巻六十一 列伝第三十一 華軼 劉喬

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周浚(附:周嵩・周謨・周馥)・成公簡苟晞華軼・劉喬(附:劉耽・劉柳)

華軼

 華軼は字を彦夏といい、平原の人で、魏の太尉であった華歆の曾孫である。祖父の華表は太中大夫、父の華澹は河南尹であった1華表は巻四四に立伝されている。。華軼は若くして才気を発揮し、当世に名声を揚げ、博愛寛容で、輿論はこれを称賛した。最初は博士となり、昇進を重ねて散騎常侍に移った。東海王越は兗州牧となると、〔華軼を〕召して留府長史とした。永嘉年間、振威将軍、江州刺史を歴任した。戦乱にみまわれたとはいえ、つねに礼制を尊重し、〔江州に〕儒林祭酒を置いて道訓(道徳の教え?)を広めようとして、教(文書の形式のひとつ)を下して言った2巻九一、儒林伝、杜夷伝に以下とほぼ同文の教が掲載されているが、そちらでは元帝の教だとされている。、「いま、大義(特に重要な道義)は退廃し、礼制は根本を失っているが、朝廷の難渋な議論では正すことができないため3原文「朝廷滞議、莫能攸正」。杜夷伝は「滞議」を「滞義」に作る。意味が読み取りにくいが、「朝廷の論議は難しくて下々には効果がない」という趣旨か。、つねに慨嘆している。特別にこの官(儒林祭酒)を置き、それらの事柄(道義や礼)を広めさせるべきであろう。軍諮祭酒の杜夷は、精神を幽遠の境地に置き、まことに凡俗を超越し、才知と学識は幅広く、道徳が優美にそなわっている。そこで、〔杜夷を〕儒林祭酒とする」。ほどなく、賊の討伐への協力を呼びかける東海王の檄書を受け取ったので、華軼はまえの江夏太守の陶侃を揚武将軍に任じて派遣し、兵三千を統率させて夏口に駐屯させ、声援(遠方からの支援)をさせた。華軼は江州在任中、ひじょうに威厳と恩恵があり、江州の豪士を友人として接遇し、江南の歓心を獲得し、流亡の士は故郷へ帰るかのように華軼のもとへ〔頼って〕赴いたのであった。
 その当時、天子は孤立して危険な状況にあり、四方(天下)は崩壊していたが、華軼は天下を正さんとする志を抱き、いつも貢献の使者をつかわして洛陽に入らせ、臣としての節義を失わなかった。〔華軼は洛陽へ進発する〕使者に向かって、「もし洛陽への道路が断絶していたら、これを琅邪王(元帝)のもとへ運び、私が司馬氏のためにやっているのだということを証明しなさい」と言っていた。華軼は、自分は洛陽(中央政府)の指示を受けていると考えていたが、しかし寿春(元帝)から監督下に置かれてしまった4原文「軼自以受洛京所遣、而為寿春所督」。『資治通鑑』巻八七、永嘉五年六月は「自以受朝廷之命、而為琅邪王睿所督」に作る。「みずから思う(自以)」がどこまで掛かっているのかで判断に迷う。和刻本は「為寿春所督」までとしているが、それだと訳文が作りにくく感じたため、「受洛京所遣」までとして訳した。『晋書斠注』に引く「読史挙正」は「この当時、元帝は建業に鎮していたのになぜ『寿春』と言っているのか」と指摘している。。その当時は洛陽がまだ健在であったので、〔華軼は〕元帝の教命を奉じることができなかった。〔江州の〕郡県〔の長官〕は多くが華軼を諫めたが、華軼は聴き入れず、「私は詔書を見たいだけだ5原文「吾欲見詔書耳」。「詔書でなければ従えない」という意味であろう。」と言った。そのころ、元帝は揚烈将軍の周訪を派遣して、軍を率いさせて彭沢6彭沢は県名で、長江の南に位置する。もとは豫章の属県であったが、永嘉元年に尋陽の所属に改まる。元康元年に江州が新設された際、豫章とともに江州の所属へ移っている。すなわち江州域内の県である。に駐屯させ、華軼に備えさせようとしていた。周訪が姑孰(于湖県内の地名)に立ち寄ったとき、著作郎の干宝が訪問して挨拶すると、周訪は言った、「大府(元帝)から職分を授かり、彭沢に駐屯するよう命じられたが、彭沢は江州の西門である7彭沢は江州の西方の境界に近い土地というわけでもないし、州治の豫章(南昌県)から見ても西というよりは北にある県なので、「西門」と言っているのはよくわからない。。華彦夏は天下を憂える真心(まごころ)を有しているけれども、ぼんやりと他人から指図されるのを良しともしない。近ごろは〔華軼とわれわれとのあいだで〕いざこざがあったから、〔華軼はわれわれに対して〕少々疑念をもっていよう。いま、そのうえに正当な理由もなく軍隊で江州の西門を守備すれば、すぐにも亀裂を生んでしまうことになるだろう。〔そこで〕私は尋陽故県8尋陽は江州の領域内にある地名。長江の北にあり、彭沢から見れば長江を挟んで北西に位置する。『宋書』巻三六、州郡志二、江州によれば、武帝の太康二年時点では廬江の属県であったが、恵帝の永興元年に尋陽郡が新設されると、その属県に改まり、その後、尋陽県は廃止されたという。ここで「故県」と言われているのも、この当時も依然として廃止されたままであったからであろう。に駐屯しようと思う。江西(江北)におれば、北方を防衛することができるだけでなく、〔われわれが〕近づいてくることに対して疑いをかけてこないであろう」。まもなく洛陽が陥落すると、司空の荀藩が檄書を発して、元帝を盟主とした。すぐさま元帝は承制し、長吏(県の長官)を改任したが、華軼はまたしても命令に従わなかった。こうして、〔元帝は〕左将軍の王敦に甘卓、周訪、宋典、趙誘らを統率させて派遣し、これを討たせた。華軼は別駕従事の陳雄を派遣し、彭沢に駐屯させて王敦を防がせ、自身は水軍を組織して外援(外側からの援護?)した。武昌太守の馮逸は湓口に駐屯したが、周訪は馮逸を攻め、これを破った9武昌は江州所属の郡なので、馮逸は刺史の華軼に従っていたというわけである。。まえの江州刺史の衛展は華軼から礼遇を受けなかったため、内心ではつねに不満を抱いていた。このときになって、〔衛展は〕豫章太守の周広と内応し10豫章は江州所属の郡。、ひそかに軍を配置して華軼を襲撃した。華軼軍は潰走し、〔華軼は〕安城へ逃げたが、〔元帝側の軍は〕追撃して華軼とその五人の子を斬り、首を建業へ送った。
 これ以前、広陵の高悝が江州に僑居したとき、華軼は辟召して西曹掾とした。ほどなく華軼が敗北すると、高悝は華軼の二人の子と華軼の妻をかくまい、〔三人を引き連れて〕あちこちを放浪しながら一年を過ごした11原文は「経年」なので「数年のあいだ」が正しいかもしれない。。すると赦令に恵まれたので、高悝は三人を連れて自首した。元帝は嘉して高悝らを赦免した。

劉喬

 劉喬は字を仲彦といい、南陽の人である。先祖は漢の宗室で、安衆侯に封じられ、〔その封爵は〕三世代のあいだ継承された12『新唐書』巻七一、宰相世系表一上、南陽劉氏には「南陽劉氏出自長沙定王。生安衆康侯丹、襲封三世、徙沮陽」とある。この安衆侯の丹は『漢書』巻一五、王子侯表上に確かに記録されているが、同表によれば三世代以上にわたって封爵は継がれている。。祖父の劉廙は魏の侍中、父の劉阜は陳留相であった13劉廙は『三国志』魏書二一に列伝がある。同伝によれば、劉阜は劉廙の弟の子で、劉廙に息子がいなかったため、劉廙のあとを継ぐことになったという。。劉喬は若くして秘書郎となり、建威将軍の王戎が召して参軍とした。伐呉の戦役では、王戎は劉喬と参軍の羅尚に長江を渡らせ、武昌を落とさせた。帰還後、滎陽令に任じられ、太子洗馬に移った。楊駿を誅殺した功績により、関中侯を賜わり、尚書右丞に任じられた。賈謐の誅殺に協力したことをもって、安衆男に封じられ、昇進を重ねて散騎常侍に移った。
 斉王冏が大司馬となった当初、嵆紹は斉王から尊敬を受けており、〔斉王は〕いつも階段を下りて嵆紹を迎えていた。劉喬は斉王に言った、「裴頠や張華が誅殺されると、朝臣は孫秀を恐れ憚るようになりました。そのため、どうしても〔孫秀から贈られた〕財物を受け取らないわけにはいかなかったのです。嵆紹はいま、忌避している何かがあって、そのゆえに裴家の車牛や張家の奴婢を養っているのでしょうか14嵆紹は孫秀にすらもビビらないような、誰にも物怖じしない人間のはずなのに、どうして孫秀から贈られたこうした財物を受け取っていると思いますか? という意味であろうか。。楽彦輔(楽広)がやって来ても、公は牀(腰掛け)から下りたことがありませんのに、どうして嵆紹にだけ敬意を加えているのでしょうか」。そこで斉王は〔わざわざ階段を下りて迎えることを〕止めたのであった。嵆紹は劉喬に言った、「大司馬はどうして客を迎えなくなってしまったのだろうか」。劉喬、「正人が進言して、卿は迎えるに値しない人物だと言ったそうだ」。嵆紹、「正人とは誰かね」。劉喬、「其ノ則(のり)、遠カラズ、というやつさ」15原文「其則不遠」。『毛詩』豳風、伐柯を出典とするか。鄭箋は「則」を「法」と読む。「お手本は身近にある」という意味で、やや文脈にそぐわないかもしれない。表現としては典故をふまえつつ、実質的な意味としてはたんに「身近にいるよ」と言っているだけか。。嵆紹は黙ってしまった。
 しばらくして御史中丞に移った。斉王の腹心の董艾は権勢が朝廷を傾かせるほどで、百官は彼に逆らおうとしなかった。〔御史中丞として〕劉喬は二旬(二十日)のあいだに董艾の罪を六度弾劾した。董艾は尚書右丞の苟晞へ遠回しに要求し、劉喬を免官させた。ふたたび〔起家して〕屯騎校尉となった。張昌が反乱を起こすと、劉喬は地方に出て威遠将軍、豫州刺史となり、荊州刺史の劉弘と協力して張昌を討伐し、左将軍に進められた。
 恵帝が西方へ行幸して長安へ行くと16河間王顒の将・張方によって、河間王の本拠の長安へ連行されたことを言う。、劉喬は各地の州郡と共同して挙兵し、天子を奉迎しようとした。東海王越は承制し、劉喬を安北将軍、冀州刺史へ転任させ、范陽王虓を領豫州刺史とした。劉喬は、范陽王〔の領豫州刺史〕は天子の命令ではないと思い、交代を受け入れず、軍を動員して范陽王を拒んだ。潁川太守の劉輿は范陽王と親しかったので、劉喬は尚書省に奏上し、劉輿の罪を列挙した。河間王顒は劉喬の奏上文を得ると、詔を宣布し、鎮南将軍の劉弘、征東大将軍の劉準、平南将軍の彭城王釈に、劉喬と協力して許昌の范陽王を攻めるよう命じた17ただの感想だが、劉喬は河間王のもとから恵帝を取り戻そうとしていたはずなのに、いつのまにか河間王に助力を仰ごうとしているのだから、よくわからないものである。。劉輿の弟の劉琨は軍を率いて范陽王の救援に向かったが、到着する前に范陽王は敗北し、そこで范陽王は劉琨とともに河北へ逃れた。ほどなく、劉琨は突騎五千を率いて黄河を渡り、劉喬を攻めると、劉喬は劉琨の父の劉蕃を拉致して檻車に乗せ、考城にこもって范陽王を防いだが、劉喬軍は対抗しきれずに潰走した。
 劉喬は散り散りになった兵を集め、平氏に駐屯した。河間王は劉喬を鎮東将軍、仮節に進め、長子の劉祐を東郡太守とし、さらに劉弘、劉準、彭城王らに軍を統率させ、劉喬の救援に向かわせた。劉弘は劉喬に書簡を送って言った18後の訳注でも触れるが、本伝は時系列がやや混乱している。この書簡も本文の時期(劉喬が敗退して平氏に駐屯しているころ)のものではなく、これ以前の劉喬と范陽王らの対立が表面化したころのものと見なすのが、内容的には自然である。実際、『資治通鑑』巻八六、永興二年十月はその時期の書簡として配列している。

 ちょうどお伺いしたところによると、范陽王は明使君と交代することを望んでおられるとか。明使君は本朝より任命を受け、方伯(州刺史)の地位に並べられ、官に就いて仕事を遂行し、〔みなと〕共同して王室を支えていたというのに、不合理に交代させられるとは、まことに不当です。しかし、古人にはこんな言葉があります。牛を引いて他人の田を踏みつけるのは確かに罪だが、〔だからといって罰として〕その牛を奪ったら、罰も重すぎる、と(『左伝』宣公十一年)。明使君は亮直狷介(公正で妥協を許さない)という怒りを抑えられず、すすんで戦いの首領者になりましたが、私が思うに、これは誤りでしょう。どうしてそう思うのかお話します。至人の道とは、用いられれば仕え、棄てられれば隠れる、というものです19原文は「用行舎蔵」。『論語』述而篇の「用之則行、舍之則蔵」をつづめた表現。「出処進退をわきまえていること」(『漢辞海』)。。〔韓信の故事が示すように、〕股下をくぐるという屈辱ですら、自己を曲げて甘んじるべきですから、まして交代の不満や些末な過失であればなおさらでしょう。范陽王は宗室で、使君は庶姓ですが、周の会盟では、血縁の疎遠な者が親族のあいだに割って入ることはできません20原文「周之宗盟、疎不間親」。『左伝』隠公十一年の「周之宗盟、異姓為後」にもとづくか。杜預注に「盟載書、皆先同姓」とある。「宗盟」という表現の意味については諸説あるようだが、ここではたんに「会盟」と訳しておいた。このあたりの文章は前後での意味のつながりが読み取りにくいが、「納得できないなら辞職すればいい。辞職するほどではないと思うなら忍べばよい。宗室優先になるのは仕方のないことなのだから」という話をしているのだろうか。。理非曲直が正されれば、〔使君にも〕責任を問われるところがあることでしょう21原文「曲直既均、責有所在」。自信はないが、「客観的に是非を判定したら、あなたにも問題はあることになると思いますよ」という意味であろうと解釈した。。廉頗と藺相如は小さな戦国(趙)の将にすぎませんが、彼らでさえ、昇降格を受け入れて22原文「能升降」。「能」をどういう意味で取ればよいのか考えあぐねる。やっつけ気味に訳した。社稷に利益をもたらしました。命世23当世において著名であること。多くは治国の才能を有する者を褒め称えるために用いられた。(著名于当世。多用以称誉有治国之才者。)(『漢語大詞典』)の士であればなおさらそうすべきではありませんか。現在、天下は入り乱れ、主上は流浪されているのですから24恵帝が河間王顒の本拠・長安へ連行されていたことを指すと思われる。、まさしく忠臣や義士は心をひとつにして力を合わせるべき時なのです。弘(わたし)はまことに愚劣ですが、国恩を過分に賜わりましたので、願わくは使君といっしょになって、ともに盟主を戴き、その風下で整列し、悪賊を排除し、民衆を苦境から救い、陛下を都にお戻ししたいと思う次第であります。この功業が成就しないうちは、仲たがいすべきではありません。〔陛下から〕十分に恩顧をこうむり、通常よりも気にかけていただいたのですから、忠誠心を発揮して、力を尽くさないわけにはいかないでしょう。春秋時代、諸侯は戦いあっていましたが、和親を結ぶことも多くありました。明使君に願わくは、過去の怒りを撤回し、先人の忠義の行動を手本とし、絡まり合った〔わだかまりの〕結び目を解きほぐし25原文「追不二之蹤、解連環之結」。両句ともこういう意味の取り方で正確なのか、自信はもてない。、当初のような友好を修めてくださいませんか。范陽王も過日の間違いを後悔し、将来的な信頼を大切にしようと考えているはずです。

 東海王が劉喬を討とうとしていたので26前の劉喬宛ての書簡同様、この書簡も実際は対立が表面化したころのものだと思われる。、劉弘は東海王にも書簡を送って言った。

 ちょうどお伺いしたところでは、わが州将(劉喬)27原文は「吾州将」。後文もふまえると、劉喬個人を指して言っているものと思われる。が勝手に挙兵して范陽王を追い出したというのを名分に、彼を討伐なさるおつもりとのこと。確かに反対者を明るみにし、反乱を懲罰するという妥当性はあります。しかし、私はよいこととは思いません。その理由を申し上げます。現在、天子は居所を移され、〔長安へ〕行幸されており、諸侯は義を掲げて王室のために策謀を練っています。わが州将は国家の重恩をこうむり、方伯の位に並べられましたから、〔彼にとっても〕やはり太鼓を叩いて武器を取り、力を合わせて命を差し出す時でした。にもかかわらず、范陽王が彼に交代しようとしたのです。わが州将がそれに従わなかったのは、その交代が不当だったからです。その誤りを正そうとして度が過ぎてしまい、かえって罪を犯すことになってしまったにすぎません。むかし、斉の桓公は帯金を射た仇を許して管仲を宰相とし、晋の文公は袖口を斬った怨みを水に流して勃鞮を親任しましたが、むかしのこのような例を現代と比較してみますと、〔現代は〕どのようなことがありましたでしょうか28原文「当何有哉」。自信はないのだが、「現代はむかしの故事とはまるで正反対で、まったく赦さないという事例ばかりですよね」という意味で解釈した。。それに、君子は「自分を深く責めて他人はあまり責めない」(『論語』衛霊公篇)ものです。いま、奸臣が権勢を握り、朝廷は窮地に追い込まれていますが、これは四海が憂慮している事態です。〔ですから、〕私的な怨みを赦し、みなで心をひとつにして公的な義を思い、恥を呑み込んで過ちを見逃し、忍びがたきを忍んで、大逆〔の討伐〕を優先し、〔天子の〕奉迎を急務とすべきであります。ささいな怨みを根に持ち、大きな徳義を失念してはなりません。もし忠恕(誠意と思いやり)を重んじ、一同で職分29原文は「分局」。「各自に割り振られている役割」の意味で取った。を明確にし、旗を連ねて進軍し、めいめいが臣としての節義を尽くそうとすれば、わが州将は必ずまごころを披露し、受けた恩に報いようとすることでしょう。いっときの過ちを数え上げ、激しい怒りを発し、韓盧と東郭をたがいに疲弊させてヤマイヌやオオカミの獲物にさせてしまう30韓盧(韓子盧)は犬の名、東郭(東郭逡)は兎の名。『戦国策』斉策三に関連する説話が収録されている。韓盧が東郭を追いかけまわしたが捕まらず、最終的にどちらも疲弊して死んでしまったところ、それを農夫が労せず獲物として得たという話。のは、じつにいけません。私は庶姓とはいえ、分不相応の位を授けられていますが、まことに足下に願わくは、内外の人々をひとつにまとめあげて、王室を安んずるようにしていただきたく存じます。同輩(劉喬)がみずから危害を起こしていることに、私としては恥ずかしく思っております。分をわきまえずに考えを申し上げましたが、どうか足下におかれましては、わが愚考について考慮していただきますよう。

 さらに〔劉弘は長安の朝廷にも〕上表した。

 范陽王の虓が豫州刺史の劉喬に交代しようとしたところ、劉喬は挙兵して范陽王を追い出したのですが、司空の東海王の越は、劉喬が命令に従わなかったことをもって、これを討とうしています。臣が考えますに、劉喬はかたじけなくも格別の恩遇を賜わり、州司(州の長官)に就けられ、功業をしかるべき機会に打ち立てて国難に身を投げ出すつもりでおり、別に過失はありませんでした。にもかかわらず、范陽王は劉喬に取って代わろうとしたわけで、劉喬に交代しようとしたのは誤りでした。しかし劉喬も、范陽王の誤りを理由として勝手に武力を発動し、独断で討ったことは許されません。まこと、誅殺して不敬を罰するべきでしょう。ですが、最近は戦争が入り乱れ、猜疑心の招く災禍が多発しています。おそらくは、疑心が諸王を仲たがいさせ、災難が宗室のあいだにはびこり、〔実力者の〕権勢が朝廷をしのぎ、反逆なのか忠順なのかが勝敗次第で証明されるようになっています31原文「逆順効於成敗」。よく読めないが、訳文のような趣旨であろうと解釈した。。今日の夕暮れは忠誠となっても、明日の朝には反逆となり、正反対に立場が入れ替わって、かわるがわる軍の首領者となっているありさまです。史籍の記録上、骨肉の禍が現在のようなものであったためしはありません。臣はこのことを悲しく思い、心を痛めて頭を悩ませています。いま、辺境には事前の貯蓄がなく、中華(中央)には機織りすらできないほどに物がなくて貧窮しているというのに、股肱の立場にある臣下は国体に心をめぐらせず、競争にいそしむことが常態化し32原文「職競尋常」。「職競」は『毛詩』小雅、十月之交「職競由人」が出典。毛伝に「職、主也」とある。、相互に傷つけ合い、起こす損害はますますひどくなり、積み重なった讒言がひとを死に追いやっています。万一にも四夷が隙に乗じて事変を起こせば、これまた「猛虎が闘い合っているので、みずからは卞荘に倣う」というものです33原文「此亦猛獣交闘、自効於卞荘者矣」。卞荘(卞荘子)は魯の勇士。ここの記述に関する逸話は『史記』巻七〇、張儀列伝所載の陳軫の弁論に見える。卞荘が虎を仕留めようとしたところ、「二匹の虎が闘い合って片方が死ぬのを待ってからもう片方を仕留めれば、一挙で二匹を仕留めたことになります」と勧める者がおり、卞荘はこれに従って功を立てたという。。臣が考えますに、すみやかに明詔を発出し、東海王らに命じて双方を和解させ、それぞれに職分を守るようにさせるべきです。今後、詔書を授かっていないのに勝手に軍を動員する者がいたら、天下で共同してこれを討つことにいたしましょう。『詩』に「熱いものを持って、水で手を冷ましに行かずにいられる者がいるだろうか」(大雅、桑柔)とありますが、もしもまことに今回の争いを冷ますことができましたら、必ずや灼熱のごとき禍が消え失せ、泰山のような安泰が末永くつづくことでしょう。

 この当時、河間王はちょうど関東の諸軍34原文はたんに「関東」。東海王を盟主とする同盟軍のこと。を防ごうとしているところで、劉喬を頼りにして〔自身への〕援護にしようとし、劉弘の進言を聴き入れなかった。東海王は天下に檄書を発し、鎧兵士三万を率い、関中に入って天子を奉迎しようとして、蕭に駐屯した。劉喬は危惧し、子の劉祐を派遣して、蕭の霊壁で東海王を防がせた。劉琨が兵を割いて〔劉喬軍が占拠している〕許昌へ向かわせると、許昌の人々はこれを受け入れた。〔その一方で〕劉琨は滎陽から兵を率いて東海王を迎えようとしたところ、劉祐に遭遇した。〔劉祐の〕軍は潰走し、〔劉祐は〕殺され、劉喬軍はとうとう散り散りとなり、劉喬は五百騎を連れて平氏へ逃げた35ここの記述は前文の「ほどなく、劉琨は突騎五千を率いて黄河を渡り、劉喬を攻めると……」のくだりと重複している。ただし前文では、このあと劉祐は東郡太守に任命されており、ここの「殺された(見殺)」とは異同が生じている。
 恵帝が洛陽に帰還し、大赦すると、東海王はさらに上表し、劉喬を太傅府の軍諮祭酒とした。東海王が薨じると、ふたたび劉喬を都督豫州諸軍事、鎮東将軍、豫州刺史とした。在官中に卒した36巻一〇四、石勒載記上によれば、東海王の征軍に従軍しており、王衍らとともに死亡したようである。。享年六十三。愍帝の末、司空を追贈された。子の劉挺は潁川太守となった。劉挺の子は劉耽という。

〔劉耽:劉喬の孫〕

 劉耽は字を敬道という。若くして品行があり、義が高尚であることから名声を博し、宗族から推薦を受けた。博学で、詩、礼、三史(『史記』『漢書』『東観漢記』)に通じていた。度支尚書を歴任し、散騎常侍を加えられた。在職中は公正清廉で慎み深く、どの官でも成績をあげた。桓玄は劉耽の娘婿であった。桓玄が輔政すると、劉耽を尚書令とし、侍中を加えたが、〔劉耽は〕受けなかったので、あらためて特進、金紫光禄大夫を授けた。まもなく卒し、左光禄大夫、開府を追贈された。劉耽の子は劉柳という。

〔劉柳:劉耽の子〕

 劉柳は字を叔恵といい、劉耽同様に名声があった。若くして清官に登用され、尚書の左右僕射を歴任した。当時、尚書右丞の傅迪は好んで広く読書していたが、書物の内容を理解できていなかった。劉柳は『老子』だけを読むので、傅迪はいつも劉柳を軽んじていた。劉柳は言った、「卿はたくさん書物を読んでいますが、ちっとも内容をわかっていません。本箱と言ったほうがいいでしょうね37原文「可謂書簏矣」。本をたくさん読んでいる人を「生きた本のよう」ではなく、「本をしまう箱のよう」だと評した言葉。スペースはあるが中身は空っぽ、という意味の皮肉であろうか。」。世の人々はこれを大事な言葉だと見なした。地方に出て徐州刺史、兗州刺史、江州刺史となった。卒し38『宋書』巻六九、劉湛伝によれば、江州刺史在任中に卒したようである。劉湛は劉柳の子。、右光禄大夫、開府儀同三司を贈られた。

〔劉乂:劉喬の弟〕

 劉喬の弟の劉乂は始安太守となった。劉乂の子の劉成は丹陽尹となった。

 

 史臣曰く、(以下略)

周浚(附:周嵩・周謨・周馥)・成公簡苟晞華軼・劉喬(附:劉耽・劉柳)

(2025/11/30:公開)

  • 1
    華表は巻四四に立伝されている。
  • 2
    巻九一、儒林伝、杜夷伝に以下とほぼ同文の教が掲載されているが、そちらでは元帝の教だとされている。
  • 3
    原文「朝廷滞議、莫能攸正」。杜夷伝は「滞議」を「滞義」に作る。意味が読み取りにくいが、「朝廷の論議は難しくて下々には効果がない」という趣旨か。
  • 4
    原文「軼自以受洛京所遣、而為寿春所督」。『資治通鑑』巻八七、永嘉五年六月は「自以受朝廷之命、而為琅邪王睿所督」に作る。「みずから思う(自以)」がどこまで掛かっているのかで判断に迷う。和刻本は「為寿春所督」までとしているが、それだと訳文が作りにくく感じたため、「受洛京所遣」までとして訳した。『晋書斠注』に引く「読史挙正」は「この当時、元帝は建業に鎮していたのになぜ『寿春』と言っているのか」と指摘している。
  • 5
    原文「吾欲見詔書耳」。「詔書でなければ従えない」という意味であろう。
  • 6
    彭沢は県名で、長江の南に位置する。もとは豫章の属県であったが、永嘉元年に尋陽の所属に改まる。元康元年に江州が新設された際、豫章とともに江州の所属へ移っている。すなわち江州域内の県である。
  • 7
    彭沢は江州の西方の境界に近い土地というわけでもないし、州治の豫章(南昌県)から見ても西というよりは北にある県なので、「西門」と言っているのはよくわからない。
  • 8
    尋陽は江州の領域内にある地名。長江の北にあり、彭沢から見れば長江を挟んで北西に位置する。『宋書』巻三六、州郡志二、江州によれば、武帝の太康二年時点では廬江の属県であったが、恵帝の永興元年に尋陽郡が新設されると、その属県に改まり、その後、尋陽県は廃止されたという。ここで「故県」と言われているのも、この当時も依然として廃止されたままであったからであろう。
  • 9
    武昌は江州所属の郡なので、馮逸は刺史の華軼に従っていたというわけである。
  • 10
    豫章は江州所属の郡。
  • 11
    原文は「経年」なので「数年のあいだ」が正しいかもしれない。
  • 12
    『新唐書』巻七一、宰相世系表一上、南陽劉氏には「南陽劉氏出自長沙定王。生安衆康侯丹、襲封三世、徙沮陽」とある。この安衆侯の丹は『漢書』巻一五、王子侯表上に確かに記録されているが、同表によれば三世代以上にわたって封爵は継がれている。
  • 13
    劉廙は『三国志』魏書二一に列伝がある。同伝によれば、劉阜は劉廙の弟の子で、劉廙に息子がいなかったため、劉廙のあとを継ぐことになったという。
  • 14
    嵆紹は孫秀にすらもビビらないような、誰にも物怖じしない人間のはずなのに、どうして孫秀から贈られたこうした財物を受け取っていると思いますか? という意味であろうか。
  • 15
    原文「其則不遠」。『毛詩』豳風、伐柯を出典とするか。鄭箋は「則」を「法」と読む。「お手本は身近にある」という意味で、やや文脈にそぐわないかもしれない。表現としては典故をふまえつつ、実質的な意味としてはたんに「身近にいるよ」と言っているだけか。
  • 16
    河間王顒の将・張方によって、河間王の本拠の長安へ連行されたことを言う。
  • 17
    ただの感想だが、劉喬は河間王のもとから恵帝を取り戻そうとしていたはずなのに、いつのまにか河間王に助力を仰ごうとしているのだから、よくわからないものである。
  • 18
    後の訳注でも触れるが、本伝は時系列がやや混乱している。この書簡も本文の時期(劉喬が敗退して平氏に駐屯しているころ)のものではなく、これ以前の劉喬と范陽王らの対立が表面化したころのものと見なすのが、内容的には自然である。実際、『資治通鑑』巻八六、永興二年十月はその時期の書簡として配列している。
  • 19
    原文は「用行舎蔵」。『論語』述而篇の「用之則行、舍之則蔵」をつづめた表現。「出処進退をわきまえていること」(『漢辞海』)。
  • 20
    原文「周之宗盟、疎不間親」。『左伝』隠公十一年の「周之宗盟、異姓為後」にもとづくか。杜預注に「盟載書、皆先同姓」とある。「宗盟」という表現の意味については諸説あるようだが、ここではたんに「会盟」と訳しておいた。このあたりの文章は前後での意味のつながりが読み取りにくいが、「納得できないなら辞職すればいい。辞職するほどではないと思うなら忍べばよい。宗室優先になるのは仕方のないことなのだから」という話をしているのだろうか。
  • 21
    原文「曲直既均、責有所在」。自信はないが、「客観的に是非を判定したら、あなたにも問題はあることになると思いますよ」という意味であろうと解釈した。
  • 22
    原文「能升降」。「能」をどういう意味で取ればよいのか考えあぐねる。やっつけ気味に訳した。
  • 23
    当世において著名であること。多くは治国の才能を有する者を褒め称えるために用いられた。(著名于当世。多用以称誉有治国之才者。)(『漢語大詞典』)
  • 24
    恵帝が河間王顒の本拠・長安へ連行されていたことを指すと思われる。
  • 25
    原文「追不二之蹤、解連環之結」。両句ともこういう意味の取り方で正確なのか、自信はもてない。
  • 26
    前の劉喬宛ての書簡同様、この書簡も実際は対立が表面化したころのものだと思われる。
  • 27
    原文は「吾州将」。後文もふまえると、劉喬個人を指して言っているものと思われる。
  • 28
    原文「当何有哉」。自信はないのだが、「現代はむかしの故事とはまるで正反対で、まったく赦さないという事例ばかりですよね」という意味で解釈した。
  • 29
    原文は「分局」。「各自に割り振られている役割」の意味で取った。
  • 30
    韓盧(韓子盧)は犬の名、東郭(東郭逡)は兎の名。『戦国策』斉策三に関連する説話が収録されている。韓盧が東郭を追いかけまわしたが捕まらず、最終的にどちらも疲弊して死んでしまったところ、それを農夫が労せず獲物として得たという話。
  • 31
    原文「逆順効於成敗」。よく読めないが、訳文のような趣旨であろうと解釈した。
  • 32
    原文「職競尋常」。「職競」は『毛詩』小雅、十月之交「職競由人」が出典。毛伝に「職、主也」とある。
  • 33
    原文「此亦猛獣交闘、自効於卞荘者矣」。卞荘(卞荘子)は魯の勇士。ここの記述に関する逸話は『史記』巻七〇、張儀列伝所載の陳軫の弁論に見える。卞荘が虎を仕留めようとしたところ、「二匹の虎が闘い合って片方が死ぬのを待ってからもう片方を仕留めれば、一挙で二匹を仕留めたことになります」と勧める者がおり、卞荘はこれに従って功を立てたという。
  • 34
    原文はたんに「関東」。東海王を盟主とする同盟軍のこと。
  • 35
    ここの記述は前文の「ほどなく、劉琨は突騎五千を率いて黄河を渡り、劉喬を攻めると……」のくだりと重複している。ただし前文では、このあと劉祐は東郡太守に任命されており、ここの「殺された(見殺)」とは異同が生じている。
  • 36
    巻一〇四、石勒載記上によれば、東海王の征軍に従軍しており、王衍らとともに死亡したようである。
  • 37
    原文「可謂書簏矣」。本をたくさん読んでいる人を「生きた本のよう」ではなく、「本をしまう箱のよう」だと評した言葉。スペースはあるが中身は空っぽ、という意味の皮肉であろうか。
  • 38
    『宋書』巻六九、劉湛伝によれば、江州刺史在任中に卒したようである。劉湛は劉柳の子。
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