凡例
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石季龍(1)/石季龍(2)/石季龍(3)/附:石世・石遵・石鑑/附:冉閔
石季龍は慕容皝を討伐しようと思い、司州、冀州、青州、徐州、幽州、并州、雍州の兼復の家1「兼復」は原文のまま。免役されている家も含めて、ということか。渡辺信一郎氏は「富豪の家」と読んでいる。渡辺『中国古代の財政と国家』(汲古書院、二〇一〇年)三三〇頁。(2021/2/14:注追記)に命じ、〔家の成人が〕五丁につき三丁を徴発し、四丁につき二丁を徴発し、鄴城の旧軍に合わせ、五十万に達した。船一万艘を用意し、黄河から海を通り、穀物や豆類千百万斛を安楽城に輸送し、征軍の物資を整えた。遼西、北平、漁陽の一万戸を兗州、豫州、雍州、洛州に移した。
石季龍が天王位を僭称して以後、調用2厳密に意を取ろうとすると「異動と登用」になりそう(?)だが、たんに人事一般の意で取っても問題なさそう。する人材があるときには、すべて選司3字義どおりには「選挙の担当者」で、そうであるならば尚書吏部曹を指すか。が擬官し4「擬官」は原文のまま。用例(といっても唐書だが)をみるかぎり、「その人物に適当な官職を挙げる」というニュアンスらしく思われる。陳の「用官式」では、まず吏部が叙任したい数十人の名を白牒に列記し、吏部尚書の承認と勅可を得られたら、今度は各人に適当な官を選定してそれを黄紙に記し、八坐の承認と奏可を得られたら施行、という手はずになっているが、この後半の黄紙あたりに相当する作業になるだろうか。王坦之伝には「僕射江虨領選、将擬為尚書郎。……虨遂止」という記述がみえるが、これは起家の例である。また山濤伝には「濤再居選職十有余年、毎一官缼、輒啓擬数人、詔旨有所向、然後顕奏、随帝意所欲為先」という記述もある。両方のケース、すなわち人事を施す人材をまず選考し、それから適当な官を選定するという場合と、官の欠員をうめるにふさわしい人材を選考するという場合と、どちらも最終的には黄紙に人名とその「擬官」を記すことになるのであろう。、〔その案が〕尚書令と尚書僕射〔の承認〕を経てから〔石季龍に〕奏上し5前文にみえた「清定」の場合は中書と門下にも承認を得るように命じられていたが、日常的な人事では尚書の令僕のみがチェックしていたということであろう。なお陳の「用官式」では尚書八座の署名が必要とされる。、施行された。〔しかし施行してみたところ、その官に〕適当な人物でなかった場合には、調べて(?)尚書令と尚書僕射の責任とし、吏部尚書と吏部曹の尚書郎は罪に問われなかった。このときになって、吏部尚書の劉真は、選挙の根本を失っていると考え、このことを上言した。石季龍は主者(選司=吏部曹)を叱責し、劉真に光禄大夫、金章紫綬をくわえた。
石季龍は宛陽に行き、曜武場でおおいに閲兵した。
慕容皝が幽州と冀州を襲撃し、三万余家を拉致して帰った。幽州刺史の石光は惰弱(戦おうとしなかったこと)の罪に問われ、〔中央に〕召還された。
徴士の辛謐に脇息、杖、衣服、穀物五百斛を賜い、平原に勅して第一等の邸宅を建てさせた。
これより以前、李寿の将の李宏6成帝紀、李寿載記、『資治通鑑』は「李閎」に作る。漢の荊州刺史であったが、咸康五年、庾亮の西伐軍により捕えられていた。が晋から石季龍のもとへ奔っていた。李寿は〔石季龍に〕書を送って李宏のことを請うたが、その書の題辞に「趙王石君」とあった。石季龍は不快に思ったが、外(この場合は尚書か)に付してこの件を議論させたところ、意見はまとまらなかった。中書監の王波の議、「いま、李宏は死をもってみずから誓いを立ててこう言っています、『もし魂を蜀漢に帰すことができましたら、宗族をまとめあわせ、王の教化に合流しましょう』と。もし帰らせてそのとおりになるならば、一旅の軍を煩わせることなく、坐して梁州と益州を平定することになります。もしぐずぐずして進展がなくとも、〔事の成否は?〕亡命した一夫にあるものでしょうか7原文「豈在逃命一夫」。『資治通鑑』は「不過失一亡命之人、於趙何損」と、すごくわかりやすい表現になっている。。李寿は帝号を称して〔天王と〕同等の年月を経ており8原文「寿既並日月」。よくわからず、石虎とほぼ同じ時期くらい(数年ちがう)に立ったという意で読んだ。、一地方に僭越して割拠している者ですから、いま、もし制詔を下し、〔これによって〕あえて返答すると、辺境の夷狄(李氏の意?)から批判を招きましょう。書でもってこれに返答し、あわせて楛矢(粛慎が貢献するもの)を贈り、〔楛矢を示すことで〕李寿にわが辺境は必ず〔わが趙に〕朝献しているのだと知らしめるのがよいでしょう9詔で返答するという臣の扱いをせず、書で返答して対等の立場での通交を示し、機嫌を取っておきつつ、楛矢をさりげなく見せることで「オレのとこは来てるよ。おまえは?」というふうにマウントを取ってやりましょうということ。」。こうして李宏を返し、礼物を整えて李寿に返答した。
石韜を太尉とし、太子の石宣と日替わりで尚書奏事を裁決させた。幽州から東は白狼にいたるまでの領域で、おおいに屯田を起こした。
張駿は石季龍の勢いがさかんであるのを憚り、別駕従事の馬詵を派遣して石季龍に朝見した。石季龍は当初はおおいに喜んでいたが、その上表を見ると、言辞がひじょうに傲慢であったため、おおいに怒り、馬詵を斬ろうとした。侍中の石璞が進み出て言った、「陛下の災いとなっているのは丹楊(晋)です。些細な河西がなにごとかをできるものでしょうか。いま、馬詵を斬ってしまえば、必ず張駿を征伐しなければなりませんが、そうすると南征の軍勢は二つに分かれることになり、建鄴の君臣はその数年の命を延ばしてしまいましょう。これ(張氏)に勝利するのに武力を用いないのは、四夷から笑われることではありませんので、厚遇するにこしたことはありません。あちらがもし考えを変えて謝罪し、臣の職務を奉じるのならば、さらに何を求めるでしょうか。〔張駿が〕惑乱して改心しないようならば、それからこれを討伐しても遅くありません」。そこで石季龍はやめた。
李宏が蜀漢に到着すると、李寿は境内に向けて自賛しようと思い、令を下した、「羯の使者が来朝して、楛矢を献上した」。石季龍はこのことを聞くとひじょうに怒り、王波を免じ、白衣をもって守中書監とした。
石季龍の志は武力を頻発することにあったが、国内は馬が少なかったので、私馬(個人所収の馬)の飼育を禁止し、秘匿した者は腰斬とし、百姓の馬四万余匹を徴収して公(朝廷)に入れた。くわえて、宮殿を鄴でさかんに建造し、台や観を四十余所築き、長安と洛陽に宮殿を建てたが、〔総計で〕労働者は四十余万人であった。また勅を下し、河南の四州に南征軍の準備を整えさせ、并州、朔州、秦州、雍州に西討の物資を整えさせ、青州、冀州、幽州に三五の割合で兵卒を徴発させ10原文「三五発卒」。諸説あり。胡三省は「三丁発二、五丁発三也」というが、渡辺信一郎氏は十五丁(三×五)に一人の割合とする。渡辺『中国古代の財政と国家』(汲古書院、二〇一〇年)第一〇章を参照。また『資治通鑑』はこの三州の発卒を「為東征之計」とあり、胡三省注に「東征、欲伐燕也」とある。(2021/2/14:注修正)、諸州〔すべてで〕集まった兵士は五十万人であった11原文「諸州造甲者五十万人」。自信なし。。しかも公侯や牧宰(州郡の長官)は私的な利益を争ったので、百姓は農業を失い、十家のうち七におよんだ。船夫は十七万人であった。〔兵士や船夫で〕川に溺れたり、猛獣に殺されたりした者は三分の一であった。貝丘の李弘は民心の恨みに乗じ、自分の姓名は讖緯に呼応していると自称し、とうとう悪党と結託し、百官を立てた。ことが発覚したので、これを誅殺し、数千家が連座した。
石季龍の狩猟は限度がなく、早朝に出かけて夜に帰り、そのうえ忍びの外出を多くおこない、みずから労役現場を視察した。侍中の韋謏は諌めて言った、「臣はこう聞いています、千金(富裕)の子は軒下には座らず、万乗の主君は危険なことをおこなわない、と。陛下は天性の神武をそなえ、四海に君臨し、乾坤(天地)が暗合して助け、万にひとつも憂慮するものがないとはいえ、白龍が魚に姿を変えたときは、漁師の豫且に苦しめられる禍があり、海若(海神の名前であるらしい)が忍びで遊覧したさいは、葛阪で酷逆をこうむりました12海若の故事は出典不明。費長房の故事か?。陛下に願わくは、宮殿を清らかにし、道路を人払いさせ、かの二神を戒めとし、天下の重責をないがしろにして、軽はずみに斧や鉞の空間(山林)に出かけませんように。にわかに狂人による事変が起これば、龍のごとき武勇も発揮するいとまがありませんし、智謀の士の計略も間に合いません。またいにしえ以来、聖王が宮殿を建造するときは、必ず三農(春夏秋の農期)の合間に実施していましたが、それは農耕の時間を奪わないためです。現在だと、あるときは耕作の時期に造営事業を起こし、あるときは収穫の月に労役で煩わせ、倒れて死亡する者は道に連なり、怨嗟の声が道路に満ち、じつに聖君や仁君がやむをえずおこなうことではありません。むかし、漢の明帝は明君で、鍾離意が一言を発したら、徳陽殿の労役は中止になりました。まこと、臣の見識は過去の士人に恥じ入る程度で、言葉には取るべきものがありませんが、陛下の道は前王をしのいでいますから、哀れんで〔臣のこの奏案を〕ご覧いただくのがよいことかと存じます」。石季龍はこれを見て良しと思い、穀物と帛を下賜したが、しかし造営事業はますます増加し、外出や視察もいつもどおりであった。
尚書右僕射の張離は領五兵尚書で、軍事の要務をもっぱら統べており、そのうえ石宣に媚を売ろうと思い、彼に話をした、「現在、諸公侯の府の吏や兵は過分ですから、じょじょに剥奪して、太子の権威を高めるのがよいでしょう」。石宣は石韜が寵愛されていることに平素より嫉妬していたので、張離に上奏させて諸公の府吏を剥奪させ、秦公(石韜)、燕公(石斌)、義陽公(石鑑)、楽平公(石苞)は吏一九七人、帳下兵二〇〇人を許し、これ以下はこの三分の一を許し、〔剥奪したことで生じた〕余剰の五万の兵はすべて東宮に配属させた。こうして、諸公はみな恨みを抱き、仲たがいの発端になったのであった。
征北将軍の張挙を派遣し、雁門から索頭の郁鞠を討伐させ、これに勝利した。
制書を下した、「征士(おそらく征軍のために徴発した兵士)五人につき、車一乗、牛二頭、米は一人につき十五斛、絹は十匹〔供出せよ〕。〔これらの〕徴用がそろえられない者は斬刑をもって罰する」13おそらくだが、徴兵された百姓が自分で持ってこい、という話なのだろう。。そして江南を攻略しようとした。こうして、百姓は困窮し、子を売って軍制(軍興(軍用物資の徴発)のこと?)を満たそうとしたが、それでも〔足りずに〕赴けず、みずから道ばたで首を吊って死ぬ者があいついだが、しかし徴用を要求して止むことがなかった。たまたま青州(刺史)が、済南の平陵城の北にある石獣(「獣」字は「虎」字の避諱)が一晩でいきなり城の東南の善石溝に移り、その上(石獣の北?)には狼や狐の千余の足跡がつづいており、足跡全体は道をなしていた、と上言した。石季龍はおおいに喜んで言った、「獣(虎)は朕のことである。平陵城の北から東南に移ったというのは、朕に江南を平定させようとする天の意志のしるしである。天命にそむくべきではない。そこで、諸州の兵に勅を下し、明年に全員集合せよ。朕みずから六軍を統率し、道をなしたというしるしに符合するようにしよう」。群臣はみな祝賀し、「皇徳頌」を奉じる者は一〇七人であった。当時、怪異がひじょうに多かった。石が泰山で燃え、八日経って〔火が?〕消えた。東海では大きな石がひとりでに立ち、その傍では血が流れていた。鄴の西山では石の間から血が流れ、その長さは十余歩、広さは二尺余であった。太武殿に描いた古賢の絵がすべて胡〔の顔つき〕に変わり、旬日余りすると、すべて頭が縮んで肩の中に埋もれていた。石季龍はおおいに気味悪がり、仏図澄は石季龍に対面すると涙を流した。
寧遠将軍の劉寧が武都の狄道を攻め、これを落とした。石宣に鮮卑の斛穀提を討伐させ、おおいにこれを破り、斬首は三万級であった。
中謁者令の申扁は石季龍に気に入られ、石宣も彼を親任していた。申扁は言葉がうまく、判断力があり、機密の仕事をもっぱら総べていた。石季龍は奏事を見ず、そのうえ石宣は酒に溺れて内宮で遊び耽り、石韜も狩猟三昧であったので、生殺(刑罰)や叙任はすべて申扁が決裁していた。こうしてその権力は内外を傾けるほどとなり、刺史や二千石は多くその一族から輩出され、九卿以下は〔申扁の車の〕塵を眺めて拝礼したが、侍中の鄭系、王謨、散騎常侍の盧諶、崔約ら十余人だけが対等の礼をおこなった。
石季龍はさらに州郡の吏の馬一万四千余匹を徴発し、曜武関将(?)に配し、〔それらの〕馬の持ち主はみな一年免税とした。
鎮北将軍の宇文帰が段遼の子の段蘭を捕えて送り、石季龍に降って、駿馬一万匹を献上した14すでに趙から「鎮北」を授けられている宇文帰がこれによって「降于季龍」というのは変である。『資治通鑑』は「宇文逸豆帰執段遼弟蘭、送於趙、并献駿馬万匹」とあり、胡三省注に「段遼之敗、其弟蘭奔宇文部、逸豆帰今執以送趙」とあり、これに従うならばやはり載記にあるように段蘭を送って降ったようであり、これによって「鎮北」を授けられたのかもしれない。なお『資治通鑑』はこれにつづけて「趙王虎命蘭帥所従鮮卑五千人屯令支」と記す。。
石季龍は平西将軍の張伏都を使持節、都督征討諸軍事とし、歩騎三万を統率させて涼州を攻めさせた。黄河を渡り、張駿の将の謝艾と河西で会戦したが、張伏都は敗北した。
石季龍は残虐無道であったが、すこぶる経学を好んでいた。国子博士を洛陽に派遣して石経を書写させ、中経を秘書に突き合わせて異同を調べさせた15原文「校中経于秘書」。「中経」は晋の目録書である『中経新簿』を指すか。『隋書』経籍志一に「魏秘書郎鄭黙、始制中経、秘書監荀勗、又因中経、更著新簿、分為四部、総括群書」とあり、『太平御覧』巻二三三、秘書監に引く「晋諸公讃」に「荀勖領秘書監。太康二年、汲郡冢中得竹書、勖躬自撰次注写、以為中経、列於秘書、経伝闕文多所証明」とあり、荀勗伝に「及得汲郡冢中古文竹書、詔勖撰次之、以為中経、列在秘書」とある。「晋の中経簿の記載と趙の所蔵する秘書とを比べ合わせ、目録を更新した」という意で訳出してみたが、よく読めず、自信はない。あるいは荀勗伝の記載の仕方を考慮すると、じつは載記には脱文があり、本来は「洛陽石経を書写させて中経簿を改定させ、石経の書写したものを秘書にくわえた」という文章だったのかもしれない。。国子祭酒の聶熊は『穀梁春秋』に注釈を記したので、〔『穀梁春秋』を〕学官に並べた。
燕公の石斌は酒に溺れ、狩猟に耽り、いつも懸管して入っていた。征北将軍の張賀度は辺境防衛の地は警戒すべきであると思い、つねに石斌を抑制して諌めていた。石斌は怒り、張賀度を辱めた。石季龍はこれを聞くとおおいに怒り、石斌を棍棒で百回打ち、主書の礼儀(人名)に節を持たせて派遣し、石斌を監督させた。〔しかし〕石斌はいつもどおり思うままにふるまっていたので、礼儀は法を堅持して叱責し、禁じたところ、石斌は怒って礼儀を殺してしまった。〔石斌はさらに〕張賀度を殺そうとしたが、張賀度は厳重な護衛を設けて馬で走り去り、これらのことを〔石季龍に〕報告した。石季龍は尚書の張離に節を持たせて派遣し、騎兵を統率させて石斌を追跡し〔、これを捕え〕、これを鞭で三百回打ち、免官して私宅に帰し、石斌が親任していた十余人を誅殺した。
建元(東晋康帝期)のはじめ、石季龍は太武前殿で群臣を饗宴したところ、白い雁百余羽が馬道の南に集まっていた。石季龍はこれを射るよう命じたが、獲られなかった。ほどなく、三方(東晋、前涼、成漢)を討伐しようとし、諸州の兵で集まった者は百余万であった。太史令の趙攬は私的に石季龍に言った、「白い雁が前殿の庭に集まったのは、宮殿がこれから空虚になるということ〔を示しているの〕です。行くべきではありません」。石季龍はこれを聴き入れ、宣武観を来訪しておおいに閲兵し、戒厳を解除した。
燕公斌を使持節、侍中、大司馬、録尚書事とした。左右戎昭将軍と左右曜武将軍を置き、朝位は左右衛将軍の上とした。東宮に左右統将軍を置き、朝位は四率の上とした。上光禄大夫と中光禄大夫を置き、〔朝位は〕左右光録大夫の上とした。鎮衛将軍を置き、〔朝位は〕車騎将軍の上とした。
当時、石宣は淫乱残虐で、日に日にひどくなっていったが、このことを報告しようとする者はいなかった。領軍将軍の王朗はこのことを石季龍に言った、「現在、真冬で雪が降る寒さですが、皇太子は人に宮材(東宮に使う木材?)を伐採させ、〔その木材を〕漳水に運ばせていますが、その事業に動員されている者は数万人で、士衆は疲弊しています。陛下、どうか外出して視察するついでに、この事業を止めさせてください」。石季龍はその言葉のとおりにした。ほどなく、石宣は王朗の仕業だと知り、怒って殺そうと思ったが、理由がなかった。ちょうど熒惑が房に留まったので、趙攬は石宣の意向を受け、石季龍に言った、「昴は趙の分野です。熒惑が現れる場所というのは、その〔分野の〕君主はそのこと(熒惑の出現)を嫌うものです。房は天子をかたどりますから、この禍は些細なことではありません。貴臣で姓が王の者がこの禍に該当するでしょう」16昴云々の話はどう関係があったのかわからないし、(たんに天文の知識がないというのも関係あるが)読みにくい。『資治通鑑』は趙攬の言葉を「房為天王、今熒惑守之、其殃不細。宜以貴臣王姓者当之」とバッサリ省略しつつ、わかりやすい表現に整えている。また最後に王氏へ結論されたのは、「王者になるヤツがいる」というこじつけであろう。胡三省の注は解説になるので引用する。「熒惑守房・心、王者悪之。熒惑、天子理也。故曰、雖有明天子、必謹視熒惑所在」。なお「守」というのは「久而不去」(胡三省注)のこと。。石季龍、「誰が該当するんだ」。趙攬はしばらく考えてから答えた、「王領軍(王朗)より貴い者はございません」。石季龍は王朗を惜しく思いつつも、王氏への疑念もあったので、「その次を言ってみよ」と言った。趙攬は「その次は中書監の王波だけです」と言った。そこで石季龍は書を下し、王波が以前の議で李宏返還と楛矢贈答を提案した過失をさかのぼって問題とし、王波とその四人の子を腰斬し、〔その遺体を〕漳水に投げ込み、こうして熒惑の変異を鎮めようとした。まもなく、王波が無罪であったことを哀れみ、司空を追贈し、その孫を侯に封じた。
平北将軍の尹農が慕容皝を凡城で攻めたが、落とせなかったので帰還した。尹農を免じて庶人とした。
このころ、白虹が太社から出て、鳳陽門を経て、東南に向かって天に伸び、十余刻ほど経って消えた。石季龍は書を下した、「およそ、いにしえの明王が天下を治めるときは、政治は均等を第一とし、教化は仁恵を根本としたため、まことに人心に合致し、神物に輝きをもたらすことができたのである17原文「緝熙神物」。よく読めない。「神物」は龍のような神秘的動物のことを言うらしい。めでたい神獣が出現するようになったということだろうか。。朕は徳の薄い身をもって、万邦に君臨し、〔朝から〕日暮れになってもなお憂えて怠らず、いにしえの烈人に倣おうと思い、そこでつねづね書を下し、徭役と賦税を減免し、民衆を休息させ、そうして俯いては百姓をいたわり、仰いでは三光(日月星)を授かりたい18原文「仰稟三光」。日月星の輝きがくもったり隠れたりというような異変なく、その光がきちんと降り注いでほしいということだろう。と願っているのである。しかし中年(ちょっと前)より以来、災異がますます顕著になり、天文は混乱し、季節の気は適切でないが、これは人民が下で怨みをつのらせ、罪(?)が皇天を動かしたからである19原文「斯由人怨於下、譴感皇天」。「人怨於下、譴感皇天」を「由」で結ぶのが適切な読み方に思えるが、下の「譴感皇天」がどうしても訳出しにくく、おかしな訳文になってしまった。「譴感皇天」のニュアンスとしては、「民衆の怨恨がたまり、それが天帝を動かし、災異となって顕現した」という感じであろうが……。。朕が聡明でないとはいえ、諸侯が輔翼できていないために招いたことでもある。むかし、楚の宰相が政治を整えると、洪水の災いはほどなくおさまり、鄭の卿が道に励むと、妖気はおのずと消えていった。ともに良い股肱であり、このようにして災異を鎮めたのである。しかし〔現在の〕群公卿士はおのおのが道を思慕して国家を惑わせ20原文「懐道迷邦」。「懐道迷国」とも表現されるもので、隠士のことを指すらしい。上の鄭の卿が道に励んだという場合とはちがう。、成否を傍観しているだけである。どうしてこれが台輔や百司に希望することであろうか。そこで、おのおの密封した文書を奉じ、言葉を尽くして隠すことのないように」。こうして、鳳陽門を閉じ、元日だけ開けた。二畤を霊昌津に立て、天と五郊を祀った。
李寿が建寧、上庸、漢固、巴徴、梓潼の五郡をもって石季龍に降った。
これより以前、石季龍は霊昌津に橋をかけようと思い、石を集めて橋の基礎をつくろうとした。〔集めた〕石は大小となく、〔すべて〕流れを利用して運び、功夫五百余万を動員したが、完成しなかった。石季龍は使者をつかわし、祭祀を捧げ、璧を黄河に沈めた。すぐに沈めた璧は河原に流れてしまい、〔そして〕地震が起こり、波が打ちあがり、津、殿、観はすべて倒壊してしまい、圧死する者は百余人であった。石季龍はひじょうに怒り、工匠を斬り、造営を中止した。
〔石季龍は〕石宣と石韜に命じ、生殺(刑罰)と叙任はすべて日替わりで裁決させ、〔石季龍に〕啓させなかった。司徒の申鍾は諌めて言った、「褒賞や刑罰は皇帝が握る事柄であり、爵号と〔天子の〕礼物はこのうえなく重要であって、他人に貸してはならないのですが21原文「名器至重、不可以仮人」。『左伝』成公二年に「唯器与名、不可以仮人、君之所司也。名以出信、信以守器、器以蔵礼、礼以行義、義以生利、利以平民、政之大節也。若以仮人、与人政也、政亡、則国家従之、弗可止也已」とあり、杜預の注に「器、車服。名、爵号」とある。、そうであるのはいずれも、悪事を防ぎ、災いの芽を取り除き、そうして〔民に〕規範を示すためだからです。太子は国の後継ぎですが、朝夕に視膳22古代臣下侍奉君主或子女侍奉双親進餐的一種儀礼。(『漢語大詞典』)『後漢書』班彪伝上に「旧制、太子……五日一朝、因坐東箱、省視膳食」とあり、その箇所の李賢注に引く「漢官儀」に「皇太子五日一至台、因坐東箱、省視膳食、以法制勅太官尚食宰吏」とあり、太子が五日に一度、皇帝に食事を奉じること? 閻纘伝に「在礼、太子朝夕視膳」とあり、晋代でもおこなわれていたよう。をおこないますが、政務には関与しません。庶人の邃はかつて政務を執ったことから滅亡を招きましたが、この戒めは遠くない過去の出来事ですから、〔太子に政務を執らせるやり方を〕改めるべきであり、〔その旧弊を〕継いではなりません。かつ、政治の権力を二分してしまえば、禍が起こらないことのほうが珍しいでしょう。周には子頽の禍があり、鄭には叔段の難がありましたが、これらはともに寵愛が道理にそむいていたことに起因しているのであり、国を乱し、親族に害を与えるゆえんなのです。陛下に願わくは、これをご覧になられるように」。石季龍は聴き入れなかった。〔ところであるとき、〕太子詹事の孫珍は侍中の崔約に尋ねた、「私は目の病気をわずらっているのだが、どうやって治したらいいものだろう」。崔約はふだんから孫珍となれなれしい仲だったので、ふざけて言った、「水中で溺れれば治るよ」。孫珍、「目がどうやって溺れるんだ」。崔約、「卿の目は深くくぼんでいるから、溺れることができるじゃないか」23『太平御覧』巻六四五、誅に引く「趙書」によれば孫珍は羯である。。孫珍はこれを根にもち、石宣に告げた。石宣は石季龍の子どもたちのなかで最も胡人ふうの顔つきをしており、目は深くくぼんでいたので、これを聞くとおおいに怒り、崔約父子を誅殺した。孫珍は石宣に気に入られており、多く朝政に干渉していたが、崔約を誅殺して以後、公卿以下は憚って横目で見るようになった(直視を避けた)。
この当時、石季龍の子の義陽公鑑は関中に出鎮していたが、労役は頻繁で、賦税は重く、関西の調和を失していた。友人の李松は石鑑に勧めて、文武の官で長髪の者がいれば、その髪を抜いて冠の紐をつくり、余った髪は宮人(たぶん石虎の後宮の女性)に支給するよう話した。〔石鑑の〕長史は髪を抜き集めて、石季龍に〔この計画を〕話すと、石季龍はおおいに怒り24原文「長史取髪白之、季龍大怒」。「髪を抜かれた長史が密告した」とも読めるかもしれないが、そういうふうに読んでしまってもかまわないだけの自信がなかったのでふつうに読んだ。宮人に届けに来た長史が仔細を話したところ、ということだろうか? どういう話なのかよくわからないし、なぜ石虎が怒っているのかもわからないし、むしろこっちが怒りたくなってくるが、あるいは石虎も石鑑の所業が意味不明すぎて怒っているのかもしれない。、尚書右僕射の張離を征西将軍左長史25おそらく征西将軍は石鑑のことであろう。、龍驤将軍、雍州刺史として〔関中に赴任させ、〕この件を調べさせたところ、それが本当のことであったため、石鑑を召して鄴に帰らせ、李松を捕えて廷尉に下し、石鑑を石苞に交代させ、長安へ出鎮させた。雍州、洛州、秦州、并州の十六万人を徴発し、長安の未央宮を修築させた。
石季龍は狩猟を好む性格であったが、のちに身体が太ってしまうと、鞍にまたがることができなくなった。そこで猟車(狩猟用の車)を千乗つくった。そのながえは長さ三丈、車の高さは一丈八尺、獣を捕える網の高さは一丈七尺であった。〔また〕格獣車を四十乗つくり、三階建ての行楼(移動可能な楼台)を二つその車の上に立てた。〔こうして〕期日を定めて校猟26柵にけものを追い込んで、とらえる。(『漢辞海』)を実施しようとした。霊昌津から南は滎陽、東は陽都にいたるまで〔を狩場とし〕、御史にその範囲内の禽獣を監視させ、犯す者がいれば(範囲内の禽獣をかってに殺す者がいれば)その罪は極刑とした。御史はこれに乗じてほしいままに刑罰と恩恵を振るうようになり、百姓が美女や良い牛馬を有していれば、それらを要求し、得られなければ即座に誣告し、獣を犯した(殺傷した)として論告した。死んだ者は百余家におよび、海岱(東方の海と泰山。山東のこと)や河済(黄河と済水)の領域の民は安心することがなかった。
また諸州の二十六万人を徴発し、洛陽の宮殿を修繕させた。百姓の牛二万余頭を徴収し、朔州の牧官27『資治通鑑』胡三省注に「趙置牧官於朔方」とある。に配給した。
女官を二十四等に増やし、東宮〔の女官〕を十二等に増やし、諸公侯七十余国すべてには九等の女官を置いた。これより以前、百姓の娘で二十歳以下、十三歳以上の三万余人をおおいに徴発し、三等の序列をつけてこれ(後宮、東宮、諸公侯国の三つ?)に分配していた。〔徴発のとき、〕郡県は石季龍の意向に媚びようと思い、美人を見つけることに専念し、人妻九千余人を奪った。百姓の妻で美しい者がいたら、豪勢の家がこの機会に乗じて脅迫〔して奪おうと〕したので、多くが自殺した。石宣や諸公も私的に徴発させ、〔のべ〕一万に達しようとしていた。全員が鄴の宮殿に集められた。石季龍は臨軒して女性らを選抜して等級をつけ、おおいに満足し、〔各地で徴発に従事した〕使者十二人をみな列侯に封じた。最初の徴発から鄴に集められるまでのあいだ、殺された夫や、妻を奪われて鄴に送られたためにみずから縊死した夫は三千余人であった。荊楚の地、揚州、徐州は〔民が別の地に〕流浪したり、〔趙に〕そむいたりしてほとんどいなくなってしまった28原文「荊、楚、揚、徐間流叛略尽」。『資治通鑑』胡三省の注に従って訳出した。「荊楚、以国言、揚徐、以州言。趙之壌地、南陽汝南則故荊楚之地也。寿陽則揚州之地也。彭城下邳東海琅邪東莞則徐州之地也。一曰、荊楚、揚徐之民先被掠及流入北界者、今流叛略尽」。。〔それらの地の〕守宰(郡県の長官)は手をこまねくだけで〔民を〕慰撫することができず、獄に下されて誅殺された者は五十余人にのぼった。金紫光禄大夫の逯明は侍従した機会に厳しく諫めたが、石季龍はおおいに怒り、龍騰をつかわし、脇腹を砕いて殺させた。これ以降、朝臣は口を閉ざし、たがいに推薦して俸禄のために出仕するのみであった。石季龍はいつも女騎一千を鹵簿とし、全員が紫綸巾29紫と青の組みひもでつくった頭巾?、熟錦の袴30精製された錦の袴。、金銀の鏤帯31金銀色の鋼鉄の帯。、五文織成靴32五色の糸で織ってつくった靴。を装着し、戯馬観で遊んだ。観の上に詔書に使う五色の紙を置いておき33原文「観上安詔書五色紙」。自信はない。『初学記』巻三〇、鳳、事対の「金咮 朱冠」に引く「陸翽鄴中記」には「石季龍皇后在観上、有詔書五色紙」とある。、〔詔を発するときは〕木製の鳳凰の口にくわえさせ、滑車が回転すると下に届く仕組みだったが、その様子は飛んでいるかのようであった。
涼州刺史の麻秋らを派遣し、張重華を討伐させた。
尚書の朱軌は中黄門の厳生と不仲であった。大雨が長くつづいた折り、道路は陥没したり水が溜まったりして通行できなくなった。厳生はこれを理由にして朱軌が道路を整備していないとそしり、また〔朱軌が〕朝政を非難していると誣告したところ、石季龍はとうとう朱軌を殺してしまった。こうして、私論(個人のかってな言論)や偶語(集まって話す)を禁じる法を新設し、属吏が君(所属組織の長官)を告発することと、奴が主人を告発することを許可し、刑罰は日に日に乱発され、公卿以下は朝会でも目で連絡をとり34会話をしていると疑われるから、ということだろうか。、吉礼や凶礼の訪問すらこれ以後は絶えてしまった。朱軌が捕囚されたとき、冠軍将軍の苻洪が諫めて言った、「臣はこう聞いています、聖君が天下を治めるときは、土の階段三尺(三段)のみで、屋根には切りそろえていない茅や茨を用い35原文「土階三尺、茅茨不翦」。『史記』太史公自序に「墨者亦尚堯舜道、言其徳行曰、『堂高三尺、土階三等、茅茨不翦……』」とある。原文の「三尺」は「三段」が正確であろう。、食事は味つけせず、刑罰は廃して運用しなかった、と。〔一方で、〕亡君が海内を治めたときは、高い宮殿と玉で飾った高殿を建て、象牙の箸と玉製の杯を用い、足を切断して胸を切り裂き、賢者を干し肉にして妊婦の腹を裂いたため36すべて殷の紂王の為したこととして伝えられている。『韓詩外伝』巻一〇に「昔殷王紂残賊百姓、絶逆天道、至斮朝渉、刳孕婦、脯鬼侯、醢梅伯」とある(紙の本を所有しておらず、「中国哲学書電子化計画」で閲覧)。、その滅亡はすみやかであった、と。いま、襄国と鄴の宮殿は帝王の居所を安らかにするのに十分ですのに、どうして長安と洛陽にも必要なのでしょうか。遊戯と狩猟に耽り、女色におぼれていますが、三代の滅亡は決まってこれらに原因がありました。そのうえ、いきなり猟車を千乗つくり、禽獣を万里の範囲で養育し、人の妻や娘を強奪し、十万人の女が宮殿を満たしています。尚書の朱軌は納言の立場にある大臣ですが、道路が整備されていないことを理由に〔朱軌に〕厳しい法をくわえようとしていますけれども、これ(長期間の大雨)は陛下の政治が調和を失したことによる陰陽不順の災害です。にわかに長雨が七旬つづき、雨が上がってようやく二日というところでは、たとえ百万の鬼兵であっても道路を整備できないでしょう。ましてただの人間であればなおさらです。刑罰と政治はこのような有様ですが、史筆をどうなさるおつもりでしょうか。四海をどうなさるおつもりでしょうか。とくに願わくは、造営の功夫を停止し、宮女にひまを出し、朱軌を赦免し、人心にかなうようになさってくださいますよう」。石季龍はこの文を見て喜ばなかったが、その厳しさに憚ったので、無視するだけで聴き入れず、罪に問わなかった。そして洛陽と長安での造営の労役を停止した。
石季龍(1)/石季龍(2)/石季龍(3)/附:石世・石遵・石鑑/附:冉閔
(2020/8/16:公開)