凡例
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周浚(附:周嵩・周謨・周馥)・成公簡/苟晞/華軼・劉喬(附:劉耽・劉柳)
苟晞は字を道将といい、河内の山陽の人である。若くして司隷校尉の部従事となり、司隷校尉の石鑑は苟晞を高く評価した。東海王越が侍中となると、〔苟晞を〕召して通事令史とし1通事令史は門下の官職ではあるようなのだが、どうして召されているのか、訳者にはよくわからない。、昇進を重ねて陽平太守に移った。斉王冏が輔政すると、苟晞は斉王の参軍事となり、〔ついで〕尚書右丞に任じられ、〔さらに〕尚書左丞に転じた。苟晞は〔尚書丞として〕尚書の諸曹を監察したので、尚書八坐以下はみな、苟晞を憚って正視できなかった。斉王が誅殺されると、苟晞も罪に問われて免じられた。長沙王乂が驃騎将軍となると、苟晞を〔驃騎将軍府の〕従事中郎とした。恵帝が成都王穎を親征したとき、〔朝廷は〕苟晞を北軍中候とした。恵帝が〔鄴から〕洛陽へ帰還すると、苟晞は范陽王虓のもとへ奔った2北軍中候であったということは、彼は洛陽の留守を守る立場にあったはずであり、すなわち朝廷(恵帝)側の立場であったと思われる。にもかかわらず、恵帝が帰還して逃げ出すのは解せないところであり、事情はよくわからない。『資治通鑑』巻八五、永興元年七月は、恵帝の親征が失敗に終わったあとに范陽王のもとへ奔ったとしている。。范陽王は承制して苟晞を行兗州刺史に任用した。
汲桑が鄴を落とすと、東海王は出撃して官渡に駐屯し、そうしてこれを討伐しようと図り、苟晞を前鋒に命じた。汲桑は平素より苟晞を恐れていたので、〔鄴の〕城外に柵を設けて自衛しようとした。苟晞は鄴に到着する目前で軍を止めて兵士を休ませ、先に騎兵一人を派遣し、〔汲桑軍に向けて〕禍福を説示した3この先、どうすれば(=すなおに降伏すれば)幸福を得られて、逆にどうしたら(=このまま刃向かえば)災難が降りかかるのかを説諭したということであろう。。汲桑の兵はおおいに動揺し、〔汲桑は〕柵を放棄して夜中に遁走し、〔鄴に〕籠城して守りを固めた。苟晞は汲桑軍の九つの軍塁を落とし、とうとう鄴を平定して帰還した。西に進んで呂朗らを討ち、これを殲滅した4河間王顒の将に同姓同名の呂朗がいるが、これと同一人物か。そちらの呂朗は恵帝の永興二年に河間王が東へ派遣し、東海王らと対立を起こしていた劉喬の援軍としていた。呂朗らは最終的に東海王らに敗れたが、本伝の文脈からして苟晞は東海王派なので、そのときの戦いに東海王側として参加していたのであろう。巻四、恵帝紀、巻五九、河間王顒伝、巻六二、劉琨伝を参照。。その後、高密王略に従って青州の賊の劉根を討伐し5原文は「後高密王泰討青州賊劉根」。諸家の指摘に従い、「高密王泰」を「高密王略」に改め、「後」の下に「従」を補って読んだ。劉根は劉伯根と同一人物(巻四、恵帝紀、光煕元年、巻一〇〇、王弥伝)。王弥が最初に仕えたボスだが、劉根の反乱は恵帝末年のこと。これに対し、本伝の前に記されている汲桑平定は懐帝の時期(永嘉元年)のことであり、本伝は時系列に混乱が生じている。しかも、劉伯根の反乱討伐戦の関係者として苟晞の名は他の紀伝で確認できない。いろいろと不審な点が残る記述である。、汲桑の故将の公師藩を破り6正しくは、公師藩は成都王の故将。恵帝の末ころ(永興二年)に反乱を起こした。その勢力には汲桑や石勒も加わっていたが、まもなく范陽王が派遣した苟晞に敗れ、斬られた。巻三七、宗室伝、高密文献王泰伝附南陽王模伝、巻一〇四、石勒載記上などを参照。こののち、汲桑と石勒はいったん潜伏して勢力の回復に努め、そして懐帝の永嘉元年、鄴を攻めて落とし、鄴に出鎮していた新蔡王騰を殺した。これを受け、東海王は苟晞を派遣し、苟晞は汲桑を破ったのである。つまり苟晞が公師藩を破ったのはこれよりもずっと以前の出来事であり、本伝の時系列は混乱している。、石勒を河北で破ったため、苟晞の威名はおおいに高まり、世の人々は彼を韓信や白起になぞらえた。位を撫軍将軍、仮節、都督青・兗諸軍事に進められ、東平郡侯に封じられ、食邑は一万戸とされた。
苟晞は官僚事務に習熟しており、書類が積まれても決裁は流れるようにスムーズで、人々はごまかそうとしなかった7原文「人不敢欺」。「人」はおそらく書類を提出してくる部下の官吏を指し、どうせ苟晞はロクに書類を確認してはいないだろうとタカをくくって適当に作成することはしなかった、という意味ではないかと思う。。苟晞の従母(母方のおば)が生活を頼ってくると、手厚く奉養した。従母の子が〔苟晞の〕将になりたいと求めてきたが、苟晞は拒んで言った、「私は、王法をもって人〔の罪過〕を赦したりしない8原文「吾不以王法貸人」。意味が読み取りにくい。自分は王法を遵奉しているが、人の罪を赦すためではなく、処罰や規律のためである、というような意味だろうか。。どうして後悔しないだろうか9原文は「将無後悔邪」。反語文。主語は従母の子とも苟晞とも読めるが、訳者には判断つきがたいので、訳文もあえて曖昧なままとした。」。〔それでも従母の子は〕強く求めたので、ようやく苟晞は督護とした。のちに〔従母の子は〕法を犯したので、苟晞は節を持ちながら彼を斬ろうとした。従母は叩頭して命乞いしたが、聴き入れなかった。ほどなく、素服を着用して哭泣し、涙を流して言った、「卿を殺したのは兗州刺史だ。弟10従母の子なので、苟晞とは同世代である。のために哭泣しているのは苟道将だ」。苟晞が法に依拠するさまはこのようであった。
苟晞は、朝政が日に日に乱れてゆくのを目にして、禍が自分に及ぶのを憂慮していた。一方で交際を結んでいる人間が多くおり、珍奇な物品が手に入るたびに、すぐに都の親貴(天子に親任されている高官)たちに贈っていた。兗州は洛陽を去ること五百里で、〔物品の移送に日数を要すると、〕鮮度が落ちてしまうことを懸念したので、〔快速で移動できるものを〕募集して千里牛(一日に千里進める牛)を入手した。〔この牛を活用することによって、洛陽へ〕贈呈品を送るごとに、朝に出発して夕暮れには帰ってきたのであった11『太平御覧』巻九〇〇、牛下に引く「祖台之志怪」を参考に補った。。
これ以前、東海王は、苟晞が自分のあだと恥辱を晴らしてくれたことから深く恩義に感じ、〔苟晞を〕居宅の広間に招き入れ、誓約を結んで兄弟となっていた。東海王の〔太傅府の〕司馬である潘滔らは説いて言った、「兗州は要衝の地で、魏の武帝はこの地を拠点にして漢室を輔佐したほどです。苟晞は大志を抱いていて、純臣12忠純篤実の臣。(忠純篤実之臣。)(『漢語大詞典』)ではありませんのに、久しくこの地におらせておけば、疾患が心腹から生ずる13「心腹の病」は体内に生じる致命的な病患を言う。ことになりましょう。もし〔苟晞を〕青州へ移し、その官号を手厚くしてやれば、苟晞は必ず喜ぶでしょう。公みずからが兗州牧となり、諸夏(中原)を治め、本朝の藩屏となるのです。これこそ、いわゆる『発生する前に対策を立て、乱れる前に整える』14原文は「謀之於未有、為之於未乱」。似た文言として『老子』第六四章の「為之於未有、治之於未乱」がある。これを参考に訳出した。というものです」。東海王はもっともだと思い、苟晞を征東大将軍、開府儀同三司に移し、侍中、仮節、都督青州諸軍事を加え、領青州刺史とし、郡公に進めた15巻五、懐帝紀によれば、苟晞が征東大将軍に任じられたのは永嘉元年十二月のこと。東海王は同月に丞相、兗州牧となった(懐帝紀、巻五九、東海王越伝)。。こうして苟晞は参左を多く置き、〔自分の裁量で青州の〕郡守や県令を改易した。苛酷な政治によって功績をあげようとし、毎日斬刑を執行し、流血によって川ができるほどのありさまで、人民は苟晞の命令に堪えきれず、「屠伯」と呼んでいた。
頓丘太守の魏植が流人から圧迫を受け16原文「頓丘太守魏植為流人所逼」。頓丘は司州所属で、黄河の北にあり、黄河を隔てて兗州に隣接する。魏植の件は他に詳しい記述がなく、事情がよくわからない。、五、六万の衆を率い、兗州をおおいに掠奪した。苟晞は〔魏植討伐のために青州から〕出撃して無塩に駐屯し、弟の苟純を領青州刺史とした。〔苟純による〕処刑は苟晞よりもひどく、百姓は「小苟は大苟よりもむごいぞ」と言いふらしていた。苟晞はまもなく魏植を破った。
そのころ、潘滔と列曹尚書の劉望らが共謀して苟晞を誣告し、罪に陥れようとしたので、苟晞は怒り、上表して潘滔らの首を要求した。さらに東海王の〔太傅府の〕従事中郎の劉洽を〔自分の府の〕軍司にしたいと願い出た。東海王はどちらも承認しなかった。苟晞はかくして人目をはばからずにこう言った、「司馬元超(東海王のこと)は宰相として不公正であり、天下を混乱におとしめている。この苟道将をどうして不義でもって使役できようか。韓信は衣食の恩義17原文「衣食之恵」。韓信が劉邦を裏切るよう誘いをかけられたときに「漢王授我上将軍印、予我数万衆、解衣衣我、推食食我」、「漢王遇我甚厚、載我以其車、衣我以其衣、食我以其食」(いずれも『史記』巻九二、淮陰侯列伝)と言って断ったことにもとづくか。で満足できなかったので、婦人(呂后)の手にかかって死んだのだ18原文「死於婦人之手」。晩年、不軌をたくらんだ韓信だったが、その密計がばれ、最期は呂后や蕭何の策略にかかって殺された。『史記』淮陰侯列伝によれば、彼の最期の言葉は「吾悔不用蒯通之計、乃為児女子所詐、豈非天哉」であったというが、これにもとづくか。。いま、国賊(東海王のこと)を誅殺し、王室を尊崇しようではないか。斉の桓公や晋の文公まで遠く離れていないぞ」。そして文書を諸州に伝送して通告し、自己の功労を自賛し、東海王の罪状を陳列した。
その当時、懐帝は東海王の専権を嫌っていたため、苟晞に詔を下して言った。
朕が不徳であるゆえに、戦争が繰り返し起こってしまい、上は宗廟が憂いているであろうことに恐れおののき、下は民衆が困苦していることに心を痛めている。だからこそ、方嶽19「方岳」とも。地方の専任を授かった臣のこと。に頼り、国家の藩屏にしようと考えているのである。公は威勢がおおいに振るい、公師藩と汲桑の首をはねてさらし、劉喬と呂朗を敗走させて降し20前の呂朗の注を参照のこと。、魏植のような賊徒をも誅滅した。〔公は〕高い見識と明るい判断力をそなえているのだから、朕は〔公に〕委託して成功を求めるべきではなかろうか21原文「豈非高識明断、朕用委成」。和刻本の読み方をふまえて訳した。。加えて、王弥と石勒が社稷の悩みとなっている。それゆえ、〔先日に公へ〕詔を下し、六州を委ねて統べさせたのである22原文「故有詔委統六州」。後文の内容も考慮すると、この詔の前にも六州委任の詔を授けていた(そして苟晞はそれを固辞していた)という意味の文章だと思われる。。しかるに、公は謙遜してささいな節義を本分とし、大命〔の受託〕にぐずぐずしているが、いわゆる「国家と憂いを同じくする」にはあらざるものだ。いま、重ねて詔を発布するので、ただちに檄書を六州に散布し、協同して大軍を起こし、国難23劉淵や石勒、王弥らのことを指す。後掲の苟晞の文書でもっぱら劉淵と石勒が挙げられているのも、詔のこうした指示を受けてのことであると考えられる。この詔の前振りとなる文章(「懐帝は東海王の専権を嫌っていたため……」)がまぎらわしいのだが、この詔自体は東海王を問題視して排除を命じる内容ではない。を排除し、朕の意に適うようにせよ。
〔この詔の命を受託し、その後、〕苟晞はふたたび征鎮や州郡に文書を伝送して言った。
時運は艱難に当たり、災厄がひどい勢いで広まっている。劉元海は汾陰で反乱を起こし、石世龍(石勒)は三魏で戦禍を招いたが、畿内を侵食し(元海)、鄴都を壊滅させ(石勒)、軍塁を京師近郊に築き(元海)、兗州や豫州をしきりに震撼させ(石勒)、〔二人で〕三人の刺史と二人の都督を殺害し、郡守や県長で没した者は数十を数え、百姓は流離し、〔無惨に死んで〕肝脳が泥まみれになっている。晞(わたし)は軽薄な身でありながら、国家の重責を担うことになり、そのゆえに海辺の辺境(青州)に車を止めて駐留し、〔また〕ばちを手にして〔進軍の太鼓を鳴らし、〕曹・衛の地(兗州)へ進んだのであった。にわかに中詔を拝受し、〔晞に〕関東を委ね、諸軍を統括させるとの由であったので、つつしんで詔命をお受けした。〔そこで〕今月二日に期日を定めて、西に進んで〔黄河北岸の〕黎陽へ渡ろうとしたところ、当日、滎陽太守の丁嶷から報告を得た。〔丁嶷によれば、〕李惲や陳午らが懐県の諸軍を救おうと図り、羯とおおいに戦ったが、みな撃破されてしまい、懐城はすでに陥落し、河内太守の裴整は賊に捕えられたという24裴整については懐帝紀、永嘉四年九月にも見える。前引の詔やこの苟晞の文書は永嘉四年の時のものということになろう。。宮殿の宿衛は欠乏し、天子は災難をこうむり、宗廟の危険性は積み重ねた卵よりもひどい状況にある、とのことであった。〔丁嶷からの〕連絡を受けた日、憂慮がつのり、ため息が漏れ出たものである。晞が思うに、いにしえの先王が明徳の人を選んで封建し、服飾を加崇して功績に報いたのは25原文「庸以服章」。よく読めない。「庸」は「功労に報いる(酬其功労)」(『漢語大詞典』)の意味であろう。「服章」は服飾の事だと思われるが、『左伝』宣公一二年に「君子小人、物有服章」とあるように、君子と小人の別を示す位階である。功績の報酬として、服飾の等級を加崇するということであろうか。本伝の類例として、『三国志』魏書一、武帝紀、建安十八年五月「朕聞先王並建明徳、胙之以土、分之以民、崇其寵章、備其礼物、所以藩衛王室、左右厥世也」、『芸文類聚』巻五三、錫命に引く「宋傅亮作宋武帝九錫文」に「朕聞先王之宰世也、庸勲尊賢、建侯胙土、褒以寵章、崇其徽物、所以夾輔皇室、外隆蕃屏」というのがあり、これらを参考に解釈した。、藩屏を立てて王室を守り固め、城壁を崩壊させないためであった。このゆえに、船舶が強固でなかったから斉の桓公は楚を譴責し26原文「舟楫不固、斉桓責楚」。『左伝』僖公四年と『史記』巻三二、斉太公世家によれば、斉の桓公が楚に攻め入ったとき、「楚が周室へ貢納するべき苞茅を納めていないこと」と「かつて昭王が楚へ討伐に向かったまま戻って来ていないこと」を名分に掲げている。後者について、周の昭王は楚の討伐で漢水を渡ろうとしたが、その途中で船が崩壊し、溺死してしまったのだという(『左伝』僖公四年の杜預注、『史記集解』に引く服虔注など)。本文はこの後者の故事を言っているのだろう。、周の襄王が狄によって放逐されたから晋の文公は討伐を実行した27『左伝』僖公二四―二五年を参照。のである。そもそも皇室を輔翼し、本朝に力を尽くそうとするならば、たとえ熱湯烈火の中に落とされようと、大義において喜んで受け入れられるであろう。そのうえ、方牧(地方の大官)はみな天子の恩寵を受けているのだから、義としてともに力の限りを尽くし、国恩に報いるべきであろう。晞は統帥としての才能に欠けているが、部隊の先頭に立つ所存である。馬にまぐさを与え、兵糧の用意を整え、方鎮が到着するのを待とう。けだし、われら同盟は、ともに救国へ赴くべし。名節を打ち立てるのは、この行動にかかっていようぞ。
そのころ、王弥は曹嶷をつかわし、〔曹嶷は〕琅邪を破り、〔ついで〕北に進んで斉の地を攻めた。〔苟晞に代わって青州の留守を務めていた〕苟純は篭城したが、曹嶷の軍はますます勢い盛んとなり、陣営を数十里も連ねていた。苟晞が〔兗州から〕帰還し、城壁に登ってこの情況を眺めると、不安げな様子を見せたが、賊と連続して戦闘し、戦うたびにこれを破った。のちに精鋭を選抜し、賊とおおいに戦ったが、たまたま砂塵を巻き上げるほどの大風が吹いたので、苟晞はとうとう敗北し、城を棄てて夜に敗走した。曹嶷が追撃して東山に至ると、〔苟晞の〕軍勢はみな曹嶷に降った。苟晞は単騎で高平へ逃げ、官営の穀物倉庫を接収し、兵を募集して数千人を得た。
懐帝がさらに苟晞へ密詔を下し、東海王を討つよう命ずると28懐帝紀では永嘉五年正月に東海王討伐の詔を下したとされている。しかし本伝は、後文で永嘉五年に東海王討伐の詔が「ふたたび(復)」下ったと記している。ここで言う密詔は永嘉四年末に下ったもので、その後、永嘉五年正月に再度詔が下った、という順序なのかもしれない。この東海王討伐のくだりに関係する各紀伝の記述はなかなか合理的に整合せず、司馬光も苦慮した挙句、東海王が薨去する箇所にエピソードをまとめて配置する操作で無難に処理しようとしている。、苟晞はふたたび上表して言った。
殿中校尉の李初が到着し、手詔を拝受いたしました。〔悲痛のあまりに〕心が張り裂けそうであります。東海王の越は宗臣(君主と同族の臣)の身分をもって、ついに朝政を掌握し、邪悪な人間に政治を委ね、凶悪な仲間をひいきして輪を広げ、とうとう〔太傅府の〕まえの長史の潘滔29この当時、潘滔はすでに長史を離任していたのであろう(おそらく河南尹に就いていた)。、従事中郎の畢邈、主簿の郭象らに天権を恣意的に振るわせ、刑罰も恩賞も思うままに決めさせるにまで至りました。列曹尚書の何綏、中書令の繆播、太僕の繆胤、黄門侍郎の応紹は、みな聖詔をもって陛下みずからが抜擢した者たちですが、潘滔らがでたらめに罪をでっちあげ、死罪に陥れました。〔また〕武装兵が宮殿に入り、太后の弟(王延)を誅戮し、〔旧来の〕宿衛兵を排除し、勝手な判断で国人(東海国の兵士)を〔宿衛軍の中に〕扶植しました。魏植を推挙し、亡命者を招致させ30原文「崇奨魏植、招誘逋亡」。魏植は本伝にしか見えず、詳しい事情はわからない。「崇奨」は「崇敬して推薦する」という意味で取ってみた。、州郡を転覆させました。王宮への道は断絶し、地方からの貢納は途絶え、宗廟は嘗烝の祭祀に捧げる供物にも事欠き、聖上は食事を節制するほどの貧窮を受けておいでです。鎮東将軍の周馥、豫州刺史の馮嵩、まえの北中郎将の裴憲はみな、天朝から人の気配がなくなり、権臣が権力を独占し、事変の発生が差し迫っているのを憂慮したことから、おのおの軍隊を率いて、陛下を奉迎しようとしました31周馥の寿春遷都計画を指すと考えられる。周浚伝附周馥伝を参照。永嘉四年のこと。。王室を隆盛させ、臣礼を尽くそうと思ったからです。しかし潘滔や畢邈らは越に強要して〔京師を発たせて〕関所を出させ32原文「劫越出関」。東海王が洛陽を発ち、兗豫へ出て行ったことを指すと考えられる。懐帝紀に従えば永嘉四年十一月のこと。本伝の記載の文脈では、周馥らを牽制するための出撃であったということになる。、君命と称して行台を立て〔て東海王軍に伴わせ〕、無理強いして公卿を移転させ〔て東海王軍に随行させ〕、ほしいままに詔令を発布し、兵を放って自由に掠奪させ、住民を虐殺しましたので、重なった遺体が道路を埋め尽くし、放置された白骨が原野に満ちました33これらの記述は周馥討伐軍を派遣したことを言っているのであろう。。こうしてついに、地方の軍鎮を失職させ34どのような状況を指しているのかはよくわからない。、城邑(都市と郷村)を荒涼とさせ、淮豫の地の民衆を塗炭の苦しみへ陥らせたのです。臣は憤懣を覚えたとはいえ、東方の辺境(青州)で職分を遵守しておりました。〔しかし、越を討つようにとの〕詔を拝受して以降、三軍が奮い立ち、軽装で迅速に長躯し、倉垣に駐屯いたしました。その日、司空・博陵公の王浚の書簡を受け取ったのですが、それによると、殿中中郎の劉権が〔王浚へ〕詔を持参し、王浚と臣に協力して大事を成し遂げるようお命じになられた、ということでした。すぐに前鋒の征虜将軍の王讃を派遣し、〔越が駐留している〕項城へ直行させようと思います。越に稽首して政治を奉還するようにさせ、潘滔らを斬って〔その首を〕お送りするようにさせます。伏して陛下に願わくは、宗臣(東海王のこと)をお赦しになり、越が国へ帰ることをお認めくださいますよう。〔越らに追従していた〕そのほかの者たちは脅されていましたから35原文「其余逼迫」。このような解釈で良いのか、自信はもてない。、ご寛恕を賜わるべきかと存じます。ただちに〔このたびの〕詔を書き写し征鎮へ宣示し、〔今回の〕義挙を明らかにいたします。〔また〕揚烈将軍の閻弘に歩騎五千を統率させて派遣し、宗廟を守衛させるようにいたします。
永嘉五年、懐帝はふたたび苟晞に詔を下して言った。
太傅(東海王)は邪悪な人間を信用し、武力を恃みにして権力を独占し、内は朝廷の法典を遵奉せず、外は地方の州郡と協調せず、ついには戎狄が満ちあふれ、あちこちで侵略が起きるにいたらしめた。留軍の何倫36東海王が洛陽の留守を委ねた将軍。巻五九、東海王越伝などに見える。は宮殿や官庁を掠奪し、公主を拉致し、賢良な士を殺害し、天下を混乱させており37このあたりの詳細は他の紀伝に記述がなく、具体的には不明。、聞くに堪えられない。太傅は親親とはいえ、九伐の法38原文「九伐」。古代、九種類の罪悪に対する討伐を指す。……広く征伐を指す。(古代指対九種罪悪的討伐。……泛指征伐。)(『漢語大詞典』)を明らかにすべきである。この詔が到着した日に、〔公は〕天下に宣言し、いっせいに大決起せよ。斉の桓公や晋の文公のごとき勲功〔が成し遂げられること〕を、すべて公に委ねる。そこで、諸事最適を尽くすことに頭を巡らせ、広大な戦略を最善に策定せよ。交通事情が悪いため、練り絹に筆写した予備も送った。手筆をもってわが意を示した次第である39原文「道渋、故練写副、手筆示意」。こういう意味でよいのか心もとない。。
苟晞は上表して言った。
手詔を拝受いたしましたが、臣に征討を委任なさるとの由。斉の桓公や晋の文公になぞらえたり、紙と練り絹をどちらも用意したりしてくださりまして、伏読して〔感激のあまりに〕ひざまずいてため息をもらし、五情は恐れおののいております。近ごろは宰相(東海王)が専制し、邪悪な人間を恃みとし、内は朝廷の権威をほしいままに振るい、外は民衆に損害を与え、詔と偽って独断で征討を実行し、ついには不軌を画策し、兵を放って自由に掠奪させ、宮殿や官庁を踏みにじりました。まえの司隷校尉の劉暾、御史中丞の温畿、右将軍の杜育は、みな攻め入られて強奪を受けました。広平公主と武安公主は先帝の御息女ですが、ともに陵辱を受けました。節義への背逆や暴虐な反乱のなかでも、これよりひどいものはありません。ただちに前の詔をつつしんで奉じまして、諸軍を配置につけます。王讃に陳午らを統率させて派遣し、軍を率いて〔東海王が駐留している〕項へ行かせ、つつしんで天罰を実行いたす所存です。
これ以前(東海王が洛陽を離れる前の時期)、東海王は苟晞と懐帝が策謀を練っているのではないかと疑い、遊動騎兵を〔洛陽と倉垣の〕中間の成皐40原文「成皐間」。意味としては訳文のようなニュアンスであろう。に巡回させておいたところ、苟晞の使者を捕えた。はたして詔令と朝廷からの文書を見つけたので、とうとう疑心を抱き、怨みをもつようになった。〔そこで〕東海王は地方に出て豫州牧となり、そうして苟晞を討とうとした。〔東海王は〕さらに檄書を〔各地に〕下して苟晞の罪悪を説き、〔太傅府の〕従事中郎の楊瑁をつかわして兗州刺史とし、徐州刺史の裴盾と協力させて苟晞を討たせた。苟晞は騎兵を動員して河南尹の潘滔を捕えさせようとしたが、潘滔は夜に逃げたため、わずかに41原文は「及」で、校勘記も付されていないが、百衲本、汲古閣本、和刻本はすべて「乃」に作る。中華書局のミスか。文章上でも「乃」のほうがよさそうなので、「乃」に改めて読んだ。その場合、出来事の前後・因果を示す意味(「そこで」など)か限定の意味(「わずかに」など)で取れそうで、判断に悩むが、限定の意味で取ることにした。列曹尚書の劉曾と侍中の程延のみを捕え、これを斬った。ちょうどそのころ、東海王が薨じ、裴盾も敗北したので、〔懐帝は〕苟晞に詔を下し、大将軍、大都督、督青・徐・兗・豫・荊・揚六州諸軍事とし、食邑二万戸を加増し、黄鉞を加え、以前からの官職は従来どおりとした。
苟晞は、京師の飢饉が日に日にひどくなり、内憂外患がいっきょに到来していることから、上表して遷都を要望し、従事中郎の劉会に船数十艘と宿衛兵五百人を統率させて派遣し、穀物千斛を献上して懐帝を奉迎しようとした。朝臣からは異論が噴出した。まもなく京師が陥落してしまうと、苟晞は王讃とともに倉垣に駐留した。豫章王端や和郁らは東へ向かい、苟晞のもとへ逃げた。苟晞は群官を引き連れ、豫章王を尊んで皇太子となし、〔倉垣に〕行台を設置した。豫章王は承制して苟晞を領太子太傅、都督中外諸軍事、録尚書とし、倉垣から蒙城へ拠点を移し、王讃を陽夏に駐屯させた。
苟晞は寒門出身でありながら、位は上将(大将軍)にまでのぼりつめ、志はすこぶる満ち足りて、奴婢はほぼ千人、侍妾は数十人おり、終日連夜、自宅から出ず、刑罰は厳しく残虐で、欲望をほしいままにしていた。遼西太守の閻亨42原文は「遼西閻亨」。閻亨は閻纘の子。巻四八、閻纘伝によれば本貫は巴西である。また閻亨は西晋末に遼西太守に任じられている。よって、ここは「太守」の文言が脱落しているのであろう。閻亨は朝廷から遼西太守に任じられたものの、同時期に王浚が自己の部下を遼西太守に任じてしまった関係で赴任できず、苟晞のもとに身を寄せていたのだという。は書状を出して強く諫めたが、苟晞は怒って閻亨を殺してしまった。苟晞の従事中郎の明預は、病気で自宅療養していたときにこの件を聞きつけたので、病気をおして車に乗り、苟晞を諫めた、「皇晋は百六の運数43原文「百六之数」。「百六」はもっとも災厄な運数。転じて、もっともひどい災厄を言う。に遭い、危難の機運に当たっております。明公は朝廷の作戦をご自身で〔主上に〕申しあげ、これから国家のために暴乱を取り除こうとされています。閻亨は美士(優れた士)でありますのに、どうして罪もなく、にわかに殺してしまったのでしょうか」。苟晞は怒って言った、「私が閻亨をみずから殺したことが、どうして他人に関係あるのか。病気をおして私を罵りに来たのか」。左右の者はこれに戦慄したが、明預は言った、「明公は礼をもって抜擢を受けてこられたのですから、預(わたし)は礼をもってみずからの力を尽くそうとしているのです。いま、明公は預に怒っておいでですが、遠近の人々が明公に怒っていることについてはどうなさるおつもりですか。むかし、堯や舜が主上であったときは、中和〔な政治〕によって繁栄し、桀王や紂王が主上であったときは、極悪〔な政治〕によって滅亡しました。天子ですらこのようなのですから、人臣であればなおさらです。明公に願わくは、ひとまずその怒りを脇に措いて、預の言葉をご思案ください」。苟晞は恥じ入る顔色を見せた。こうして人心がしだいに離れてゆき、苟晞のために働こうとする者はいなくなり、これに流行病と飢饉が重なり、苟晞の将の温畿や傅宜はともにそむいてしまった。石勒が陽夏を攻めて王讃を滅ぼすと、〔ついで〕馬を走らせて蒙城を襲撃し、苟晞を捕え、〔石勒の幕府の〕司馬に任じ、ひと月あまり経ってから苟晞を殺した。苟晞には息子がおらず、弟の苟純も〔石勒に〕殺された。
周浚(附:周嵩・周謨・周馥)・成公簡/苟晞/華軼・劉喬(附:劉耽・劉柳)
(2025/11/30:公開)
