巻一百 列伝第七十 王如 杜曾 杜弢 王機

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王弥・張昌・陳敏王如・杜曾・杜弢・王機(附:王矩)祖約・蘇峻/孫恩・盧循・譙縦

王如

 王如は京兆の新豊の人である。最初は州の武吏となったが1原文「初為州武吏」。「初為」や「始為」はキャリアのスタートの意。起家を指すことが多いが、「尤も起家は普通には九品流内官に就任することを言う」(宮崎市定『九品官人法の研究――科挙前史』中央公論社、一九九七年、原著は一九五六年、五七三頁)。、戦乱に遭遇して流浪し、宛に行きついた。このころ、流人にたいして詔が発せられ、みな郷里に帰らせるよう命令が下っていた。王如は、関中が荒廃していることから、帰りたくなかったが、征南将軍の山簡と南中郎将の杜蕤はおのおの兵を派遣して流人を送還させようとし、しかも期日までに急き立てて出立させようとしていた。そこでとうとう、王如はひそかに無頼の少年たちと結託し、両軍を夜襲して破った。杜蕤は軍を総動員して王如を攻め、涅陽で戦ったが、杜蕤軍は大敗した。山簡は防ぐことができず、移動して夏口に駐屯した。王如は襄城も落とした。このとき、南安の龐寔、馮翊の厳嶷、長安の侯脱らがおのおの仲間を率いて城鎮を攻め、令長(県の長官)を多く殺して王如に呼応した。ほどなくして衆は四、五万にもなり、〔王如は〕大将軍、領司・雍二州牧を自称した。
 王如は石勒が自分を攻撃してくるのを恐れていたので、石勒に厚く賄賂を送り、兄弟の関係を結ぼうとし、石勒も王如の盛強さを利用しようと思ったので、それを受け入れた。このとき、侯脱は宛を占拠していたが、王如と不仲であった。王如は石勒を説いて言った、「侯脱は漢の臣を名乗ってはいますが、そのじつは漢の賊です。如はつねづね、侯脱の来襲を恐れています。兄上、どうか備えをなさっておきますよう」。石勒はもともと侯脱が自分を疑っていることを怒っていたが、〔侯脱が〕王如と唇歯の関係であることに遠慮していたため、侯脱を攻めなかったのであった。〔そうしたときに〕王如のこの言葉を聞くと、たいへん喜び、とうとう夜中に三軍に早めの食事を取らせて命令を待たせ、夜が明けてから出撃し、遅れた者は斬った。早朝には宛の城門に迫って攻め、十二日でこれを落とし、石勒はそのまま侯脱を斬った。王如はこうして、沔漢の地をおおいに掠奪し、進んで襄陽に迫った。征南将軍の山簡は将の趙同に軍を統率させて王如を討伐させたが、年を越しても勝つことができず、知力ともに尽き果て、とうとう城にこもって守った。王澄は軍を率いて京師の救援に向かったが、王如はこれを迎撃して破った。
 王如は連年穀物を植えていたが、すべて莠2イネ科の一年草。イネに似ていて農作物の生長の害になることが多い。(『漢辞海』)になってしまったため、軍中はおおいに飢え、徒党同士で攻めて掠奪しあった。〔そこに〕官軍が進んで討伐したので、各自あいついで来降した。王如は方策が浮かばず、王敦に帰順した。王敦の従弟の王棱は王如の剛強さを気に入り、王敦に自分の麾下に配してほしいと請うた。王敦は言った、「こういう連中は獰猛険悪で、飼い慣らすのは容易でない。おまえは嫉妬深くて性急な性格だから、寛容にめんどうをみることはできず、いよいよ禍の端緒になってしまうだろう」。王棱が強く求めたので、〔王敦は〕王如を与えた。王棱は王如を左右に置き、たいへん優遇をくわえた。王如はしばしば王敦の諸将と射撃を競ったが、何度か喧嘩しては失態を犯していた。王棱ははたして、大目に見ることができずに棍棒で打ったため、王如はたいへん恥辱に感じた。これ以前、王敦には不臣の行動があり、王棱はつねづね王敦を諌めていたが、王敦は自分に反対するのをいつも怒っていた。王如が王棱に恥をかかされたことを王敦が耳にすると、ひそかに人を仕込んで王如を激怒させ、王棱を殺させるように勧めさせた。王如は王棱を訪ね、〔宴会になったが〕盛り上がりに欠ける宴会であるのを理由に、剣舞を歓楽にしたいと願い出て、王棱はこれを聴き入れた。王如はこうして刀を舞わして遊戯となし、じょじょに前へ進んだ。王棱は嫌がって王如を叱責したが、止まらないため、左右の者を叱り飛ばして引きずり出させようとしたが、王如は即座に進んで王棱を殺害した。王敦はそれを聞くとわざと驚き、王如を捕えて誅殺した。

杜曾

 杜曾は新野の人で、南中郎将の杜蕤の従祖弟である。若くして勇猛で常人をしのぎ、よろいを着たまま水中で泳ぐことができた。最初は新野王歆の鎮南将軍参軍となり、華容令を経て、南蛮校尉司馬にいたった3『資治通鑑』は「歆南蛮司馬」と記す。宣五王伝・扶風王駿伝附歆伝には「使持節、都督荊州諸軍事、鎮南大将軍、開府儀同三司」とあるのみで、南蛮校尉は見えていないが、南蛮校尉は荊州刺史が兼任するのが常なので、『資治通鑑』の記すとおり新野王時代の官位なのかもしれない。ただし、王戎伝附澄伝に「初、澄命武陵諸郡同討杜弢、天門太守 瓌次于益陽。武陵内史武察為其郡夷所害、瓌以孤軍引還。澄怒、以杜曾代瓌」とあり、位こそ不明だが、杜曾は荊州刺史・王澄の差配を受けていることが見えている。新野王は恵帝の治世中に張昌に殺されたが、おそらく杜曾は荊州刺史の府僚ないし荊州刺史に着任した者の兼任官の府僚として、いぜんとして出仕していたのではないかと考えられる。。およそ戦争のときは、三軍でもっとも勇猛であった。
 ちょうど永嘉の乱が起こり、荊州が荒涼として閉塞すると、もとの牙門将の胡亢は竟陵で群衆を集め、楚公を自称し、杜曾に竟陵太守を授けた4『資治通鑑』は永嘉六年にかける。。胡亢はのちに仲間と疑いあうようになり、勇猛な将数十人を誅殺したので、杜曾は不安になり、ひそかに胡亢を滅ぼすことをもくろみ、そこで身を低くして節操を曲げ、胡亢に仕えたが、胡亢は〔杜曾の本心に〕気づかず、杜曾をたいへん信任した。このころに荊州の賊の王沖が荊州刺史を自称し5王戎伝附澄伝に「山簡参軍王沖叛于豫州、自称荊州刺史。澄懼、使杜蕤守江陵」とあり、王澄在任中にそむいたというが、応詹伝に「陳人王沖擁衆荊州、素服詹名、迎為刺史」とあり、王澄の仕事ぶりに不満を抱いた旧来からの荊州の官吏が、適任者を求めての「叛」だったのかもしれず、もしかすると胡亢や杜曾も同様の動きであったのかもしれない。なお、王澄は王敦に殺され(『資治通鑑』によると永嘉六年のこと)、元帝は後任に周顗を就けたが、周顗では杜弢(永嘉五年に反乱)に歯が立たず(周顗伝、陶侃伝)、すぐに陶侃へ交代となった(陶侃伝)。陶侃伝によると、陶侃拝命時に「賊王沖自称荊州刺史、拠江陵」とある。、その部衆も盛大で、しばしば兵を派遣して胡亢の部衆を拉致したので、胡亢はこれを憂慮し、計略を杜曾に訊ねた。杜曾は王沖への攻撃を勧めると、胡亢は賛同した。杜曾は胡亢に言って、帳下(側近)の刀や戟を取りあげさせ、工匠に渡してそれらを研磨させた。そうしておいて、ひそかに王沖の兵を招き寄せた。胡亢は精鋭騎兵をつかわして王沖を防がせたので、城中は空虚となり、杜曾はこの機を利用して胡亢を斬り、その部衆を統べ、南中郎将、領竟陵太守を自称した6陶侃伝に「〔侃参軍〕王貢……至竟陵、矯侃命、以杜曾為前鋒大都督、進軍斬沖、悉降其衆」とあり、王沖の衆もけっきょく併合したようである。。杜曾は南郡太守の劉務の娘を求めたが、得られなかったので、劉務の家をことごとく滅ぼした。ちょうど愍帝が第五猗を派遣し、安南将軍、荊州刺史としたので、杜曾は第五猗を襄陽で迎え、兄の子に第五猗の娘を娶らせ、とうとう沔漢の地を〔第五猗と〕分配して占領した7南の江陵・竟陵方面は杜曾が、北の襄陽方面は第五猗が統べたということであろう。第五猗と杜曾の合流を元帝紀は建武元年八月にかけているが、『資治通鑑』は建興三年にかけている。おそらく通鑑が妥当である。第五猗の擁立は、陶侃を荊州刺史として認めないという意思表示であると思われる。陶侃伝に「〔侃参軍〕王貢……至竟陵、矯侃命、以杜曾為前鋒大都督、進軍斬沖、悉降其衆。侃召曾不到、貢又恐矯命獲罪、遂与曾挙兵反」とあり、杜曾は陶侃の招聘を断ったうえで「反」しているからである。
 このころ、陶侃は杜弢を破ったばかりで8陶侃が杜弢を平定したのは建興三年のこと。ちなみに杜曾は杜弢の「党」とか「将」とか記されている場合がしばしばあるが、両者にはあまり接点がない。、勝利に乗じて杜曾を攻めようとしたが、杜曾を軽視している様子であった。陶侃の司馬の魯恬は陶侃に言った、「古人は戦争するさい、まずその(敵軍の?)将を測りました。いま、使君の諸将で杜曾に及ぶ者はいませんから、まだ軽々しく近づくべきではありません」。陶侃は聴き入れず、軍を進めて杜曾を石城(襄陽の南方)で包囲した。このとき、杜曾の軍は騎兵が多かったが、陶侃の軍には馬がいなかった。杜曾はひそかに城門を開くと、陶侃の陣に突撃し、陶侃軍の後方に出て、反転してその背後を攻めた。陶侃軍はついには敗北し、川に身を投じて死ぬ者は数百人であった。杜曾は順陽(宛の西方)へ行こうと考えたので、下馬して陶侃を拝礼し、別れの言葉を告げて立ち去った。ほどなく、書簡を平南将軍の荀崧に送り、丹水の賊(詳細不明)を討伐して協力したいと求めたので、荀崧はそれを受け入れた。陶侃は荀崧に書簡を送って言った、「杜曾は凶暴狡猾で、統率下の兵卒もみな豺狼のような悪人ですから、母親を食らう鴟梟(フクロウ)のごときやからだと言えましょう。この者が死なねば、荊州は平和になりません。足下よ、私の言葉を理解なさってください」。荀崧は、宛の兵が少なく、杜曾〔の兵力〕を借りて外援にしようとしていたので、陶侃の言葉に従わなかった。杜曾はふたたび流人二千余人を率いて襄陽9襄陽は同盟者の第五猗が駐屯していたと考えられる地で、違和感あり。周訪伝には「賊率杜曾、摯瞻、胡混等並迎猗、奉之、聚兵数万、破陶侃於石城、攻平南将軍荀崧於宛、不克、引兵向江陵」とあり、荀崧伝にも「遷都督荊州江北諸軍事、平南将軍、鎮宛。……為賊杜曾所囲」と杜曾に攻められたことが見えているので、「宛」(荀崧)の誤りではないだろうか。を包囲し、数日で落とせなかったので〔江陵へ〕帰還した。
 王廙が荊州刺史になると、杜曾は王廙〔の赴任〕を妨害したので、王廙は将の朱軌と趙誘に杜曾を攻めさせたが、どちらも杜曾に殺された。王敦は周訪を派遣して杜曾を討伐させたが、しばしば戦闘しても勝利できなかった。周訪はひそかに人をやって山沿いに道を開かせ、〔その道を利用して〕杜曾の不意を突いて襲撃すると、杜曾軍は潰走し、杜曾の将の馬儁、蘇温らは杜曾を捕えて周訪のところへ行き、降った10陶侃伝などによれば、馬儁と蘇温は陶侃の故将である。陶侃が建興三年に杜弢を平定すると、王敦は陶侃を広州刺史へ移し、王廙を荊州刺史に就けようとした(陶侃伝、王廙伝)。しかしこれに対し、「侃之佐吏将士詣敦請留侃。敦怒、不許。侃将鄭攀、蘇温、馬儁等不欲南行、遂西迎杜曾以距廙」(陶侃伝)と、陶侃の将吏の馬儁らが陶侃を荊州刺史へ留任するよう嘆願したが、最終的には聴き入れられなかったため、馬儁らは王廙の赴任を拒み、ついに杜曾に合流した。そして「賊杜曾与〔馬〕俊、〔鄭〕攀北迎第五猗以距廙」(王廙伝)とあるように、愍帝が荊州刺史としてつかわし、杜曾が迎えたところの第五猗を陶侃に代わる新たな刺史として奉じたとされている。当然のことだが、周訪伝によれば杜曾が捕えられたとき、同時に第五猗も捕えられて王敦のもとへ送られ、周訪が「說猗逼於曾、不宜殺」と言って助命を請うたが、王敦は斬ってしまったという。。周訪は生きたまま武昌(王敦)へ送ろうとしたが、朱軌の息子の朱昌と趙誘の息子の趙胤が復讐のために杜曾の身柄を求めた。こうして〔周訪は〕杜曾を斬り、朱昌と趙胤はその肉を切り刻んで食らった。

杜弢

 杜弢は字を景文といい、蜀郡の成都の人である。祖父の杜植は蜀で名声を博し、武帝のときに符節令になった。父の杜昣は略陽護軍であった。杜弢は最初、才気と学問で名声をあげたことをもって、州は秀才に推挙した。李庠11『晋書校文』は「李特」に作るべきという(中華書局の校勘記を参照)。李庠は李特の弟で、優秀な将であったらしく、李氏ら雍州の流人を当初は庇護・利用していた益州刺史の趙廞からも重宝されていたが、やがて警戒され、李特らを差し置いてまっさきに殺された。の乱に遭遇すると、南平に避難した。南平太守の応詹はその才能を気に入って礼遇した。のちに醴陵令になった12醴陵は湘州長沙郡の属県。南平郡にいながらこの県の令になったということか。
 このころ、巴蜀の流人の汝班、蹇碩ら数万家は荊州と湘州の間に分布していたが、従来から住んでいる百姓から害をくわえられて苦しめられ、みな恨みを抱いていた。ちょうど蜀の賊の李驤が県令を殺し、群衆数百人で楽郷にたむろした。杜弢は応詹とともに李驤を攻め、これを破った。蜀人の杜疇、蹇撫らも湘州で騒動を起こしたが13王戎伝附澄伝によれば、降服した李驤らへの処遇がひどかったため、湘州の流人が反発して決起したようである。伝に「巴蜀流人散在荊湘者、与土人忿爭、遂殺県令、屯聚楽郷。澄使成都内史王機討之。賊請降、澄偽許之、既而襲之於寵洲、以其妻子為賞、沈八千余人於江中。於是益梁流人四五万家一時俱反、推杜弢為主、南破零桂、東掠武昌、敗王機于巴陵」とある。、湘州刺史参軍の馮素は汝班と不仲であったので、湘州刺史の荀眺に「流人はみな反乱するつもりです」と言った。荀眺はそのとおりだと考え、流人をことごとく誅殺しようとした。汝班らは死を恐れたので、群衆を集めて杜疇に呼応した。この当時、杜弢は湘州にいたが、〔汝班ら〕賊は杜弢を共同で推戴して首領とした。杜弢は梁・益二州牧、平難将軍、湘州刺史を自称し、郡県を攻め破った。荀眺は城を棄てて広州へ逃げた14ちなみに懐帝紀、永嘉五年五月の条に「益州流人汝班、梁州流人蹇撫作乱于湘州、虜刺史苟眺」とあり、けっきょく捕まったようである。。広州刺史の郭訥は始興太守の厳佐を派遣し、軍を統率させて杜弢を攻めさせたが、杜弢は迎撃してこれを破った。荊州刺史の王澄も王機を派遣して杜弢を攻めさせたが、巴陵で敗れた。杜弢はとうとう兵を放って暴虐をほしいままにしたが、偽って山簡に降ると、山簡は〔杜弢を〕広漢太守とした。
 荀眺が逃走すると、湘州の人々は安成太守の郭察を推戴して領州事(州刺史の仕事の代行)とし、そして〔郭察は〕軍を率いて杜弢を討伐したが、逆に敗れてしまい、郭察は戦死した。杜弢はついに、南は零陵を落とし、東は武昌を侵略し、長沙太守の崔敷、宜都太守の杜鑑、邵陵太守の鄭融らを殺した。元帝は征南将軍の王敦、荊州刺史の陶侃らに命じ、杜弢を討伐させ、前後数十戦した。杜弢の将士は多く戦死したため、〔杜弢は〕降服を願い出たが、元帝は許さなかった。そこで杜弢は応詹に書簡を送った。

 時運が艱難に向かうと、わが州(益州)から〔艱難が〕はじまり、州の同胞は流浪し、荊州に移りました。そこで出会う人々は、われわれを道端に捨て去られたもののように軽蔑し、倒れたり死んだりする者はほぼ過半にものぼり、苦しみをとことん経験しました。〔これは〕足下がご覧になられた光景でしょう。客人(益州の流人)と主人(荊州の住民)は同居をひさしくつづけのがむずかしく、不和は醸成されやすかったものですから、楽郷で勃発した事変は予想外に起きたものだとは思いません。このとき、〔私は〕足下と行動をともにし、〔流人への〕疑念を晴らそうと思い、賊帥を捕えることを求めていたので、心配していましたことといえば、計略が長期的に組み立てられず、武力が敵の堅固なところを落とせないことだけでした15後文の「懼死求生」という心配はこの段階では抱いていなかった、ということか。。湘州に滞在するようになると、死を恐れて生を願うようになり、そこでとうとう〔流人と〕結託して集合し、善を守って(悪事を働かずに)自衛して、天下が少し定まってから、盟府16おそらく元帝(当時はまだ琅邪王)の府を指す。どうして「盟」と呼ぶのかは不明。『資治通鑑』胡三省注は「時琅邪王睿為東南方鎮盟主、故曰盟府」と解している。に誠心を示すつもりでした。ほどなくして、山公(山簡)が夏口に鎮することになりましたので、すぐにこのいきさつをつぶさに述べました。山公は開通と閉塞の機会をよく識別し、困窮と栄達の時運を察知し、数多の疑念の渦中にある私を受け入れました。高い見識と深い洞察をそなえずして、誰がこのように行動できるでしょうか。〔こうして、山公のおかげで〕西州(西中国)の人士は清らかな恩沢で沐浴することができたのですが、たんに汚れをそそいだのみならず、肉親の〔ような?〕恵みもありました17原文「豈惟滌蕩瑕穢、乃骨肉之施」。よく読めず。「汚れをそそいだ(滌蕩瑕穢)」というのは無罪潔白を代わりに証明してくれた、の意か。そしてそれのみならず、「骨肉之施」すなわち肉親からもらえるような施しの援助までしてくれた、というふうに読んでみた。。〔しかし〕山公が薨去されると、この事業は中止になってしまい、賢者も愚者も〔山公の死を〕悲しみ、私も心より悼みました。〔私は〕滕永文と張休豫を大府(元帝の府)につかわし、騒動を起こして以降の終始をつぶさに列挙して説明しようとしたのですが、功績に貪欲で、名声に執着する連中が聖主(元帝)のお耳に告げ口して〔私と聖主とを〕引き離し、私の使者を市場で殺して叛逆の罪を〔世に〕顕示するのではないかと心配しましたので、二人をつかわそうとしませんでした。しかし、甘卓と陶侃がにわかに到来し、水陸十万の大軍で、旗は山沢を照らし、戦艦は三江(多くの河川?)に満ちました。〔とはいえ、〕威圧といえば威圧なのですが、わが衆はいまだ心配事だとは思っていませんでした18悪事を働いているわけではないし、急に攻めてくるなんてことないだろう、すっごい脅しをかけてきているけど、ということか。。晋の文公が原国を伐ったとき、信義をまっとうすることを根本としたため、諸侯を帰順させることができたのです19『韓非子』外儲説左上篇に見える説話。。〔ところが〕陶侃は〔聖主がお下しになった〕赦免の書を宣告しておきながら、これにつづけて進軍し、攻めてきました。〔これは〕詔を遵奉し、規範を四海に示す手段になるでしょうか。義に帰そうとしている匹夫を脅して叛逆の賊虜としてしまい、善を慕う群衆を威嚇して赦されざる罪を極めさせようというのは、戦わずして人を屈服させる計略ではありません。烏合の衆を追いつめ、死を覚悟した者と一戦を交えようと望んでいまして、いまだに覇権を得るための策謀を理解しておりません20原文「未見争衡之機権也」。「争衡」は辞書的には「軽重をくらべる」(『漢辞海』)の意味だが、用例の多くは「与某争衡」という形であり、「某と重さをくらべる」すなわち「ヘゲモニーを争う」の意であろう。ここでは、諸将がもはや平定する必要もない雑魚集団にいつまでも粘着していて、ヘゲモニー奪回という肝心の目標を見失っていることについて、こう述べているのだと思われる。。私の赤心は神に通じて明らかであり、西州の人士については卿がおおよそご存じでしょう。いっそ当世に冤罪をかぶったほうがましであり、大府(元帝)に身の潔白を証明するのはやめたほうがよいとでもいうのでしょうか。
 むかし、虞卿は大国(趙)の宰相の位を栄誉と思わずに投げ棄て、魏斉と安危をともにしました。司馬遷は李陵を弁明したことで、宮刑を受けたとはいえ、慨嘆はしませんでした21原文「雖刑残而無慨」。いや、憂憤なりしているものと描かれていたような気がするが……?。足下は、威厳を千里にわたって轟かせ、名声は汶衡22岷山と衡山、すなわち益州と荊州長江以南(湘州)。に広まっています。〔そのような足下ですから、〕進んでは国家のために艱難を鎮圧する戦略をお立てになられるべきであり、退いては旧友に与してことの是非を正しくとりはかられるところかと存じますが、〔それなのに〕なんとゆったりくつろいでおられるのでしょうか。願わくは、卿が私の書簡を伝送し、折よく盟府のもとに届き、〔琅邪王が〕使者をつかわして、私に心のうちを披露させる機会を与えてくだされば、死んだとしても後悔はありません。伏して思いますに、盟府は必ずや綱紀(秩序の根本)を結びなおし、一匡23斉の桓公の業績を評するのによく用いられる語で、天子の位を定めて天下を一つに正すという意味。『論語』憲問篇に「子曰、管仲相桓公、覇諸侯、一匡天下」とあり、『論語集解』に「馬曰、『匡、正也。天子微弱、桓公帥諸侯、以尊周室、一正天下』」とある。本文も元帝が同様の意味で「一匡」をなすだろうと言っているのであろう。この書簡の当時は愍帝の世であった。を聖世にて実現されるでしょうが、〔そのさいに〕私を義兵のなかに並ばせ、矛を背負わせて前駆とさせ、天子(愍帝)を閶闔門(洛陽)で迎えさせ、悪人を辺境で一掃させていただければ、一日で死んだとしても、一年生きたのと同然です死んだとしても、生きているのと変わりません(2021/2/15:修正)。もしくは24原文「若然」。こういう読み方はふつうはしないと思うが、前後の文脈からこのように読むことにした。、まず方夏(地方)を鎮めてから、転じて中原を平定するというのでしたら、私に一年分の食糧をお与えになり、長江を溯上させて西へ帰させれば、誅罰から逃げ回っている賊の李雄を滅ぼし、「禹貢」に記される〔益州(梁州)の〕旧来の貢献物を修復し、ささいな労力を尽くしてかつての過ちを償い、州邦(益州)を回復して隣国(荊州)に謝罪したく思います。こちらもまた私の志でございます。〔どちらも私の本意ですので、どちらで私を働かせるかは〕ご随意にお決めなさってください。
 私は遠方の州の寒士であり、足下とは出身が同等ではありませんから25応詹伝によれば、彼は汝南の出身で、曹魏で侍中をつとめた応璩の孫であるという。、まこと、意気投合して心が動かされるような付き合いにはいたらず、危険を救うには値いしない人物でしょう。しかし、わが忠誠を世に明らかにすれば、汶嶽26岷山と南嶽(衡山)?は忠順であるという寛恕をこうむり27杜弢は忠誠な人物だ→益州の連中も忠実な人間だ、と大目に見てもらって許してくれるという意味だろうか。、湘衡(湘州)は叛逆者討伐の憂き目がなくなり、足下は寛容という名望を高め、わが衆は沈没という危難から救いあげられるのです。〔いまのまま、しょせん私は同情に値いしない人物と見切ってしまわれるのならば、〕どうして足下の徳音を金玉の音色のように響かせることができるでしょうか。けれども、足下を仰ぎ見る〔わが〕十余万口は、警備28自衛守備の意か。あるいは辺境の戍役に駆り出されるのはいやだという意味かもしれない。に疲弊してもいますから、南の田畑で安楽に過ごしたいと望んでいます。衡山や江州、湘州の地はわが周辺に連なっていますけれども、もしかすると私が以前に疑わしい発言をしていて、赤心が明らかではない〔からこれらの地で騒動を起こすつもりにちがいない〕とお思いかもしれません。〔しかし〕禍乱をこうむっ〔て荊州に逃れ〕たのは益州と梁州〔の人々みな〕であって、私の家族だけではないのです29論理展開がわかりにくい。「自分が悪だくみを抱いているというならば、益州にいるときにやってます。同じ理屈は自分だけでなく、益州の流人全員に当てはまります」というぐあいだろうか。

 応詹ははなはだ哀れんだので、啓して杜弢のこの書簡を〔元帝に〕送り、あわせて上言した、「杜弢は益州の秀才で、もとより清明の名声があり、文理(礼儀?)にも秀で、成績も優れています。〔杜弢は〕さきに使者として〔荊州へ〕つかわされたのを機に客寓し30『華陽国志』大同志には「〔李〕特兄輔……至蜀、因謂特曰、『中国乱、不足還』。特遣天水閻式累詣〔羅〕尚、求弛領校、権停至秋。……及秋、又求至冬。辛冉、李苾以為不可、必欲移之。式為別駕杜弢説逼移利害。弢亦欲寛迸民一年。辛冉、李苾以為不可、尚従之。弢致秀才板出、還家、知計謀不行故也」とある。すなわち、李特らが入蜀したさい、杜弢は益州刺史・羅尚の府僚であり、流民を寛大に処遇するよう求めたが、羅尚の従うところとならず、官を去ったという。その後の動静は明らかでないが、この応詹の上言で言われていることにもとづけば、救援か何かの使者として荊州につかわされ、そのまま益州には戻らなかったということなのであろう。なお羅憲伝附尚伝に「李特……又攻〔羅〕尚於成都、尚退保江陽。初、尚乞師方岳、荊州刺史宗岱率建平太守孫阜救之、次于江州」とある。、詹の郡域(南平郡)に滞在していました。彼の節義の心が堅く潔白であることは、詹がつぶさに知り尽くしております。李驤が楽郷で変乱を起こし、善人から掠奪したさい、杜弢は家財を投じ、忠勇の者を募集し、壇に登って血をすすり〔盟を結ぶと〕、義心を奮い立たせました。ちょうど李驤が南平を攻めて火を放つと、杜弢はとうとう東へ進んで巴漢の地へ下って行き31原文「弢遂東下巴漢」。本伝のこれまでの記述から推して、杜弢は南平郡から東に下って長沙へ行き、そこで益州の流人から推戴されたのだと思われる。そのため、ここで「下巴漢」とあるのはおかしい。「巴漢の流人を率いて東へ下った」なら通じると思うのだが。また本伝では、杜弢は応詹と協力して李驤を破ったと記されているが、この応詹の上言によると、途中で逃げてしまったようにも読める。前引した王戎伝附澄伝に「巴蜀流人散在荊湘者、与土人忿爭、遂殺県令、屯聚楽郷。澄使成都内史王機討之。賊請降、澄偽許之」とあり、応詹らでは屈服するまでにはいたらず、かえって手を焼いていたが、そこを王機軍が救援した、という過程か。、〔向かった先で〕湘州に滞在していた郷人と遭遇しました。〔郷人は〕杜弢の日ごろの名声を推戴し、杜弢と郷人はとうとう結託したのです。杜弢の本心を考えてみますと、はじめから反乱の端緒を開くつもりはなかったと思います。とはいえ、湘川(長沙の意か)を落としたのは、じつに杜弢の罪です。たほう、その領域で戦争を起こし〔武力で制圧しようとし〕たため、ついに〔杜弢の反乱を〕瀰漫させてしまったとも言えます。杜弢のこの書簡によると、彼の真心もこのうえなく確かです。むかし、朱鮪は洛陽で〔光武帝に降るかどうか〕迷いましたが、光武帝は黄河を指さして心を明示すると32いまいちニュアンスを把握しかねているのだが、『後漢書』岑彭伝に「帝曰、『夫建大事者、不忌小怨。鮪今若降、官爵可保、況誅罰乎。河水在此、吾不食言』」とあり、李賢注に「指河以為信、言其明白也」とあり、「黄河を指さす」というのは、約束は絶対に守るよという意味であるらしい。光武帝と朱鮪の場合は降ったあとに咎めたりなんかしないよ、という約束であり、この故事のシチュエーションはそのまま晋(元帝)と杜弢の状況にも重ね合わせられているのだろう。、朱鮪はその義に感動して帰順し、ついに力を尽くして恩に報い、侯に封建される恩寵を授かりました。これは過失を赦して功績を記録するというようなものです。詹がひそかに考えますに、現今は圯運の時期で、遠大な戦略を広げることに思いをはせるべきときです。ゆえに〔このようなときには〕、斉の桓公は鉤を射た〔管仲の〕罪を赦し、晋の文公は袪を斬った〔寺人の披の〕罪を赦し、〔二公は〕そうして〔周室を〕輔翼する勲功を成しとげ、一匡の名声を高めることができたのです。まして、杜弢らはもともとこれらのような過失がなく、それでいて叩頭して命を投げ出しているのですから、なおさら赦すべきでしょう。思いますに、大使をつかわして聖旨(赦免の恩沢)を布告させるのがよいと存じます。〔この恩沢によって〕雲夢沢33『漢語大詞典』によると「亦借指古代楚地」。が上でうるおい、百姓が下で沐浴すれば、上下ともに安まり、江左から戦乱の心配がなくなりましょう」。そこで元帝はまえの南海太守の王運をつかわして杜弢の降服を受諾し、詔書を宣読させて大赦し、反逆した者みなを赦免し、杜弢に巴東監軍をくわえた。
 杜弢が〔元帝の〕命を授かったあとも、功績に貪欲な諸将の攻撃は止まなかった。杜弢は怒りがこらえきれず、とうとう王運を殺し、将の王真に精鋭三千を統率させて奇兵部隊(襲撃部隊)とし、長江の南へ出撃させ、〔ついで〕武陵へ向かわせ、官軍の運送路を断たせようとした。陶侃は伏波将軍の鄭攀に迎撃させ、これをおおいに破ると、王真は徒歩で湘城(長沙の臨湘県?)へ敗走した。こうして陶侃ら諸軍は一斉に進軍したので、王真はついに陶侃に降り、部衆は潰走して散り散りとなった。これによって杜弢は逃走し、行方知らずとなった34愍帝紀、建興三年八月の条に「荊州刺史陶侃攻杜弢、弢敗走、道死、湘平」とある。また『資治通鑑考異』によれば、「晋春秋」には「城潰、弢投水死」とあるという。『資治通鑑』は愍帝紀に従っている。

王機(附:王矩)

 王機は字を令明といい、長沙の人である。父の王毅は広州刺史であり、南越の人心をおおいに得ていた。王機は風采が麗しく、おおらかで度量があった。陳恢(陳敏の弟)の乱のさい、王機は十七歳であったが、軍を率いてこれを撃破した。〔王機は〕王澄の人となりを慕っていたことがあり、王澄ももともとそのことを知っていた。〔そこで王機を〕自身(荊州刺史)の輔佐とし、ついには意気が投合し、内は心膂(胸と背骨=もっとも重要な仕事)を取りまとめ、外は爪牙(戦士)となった。まもなく、成都内史に登用された35王戎伝附澄伝に「巴蜀流人散在荊湘者、与土人忿爭、遂殺県令、屯聚楽郷。澄使成都内史王機討之。賊請降、澄偽許之」とあるので、実際には成都に赴任せず、荊州に留まったままだったのかもしれない。少なくとも本伝のこれ以降の文は、王機が荊州に滞在していることを前提に読まなければならないものとなっている。。王機は終日酒に酔い、政務を執らなかったため、百姓は彼を怨み、民心は動揺して落ち着かなかった。
 ちょうど王澄が〔王敦によって〕殺されてしまうと、王機は禍が自分にも及ぶのではないかと憂慮した。またこのとき、杜弢があちこちで墓をあばいていたのに、王機の家の墓だけは守ったので、王機はいよいよ困惑した36王戎伝附王澄伝によると、王澄は「何与杜弢通信」と王敦から言いがかり(本当のことかもしれないけど)をつけられて殺されてしまったようである。なぜか杜弢が王機だけを特別扱いしているので、自分も難癖をつけられるのではないかとますます不安が深まったというわけであろう。。王敦のところへ行って広州刺史の位を求めたが、王敦は承認しなかった。ちょうど広州の人々が広州刺史の郭訥にそむき、王機を刺史に迎えようとしたので、王機はとうとう奴客や門生千余人を連れて広州に入ろうとしたところ、広州の部将の温邵が兵を率いて王機を迎えた。王敦は参軍の葛幽を派遣して王機を追わせ、廬陵で追いついたが、王機は葛幽を叱り飛ばし、「どうして来たのか。死にたいのか」と言った。葛幽はむりに連れ帰ろうとせず、戻って行った。郭訥は温邵が王機を迎え入れたことを知ると、兵を派遣して温邵を攻めさせたが、かえって破られてしまった。郭訥はさらに王機の父と兄(王毅と王矩)が刺史であった時代の吏37『資治通鑑』は「将士皆機父兄時部曲」と記す。を派遣し、王機を防がせたが、みな武器を逆さまにして王機を迎え入れた。郭訥の部下はみな散り散りになってしまったので、〔郭訥は〕節を手にして王機を避けた。王機はとうとう城(南海郡の番禺県)に入り、郭訥のところへ行って節を要求したが、郭訥は嘆息して言った、「むかし、蘇武は節をなくさなかったが、前代の史書はこれを美談としたものだ。この節は天朝から授かったものであり、義として渡すわけにはいかない。みずから兵をやって奪えばよかろう」。王機は恥じ入って止めた38『資治通鑑』には「訥乃避位、以州授之」とある。本伝後文の記述から推しても、最終的には王機は広州刺史の位を奪ったようである。
 王機みずから広州を奪ったため、王敦に討伐されることを恐れ、そこで今度は交州刺史を求めた39これ以前の交州の動静として、『資治通鑑』に「初、交州刺史顧秘卒、州人以秘子寿領州事。帳下督梁碩起兵攻寿、殺之、碩遂専制交州」とあり、交州帳下督の梁碩が領交州刺史を殺して挙兵し、交州を事実上支配していたようである。ここで王機が交州刺史を求めたというのも、梁碩の討伐を願い出て、それによって晋朝への忠誠を示そうとしたということであろう。陶璜伝に「朝廷乃以員外散騎常侍吾彦代璜。彦卒、又以員外散騎常侍顧秘代彦。秘卒、州人逼秘子参領州事。参尋卒、参弟寿求領州、州人不聴、固求之、遂領州。寿乃殺長史胡肇等、又将殺帳下督梁碩、碩走得免、起兵討寿、禽之、付寿母、令鴆殺之。碩乃迎璜子蒼梧太守〔陶〕威領刺史、在職甚得百姓心、三年卒」とあり、忠義伝・王諒伝に「初、新昌太守梁碩専威交土、迎立陶咸為刺史。咸卒、王敦以王機為刺史、碩発兵距機、自領交阯太守、乃迎前刺史修則子湛行州事」とある。。このころ、杜弢の残党の杜弘が臨賀へ逃げ、金数千両を王機のもとへ送って与え、桂林の賊を討伐してみずから忠勤を示したいと求めた。王機は杜弘のために〔そのことを〕奏上すると列挙して上言すると(2022/6/4:修正)、朝廷はこれを承諾した。王敦は、王機が制御しがたかったことと、王機を利用して梁碩を討伐したいと思ったため、杜弘を降した功績によって交州刺史に転任させた。梁碩はこのことを知ると、子の梁侯を派遣し、王機に鬱林であいさつした。王機は〔梁碩の〕出迎えが遅いことを怒り、「州に着いたら逮捕して拷問してやる」となじって言った。梁碩の子は使者を走らせて梁碩に報告した。梁碩は「王郎(王機)はすでに広州を破ったというのに、どうしてさらに交州も破ろうとするのだろうか」と言った。そこで州人に命じ、王機を迎えることを許さなかった。交州刺史府の司馬の杜讃は、梁碩が王機を迎えないことを理由に、兵を率いて梁碩を攻めたが、梁碩に敗れてしまった。梁碩は僑民40客寓している人のこと。が王機に味方するのを心配したので、僑民の賢良な者をことごとく殺し、みずから領交阯太守となった。王機は梁碩に拒まれていたので、そのまま鬱林へ行った41原文「遂往鬱林」。中華書局の校勘記によると、宋本だけが「往」に作り、それ以外の諸本は「住」に作るという。中華書局は「往」を是とする張元済の説に従うが、文脈的には「住(留まる)」のほうが自然であるように思うが。。このとき、杜弘が桂林の賊をおおいに破って帰還し、王機と帰路の途中で遭遇した。王機は杜弘に、交州を奪うよう勧めた。杜弘はもともとそのつもりであったので、王機の〔交州刺史の〕節を手にすると、「交代で持つことにいたしましょう。一人で手にしなければならないわけでもありません」。王機はとうとう杜弘に節を渡した。こうして、王機は杜弘、温邵、劉沈らとそろってそむいた。
 ほどなく、陶侃が広州刺史となり、始興に到着した。広州の人々はみな、軽率に進んではならないと〔陶侃を〕諫めたが、陶侃は聴き入れなかった。州(南海郡の番禺県)に到着すると、諸郡県はみなすでに王機を迎えていた。陶侃はまず温邵と劉沈を討伐し、どちらも殺した。王機は牙門の屈藍を派遣して州に戻らせ、食糧を追加するのだと偽って公言しながら、ひそかに部下を招聘し、陶侃に対抗しようとした。陶侃はすぐに屈藍を捕え、これを斬ってしまい、督護の許高を派遣して王機を討伐させ、これを敗走させた。〔王機は〕道中で病死した。許高は遺体を掘り起こして首を斬り、あわせて王機の二人の息子も殺した。

〔王矩〕

 王機の兄の王矩は字を令式という。風采が立派で、外出するたびに観覧者が道を埋め尽くした。最初は南平太守となり42原文「初為南平太守」。さすがに起家が郡守というのはありえないので、訳者の読み方がおかしいのかもしれないが、よくわからない。、陳恢の討伐に関与して功績があったため、広州刺史に移った。赴任しようとしたさい、いきなり一人の人間が現れ、奏案を手にして王矩に謁見し、京兆の杜霊之と自称した。王矩は杜霊之に用事をたずねると、杜霊之は答えて言った、「天上の京兆尹から使者の命をこうむって参りました。君を主簿にお召しです」。王矩は心中ではなはだ気味悪く思った。広州に到着してひと月余で卒した。

王弥・張昌・陳敏王如・杜曾・杜弢・王機(附:王矩)祖約・蘇峻/孫恩・盧循・譙縦

(2020/9/15:公開)

  • 1
    原文「初為州武吏」。「初為」や「始為」はキャリアのスタートの意。起家を指すことが多いが、「尤も起家は普通には九品流内官に就任することを言う」(宮崎市定『九品官人法の研究――科挙前史』中央公論社、一九九七年、原著は一九五六年、五七三頁)。
  • 2
    イネ科の一年草。イネに似ていて農作物の生長の害になることが多い。(『漢辞海』)
  • 3
    『資治通鑑』は「歆南蛮司馬」と記す。宣五王伝・扶風王駿伝附歆伝には「使持節、都督荊州諸軍事、鎮南大将軍、開府儀同三司」とあるのみで、南蛮校尉は見えていないが、南蛮校尉は荊州刺史が兼任するのが常なので、『資治通鑑』の記すとおり新野王時代の官位なのかもしれない。ただし、王戎伝附澄伝に「初、澄命武陵諸郡同討杜弢、天門太守 瓌次于益陽。武陵内史武察為其郡夷所害、瓌以孤軍引還。澄怒、以杜曾代瓌」とあり、位こそ不明だが、杜曾は荊州刺史・王澄の差配を受けていることが見えている。新野王は恵帝の治世中に張昌に殺されたが、おそらく杜曾は荊州刺史の府僚ないし荊州刺史に着任した者の兼任官の府僚として、いぜんとして出仕していたのではないかと考えられる。
  • 4
    『資治通鑑』は永嘉六年にかける。
  • 5
    王戎伝附澄伝に「山簡参軍王沖叛于豫州、自称荊州刺史。澄懼、使杜蕤守江陵」とあり、王澄在任中にそむいたというが、応詹伝に「陳人王沖擁衆荊州、素服詹名、迎為刺史」とあり、王澄の仕事ぶりに不満を抱いた旧来からの荊州の官吏が、適任者を求めての「叛」だったのかもしれず、もしかすると胡亢や杜曾も同様の動きであったのかもしれない。なお、王澄は王敦に殺され(『資治通鑑』によると永嘉六年のこと)、元帝は後任に周顗を就けたが、周顗では杜弢(永嘉五年に反乱)に歯が立たず(周顗伝、陶侃伝)、すぐに陶侃へ交代となった(陶侃伝)。陶侃伝によると、陶侃拝命時に「賊王沖自称荊州刺史、拠江陵」とある。
  • 6
    陶侃伝に「〔侃参軍〕王貢……至竟陵、矯侃命、以杜曾為前鋒大都督、進軍斬沖、悉降其衆」とあり、王沖の衆もけっきょく併合したようである。
  • 7
    南の江陵・竟陵方面は杜曾が、北の襄陽方面は第五猗が統べたということであろう。第五猗と杜曾の合流を元帝紀は建武元年八月にかけているが、『資治通鑑』は建興三年にかけている。おそらく通鑑が妥当である。第五猗の擁立は、陶侃を荊州刺史として認めないという意思表示であると思われる。陶侃伝に「〔侃参軍〕王貢……至竟陵、矯侃命、以杜曾為前鋒大都督、進軍斬沖、悉降其衆。侃召曾不到、貢又恐矯命獲罪、遂与曾挙兵反」とあり、杜曾は陶侃の招聘を断ったうえで「反」しているからである。
  • 8
    陶侃が杜弢を平定したのは建興三年のこと。ちなみに杜曾は杜弢の「党」とか「将」とか記されている場合がしばしばあるが、両者にはあまり接点がない。
  • 9
    襄陽は同盟者の第五猗が駐屯していたと考えられる地で、違和感あり。周訪伝には「賊率杜曾、摯瞻、胡混等並迎猗、奉之、聚兵数万、破陶侃於石城、攻平南将軍荀崧於宛、不克、引兵向江陵」とあり、荀崧伝にも「遷都督荊州江北諸軍事、平南将軍、鎮宛。……為賊杜曾所囲」と杜曾に攻められたことが見えているので、「宛」(荀崧)の誤りではないだろうか。
  • 10
    陶侃伝などによれば、馬儁と蘇温は陶侃の故将である。陶侃が建興三年に杜弢を平定すると、王敦は陶侃を広州刺史へ移し、王廙を荊州刺史に就けようとした(陶侃伝、王廙伝)。しかしこれに対し、「侃之佐吏将士詣敦請留侃。敦怒、不許。侃将鄭攀、蘇温、馬儁等不欲南行、遂西迎杜曾以距廙」(陶侃伝)と、陶侃の将吏の馬儁らが陶侃を荊州刺史へ留任するよう嘆願したが、最終的には聴き入れられなかったため、馬儁らは王廙の赴任を拒み、ついに杜曾に合流した。そして「賊杜曾与〔馬〕俊、〔鄭〕攀北迎第五猗以距廙」(王廙伝)とあるように、愍帝が荊州刺史としてつかわし、杜曾が迎えたところの第五猗を陶侃に代わる新たな刺史として奉じたとされている。当然のことだが、周訪伝によれば杜曾が捕えられたとき、同時に第五猗も捕えられて王敦のもとへ送られ、周訪が「說猗逼於曾、不宜殺」と言って助命を請うたが、王敦は斬ってしまったという。
  • 11
    『晋書校文』は「李特」に作るべきという(中華書局の校勘記を参照)。李庠は李特の弟で、優秀な将であったらしく、李氏ら雍州の流人を当初は庇護・利用していた益州刺史の趙廞からも重宝されていたが、やがて警戒され、李特らを差し置いてまっさきに殺された。
  • 12
    醴陵は湘州長沙郡の属県。南平郡にいながらこの県の令になったということか。
  • 13
    王戎伝附澄伝によれば、降服した李驤らへの処遇がひどかったため、湘州の流人が反発して決起したようである。伝に「巴蜀流人散在荊湘者、与土人忿爭、遂殺県令、屯聚楽郷。澄使成都内史王機討之。賊請降、澄偽許之、既而襲之於寵洲、以其妻子為賞、沈八千余人於江中。於是益梁流人四五万家一時俱反、推杜弢為主、南破零桂、東掠武昌、敗王機于巴陵」とある。
  • 14
    ちなみに懐帝紀、永嘉五年五月の条に「益州流人汝班、梁州流人蹇撫作乱于湘州、虜刺史苟眺」とあり、けっきょく捕まったようである。
  • 15
    後文の「懼死求生」という心配はこの段階では抱いていなかった、ということか。
  • 16
    おそらく元帝(当時はまだ琅邪王)の府を指す。どうして「盟」と呼ぶのかは不明。『資治通鑑』胡三省注は「時琅邪王睿為東南方鎮盟主、故曰盟府」と解している。
  • 17
    原文「豈惟滌蕩瑕穢、乃骨肉之施」。よく読めず。「汚れをそそいだ(滌蕩瑕穢)」というのは無罪潔白を代わりに証明してくれた、の意か。そしてそれのみならず、「骨肉之施」すなわち肉親からもらえるような施しの援助までしてくれた、というふうに読んでみた。
  • 18
    悪事を働いているわけではないし、急に攻めてくるなんてことないだろう、すっごい脅しをかけてきているけど、ということか。
  • 19
    『韓非子』外儲説左上篇に見える説話。
  • 20
    原文「未見争衡之機権也」。「争衡」は辞書的には「軽重をくらべる」(『漢辞海』)の意味だが、用例の多くは「与某争衡」という形であり、「某と重さをくらべる」すなわち「ヘゲモニーを争う」の意であろう。ここでは、諸将がもはや平定する必要もない雑魚集団にいつまでも粘着していて、ヘゲモニー奪回という肝心の目標を見失っていることについて、こう述べているのだと思われる。
  • 21
    原文「雖刑残而無慨」。いや、憂憤なりしているものと描かれていたような気がするが……?
  • 22
    岷山と衡山、すなわち益州と荊州長江以南(湘州)。
  • 23
    斉の桓公の業績を評するのによく用いられる語で、天子の位を定めて天下を一つに正すという意味。『論語』憲問篇に「子曰、管仲相桓公、覇諸侯、一匡天下」とあり、『論語集解』に「馬曰、『匡、正也。天子微弱、桓公帥諸侯、以尊周室、一正天下』」とある。本文も元帝が同様の意味で「一匡」をなすだろうと言っているのであろう。この書簡の当時は愍帝の世であった。
  • 24
    原文「若然」。こういう読み方はふつうはしないと思うが、前後の文脈からこのように読むことにした。
  • 25
    応詹伝によれば、彼は汝南の出身で、曹魏で侍中をつとめた応璩の孫であるという。
  • 26
    岷山と南嶽(衡山)?
  • 27
    杜弢は忠誠な人物だ→益州の連中も忠実な人間だ、と大目に見てもらって許してくれるという意味だろうか。
  • 28
    自衛守備の意か。あるいは辺境の戍役に駆り出されるのはいやだという意味かもしれない。
  • 29
    論理展開がわかりにくい。「自分が悪だくみを抱いているというならば、益州にいるときにやってます。同じ理屈は自分だけでなく、益州の流人全員に当てはまります」というぐあいだろうか。
  • 30
    『華陽国志』大同志には「〔李〕特兄輔……至蜀、因謂特曰、『中国乱、不足還』。特遣天水閻式累詣〔羅〕尚、求弛領校、権停至秋。……及秋、又求至冬。辛冉、李苾以為不可、必欲移之。式為別駕杜弢説逼移利害。弢亦欲寛迸民一年。辛冉、李苾以為不可、尚従之。弢致秀才板出、還家、知計謀不行故也」とある。すなわち、李特らが入蜀したさい、杜弢は益州刺史・羅尚の府僚であり、流民を寛大に処遇するよう求めたが、羅尚の従うところとならず、官を去ったという。その後の動静は明らかでないが、この応詹の上言で言われていることにもとづけば、救援か何かの使者として荊州につかわされ、そのまま益州には戻らなかったということなのであろう。なお羅憲伝附尚伝に「李特……又攻〔羅〕尚於成都、尚退保江陽。初、尚乞師方岳、荊州刺史宗岱率建平太守孫阜救之、次于江州」とある。
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    原文「弢遂東下巴漢」。本伝のこれまでの記述から推して、杜弢は南平郡から東に下って長沙へ行き、そこで益州の流人から推戴されたのだと思われる。そのため、ここで「下巴漢」とあるのはおかしい。「巴漢の流人を率いて東へ下った」なら通じると思うのだが。また本伝では、杜弢は応詹と協力して李驤を破ったと記されているが、この応詹の上言によると、途中で逃げてしまったようにも読める。前引した王戎伝附澄伝に「巴蜀流人散在荊湘者、与土人忿爭、遂殺県令、屯聚楽郷。澄使成都内史王機討之。賊請降、澄偽許之」とあり、応詹らでは屈服するまでにはいたらず、かえって手を焼いていたが、そこを王機軍が救援した、という過程か。
  • 32
    いまいちニュアンスを把握しかねているのだが、『後漢書』岑彭伝に「帝曰、『夫建大事者、不忌小怨。鮪今若降、官爵可保、況誅罰乎。河水在此、吾不食言』」とあり、李賢注に「指河以為信、言其明白也」とあり、「黄河を指さす」というのは、約束は絶対に守るよという意味であるらしい。光武帝と朱鮪の場合は降ったあとに咎めたりなんかしないよ、という約束であり、この故事のシチュエーションはそのまま晋(元帝)と杜弢の状況にも重ね合わせられているのだろう。
  • 33
    『漢語大詞典』によると「亦借指古代楚地」。
  • 34
    愍帝紀、建興三年八月の条に「荊州刺史陶侃攻杜弢、弢敗走、道死、湘平」とある。また『資治通鑑考異』によれば、「晋春秋」には「城潰、弢投水死」とあるという。『資治通鑑』は愍帝紀に従っている。
  • 35
    王戎伝附澄伝に「巴蜀流人散在荊湘者、与土人忿爭、遂殺県令、屯聚楽郷。澄使成都内史王機討之。賊請降、澄偽許之」とあるので、実際には成都に赴任せず、荊州に留まったままだったのかもしれない。少なくとも本伝のこれ以降の文は、王機が荊州に滞在していることを前提に読まなければならないものとなっている。
  • 36
    王戎伝附王澄伝によると、王澄は「何与杜弢通信」と王敦から言いがかり(本当のことかもしれないけど)をつけられて殺されてしまったようである。なぜか杜弢が王機だけを特別扱いしているので、自分も難癖をつけられるのではないかとますます不安が深まったというわけであろう。
  • 37
    『資治通鑑』は「将士皆機父兄時部曲」と記す。
  • 38
    『資治通鑑』には「訥乃避位、以州授之」とある。本伝後文の記述から推しても、最終的には王機は広州刺史の位を奪ったようである。
  • 39
    これ以前の交州の動静として、『資治通鑑』に「初、交州刺史顧秘卒、州人以秘子寿領州事。帳下督梁碩起兵攻寿、殺之、碩遂専制交州」とあり、交州帳下督の梁碩が領交州刺史を殺して挙兵し、交州を事実上支配していたようである。ここで王機が交州刺史を求めたというのも、梁碩の討伐を願い出て、それによって晋朝への忠誠を示そうとしたということであろう。陶璜伝に「朝廷乃以員外散騎常侍吾彦代璜。彦卒、又以員外散騎常侍顧秘代彦。秘卒、州人逼秘子参領州事。参尋卒、参弟寿求領州、州人不聴、固求之、遂領州。寿乃殺長史胡肇等、又将殺帳下督梁碩、碩走得免、起兵討寿、禽之、付寿母、令鴆殺之。碩乃迎璜子蒼梧太守〔陶〕威領刺史、在職甚得百姓心、三年卒」とあり、忠義伝・王諒伝に「初、新昌太守梁碩専威交土、迎立陶咸為刺史。咸卒、王敦以王機為刺史、碩発兵距機、自領交阯太守、乃迎前刺史修則子湛行州事」とある。
  • 40
    客寓している人のこと。
  • 41
    原文「遂往鬱林」。中華書局の校勘記によると、宋本だけが「往」に作り、それ以外の諸本は「住」に作るという。中華書局は「往」を是とする張元済の説に従うが、文脈的には「住(留まる)」のほうが自然であるように思うが。
  • 42
    原文「初為南平太守」。さすがに起家が郡守というのはありえないので、訳者の読み方がおかしいのかもしれないが、よくわからない。
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