凡例
- 文中の〔 〕は訳者による補語、( )は訳者の注釈、1、2……は注を示す。番号を選択すれば注が開く。
- 文中の[ ]は文献の引用を示す。書誌情報は引用文献一覧のページを参照のこと。
- 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。
宗室伝系図/安平王孚/附:安平世子邕・義陽王望・太原王輔・翼・下邳王晃・太原王瓌・高陽王珪・常山王衡・沛王景/彭城王権・高密王泰(附:高密王略・新蔡王騰・南陽王模)/范陽王綏(附:虓)/済南王恵/譙王遜/高陽王睦・任城王陵
范陽康王綏(附:范陽王虓)
范陽の康王の綏は字を子都といい、彭城王権の末弟である。最初は諫議大夫となった。泰始元年に封建され、十五年在位した。咸寧五年に薨じ、子の虓が〔後継ぎに〕立った。
〔范陽王虓〕
虓は字を武会という。若くして学問を好んで名声を博し、経記(儒学の書籍)を研究し、弁舌が明晰で、言論を得意とした。宗室であるのを理由に選考され1原文「以宗室選」。これについて、宮崎市定氏[一九九七]は次のように推測している。「晋の天子は努めて宗室を優遇し、先ず之に領土を与えて封建領主とした上、更に兵力を持たせ、官僚を支配させ、なお其上に官僚の地位を取得させた。かかる宗室の官僚生活は一般貴族とは別個に取扱い、恐らく中正の管轄の範囲外であり、宗正卿が掌っていたものと思われる。之を宗室選と称した」(一八三―一八四頁)。(2023/1/25:訳注追加)、散騎常侍に任じられ、昇進を重ねて列曹尚書に移った。地方に出て安南将軍、都督豫州諸軍事、持節となり、許昌に出鎮し、〔ついで〕征南将軍に進められた。
河間王顒が上表して成都王穎を皇太弟に立てたが、〔成都王は〕王浚に敗北し、天子を連れて洛陽へ戻った。虓は東平王楙、鎮東将軍の周馥らとともに上言した、「愍懐太子が殺害されて以後、皇統の後継ぎは立てられず、前の宰相たちは、重責を委ねるたびに臣としての節義を失いました。このため、前年(永興元年三月)に太宰(河間王)と臣は、社稷の後継ぎはひさしく空位にしておくべきではないと考えたのでした。成都王穎を国家の後継ぎとするよう、共同で〔陛下に〕啓したゆえんです。〔成都王は〕重任を受けたあと、責務を果たすことができませんでした。『小人を登用してはならない』(『易』師、上六の爻辞)というのに、〔成都王は小人を〕腹心としました。骨肉は尊重するべきでしたのに、嫉妬深い軽薄な連中が次々と〔成都王のもとに〕参りました。陰険邪悪な連中は遠ざけておくべきでしたのに、『讒言が君子の行動を絶やす』(『尚書』舜典篇)ありさまでした。これはすべて、臣らが不明なために、頼りとするべき人物をまちがってしまったのです。そうしてとうとう、陛下の授任を誤らせてしまいました。臣らを殺したとしても、天下への謝罪には不十分でしょう。いま、御車(天子のこと)が宮殿に戻りましたが、文武の官は人員が不在で、法制は破壊され、残っているものがありません。臣らは愚劣とはいえ、王室を助けることはできます。しかし巷間のうわさでは、張方は臣らと共同しないはずだと言っています。残念なことに〔張方は〕あちこちで騒動を起こしてはいます。たほうで、太宰は徳を厚くし、善を誠実に実行され、人民の嘱望を集めていることで著名であり、節義を振るうべき場面に遭遇するたびに、社稷や宗室の先導者となっていますが、張方はこの太宰の指示を受けており、国家のために節義を尽くしているのです。昔年の義挙においては、命を投げ出すことはあったとしても、裏切ることはなかったでしょう2おそらく長沙王乂を洛陽で攻めたときのことを指していると思われる。。つまり、張方は太宰の良将であり、陛下の忠臣なのです。ただし、〔張方は〕もともと剛情な性格で、融通がきかないため、けっきょく旧来の意向を固守し、騒動を起こしてしまったわけです3張方は恵帝不在の洛陽に滞在中、いろいろと事件を起こしていたらしいことが巻六〇、張方伝に記されている。ただし本文で具体的にどの事件のことを指しているのかはわからない。恵帝の親征時、ふたたび皇太子に立てられていた清河王覃を廃したことか(恵帝紀、永興元年八月)。。とはいえ、一歩退いて考えてみれば、これは変節しないということでもあり、かつ事態が一変したあとは天下から非難されるであろうことを考慮したゆえに、〔そのまま洛陽に留まって、〕即座に西方(河間王がいる長安)へ帰還しなかったのでしょう。事実を調べてみますと、実際にはおおきな罪はありません。臣が聞くところでは、先代の明君はことごとく、功臣を保護して生をまっとうさせ、幸福を子孫に伝えさせたそうです。中間(少し前)以来、陛下の功臣で生をまっとうできた者がずっと治世当初よりいないのは(2023/4/13:修正)、たんに才能が全員劣っていたからというだけではありません。彼らが禍を招いてしまったのは、じつに、朝廷の政策が失当で、容認を得なかったからです。一朝の過失を理由に積年の勲功を失うというのは、『周礼』における論功の制度にそむいているというだけでなく、陛下のために節義を尽くそうとの気を天下の人々から奪ってしまうことにもなりましょう。臣らがこのように申しますのは、たんに張方一人のためではなく、まことに社稷の遠大な戦略のためなのでして、功臣が長く富貴を保てるようにさせたいからなのです。臣が愚考しますに、太宰に関西を治める職務を委任し、一方面の重要政務や州郡以下の人材登用について、すべて成功をお任せなさるのがよいと存じます。もし朝廷の重要な案件があれば、成否や損益にかんして、そのつど諮問なさるのがよいでしょう。このようにすれば、『二人の伯が分担して諸侯を治める職務に就く』4原文「二伯述職」。『毛詩』曹風、下泉「四国有王、郇伯労之」の毛伝に「郇伯、郇侯也。諸侯有事、二伯述職」とあるのが出典か。鄭箋に「有王、謂朝聘於天子也。郇侯、文王之子、為州伯、有治諸侯之功」とある。というもので、周公と召公が陝を境界に東西を統治したという古義を、陛下が現代に復活させることになりましょう。張方を郡(おそらく河間王のいる京兆郡)へ帰らせて、諸侯に忠義を発揮させ、機会を逸することなく王室を安定させるようご命令いたしましょう。張方に加えた官はすべてもとのとおりとなさいますよう。このようにすれば、忠臣や義士には忠義を奨励することになり、功臣は必ず生をまっとうすることになります。司徒の戎(王戎)は異姓の賢人、司空の越(東海王)は同族の名士で、どちらも忠君愛国の臣で、慎み深いですから、要務を担当させ、朝政を委任するのがよいと思います。安北将軍の王浚は佐命の臣(王沈)の子孫で、率先して道を実践し、忠誠貞節をそなえ、清爽公正であり、遠近の人々が推薦している人物です。このたびのようなおおいなる決起5鄴の成都王を征伐したことを言う。は、まことに社稷を安定させた勲功を打ち立てました。これは臣らが嘆息して敬服しているゆえんです。浚につきましては、格別に尊重して人心に応え、そのまま幽朔(中国北辺)を治めさせて長く北方の藩屏となさるのがよいでしょう。臣らは力を尽くして藩屏となり、皇室をお守りいたします。陛下が特別なことをなさらずとも、四海はおのずと正されましょう。そうなれば、四祖(宣、景、文、武の四帝?)の事業は必ずやこんにちにおいて隆盛し、翳っていた日月の輝きはふたたび明るさを取り戻すでしょう。よくよく熟慮いただき、臣の申しあげたことを精査いただけますよう。または、臣の表を西の太宰にお見せなさってもかまいません」。
さらに上表して言った、「成都王は道を誤りましたが、悪人によって誤導されたのでありますから、王ご本人の罪を定めるにあたっては、深くお責めにならないのがよろしいかと存じます。かつ、〔成都王は〕先帝のご子息で、陛下の弟さまでございます。元康年間以来、誅罰があいついでいますが、じつに海内が動揺をきたした原因であり、臣らが心を痛めているゆえんです。いま、成都王を〔皇太弟から〕廃し、あらためて一邑に封じるという措置を必ずご承認いただくのが適切でしょう。もし廃してほどなくに殺害してしまえば、陛下の哀憐の恩愛をだいなしにしてしまうだけでなく、遠近の人々にずっとこう思わせてもしまうでしょう、皇族は骨肉を思いやる心がまったくないのだ、と。このような事態になってしまいましたら、まことに臣らは内省して悲しむとともに恥じ入り、四海に顔向けできません。どうか、臣の忠誠をご推察いただきますよう」。こうして虓はまず軍を率いて許昌から移り、滎陽に駐屯した。
ちょうど恵帝が西(長安)へ移ると、虓は従兄の平昌公模、〔平昌公の?〕長史の馮嵩らとともに白馬を殺し、その血をすすって盟約を誓い、東海王越を盟主に推戴した。〔東海王は〕虓を都督河北諸軍事、驃騎将軍、持節、領豫州刺史とした6原文は「虓都督河北諸軍事、驃騎将軍……」とあるのみで、この人事の発令者は明記されていないが、このときに東海王が承制して人事をおこなったことは巻五九、東海王越伝ほかに散見しているし、巻六一、劉喬伝に「東海王越承制転喬安北将軍、冀州刺史、以范陽王虓領豫州刺史」とある。そのため、訳文では〔 〕のように補って読んだ。。劉喬は東海王らの指令を受けつけず、虚をついて許昌を攻め破った。虓はみずから〔許昌より〕脱出して黄河を渡ると、王浚は上表して虓を領冀州刺史とし、兵馬を支給した。虓は冀州に入ると兵を徴発し、ふたたび南進して黄河を渡り、劉喬らを破った。河間王顒は劉喬が敗れたことを知ると、張方を斬り、その首を東海王に送った。東海王と虓は西に進んで〔関中に入り〕恵帝を迎えたが、河間王は出奔した。こうして〔虓らは〕天子を奉じて都(洛陽)に戻り、〔朝廷は〕虓を司徒に任じた。永興三年、急病により薨じた。享年三十七。子はおらず、南陽王模の子の黎を養子にして後継者とした。黎は南陽王の就国(許昌出鎮のことか?)に随行し、〔その後、〕長安で殺された。
宗室伝系図/安平王孚/附:安平世子邕・義陽王望・太原王輔・翼・下邳王晃・太原王瓌・高陽王珪・常山王衡・沛王景/彭城王権・高密王泰(附:高密王略・新蔡王騰・南陽王模)/范陽王綏(附:虓)/済南王恵/譙王遜/高陽王睦・任城王陵
(2021/11/22:公開)