして、司徒の王導、右光禄大夫の陸瞱、荀崧らが成帝を太極殿で護衛し、太常の孔愉が宗廟を守った。賊は勝利に乗じ、ほこを振りまわしながら玉座に近づき、皇太后の後宮に突入し、〔皇太后の〕左右につきそう侍女はみな掠奪された8原文「突入太后後宮、左右侍人皆見掠奪」。『建康実録』顕宗成皇帝、咸和三年二月に「突入太后後宮、逼辱妃后及左右侍人」とあり、『資治通鑑』巻九四、咸和三年二月に「突入後宮、宮人及左右侍人皆見掠奪」とあるのを参考に訳語を補った。。このとき、太官には焼け残った米が数石あるだけで、それを成帝の食膳に供出した。百姓は号泣し、〔その泣き声は〕京師を震わせた。丁巳、蘇峻は矯詔を下し、大赦した。また、祖約を侍中、太尉、尚書令とし、みずからは驃騎将軍、録尚書事となった。呉郡太守の庾氷が会稽へ逃げた。
 三月丙子、皇太后の庾氏が崩じた。
 夏四月、石勒が宛を攻めると、南陽太守の王国はそむき、石勒に降った。壬申、明穆皇后を武平陵に埋葬した。
 五月乙未、蘇峻は成帝に強制し、石頭へ移動させた。成帝は泣きながら車に乗り、宮中の人々は号泣した。蘇峻は〔石頭の〕倉庫部屋を宮殿とし、〔また〕管商、張瑾、弘徽を派遣して晋陵を侵略させ、韓晃を派遣して義興を侵略させた。呉興太守の虞潭は庾氷や王舒らと協力して、三呉地域で義軍を挙げた。丙午、征西大将軍の陶侃、平南将軍の温嶠、護軍将軍の庾亮、平北将軍の魏該の水軍四万が蔡洲9胡三省によれば「在石頭西岸」(『資治通鑑』巻九四、咸和三年五月の注)。に駐屯した。
 六月、韓晃が宣城を攻めると、宣城内史の桓彝は死力を尽くして抗戦したが、戦死した。壬辰、平北将軍、雍州刺史の魏該が陣中で卒した。廬江太守の毛宝が賊の合肥の拠点を攻め、これを落とした。
 秋七月、祖約が石勒の将の石聡に攻められると、軍は潰走し、歴陽へ敗走した。石勒の将の石季龍が劉曜を蒲坂で攻めた。
 八月、劉曜と石季龍が高候で戦い、石季龍が敗北した。劉曜はそのまま石生を洛陽で包囲した。
 九月戊申、司徒の王導が白石10胡三省によれば「在石頭東北」(『資治通鑑』咸和三年六月の注)。へ逃げた。庚午、陶侃が督護の楊謙に命じ、蘇峻を石頭で攻めさせた。温嶠、庾亮は白石に布陣し、竟陵太守の李陽は賊軍の南辺を防いだ11原文「竟陵太守李陽距賊南偏」。よく読めないが、『建康実録』と『資治通鑑』に関連する記述がないので当てずっぽうで訳出した。。蘇峻は軽騎兵で出撃したが、落馬してしまった。〔そのおりに陶侃軍が〕蘇峻を斬ると12『建康実録』顕宗成皇帝、咸和三年九月によると、蘇峻を斬った場所はのちに「蘇峻湖」と呼ばれるようになったという。「〔陶〕侃督軍護竟陵太守李陽臨陣斬峻于白石陂岸。至今呼此陂為蘇峻湖、今在県西北二十里石頭城正北、白石塁即在陂東岸」とある。、賊軍はとうとう潰走した。賊の一味は蘇峻の弟の蘇逸をさらなる指導者に立てた。まえの交州刺史の張璉が始興を占拠してそむき、進軍して広州を攻めたが、鎮南将軍司馬の曾勰らがこれを攻め破った。
 冬十月、李雄の将の張龍が涪陵を侵略し、涪陵太守の趙弼は賊に没した。
 十二月乙未、石勒が劉曜を洛陽で破り、劉曜を捕えた。
 この年、石勒の将の石季龍が氐帥の蒲洪を隴山で攻め、これを降した。

 咸和四年春正月、成帝は石頭にいた。賊の将の匡術が苑城をもって帰順すると13巻六七、温嶠伝には「賊将匡術以台城来降」とあり、匡術は「台城」をもって降ったと記されているが、苑城と台城は同一の城(正確には、台城は苑城改築後の呼称)。苑城とは、孫呉が太初宮の東北に造営していた苑(後苑)のこと。蘇峻の乱平定後、苑城は新たな宮殿として改築され、台城と呼ばれるようになった。詳しくは咸和五年九月の訳注を参照。
 匡術は陸曄の弟の陸玩に説得されたらしい(巻七七、陸曄伝附陸玩伝)。巻八三、袁瓌伝附袁耽伝に「初、路永、匡術、賈寧等皆〔蘇〕峻心腹、聞祖約奔敗、懼事不立、迭説峻誅大臣。峻既不納、永等慮必敗、陰結於導。導使耽潜説路永、使帰順」とあり、咸和三年七月に祖約が石勒軍に敗れたのを機に、匡術らは蘇峻の先行きに不安を覚えて王導に接触を図っていたという。その結果として帰順が実現したのであろう。
、百官はみな苑城へ赴いた。侍中の鍾雅、右衛将軍の劉超は成帝を奉じて脱出を計画したが、賊に殺された。戊辰、冠軍将軍の趙胤が将の甘苗を派遣し、祖約を歴陽で討伐させ、これを破った。祖約は石勒のもとへ敗走し、祖約の将の牽騰は軍を率いて降った。蘇峻の子の蘇碩が台城(苑城)を攻めた。また、太極殿東堂と秘閣に火を放つと、どちらも全焼した。建康城中は大飢饉で、米一斗で一万銭に高騰した。
 二月、大雨が久しく降りつづいた14五十余日降ったという。巻二七、五行志上に「成帝咸和四年、春雨五十余日、恒雷電。是時雖斬蘇峻、其余党猶拠守石頭、至其滅後、淫雨乃霽」とあり、『建康実録』顕宗成皇帝、咸和四年二月に「時自正月雨至二月、五十日、及滅蘇峻党後、淫雨乃霽」とある。。丙戌、諸軍が石頭を攻めた。李陽と蘇逸が柤浦で戦ったが、李陽軍は敗れた。建威将軍長史の滕含が精鋭兵を率いて賊を攻めると、蘇逸らは大敗した。滕含は成帝を奉じて温嶠軍の船にお乗せすると、群臣は頓首して号泣し、罪を請うた。弋陽王羕が罪を犯したので、誅殺された15乱時、蘇峻に媚びを売ってしまったことをいう。汝南王亮伝附羕伝に「咸和初、坐弟南頓王宗免官、降為弋陽県王。及蘇峻作乱、羕詣〔蘇〕峻称述其勲、峻大悅、矯詔復羕爵位。峻平、賜死」とある。。丁亥、大赦した。当時、戦火のあとで、宮殿が焼失していたため、建平園(苑城)を宮殿とした16焼失した宮殿というのは、孫呉の太初宮跡地にあった元帝以来の宮廷を指す。建平園については、『建康実録』顕宗成皇帝、咸和五年九月の注に引く「地輿志」に「苑城即呉之後苑也、一名建平園」とあり、後苑=苑城の別名であったとされる。また『建康実録』咸和四年二月には「帝居止蘭台、甚卑陋、欲営建平園」とあり、成帝は臨時に蘭台を居所としたものの、ひじょうに狭いので建平園を営繕しようとしたのだという。のちの孝武帝期、謝安が宮室を改築しようとしたときの王彪之の発言の一節にも「中興初、即位東府、殊為倹陋、元明二帝亦不改制。蘇峻之乱、成帝止蘭台都坐、殆不蔽寒暑、是以更営修築」とある(巻七六、王廙伝附王彪之伝)。これらの記述をふまえれば、本文の「建平園を宮殿とした(以建平園為宮)」とはやや舌足らずな表現で、正確には〈建平園を将来的な宮殿とすることに決定した〉という意味なのだろう。以上を総合すると、元帝以来の宮殿が焼失したため、成帝は蘭台を行宮としたが、旧来の場所(太初宮跡地)に宮室を再建するのではなく、建平園(苑城)を改修して新宮を建てることに決定した、ということになろう。。甲午、蘇逸が一万余人を率い、延陵湖から呉興に入ろうとした。乙未、将軍の王允之と蘇逸が溧陽で戦い、〔王允之は〕蘇逸を捕えた。壬寅、湘州を荊州に併合した。劉曜の太子の劉毗が大司馬の劉胤と百官を率いて上邽へ逃げ、関中はおおいに混乱した。
 三月壬子、征西大将軍の陶侃を太尉とし、長沙郡公に封じ、車騎将軍の郗鑑を司空とし、南昌県公に封じ、平南将軍の温嶠を驃騎将軍、開府儀同三司とし、始安郡公に封じた。そのほか、官爵の授与はおのおの格差があった。庚午、右光禄大夫の陸瞱を衛将軍、開府儀同三司とした。高密王紘を彭城王に戻した17紘は彭城王釈の子であったが、彭城王の爵は兄の雄が継ぎ、紘は出て高密王を継いだ。しかし雄が蘇峻のもとへ走った罪で戦後に誅殺されると、紘は高密王家から彭城王に戻された。巻三七、宗室伝、彭城穆王権伝を参照。彭城王雄が蘇峻のもとへ走った件は咸和二年十二月の条を参照。誅殺時期はどこにも明記されていないが、『資治通鑑』は弋陽王誅殺と同時としており、おそらく妥当である。。護軍将軍の庾亮を平西将軍、都督揚州之宣城・江西諸軍事、仮節、領豫州刺史とし、蕪湖に出鎮させた。
 夏四月乙未、驃騎将軍、始安公の温嶠が卒した。
 秋七月、彗星が西北で光った。会稽、呉興、宣城、丹陽で洪水があった。詔を下し、賊の被害に遭った郡県の租税を三年免除した。
 八月、劉曜の将の劉胤らが軍を率いて〔長安に駐屯している後趙の〕石生に攻め込もうとし、雍に駐屯した。
 九月、石勒の将の石季龍が劉胤を襲撃し、劉胤を斬った。進軍すると、上邽を破壊して殺戮し、劉氏を皆殺しにし、その仲間の三千余人を穴埋めにした。
 冬十月、廬山が崩落した。
 十二月壬辰、右将軍の郭黙が平南将軍、江州刺史の劉胤を殺したので、太尉の陶侃が軍を率いて郭黙を討伐した。
 この年、天が西北に裂けた。

 咸和五年春正月己亥、大赦した。癸卯、詔を下し、諸将の任子を免除した18『建康実録』顕宗成皇帝、咸和五年正月の注に「案、呉書、『時諸将屯戍、並留任其子、為立一館、名任子館』。地在宋楽遊苑(建康城より東北の覆舟山のふもと――訳者注)、……晋有江左、其制不改、至此年除之」とある。
 二月、列曹尚書の陸玩を尚書左僕射とし、孔愉を右僕射とした。
 夏五月、旱魃があり、そのうえ飢饉と疫病の流行が重なった。乙卯、太尉の陶侃が郭黙を尋陽で捕え、これを斬った。石勒の将の劉徴が南沙を侵略し、南沙都尉の許儒が殺された。劉徴は進軍して海虞に侵入した。
 六月癸巳、はじめて田地に課税し、一畝ごとに三升を課した(度田収租制)19のち孝武帝の太元元年、この制は改められ、一人当たりに米を課税する方式へ変更された。巻九、孝武帝紀、太元元年七月を参照。
 秋八月、石勒が僭越して皇帝の位につき、将の郭敬に襄陽を侵略させた。〔襄陽に出鎮していた〕南中郎将の周撫は武昌へ退却したので、中州(中原)の流民はことごとく石勒に降った。郭敬はそのまま襄陽を侵略し20原文は「遂寇襄陽」で、前文と重複している。『資治通鑑』巻九四、咸和五年九月は「毀襄陽城(襄陽の城壁を破壊した)」としており、おそらくこちらが正しい。、樊城に駐屯した。
 九月、新しい宮殿を建築〔するのを開始〕し、苑城の修繕をはじめた21苑城は、『建康実録』顕宗成皇帝、咸和五年九月の注に「案、苑城、即建康宮城」とあるように、のちに台城と呼ばれる城のこと。同注に引く「地輿志」に「苑城即呉之後苑也、一名建平園」とあり、同書、巻二、太祖下、黄龍元年十月に「〔孫権〕至自武昌、城建業太初宮居之。宮即長沙桓王故府也、因以不改。今在県東北三里、晋建康宮城西南、……。初、呉以建康宮城地為苑」とあるように、孫呉の太初宮の東北に位置し、孫呉のときは苑(後苑)であった。『建康実録』によれば、元帝は建康の太初宮跡地の府舎に留まり(巻五、中宗元皇帝、永嘉元年七月)、さらに同書、中宗元皇帝、建武二年の注に「案、……〔元帝〕居旧府舎、至明帝亦不改作、而成帝業始繕苑城」とあり、そのまま明帝まで変わらなかったという。蘇峻の乱で太初宮跡地の宮殿が焼失してしまうと、成帝は跡地に宮殿を再建せず、苑城を改作して新宮を築くことにしたのである。。甲辰、楽成王欽を河間王に移し、彭城王紘の子の俊を高密王に封じた。
 冬十月丁丑、司徒の王導の邸宅に行幸し、酒宴を開いた。
 李雄の将の李寿が巴東と建平を侵略し、巴東監軍の毌丘奥と巴東太守の楊謙は宜都へ退却した。
 十二月、張駿が石勒に称臣した。

 咸和六年春正月癸巳、劉徴が婁県をも侵略し、そのまま武進で略奪した。乙未、司空の郗鑑を都督呉国諸軍事に進めた。戊午、漕運が持続しないため、王公以下の人々から千余丁を徴発し、一人につき六斛の米を運ばせた。
 二月己丑、幽州刺史、大単于の段遼を驃騎将軍とした。
 三月壬戌朔、日蝕があった。癸未、詔を下し、賢良と直言の士を推挙させた。
 夏四月、旱魃があった。
 六月丙申、故河間王顒の爵と官位を回復した22中華書局校勘記が言うように、顒の官爵が回復されたのは前年九月に欽が河間王に改封されたのと同時であるはずだろう。どちらかの紀年が誤っているのではないか。。彭城王植の子の融を楽成王に封じ23融はさかのぼって光煕元年十二月に顒のあとを継いで楽城県王(原文まま)に封じられている(巻五、懐帝紀)。巻五九、河間王顒伝によれば、融はその後に薨去し、建興年間に彭城王釈の子である欽が融のあとを継いだ。そして本帝紀によると、咸和五年九月に欽は河間王に改封された。という経緯なので、この文がここにあるのはおかしい。中華書局の校勘記が指摘するように、衍文だろう。、章武王混の子の珍を章武王に封じた。
 秋七月、李雄の将の李寿が陰平に侵攻し、武都氐の帥の楊難敵はこれに降った。
 八月庚子、尚書左僕射の陸玩を尚書令とした。

 咸和七年春正月辛未、大赦した。
 三月、西中郎将の趙胤、司徒中郎の匡術が石勒の馬頭塢を攻め、これを落とした。石勒の将の韓雍が南沙と海虞を侵略した。
 夏四月、石勒の将の郭敬が襄陽を落とした24襄陽は咸和五年八月に郭敬によって陥落していたが、郭敬が樊城に退いたのち、晋軍が回復していた。このときになってふたたび郭敬が落としたのである。巻一〇五、石勒載記下に「初、郭敬之退拠樊城也、王師復戍襄陽。至是、敬又攻陥之、留戍而帰」とある。
 五月、洪水があった。
 秋七月丙辰、詔を下し、飼育動物は出費がかさむものが多いため、すべて廃止すると命じた。
 太尉の陶侃は、子の平西将軍参軍の陶斌と南中郎将の桓宣を派遣し、石勒の将の郭敬を攻めさせた。〔陶斌らは〕郭敬を破り、樊城を落とした。竟陵太守の李陽が新野と襄陽を落とし、そのまま襄陽に駐屯した。
 冬十一月壬子朔、太尉の陶侃を大将軍に進めた。詔を下し、賢良の士を推挙させた。
 十二月庚戌、成帝が新しい宮殿に移った25『建康実録』顕宗成皇帝、咸和七年によれば、十一月に新宮(台城)が完成し、翌十二月に成帝が移った。同、咸和七年十一月に「新宮成、署曰建康宮、亦名顕陽宮、開五門、南面二門、東西北各一門」とあり、注に引く「図経」に「即今之所謂台城也」とある。

 咸和八年春正月辛亥朔、詔を下した、「むかし、賊がほしいままに暴虐を振るい、宮殿が焼失してしまった。賊の首領は討ったものの、再建する暇(いとま)がなかった。〔すると〕有司がしばしば〔臨時の朝堂だと〕朝会には狭いと述べてきたので、そこでとうとうこの新しい宮殿を建築することにしたが、みなが子のように集結して働いてくれ、すぐさま完成させてくれた。すでに〔新しい宮殿への〕臨御を得て、諸侯をおおいに饗宴したが、九賓が〔礼的序列にもとづいて〕宮廷に満ちあふれ26原文「九賓充庭」。「設九賓於廷」(『史記』巻八一、廉頗藺相如列伝)など、類例がいくつか見られる。前三史の旧来の注解だと、「九賓」の語は多く『周礼』秋官、大行人「以九儀辨諸侯之命、等諸臣之爵、以同邦国之礼、而待其賓客」に見える「九儀」と同義だとしている。『周礼』鄭玄注によれば、「九儀」は公・侯・伯・子・男および孤・卿・大夫・士のこと。また『周礼』春官、大宗伯に「以九儀之命、正邦国之位」とあり、鄭玄注に「毎命異儀、貴賤之位乃正」とある。つまり諸侯や臣僚を九つの序列に弁別し、各序列に応じた礼儀で接待することを「九儀」と言うらしい。この意に従い、「新しい宮殿が完成し、ようやく賓客を接待する礼儀が整ったので、あらゆる身分の賓客を集めることができた」という意味で解釈した。、百官が等級に従って行動した27原文「百官象物」。『左伝』宣公十二年に「百官象物而動、軍政不戒而備」とあるが、出典かどうか不明。杜預注に「物、猶類也」とあり、「正義」に「類、謂旌旗画物類也。百官尊卑不同、所建各有其物、象其所建之物而行動」とある。とりあえずこの例を汲み、「あらゆる身分の官僚がおのおのの尊卑序列にのっとって行動している」と解釈することにした。。〔これにより〕『君子は礼に励み、小人は力に打ち込む』(『左伝』成公十三年)というのがわかる。細密な法の網をゆるめ、みなとこの幸いを分かち合いたいと思う。そこで、五歳刑以下の罪人を赦免することとする」。諸郡に命じ、千五百斤以上の物が持ち上げられる人物を推挙させた。
 丙寅、李雄の将の李寿が寧州を落とし、寧州刺史の尹奉と建寧太守の霍彪がともに李雄に降った。癸酉、張駿を鎮西大将軍とした。丙子、石勒が使者をつかわし、金品を贈ってきたが、詔を下して燃やさせた。
 夏四月、詔を下し、故新蔡王弼の弟の邈を新蔡王に封じた。束帛28五匹の絹を束にした贈答品。貴人の招聘や祝儀不祝儀の際に用いた。(『漢辞海』)を用意して、処士である尋陽の翟湯と会稽の虞喜を〔中央に〕召した。
 五月、星が肥郷に落ちた。麒麟と騶虞が遼東に現れた。乙未、車騎将軍、遼東公の慕容瘣が卒し、子の慕容皝が位を継いだ。
 六月甲辰、撫軍将軍の王舒が卒した。
 秋七月戊辰、石勒が死に、子の石弘が偽位を継ぐと、将の石聡が譙をもって〔晋に〕来降した。
 冬十月、石弘の将の石生が関中で挙兵し、秦州刺史を称し、〔晋に〕使者をつかわして来降した。石弘の将の石季龍は石朗を洛陽で攻め、ついでそのまま進軍して石生を攻め、どちらも滅ぼした。
 十二月、石生のもとの部将である郭権が〔晋に〕使者をつかわし、降伏を願い出た29この年に北郊を築いたとされる。『建康実録』顕宗成皇帝、咸和八年に「是歳、作北郊于覆舟山之陽、制度一如南郊」とある。

 咸和九年春正月、二つの石が涼州に落ちた。郭権を鎮西将軍、雍州刺史とした。
 二月丁卯、鎮西大将軍の張駿に大将軍を加えた。
 三月丁酉、会稽で地震があった。
 夏四月、石弘の将の石季龍は、石斌に郿の郭権を攻めさせ、これを陥落させた。
 六月、李雄が死に、兄の子の李班が偽位を継いだ。乙卯、太尉、長沙公の陶侃が薨じた。甚大な旱魃があったので、詔を下し、太官に皇帝の食事を減らさせ、刑罰を減免し、親がいない幼子と夫がいない高齢の女を援助し、出費を減らして倹約した。辛未、平西将軍の庾亮に都督江・荊・豫・益・梁・雍六州諸軍事を加えた。
 秋八月、おおいに雨ごいをした。五月からこの月まで雨が降らなかった。
 九月戊寅、散騎常侍、衛将軍、江陵公の陸曄が卒した。
 冬十月、李雄の子の李期が李班を弑し、みずからが立った。李班の弟の李玝は、将の焦噲や羅凱らとともに、そろって〔晋に〕来降した。
 十一月、石季龍が石弘を弑し、みずからが立って天王となった。
 十二月丁卯、東海王沖を車騎将軍とし、琅邪王岳を驃騎将軍とした。蘭陵の朱縦が石季龍の将の郭祥を斬り、彭城をもって来降した。

 咸康元年春正月庚午朔、成帝は元服を加えた30原文「加元服」。はじめて冠を着用したこと、転じて成帝が成人したことを言う。「元服」とは「元(=頭)に服する(=つける)意。男子が成人したとき、はじめて冠をつける儀式である冠礼を「加元服」という」(『漢辞海』)。。大赦し、改元し、文武の官の位を一等加増し、三日間の酒盛りを賜い、配偶者がいない高齢の男女、親がいない幼子、子がいない老人、自活できない者に米を賜い、一人につき五斛を下賜した。
 二月甲子、成帝は釈奠31教育施設(学校)において牛・羊などの犠牲や供え物をささげて、天地の神や古代の聖人〔特に孔子〕を祭る行事。舎奠。(『漢辞海』)の祭祀をみずから執り行った。揚州の諸郡が飢饉であったので、使者をつかわして援助させた。
 三月乙酉、司徒府に行幸した。
 夏四月癸卯、石季龍が歴陽を侵略したので、司徒の王導に大司馬、仮黄鉞、都督征討諸軍事を加え、これを防御させた。癸丑、成帝は広莫門で閲兵すると、諸将にそれぞれ命令を下し、将軍の劉仕に歴陽を救援させ、平西将軍の趙胤を慈湖に駐屯させ、龍驤将軍の路永を牛渚に駐屯させ、建武将軍の王允之を蕪湖に駐屯させた。司空の郗鑑は広陵相の陳光に軍を統率させ、京師を守らせた。賊は撤退して襄陽へ向かった。戊午、戒厳を解除した。石季龍の将の石遇が中廬を侵略した。南中郎将の王国は退却して襄陽を守った。
 秋八月、長沙と武陵で洪水があった。束帛を用意して処士の翟湯と郭翻を〔中央に〕召した。
 冬十月乙未朔、日蝕があった。
 この年、甚大な旱魃があり、とくに会稽の余姚県がひどく、米が一斗で五百銭に騰貴し、人売りがされた。

 咸康二年春正月辛巳、彗星が奎に現れた。呉国内史の虞潭を衛将軍とした。
 二月、軍用の徴税米を計算したところ、〔記録上よりも〕五十余万石少なかったので、列曹尚書の謝褒以下が免官された。辛亥、皇后に杜氏を立てた。大赦し、文武の官の位を一等加増した。庚申、高句麗が使者をつかわし、産物を朝献した。
 三月、旱魃があったので、詔を下し、太官に命じて皇帝の食事を減らさせ、旱魃被害に遭っている郡県の徭役を免除した。戊寅、おおいに雨ごいをした。
 夏四月丁巳、皇后が太廟に参拝した。ひょうが降った。
 秋七月、揚州の会稽で飢饉があったので、〔食糧を備蓄している〕倉庫を開いて援助した。
 冬十月、広州刺史の鄧嶽は督護の王随を派遣して夜郎を攻めさせ、〔また〕新昌太守の陶協を派遣して興古を攻めさせたが、どちらも落とした。
 詔を下した、「前代までを通覧するに、必ず明祀を重んじ32原文「褒崇明祀」。『左伝』僖公二十一年に「成風為之言於公曰、崇明祀、保小寡、周礼也」とあり、杜預の注に「明祀、大皥・有済之祀」とあるが、これが出典なのかは不明。本文の「明祀」は「重要な祭祀の美称(対重大祭祀的美称)」(『漢語大詞典』)というニュアンスだと考えられる。、三恪33三代前までの王朝の子孫のこと。晋朝の場合は魏、漢、周の三王朝。魏(陳留王)はすでに成帝の咸和元年十月に継がれている。を賓礼で遇している。そのゆえ、杞(夏の後裔)と宋(殷の後裔)が国を開創したことは、周の記録を輝かせており、宗姫(周の後裔)が衛に君臨したことは、漢の記録に名誉をもたらしているのである。このごろの戦乱により、諸国は衰亡してしまい、周と漢の後裔は断絶し、継承されていない。そこで、衛公(周の子孫)と山陽公(漢の子孫)の近親をあまねく捜索し、徳行を修めていて、国の祭祀を継ぐに堪える者がいれば、古典に依拠して〔三恪への礼遇を〕施行せよ」。
 新しく朱雀浮桁を建築した34「浮桁」は原文まま。浮橋のこと。この橋は「朱雀橋」とも呼ばれる。朱雀橋は明帝の太寧二年七月、建康に迫った王敦軍を食い止めるため、温嶠によって焼き落とされていた。その後、橋を再建せず、船舶を連ねて作った浮橋で間に合わせていたが、成帝の咸康二年、朱雀橋に通行税を課し、その税収で再建に必要な木材を調達しようという提案が出された。しかし台城建築まもない情勢もあって、この議論は採用されなかったらしい。ただ、再建が必要な何らかの理由はあったようで、新たに杜預の河橋(黄河・孟津にかけた浮橋)の設計に従って朱雀橋を新築したという。『建康実録』顕宗成皇帝、咸康二年十月に「更作朱雀門、新立朱雀浮航。航在県城東南四里、対朱雀門、南度淮水、亦名朱雀橋」とあり、注に引く「地志」に「本呉南津大呉橋也。王敦作乱、温嶠焼絶之、遂権以浮航往来。至是、始議用杜預河橋法作之。長九十歩、広六丈、冬夏随水高下也」とあり、同書、巻九、烈宗孝武皇帝、寧康元年三月の注に引く「地輿志」に「王敦作逆、温嶠焼絶之、是後権以舶航為浮橋。成帝咸康二年、侍中孔坦議復税橋、行者収直、以具其材、但苑宮初理不暇、遂浮航相仍」とある(なお「地志」と「地輿志」はともに顧野王『輿地志』のことである)。
 十一月、建威将軍の司馬勲を派遣し、漢中を鎮定させようとしたが、李期の将の李寿に敗れた。

 咸康三年春正月辛卯、太学を立てた35秦淮水の南にあったという。『建康実録』顕宗成皇帝、咸康三年正月に「詔立太学於淮水南。在今県城南七里、丹楊城東南、今地猶名故学」とある。
 夏六月、旱魃があった。
 冬十月丁卯、慕容皝がみずから燕王に立った。

 咸康四年春二月、石季龍が七万の軍を率い、段遼を遼西で攻めた。段遼は平崗に逃げた。
 夏四月、李寿が李期を弑し、僭越して偽位につき、国号を漢とした。石季龍が慕容皝に敗れた。癸丑、慕容皝に征北大将軍を加えた。
 五月乙未、司徒の王導を太傅、都督中外諸軍事とし、司空の郗鑑を太尉とし、征西将軍の庾亮を司空とした。
 六月、司徒を丞相に改称し、太傅の王導を丞相とした。
 秋八月丙午、寧州を分割して安州を置いた。

 咸康五年春正月辛丑、大赦した。
 三月乙丑、広州刺史の鄧嶽が蜀を攻めた。建寧の孟彦が李寿の将の霍彪を捕えて降った。
 夏四月辛未、征西将軍の庾亮が参軍の趙松を派遣し、巴郡と江陽を攻めさせ、石季龍の将の李閎や黄植らを捕えた36地理的に後趙の将とするのはおかしい。巻七三、庾亮伝は、「蜀」を攻めてこの二人を捕えたと記述しているし、『資治通鑑』巻九六、咸康五年四月も二人を漢の将と記している。ただ、巻一〇六、石季龍載記上および『資治通鑑』巻九六、咸康六年によれば、李閎(李宏)はこののちに晋から後趙へ亡命したというので、そのあたりの事情を混同して本文は「石虎の将」と記してしまったのかもしれない。
 秋七月庚申、使持節、侍中、丞相、領揚州刺史、始興公の王導が薨じた。辛酉、護軍将軍の何充を録尚書事とした。
 八月壬午、丞相を司徒に戻した。辛酉、太尉、南昌公の郗鑑が薨じた。
 九月、石季龍の将の夔安と李農が沔南(襄陽付近)を落とし、張貂が邾城を落とし、そのまま江夏や義陽を侵略した。征虜将軍の毛宝、西陽太守の樊俊、義陽太守の鄭進がことごとく戦死した。夔安らは進軍して石城を包囲したが、竟陵太守の李陽が防戦してこれを破り、首級五千余をあげた。そこで夔安は退却し、そのまま漢東(漢水東域)を侵略し、七千余家を拉致して幽冀の地(河北)に移した。
 冬十二月丙戌、驃騎将軍の琅邪王岳を司徒とした。李寿の将の李奕が巴東を侵略し、守将の労揚が戦ったが、敗れ、戦死した。

 咸康六年春正月庚子、使持節、都督江・豫・益・梁・雍・交・広七州諸軍事、司空、都亭侯の庾亮が薨じた。辛亥、左光禄大夫の陸玩を司空とした。
 二月、慕容皝と石季龍の将の石成が遼西で戦った。〔慕容皝は〕石成を破り、勝利を京師に報告した。庚辰、彗星が太微で光った。
 三月丁卯、大赦した。車騎将軍の東海王沖を驃騎将軍とした。李寿が丹川を落とし、守将の孟彦、劉斉、李秋がみな戦死した。
 秋七月乙卯、はじめて中興の故事に従い、朔日(一日)と望日(十五日)は太極殿東堂で政事の意見を聴いて審理した37原文「初依中興故事、朔望聴政于東堂」。太極殿東堂での聴政は懐帝紀の末尾にも記載がある。詳しくは懐帝紀の訳注を参照。なお「中興故事」とは元帝時代のことを指すのだろうと思われるが、渡辺信一郎氏[一九九六]は「中興」を「中朝」(西晋時代)の誤りだとしている(七四頁)。
 冬十月、林邑が人間に従順な象を献上した。
 十一月癸卯、琅邪を免税し、漢代の豊沛になぞらえた38「豊沛」は漢の高祖の出身地のこと。特別な地であるゆえ、漢代では代々免税の恩恵を受けていたという。司馬氏の出身地は河内であって琅邪ではないが、晋朝を中興させた元帝はもともと帝系ではなく、琅邪に封国をもつ諸侯王のひとりであった。琅邪王の位から皇帝の位に登ったことをふまえ、琅邪を東晋皇帝の出身地になぞらえたということであろう。

 咸康七年春二月甲子朔、日蝕があった。己卯、慕容皝が使者をつかわし、燕王の印璽を授与してほしいと要望したので、聴き入れた。
 三月戊戌、杜皇后が崩じた。
 夏四月丁卯、恭皇后を興平陵に埋葬した。編戸を実態調査し、王公以下すべて、居住地を確認し、白籍に登録した(咸康土断)39原文「実編戸、王公已下皆正土断白籍」。「白籍」とは北方からの流民を登録するための臨時的な戸籍のこと。対して、正規の通常の戸籍は「黄籍」という。この記事は諸研究で多く取りあげられてきたが、難解で読み方が定まっていないことでも知られる。先行研究の諸見解は[大川一九八七]二六三―二六六頁、[松丸ほか一九九六]一二三―一二五頁(執筆:中村圭爾氏)を参照。訳者自身、この方面の研究には詳しくないので、細かく説明を加えることは避けたい。ここでは安田二郎氏[二〇〇三]の解釈、すなわち〈僑民は僑州郡県の官府から黄籍によって把握されていたが、咸康土断によって、現住地の官府からも白籍によって把握されるようになった〉という見解に従い、訳文を作成してみた。[安田二〇〇三]五〇五―五〇八頁を参照。
 秋八月辛酉、驃騎将軍の東海王沖が薨じた。
 九月、太僕を廃した。
 冬十二月癸酉、司空、興平伯の陸玩が薨じた。楽府の雑技を廃止した40『南斉書』巻一一、楽志に「角抵・像形・雑伎、歴代相承有也。其増損源起、事不可詳。……江左咸康中、罷紫鹿・跂行・鼈食・笮鼠・斉王巻衣・絶倒・五案等伎、中朝所無、見起居注、並莫知所由也」とあるのはここと対応した記述か。。安州を廃した。

 咸康八年春正月己未朔、日蝕があった。乙丑、大赦した。
 三月、はじめて武悼楊皇后を武帝廟に配して祀った。
 夏六月庚寅、成帝は健康を害した。詔を下して言った、「朕は幼年にして帝業の継承にあずかり、王公の上を任されて今年で十八年になるが、いまだに政道を明らかすることができず、残存している邪気を払うこともできていない。〔この間、〕昼夜恐々として政務に励み、ゆったりと過ごす暇(いとま)はなかった。いま、病にかかってほとんど起き上がれなくなってしまったため、心を震わせて悲しみに暮れている。〔長子の〕千齢41中華書局は傍線を引いていないが、成帝の長子で、のちの哀帝の字であろう。哀帝は三六五年に享年二十五で没しているので、生年は三四一年、すなわち咸康七年で、成帝が没する一年前に生まれた。なお同年に没している杜皇后の子ではなく、側室の周氏の子である。は幼いので、〔わが王朝が直面している〕艱難に堪えられまい。〔それに対して〕司徒の琅邪王岳は、〔朕との〕続柄は同母弟にあたり、本性は仁をそなえた長者であり、人君の風格をたたえ、世の期待にかなっている。ゆえに、なんじら王公卿士よ、琅邪王を助けよ。そしてつつしんで祖先の祭祀を奉じ、内外を調和させ、まことに中正を守れ。ああ、このことを尊重せよ。祖先の天命を失墜させることのないように」。壬辰、武陵王晞、会稽王昱、中書監の庾氷、中書令の何充、尚書令の諸葛恢を召し、顧命を授けた。癸巳、成帝は〔太極殿〕西堂で崩じた。享年二十二。興平陵に埋葬された。廟号は顕宗とされた。

 成帝は幼くして聡明で、成人(おとな)のような器量をそなえていた。南頓王宗が誅殺されたとき(咸和元年十月)、成帝はそれを知らずにいた。蘇峻が平定されたさい、庾亮に「普段、白頭公(南頓王)はどこにいるのかな」と尋ねたので、庾亮は「謀反の罪で誅殺されました」と答えた。すると成帝は泣き、「人が賊になったと舅(おじ)さん42庾亮のこと。「舅」は母親の兄弟を指す。成帝の母・明帝皇后の庾氏は庾亮の妹であった。が言えば、すぐにその人を殺してしまうんだね。〔でも、もし〕舅さんが賊になったと人が言ったら、そのときはどうすればいいの」と言った。庾亮はギョッとして青ざめた43なお汝南王亮伝附宗伝によると、南頓王は成帝の咸康年間に名誉を回復されたという。。或るとき、庾懌が江州刺史の王允之に酒を贈った。王允之がそれを犬に飲ませると、犬は死んでしまった。そこで恐れを抱き、上表してこのことを報告した。成帝は怒り、「大舅(庾亮のこと)は天下を乱したというのに、さらに小舅(庾懌のこと)まで何をするつもりなのか」と言った。庾懌がそのことを耳にすると、毒薬をあおいで死んだ44『建康実録』はこの一件を咸康八年二月にかけている。。しかし、〔成帝は〕幼少のときは外戚(庾氏)に制肘され、政務をみずから執ることはなかったのだった。成長すると、万機にすこぶる熱意を注ぎ、簡約を心がけた。或るとき、後園に射堂を建てようと考え、その費用を計算したところ、四十金であった。すると、浪費とみなして中止にしてしまった。武略の器は過去の王者と比べて恥ずかしいスケールだが、敬恭と倹約の徳45原文は「恭倹之徳」。『論語』学而篇に「子貢曰、『夫子、温・良・恭・倹・讓以得之』」とあるのをふまえたものであろう。は往古の偉人に比肩しえよう46原文「雄武之度、雖有愧於前王、恭倹之徳、足追蹤于往烈矣」。元帝にも「恭倹之徳雖充、雄武之量不足」(巻六、元帝紀)と、まったく同じ評価が与えられている。

康帝

 康皇帝は諱を岳、字を世同といい、成帝の同母弟である。咸和元年に呉王に封じられ、同二年に琅邪王に移された。同九年に散騎常侍に任じられ、驃騎将軍を加えられた。咸康五年、侍中、司徒に移った。
 咸康八年六月庚寅、成帝が健康を害すと、詔を下して琅邪王を帝嗣とした。癸巳、成帝が崩じた。甲午、皇帝の位につき、大赦した。各地の軍事拠点の文武官、および二千石(郡の太守)や官長(県の令長?)に、かってに任地を離れて〔葬儀に〕馳せ参じてはならないと命じた。己亥、成帝の子の丕を琅邪王に封じ、奕を東海王に封じた。この当時、康帝は喪に服して言葉を発さず47原文「時帝諒陰不言」。『論語』憲問篇に「子張曰、『書云、高宗諒陰、三年不言、何謂也』。子曰、『何必高宗、古之人皆然。君薨、百官総己、以聴於冢宰三年』」とあるのをふまえた所作。、政事を庾氷と何充に委任していた。
 秋七月丙辰、成帝を興平陵に埋葬した。〔その日、〕康帝はみずから西階の下で供物を〔棺に〕捧げ48原文「帝親奉奠于西階」。よくわからない。『礼記』檀弓下篇に「奠以素器、以生者有哀素之心也」とあり、「正義」に「奠、謂始死至葬之時祭名。以其時無尸、奠置於地、故謂之奠也」とあるのを言うか。、〔陵へ〕棺を引いて出発するおりには、徒歩で閶闔門まで行き、そこから白い車に乗り、陵に到着した。己未、中書令の何充を驃騎将軍とした。
 八月辛丑、彭城王紘が薨じた。江州刺史の王允之を衛将軍とした。
 九月、詔を下し、琅邪国の吏と琅邪王府の吏49原文「琅邪国及府吏」。国の吏とは内史などの地方行政に従事する官吏で、府の吏とは王文学など王に仕える官吏を指すか。の位を進め、おのおの格差があった。
 冬十月甲午、衛将軍の王允之が卒した。
 十二月、文武の官の位を二等加増した。壬子、皇后に褚氏を立てた。

 建元元年春正月、改元し、配偶者がいない高齢の男女、親がいない幼子、子がいない老人を援助した。
 三月、中書監の庾氷を車騎将軍とした。
 夏四月、益州刺史の周撫と西陽太守の曹拠が李寿を攻め、将の李恒を江陽で破った。
 五月、旱魃があった。
 六月壬午、またも束帛を用意して、処士である尋陽の翟湯と会稽の虞喜を〔中央に〕召した。
 有司が奏し、成帝が崩じて一周年になったので、喪服を着替え、御膳をもとどおりにしてほしいと要望した。壬寅、詔を下した、「礼の軽減というのは、その時々の事情に応じて〔礼の一部を〕省略したり実行したりするということであって、まことに一定の決まりはない。〔しかし、〕君主と親については、〔重さが〕たがいにつりあっていて、名教の要めであるから、君親への礼は改変しないのである。便宜的な礼制が定められたのは50文脈に即して考えれば、ここで念頭に置かれているのは服喪の年数を短縮するしきたりであろう。おそらく近代(ちかごろ)に始まったことであり、〔簡略化された礼制は〕政事には適合していると言えても、じつに浮薄の契機なのである。先王は君親への礼を尊重し〔て軽減しなかっ〕たが、後世は怠ったままである。まして、その怠った礼をそのまま受け継ぎ、さらにそれを軽減するというのは、義としてあってはならないことだ」。
 石季龍が軍を率いて慕容皝を攻めたが、慕容皝はこれをおおいに破った。
 秋七月、石季龍の将の戴開が軍を率いて来降した。丁巳、詔を下した、「慕容皝が羯賊を撃ち破り、羯の死者は八万余人にのぼると報告があったが、これはまさしく天が〔羯を〕滅ぼす端緒であろう。中原の回復について、作戦を立てるのがよかろう。かつ、戴開はもう部下を率いて帰順してきたのだから、慰労されるべきであろう。そこで、安西将軍(庾翼)と驃騎将軍(何充)のもとに使者をつかわし、軍事について諮問するように」。
 輔国将軍、琅邪内史の桓温を前鋒小督、仮節とし、軍を統率させて臨淮に入らせ、安西将軍の庾翼を征討大都督とし、鎮を襄陽に移動させた。
 庚申、晋陵と呉郡で火災があった。
 八月、李寿が死に、子の李勢が偽位を継いだ。石季龍が将の劉寧に狄道を攻め落とさせた。
 冬十月辛巳、車騎将軍の庾氷を都督荊・江・司・雍・益・梁六州諸軍事、江州刺史とし、驃騎将軍の何充を中書監、都督揚・豫二州諸軍事、揚州刺史、録尚書事とし、〔何充に〕輔政させた。琅邪内史の桓温を都督青・徐・兗三州諸軍事、徐州刺史とし、褚裒を衛将軍、領中書令とした。
 十一月己巳、大赦した。
 十二月、石季龍が張駿に侵攻したので、張駿は将軍の謝艾に防戦させた。河西で会戦し、石季龍が敗北した。十二月51原文まま。直前の文と重複している。、高句麗が使者をつかわして朝献した。

 建元二年春正月、張駿が将の和麟と謝艾を派遣し、南羌を闐和で討伐させ、これをおおいに破った。
 二月、慕容皝と鮮卑の帥の宇文帰が昌黎で戦い、宇文帰軍が大敗し、漠北へ敗走した。
 四月、張駿の将の張瓘が石季龍の将の王擢を三交城で破った。
 秋八月丙子、安西将軍の庾翼を征西将軍に進めた。庚辰、持節、都督司・雍・梁三州諸軍事、梁州刺史、平北将軍、竟陵公の桓宣が卒した。
 丁巳、衛将軍の褚裒を特進、都督徐・兗二州諸軍事、兗州刺史とし、金城に出鎮させた。
 九月、巴東太守の楊謙が李勢の将の申陽を攻め52原文「巴東太守楊謙撃李勢・勢将申陽」。とくに校勘もないが、「勢」は一字衍字ではなかろうか。さしあたり衍字とみなして訳出した。、これを敗走させ、将の楽高を捕えた。丙申、皇子の耼を皇太子に立てた。戊戌、康帝が式乾殿で崩じた。享年二十三。崇平陵に埋葬した。

 かつて、成帝が病に伏せたとき、中書令の庾氷は外戚として朝政を掌握し、その権勢は君主に等しかった。しかし、皇帝が代替わりしたら外戚(庾氏)は遠ざけられてしまうであろう、と懸念していた53かりに成帝の子が即位して世代が一つ下ってしまうと、祖父世代の外戚という立場に変わってしまい、重みが相対的に軽くなってしまうかもしれない。しかし成帝の同母弟(つまり庾皇后の子)が即位すれば、皇太后の一族という立場をこのままキープできる。こういう理屈であろう。。そこで「国家には手ごわい敵が残っていますから、年長の君主を立てるのがよいでしょう」と〔成帝に〕進言したので、ついに〔成帝は〕康帝を後継者に立てたのである。年号の制度を定めるにあたり、中朝(西晋時代)の旧制を再興させたので、それにちなんで「建元」と改元した54原文「制度年号、再興中朝、因改元為建元」。読みにくい。和刻本は「制度」を名詞として読んでいるが、それだとどのような意味になるのかわからない。『通典』巻五五、告礼に、改元の礼をめぐる康帝時代の議が記録されている。その議も詳しく読めないのだが、結論として、西晋時代(恵帝時代)の前例に従うことにしたようである。これをふまえ、「制度」を動詞で読み、「年号の制度を定める」という意味で取ることにした。「建元」にどういう含意があるのかは不明だが、『漢語大詞典』によれば「開国後にはじめて年号を建てること(開国後第一次建立年号)」というニュアンスがあるというので、「物事のはじまり」のような含みがあったのだろうか。なお『魏書』巻九六、僭晋司馬叡伝には「初岳之立、当改元、庾氷立号、而晋初已有、改作、又如之、乃為建元」とあり、庾氷が新年号を考案するさい、候補案が「晋初」のものと二回重複したという。「晋初」とは西晋時代を指すのであろう。それが二度(=「再」)あったというので、もしかすると本文の「制度年号、再興中朝」と何らかの対応関係にあるのかもしれない。。すると或るひとが庾氷に「郭璞の予言に『立始之際丘山傾』とありましたが、『立』は建のこと、『始』は元のことで、『丘山』は陛下の諱(岳)になっています55つまり「建元之際、岳傾く」になる。」と言った56巻七二、郭璞伝によると、この予言は庾氏および庾翼を占ったときのものだという。「初、庾翼幼時嘗令璞筮公家及身、卦成、曰、『建元之末丘山傾、長順之初子凋零』。及康帝即位、将改元為建元、或謂庾氷曰、『子忘郭生之言邪。丘山上名、此号不宜用』。氷撫心歎恨」とある。。庾氷は驚愕したが、ほどなくため息をつき、「吉凶が定まっているのならば、定めを変えてお救いすることができようか」と言った。康帝が崩じるにいたって、たしかに予言のとおりであったのだ。

 史臣曰く、(以下略)

系図西晋元帝(1)元帝(2)明帝成帝・康帝穆帝哀帝海西公簡文帝孝武帝安帝恭帝

(2020/2/27:公開)
(2023/1/21:改訂)

  • 1
    称制は「称制詔」(『漢書』巻三、高后紀、顔師古注)。皇帝の政務を代行して決裁すること。
  • 2
    「事」字がないのは原文まま。
  • 3
    巻五九、汝南王亮伝附宗伝によれば、「謀反」を弾劾されている。そのさい、南頓王は捕縛に来た右衛将軍と兵を構えて抵抗したが、味方に裏切られて殺されてしまった。列伝には「謀反」の具体的内容は記されていないが、『建康実録』巻七、顕宗成皇帝、咸和元年十月に「庾亮誣南頓王宗陰与蘇峻謀叛」とあり、蘇峻と結託して謀叛をたくらんでいたと糾弾されたらしい。南頓王はもともと王導、庾亮らとは関係が悪かったとされる。
  • 4
    西陽王は南頓王の兄に当たる。巻五九、汝南王亮伝附羕伝には「咸和初、坐弟南頓王宗免官、降為弋陽県王」とあるのみで、詳しい事情はわからない。
  • 5
    原文「改定王侯国秩、九分食一」。西晋時代の諸侯の俸秩にかんしては越智重明氏[一九六三]第二篇第四章、藤家礼之助氏[一九八九]第二章第三節の考察がある。越智氏は、食邑の各戸から本来の税率に従って徴発した租調のうち、一定の割合を俸秩として諸侯に割き、残りは官に納入すると理解している。つまり「九分の一」などの比率は各戸の供出した租調に適用されるものとする。藤家氏は、食邑のうち一定の割合の戸が供出する租調をすべて諸侯の俸秩に充てるとする。すなわち、「九分の一」などの比率は食邑に適用されるとする。どちらを妥当とすべきか判断できないが、今回は越智説に従って訳出した。
     また比率にかんして、越智説だと西晋=三分の一、元帝太興元年=九分の一制が導入され、三分の一と九分の一が並置、咸康元年(本文)=すべて九分の一に改定、とする。藤家説では、西晋の江南諸国=三分の一、西晋の江南以外の諸国=九分の一か十分の一、元帝太興元年=江南諸国が九分の一に改定、とし、本文の咸康元年には言及していない。これもどちらが妥当であるか判断つかないが、ともかく九分の一に改めたということで訳文では踏み込まなかった。
  • 6
    原文「遂略河南地」。枹罕は隴西方面の県で、『中国歴史地図集』東漢版で確認すると、黄河の南に位置する。ここの「河南」はオルドスや洛陽近辺を指すのではなく、西方の河源に近いほうの黄河以南を指すのであろう。
  • 7
    『魏書』巻九六、僭晋司馬叡伝に「衍仮庾亮節為征討都督、使其右衛将軍趙胤、左将軍司馬流率衆次于慈湖。韓光晨襲流、殺之」とあるのに従って訳語を補った。司馬流は『建康実録』顕宗成皇帝、咸和二年十二月に伝が附記されており、宗室であったという。「流、字子玉、国之宗室。性懦怯、不閑軍旅。時率水歩二千、南上遇賊、懼形于色、臨陣方食、不知口処、問左右吾口何在。既而合戦、軍敗遇殺」とある。
  • 8
    原文「突入太后後宮、左右侍人皆見掠奪」。『建康実録』顕宗成皇帝、咸和三年二月に「突入太后後宮、逼辱妃后及左右侍人」とあり、『資治通鑑』巻九四、咸和三年二月に「突入後宮、宮人及左右侍人皆見掠奪」とあるのを参考に訳語を補った。
  • 9
    胡三省によれば「在石頭西岸」(『資治通鑑』巻九四、咸和三年五月の注)。
  • 10
    胡三省によれば「在石頭東北」(『資治通鑑』咸和三年六月の注)。
  • 11
    原文「竟陵太守李陽距賊南偏」。よく読めないが、『建康実録』と『資治通鑑』に関連する記述がないので当てずっぽうで訳出した。
  • 12
    『建康実録』顕宗成皇帝、咸和三年九月によると、蘇峻を斬った場所はのちに「蘇峻湖」と呼ばれるようになったという。「〔陶〕侃督軍護竟陵太守李陽臨陣斬峻于白石陂岸。至今呼此陂為蘇峻湖、今在県西北二十里石頭城正北、白石塁即在陂東岸」とある。
  • 13
    巻六七、温嶠伝には「賊将匡術以台城来降」とあり、匡術は「台城」をもって降ったと記されているが、苑城と台城は同一の城(正確には、台城は苑城改築後の呼称)。苑城とは、孫呉が太初宮の東北に造営していた苑(後苑)のこと。蘇峻の乱平定後、苑城は新たな宮殿として改築され、台城と呼ばれるようになった。詳しくは咸和五年九月の訳注を参照。
     匡術は陸曄の弟の陸玩に説得されたらしい(巻七七、陸曄伝附陸玩伝)。巻八三、袁瓌伝附袁耽伝に「初、路永、匡術、賈寧等皆〔蘇〕峻心腹、聞祖約奔敗、懼事不立、迭説峻誅大臣。峻既不納、永等慮必敗、陰結於導。導使耽潜説路永、使帰順」とあり、咸和三年七月に祖約が石勒軍に敗れたのを機に、匡術らは蘇峻の先行きに不安を覚えて王導に接触を図っていたという。その結果として帰順が実現したのであろう。
  • 14
    五十余日降ったという。巻二七、五行志上に「成帝咸和四年、春雨五十余日、恒雷電。是時雖斬蘇峻、其余党猶拠守石頭、至其滅後、淫雨乃霽」とあり、『建康実録』顕宗成皇帝、咸和四年二月に「時自正月雨至二月、五十日、及滅蘇峻党後、淫雨乃霽」とある。
  • 15
    乱時、蘇峻に媚びを売ってしまったことをいう。汝南王亮伝附羕伝に「咸和初、坐弟南頓王宗免官、降為弋陽県王。及蘇峻作乱、羕詣〔蘇〕峻称述其勲、峻大悅、矯詔復羕爵位。峻平、賜死」とある。
  • 16
    焼失した宮殿というのは、孫呉の太初宮跡地にあった元帝以来の宮廷を指す。建平園については、『建康実録』顕宗成皇帝、咸和五年九月の注に引く「地輿志」に「苑城即呉之後苑也、一名建平園」とあり、後苑=苑城の別名であったとされる。また『建康実録』咸和四年二月には「帝居止蘭台、甚卑陋、欲営建平園」とあり、成帝は臨時に蘭台を居所としたものの、ひじょうに狭いので建平園を営繕しようとしたのだという。のちの孝武帝期、謝安が宮室を改築しようとしたときの王彪之の発言の一節にも「中興初、即位東府、殊為倹陋、元明二帝亦不改制。蘇峻之乱、成帝止蘭台都坐、殆不蔽寒暑、是以更営修築」とある(巻七六、王廙伝附王彪之伝)。これらの記述をふまえれば、本文の「建平園を宮殿とした(以建平園為宮)」とはやや舌足らずな表現で、正確には〈建平園を将来的な宮殿とすることに決定した〉という意味なのだろう。以上を総合すると、元帝以来の宮殿が焼失したため、成帝は蘭台を行宮としたが、旧来の場所(太初宮跡地)に宮室を再建するのではなく、建平園(苑城)を改修して新宮を建てることに決定した、ということになろう。
  • 17
    紘は彭城王釈の子であったが、彭城王の爵は兄の雄が継ぎ、紘は出て高密王を継いだ。しかし雄が蘇峻のもとへ走った罪で戦後に誅殺されると、紘は高密王家から彭城王に戻された。巻三七、宗室伝、彭城穆王権伝を参照。彭城王雄が蘇峻のもとへ走った件は咸和二年十二月の条を参照。誅殺時期はどこにも明記されていないが、『資治通鑑』は弋陽王誅殺と同時としており、おそらく妥当である。
  • 18
    『建康実録』顕宗成皇帝、咸和五年正月の注に「案、呉書、『時諸将屯戍、並留任其子、為立一館、名任子館』。地在宋楽遊苑(建康城より東北の覆舟山のふもと――訳者注)、……晋有江左、其制不改、至此年除之」とある。
  • 19
    のち孝武帝の太元元年、この制は改められ、一人当たりに米を課税する方式へ変更された。巻九、孝武帝紀、太元元年七月を参照。
  • 20
    原文は「遂寇襄陽」で、前文と重複している。『資治通鑑』巻九四、咸和五年九月は「毀襄陽城(襄陽の城壁を破壊した)」としており、おそらくこちらが正しい。
  • 21
    苑城は、『建康実録』顕宗成皇帝、咸和五年九月の注に「案、苑城、即建康宮城」とあるように、のちに台城と呼ばれる城のこと。同注に引く「地輿志」に「苑城即呉之後苑也、一名建平園」とあり、同書、巻二、太祖下、黄龍元年十月に「〔孫権〕至自武昌、城建業太初宮居之。宮即長沙桓王故府也、因以不改。今在県東北三里、晋建康宮城西南、……。初、呉以建康宮城地為苑」とあるように、孫呉の太初宮の東北に位置し、孫呉のときは苑(後苑)であった。『建康実録』によれば、元帝は建康の太初宮跡地の府舎に留まり(巻五、中宗元皇帝、永嘉元年七月)、さらに同書、中宗元皇帝、建武二年の注に「案、……〔元帝〕居旧府舎、至明帝亦不改作、而成帝業始繕苑城」とあり、そのまま明帝まで変わらなかったという。蘇峻の乱で太初宮跡地の宮殿が焼失してしまうと、成帝は跡地に宮殿を再建せず、苑城を改作して新宮を築くことにしたのである。
  • 22
    中華書局校勘記が言うように、顒の官爵が回復されたのは前年九月に欽が河間王に改封されたのと同時であるはずだろう。どちらかの紀年が誤っているのではないか。
  • 23
    融はさかのぼって光煕元年十二月に顒のあとを継いで楽城県王(原文まま)に封じられている(巻五、懐帝紀)。巻五九、河間王顒伝によれば、融はその後に薨去し、建興年間に彭城王釈の子である欽が融のあとを継いだ。そして本帝紀によると、咸和五年九月に欽は河間王に改封された。という経緯なので、この文がここにあるのはおかしい。中華書局の校勘記が指摘するように、衍文だろう。
  • 24
    襄陽は咸和五年八月に郭敬によって陥落していたが、郭敬が樊城に退いたのち、晋軍が回復していた。このときになってふたたび郭敬が落としたのである。巻一〇五、石勒載記下に「初、郭敬之退拠樊城也、王師復戍襄陽。至是、敬又攻陥之、留戍而帰」とある。
  • 25
    『建康実録』顕宗成皇帝、咸和七年によれば、十一月に新宮(台城)が完成し、翌十二月に成帝が移った。同、咸和七年十一月に「新宮成、署曰建康宮、亦名顕陽宮、開五門、南面二門、東西北各一門」とあり、注に引く「図経」に「即今之所謂台城也」とある。
  • 26
    原文「九賓充庭」。「設九賓於廷」(『史記』巻八一、廉頗藺相如列伝)など、類例がいくつか見られる。前三史の旧来の注解だと、「九賓」の語は多く『周礼』秋官、大行人「以九儀辨諸侯之命、等諸臣之爵、以同邦国之礼、而待其賓客」に見える「九儀」と同義だとしている。『周礼』鄭玄注によれば、「九儀」は公・侯・伯・子・男および孤・卿・大夫・士のこと。また『周礼』春官、大宗伯に「以九儀之命、正邦国之位」とあり、鄭玄注に「毎命異儀、貴賤之位乃正」とある。つまり諸侯や臣僚を九つの序列に弁別し、各序列に応じた礼儀で接待することを「九儀」と言うらしい。この意に従い、「新しい宮殿が完成し、ようやく賓客を接待する礼儀が整ったので、あらゆる身分の賓客を集めることができた」という意味で解釈した。
  • 27
    原文「百官象物」。『左伝』宣公十二年に「百官象物而動、軍政不戒而備」とあるが、出典かどうか不明。杜預注に「物、猶類也」とあり、「正義」に「類、謂旌旗画物類也。百官尊卑不同、所建各有其物、象其所建之物而行動」とある。とりあえずこの例を汲み、「あらゆる身分の官僚がおのおのの尊卑序列にのっとって行動している」と解釈することにした。
  • 28
    五匹の絹を束にした贈答品。貴人の招聘や祝儀不祝儀の際に用いた。(『漢辞海』)
  • 29
    この年に北郊を築いたとされる。『建康実録』顕宗成皇帝、咸和八年に「是歳、作北郊于覆舟山之陽、制度一如南郊」とある。
  • 30
    原文「加元服」。はじめて冠を着用したこと、転じて成帝が成人したことを言う。「元服」とは「元(=頭)に服する(=つける)意。男子が成人したとき、はじめて冠をつける儀式である冠礼を「加元服」という」(『漢辞海』)。
  • 31
    教育施設(学校)において牛・羊などの犠牲や供え物をささげて、天地の神や古代の聖人〔特に孔子〕を祭る行事。舎奠。(『漢辞海』)
  • 32
    原文「褒崇明祀」。『左伝』僖公二十一年に「成風為之言於公曰、崇明祀、保小寡、周礼也」とあり、杜預の注に「明祀、大皥・有済之祀」とあるが、これが出典なのかは不明。本文の「明祀」は「重要な祭祀の美称(対重大祭祀的美称)」(『漢語大詞典』)というニュアンスだと考えられる。
  • 33
    三代前までの王朝の子孫のこと。晋朝の場合は魏、漢、周の三王朝。魏(陳留王)はすでに成帝の咸和元年十月に継がれている。
  • 34
    「浮桁」は原文まま。浮橋のこと。この橋は「朱雀橋」とも呼ばれる。朱雀橋は明帝の太寧二年七月、建康に迫った王敦軍を食い止めるため、温嶠によって焼き落とされていた。その後、橋を再建せず、船舶を連ねて作った浮橋で間に合わせていたが、成帝の咸康二年、朱雀橋に通行税を課し、その税収で再建に必要な木材を調達しようという提案が出された。しかし台城建築まもない情勢もあって、この議論は採用されなかったらしい。ただ、再建が必要な何らかの理由はあったようで、新たに杜預の河橋(黄河・孟津にかけた浮橋)の設計に従って朱雀橋を新築したという。『建康実録』顕宗成皇帝、咸康二年十月に「更作朱雀門、新立朱雀浮航。航在県城東南四里、対朱雀門、南度淮水、亦名朱雀橋」とあり、注に引く「地志」に「本呉南津大呉橋也。王敦作乱、温嶠焼絶之、遂権以浮航往来。至是、始議用杜預河橋法作之。長九十歩、広六丈、冬夏随水高下也」とあり、同書、巻九、烈宗孝武皇帝、寧康元年三月の注に引く「地輿志」に「王敦作逆、温嶠焼絶之、是後権以舶航為浮橋。成帝咸康二年、侍中孔坦議復税橋、行者収直、以具其材、但苑宮初理不暇、遂浮航相仍」とある(なお「地志」と「地輿志」はともに顧野王『輿地志』のことである)。
  • 35
    秦淮水の南にあったという。『建康実録』顕宗成皇帝、咸康三年正月に「詔立太学於淮水南。在今県城南七里、丹楊城東南、今地猶名故学」とある。
  • 36
    地理的に後趙の将とするのはおかしい。巻七三、庾亮伝は、「蜀」を攻めてこの二人を捕えたと記述しているし、『資治通鑑』巻九六、咸康五年四月も二人を漢の将と記している。ただ、巻一〇六、石季龍載記上および『資治通鑑』巻九六、咸康六年によれば、李閎(李宏)はこののちに晋から後趙へ亡命したというので、そのあたりの事情を混同して本文は「石虎の将」と記してしまったのかもしれない。
  • 37
    原文「初依中興故事、朔望聴政于東堂」。太極殿東堂での聴政は懐帝紀の末尾にも記載がある。詳しくは懐帝紀の訳注を参照。なお「中興故事」とは元帝時代のことを指すのだろうと思われるが、渡辺信一郎氏[一九九六]は「中興」を「中朝」(西晋時代)の誤りだとしている(七四頁)。
  • 38
    「豊沛」は漢の高祖の出身地のこと。特別な地であるゆえ、漢代では代々免税の恩恵を受けていたという。司馬氏の出身地は河内であって琅邪ではないが、晋朝を中興させた元帝はもともと帝系ではなく、琅邪に封国をもつ諸侯王のひとりであった。琅邪王の位から皇帝の位に登ったことをふまえ、琅邪を東晋皇帝の出身地になぞらえたということであろう。
  • 39
    原文「実編戸、王公已下皆正土断白籍」。「白籍」とは北方からの流民を登録するための臨時的な戸籍のこと。対して、正規の通常の戸籍は「黄籍」という。この記事は諸研究で多く取りあげられてきたが、難解で読み方が定まっていないことでも知られる。先行研究の諸見解は[大川一九八七]二六三―二六六頁、[松丸ほか一九九六]一二三―一二五頁(執筆:中村圭爾氏)を参照。訳者自身、この方面の研究には詳しくないので、細かく説明を加えることは避けたい。ここでは安田二郎氏[二〇〇三]の解釈、すなわち〈僑民は僑州郡県の官府から黄籍によって把握されていたが、咸康土断によって、現住地の官府からも白籍によって把握されるようになった〉という見解に従い、訳文を作成してみた。[安田二〇〇三]五〇五―五〇八頁を参照。
  • 40
    『南斉書』巻一一、楽志に「角抵・像形・雑伎、歴代相承有也。其増損源起、事不可詳。……江左咸康中、罷紫鹿・跂行・鼈食・笮鼠・斉王巻衣・絶倒・五案等伎、中朝所無、見起居注、並莫知所由也」とあるのはここと対応した記述か。
  • 41
    中華書局は傍線を引いていないが、成帝の長子で、のちの哀帝の字であろう。哀帝は三六五年に享年二十五で没しているので、生年は三四一年、すなわち咸康七年で、成帝が没する一年前に生まれた。なお同年に没している杜皇后の子ではなく、側室の周氏の子である。
  • 42
    庾亮のこと。「舅」は母親の兄弟を指す。成帝の母・明帝皇后の庾氏は庾亮の妹であった。
  • 43
    なお汝南王亮伝附宗伝によると、南頓王は成帝の咸康年間に名誉を回復されたという。
  • 44
    『建康実録』はこの一件を咸康八年二月にかけている。
  • 45
    原文は「恭倹之徳」。『論語』学而篇に「子貢曰、『夫子、温・良・恭・倹・讓以得之』」とあるのをふまえたものであろう。
  • 46
    原文「雄武之度、雖有愧於前王、恭倹之徳、足追蹤于往烈矣」。元帝にも「恭倹之徳雖充、雄武之量不足」(巻六、元帝紀)と、まったく同じ評価が与えられている。
  • 47
    原文「時帝諒陰不言」。『論語』憲問篇に「子張曰、『書云、高宗諒陰、三年不言、何謂也』。子曰、『何必高宗、古之人皆然。君薨、百官総己、以聴於冢宰三年』」とあるのをふまえた所作。
  • 48
    原文「帝親奉奠于西階」。よくわからない。『礼記』檀弓下篇に「奠以素器、以生者有哀素之心也」とあり、「正義」に「奠、謂始死至葬之時祭名。以其時無尸、奠置於地、故謂之奠也」とあるのを言うか。
  • 49
    原文「琅邪国及府吏」。国の吏とは内史などの地方行政に従事する官吏で、府の吏とは王文学など王に仕える官吏を指すか。
  • 50
    文脈に即して考えれば、ここで念頭に置かれているのは服喪の年数を短縮するしきたりであろう。
  • 51
    原文まま。直前の文と重複している。
  • 52
    原文「巴東太守楊謙撃李勢・勢将申陽」。とくに校勘もないが、「勢」は一字衍字ではなかろうか。さしあたり衍字とみなして訳出した。
  • 53
    かりに成帝の子が即位して世代が一つ下ってしまうと、祖父世代の外戚という立場に変わってしまい、重みが相対的に軽くなってしまうかもしれない。しかし成帝の同母弟(つまり庾皇后の子)が即位すれば、皇太后の一族という立場をこのままキープできる。こういう理屈であろう。
  • 54
    原文「制度年号、再興中朝、因改元為建元」。読みにくい。和刻本は「制度」を名詞として読んでいるが、それだとどのような意味になるのかわからない。『通典』巻五五、告礼に、改元の礼をめぐる康帝時代の議が記録されている。その議も詳しく読めないのだが、結論として、西晋時代(恵帝時代)の前例に従うことにしたようである。これをふまえ、「制度」を動詞で読み、「年号の制度を定める」という意味で取ることにした。「建元」にどういう含意があるのかは不明だが、『漢語大詞典』によれば「開国後にはじめて年号を建てること(開国後第一次建立年号)」というニュアンスがあるというので、「物事のはじまり」のような含みがあったのだろうか。なお『魏書』巻九六、僭晋司馬叡伝には「初岳之立、当改元、庾氷立号、而晋初已有、改作、又如之、乃為建元」とあり、庾氷が新年号を考案するさい、候補案が「晋初」のものと二回重複したという。「晋初」とは西晋時代を指すのであろう。それが二度(=「再」)あったというので、もしかすると本文の「制度年号、再興中朝」と何らかの対応関係にあるのかもしれない。
  • 55
    つまり「建元之際、岳傾く」になる。
  • 56
    巻七二、郭璞伝によると、この予言は庾氏および庾翼を占ったときのものだという。「初、庾翼幼時嘗令璞筮公家及身、卦成、曰、『建元之末丘山傾、長順之初子凋零』。及康帝即位、将改元為建元、或謂庾氷曰、『子忘郭生之言邪。丘山上名、此号不宜用』。氷撫心歎恨」とある。
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