巻一百一 載記第一 劉元海(2)

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載記序劉元海附:劉和・劉宣

〔劉和〕

 劉和は字を玄泰という。身長は八尺あり、武勇かつ剛毅で、風采は美しく、学問を好んで早くに大成し、『毛詩』、『左氏春秋』、『鄭氏易』を学習した。皇太子になると、心に猜忌を抱えることが多く、下々を統治するのに恩恵をほどこさなかった。
 劉元海が死ぬと、劉和が偽位を嗣いだ。衞尉、西昌王の劉鋭と、宗正の呼延攸は顧命にあずからなかったことを不満に思い、劉和に説いて言った、「先帝は軽重を整えた計画をご考慮なさらず、かえって三王に強力な兵士を内(城内)で統率させ1『資治通鑑』胡三省注は「三王、謂安昌王盛、安邑王欽、西陽王璿也。或曰、斉王裕、魯王隆、北海王乂」とする。前者は劉淵顧命時に禁兵の統率を委託されているのが『資治通鑑』にみえており、ふつうに考えると前者である。しかしこの直後、劉和らは当の劉盛らを呼んで計画を打ち明け、味方になるよう説き、劉盛は拒絶したので斬られたが、劉欽と劉璿は協力している。そして計画を実行すると、斉王、魯王、北海王を攻めている。胡三省が一説としてこれら三王を挙げているのはこのような推移によるのであろう。文脈上、後者で取るほかない。、大司馬(劉聡)に十万の精鋭を掌握させて近郊に駐屯させましたが、〔いっぽう〕陛下はいま、客席2原文「寄坐」。「客の地位にいることを言う。地位が固まっておらず、かつ実権がないことの比喩(謂居客位。比喩地位不穏且無実権)」(『漢語大詞典』)におられます。この禍はまだ観測できませんが、陛下に願わくば、〔予兆が現れないうちに〕早々に適切に処理なされますよう」。劉和は呼延攸の甥(姉妹の子)であったので、これに深く納得し、領軍将軍の劉盛、劉欽、馬景らを召してこのことを話した。劉盛、「先帝はまだ殯宮3かりもがりの宮殿。天子の遺体を棺に納めて、本葬の時まで安置する仮の御殿。(『漢辞海』)におわし、四王(三王と大司馬=楚王)にはまだ反逆のそぶりがありません。いま、にわかに殺し合いをしてしまえば、人々が陛下の蓄積(俸禄?)を食まなくなってしまうのではないかと臣は憂慮しています。四海はいまだ平定されておらず、帝業は始まったばかりです。陛下に願わくば、上は先帝の築かれた基礎を大成することを志とし、かつ、耳を塞いで、かのような気の狂った不遜な発言をお聴きになさいませんように。詩に『異姓がいないのではないが、われと父を同じくする者には及ばない』(唐風、杕杜)とあります。陛下は諸弟をご信頼されていませんが、そのうえさらに誰を信頼できるのでしょうか」。劉鋭と呼延攸は怒り、「今日の議論は、道理として異論があってはならない」と言った。こうして〔劉和は?〕左右の者に命じて劉盛を斬らせた。馬景は恐懼し、「陛下の詔ですから、臣らは死をもって奉じます。成功しないことなどありえません」と言った。そしてともに〔光極殿の〕東堂で盟約し、劉鋭と馬景に劉聡を攻めさせ、呼延攸に劉安国を統率させて劉裕を攻撃めさせ、侍中の劉乗と武衛将軍の劉欽に魯王隆を攻めさせ、尚書の田密と武衛の劉璿に北海王乂を攻めさせた。
 田密、劉璿らは人に城門を破らせ、劉聡のもとへ逃亡した。劉聡は武装兵に命じてこれ(劉鋭ら?)を待たせた。劉鋭は劉聡に備えがあることを知ると、馬を走らせて戻り、呼延攸、劉乗らと合流して魯王と劉裕を攻めた。呼延攸と劉乗は、劉安国と劉欽が異心を抱いているのではないかと不安になり、二人を斬った。この日、劉裕と魯王を斬った。劉聡は西明門を攻め、これを落とした。劉鋭らが敗走して南宮に入ると、〔劉聡軍の〕先鋒はこれにつづいて入り、〔とうとう〕劉和を光極殿の西室(西堂)で斬った。劉鋭と呼延攸は首を大通りにさらされた。

〔劉宣〕

 劉宣は字を士則という。質朴かつ寡黙で、学問を好み、高潔を修めた。楽安の孫炎4『三国志』巻一三王朗伝附粛伝に楽安の孫叔然がみえ、裴注に「叔然与晋武帝同名、故称其字」とある。に師事し、精神を集中させて思考を積み重ね、昼夜休むことなく、『毛詩』、『左氏伝』を好んだ。孫炎は日ごろから歎息し、「劉宣がもし漢の武帝に出会っていれば、金日磾にも勝っていたであろうに」と言っていた。学問が成ったので帰郷したが、およそ数年間、家から出なかった。いつも漢の史書を読んでいたが、蕭何と鄧禹の列伝にくると、必ず反復して音読した。「大丈夫(自分のこと)がもし二祖(高祖と世祖)に出会っていれば、二公(蕭何と鄧禹)だけに名声を独占させたりはしなかったはずだ」と言っていた。
 并州刺史の王広が劉宣のことを武帝に報告すると、武帝は召して謁見し、劉宣の応答を嘉し、「劉宣にまだ接見していなかったときは、王広の話はでたらめだと思っていた。いま、挙止と身なりを見ると、まことにいわゆる『珪のごとく璋のごとく』(『毛詩』大雅、巻阿)というものであり、気質を見ると、〔匈奴の〕本部を安堵させるのに十分であろう」。そこで劉宣を右部都尉とし、特別に赤幢曲蓋を支給した。官に就いているあいだ、清廉で慎み深く、管轄の人々は帰順した。劉元海が王位についたのは、劉宣の謀略であったので、特別に尊重をこうむり、勲功と親族関係で匹敵する者はおらず、内外の軍事と国事で一手に握らない事柄はなかったのであった5原文「軍国内外靡不専之」。こうして劉宣は劉淵にとっての蕭何・鄧禹になったのである。

載記序劉元海附:劉和・劉宣

(2020/3/21:公開)
(2021/9/4:改訂)

  • 1
    『資治通鑑』胡三省注は「三王、謂安昌王盛、安邑王欽、西陽王璿也。或曰、斉王裕、魯王隆、北海王乂」とする。前者は劉淵顧命時に禁兵の統率を委託されているのが『資治通鑑』にみえており、ふつうに考えると前者である。しかしこの直後、劉和らは当の劉盛らを呼んで計画を打ち明け、味方になるよう説き、劉盛は拒絶したので斬られたが、劉欽と劉璿は協力している。そして計画を実行すると、斉王、魯王、北海王を攻めている。胡三省が一説としてこれら三王を挙げているのはこのような推移によるのであろう。文脈上、後者で取るほかない。
  • 2
    原文「寄坐」。「客の地位にいることを言う。地位が固まっておらず、かつ実権がないことの比喩(謂居客位。比喩地位不穏且無実権)」(『漢語大詞典』)
  • 3
    かりもがりの宮殿。天子の遺体を棺に納めて、本葬の時まで安置する仮の御殿。(『漢辞海』)
  • 4
    『三国志』巻一三王朗伝附粛伝に楽安の孫叔然がみえ、裴注に「叔然与晋武帝同名、故称其字」とある。
  • 5
    原文「軍国内外靡不専之」。こうして劉宣は劉淵にとっての蕭何・鄧禹になったのである。
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