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簡文帝/孝武帝
簡文皇帝は諱を昱、字を道万といい、元帝の少子(一番下の子)である。幼くして聡明で、元帝から目をかけられていた。郭璞は簡文帝に会うと、「晋の朝祚を盛んにする者は必ずこの子であろう」と人に語った。成長すると、清廉虚心かつ寡欲で、とりわけ玄言(清談)を得意とした。
永昌元年、元帝が詔を下した、「先公(祖父)の武王、先考(父)の恭王は琅邪に君臨し、代々〔国を〕受け継いできたが、〔いま〕国の後継ぎがまだ立っておらず、嘗烝の祭祀を主宰する主人がおらず、朕はいつも心を痛めている。子の昱は仁愛と明察をそなえ、知恵と度量があるので、宗廟をつつしんで奉じ、無窮の恩(祖先を指す?)を安心させるのに適任である。そこで、昱を琅邪王に封じ、旧来のとおり〔琅邪王国の〕食邑は会稽、宣城とする1原文「食会稽宣城如旧」。元帝の即位後、最初に琅邪王に封じられたのは元帝の子の裒であったが、その食邑は会稽と宣城であったという(元四王・琅邪孝王裒伝)。伝に記載はないが、その後に琅邪王に封じられた煥も同様であったのだろう。本文の「如旧」というのは、琅邪王国の食邑が慣例的に会稽と宣城に定められていたことを指しているものと考えられる。」。咸和元年、生母の鄭夫人が薨じた。このとき、簡文帝は七歳であったが、大声をあげて恋慕し、ひどく泣き、服重2原文「服重」。おそらく三年喪のこと。『礼記』喪服四制篇に「其恩厚者其服重。故為父斬衰三年、以恩制者也」とあり、鄭玄注に「服莫重斬衰也」とある。を強く願い出た。成帝は憐れんで許可し3咸和元年だと成帝は六歳。簡文帝とはひとつ違いなんだなあ。、そのため会稽王に移したのである4昱はすでに琅邪王国の王統を継いだのだから、三年喪の対象となるべき母は琅邪王太妃であって、生母はそれよりも降った礼でなければならない。しかし昱の三年喪の意志が強いため、琅邪王国の王統から出してしまい、新たに会稽王国を創設してそこに改封し、昱の志を遂げさせてやったということ。后妃伝下・簡文宣鄭太后伝にいきさつが記されている。。散騎常侍に任じられた。九年、右将軍に移り、侍中を加えられた。咸康六年、撫軍将軍に進められ、領秘書監とされた。
建元元年夏五月癸丑、康帝が詔を下した、「太常の職務は、天地を奉じ、かつ宗廟を管轄することだが、その仕事は重大だと言えよう。そのため、古今とも〔太常の〕選挙は、当世の名士であり、かつすぐれた儒者を必ず選んでいたのである。叔父の会稽王は清廉虚心を重んじて実践し、道を志して倦むことなく、高位で自適に過ごし、世間で諷議5原文「諷議」。わからないのでそのままとしてしまいました。清談的なもの、政治批評の討論的なものだと思うが……。を交わしている。そこで、太常を領させ、本官はもとのとおりとする」。永和元年、崇徳太后が臨朝すると、位を撫軍大将軍に進められ、録尚書六条事とされた。二年、驃騎将軍の何充が卒すると、崇徳太后は簡文帝に詔を下し、万機を単独で統べさせた。八年、位を司徒に進められたが、固辞して受けなかった。穆帝がはじめて冠をつけると(元服すると)、簡文帝は稽首して政事を返還したが、許されなかった。廃帝が即位すると、琅邪王の後継ぎが絶えたことを理由に、ふたたび琅邪王に移され、さらに王子の昌明が会稽王に封じられた。簡文帝は固辞したため、琅邪に封じられたにもかかわらず、会稽王の称号は取り払われなかった。太和元年、位を丞相に進められ、録尚書事とされた。入朝して小走りしなくてもよく、賛拝のさいに名を呼ばれず、剣を佩いたままき、履物を履いたまま上殿することを許され、羽葆、鼓吹、班剣〔計?〕六十人を支給されたが、これらも固辞した。
廃帝が廃位されると、皇太后(康帝皇后の褚氏)は詔を下した、「丞相、録尚書の会稽王は中宗の子で、うるわしい徳をそなえていて美麗で、秀才かつ虚心であり、精神は政事の外に留まっている6原文「神棲事外」。わからない。「心宅事外」(楽広伝)のような用例をふまえ、「世俗から超越した精神の持ち主」と訳出してみた。。人々の期待7原文「具瞻」。『毛詩』節南山に「赫赫師尹、民具爾瞻」とあり、毛伝に「具、俱。瞻、視」とあり、鄭箋に「天下之民、俱視女之所為」とある。を得ているために、三代にわたって阿衡を務めたのである。教化は広くゆきわたり、人心を集める人物となってすでに久しい。天と民の心に従い、〔王に〕皇業を統べさせるのが適当であろう。主者は旧典に従い、適切な時期に実行せよ」。こうして大司馬の桓温は百官を率いて太極前殿に進み、天子の車を整え、簡文帝を会稽王宅に迎えに行った。簡文帝は朝堂で服を着替え、平巾幘と単衣を着て、東に向かって拝謁し、璽綬を受け取った。
咸安元年冬十一月己酉、皇帝の位についた。桓温は〔殿中から?〕出て中堂に留まり、兵を駐屯させて守衛させた。乙卯、桓温が太宰の武陵王晞とその子の聡を廃するよう奏した。詔を下し、魏郡太守の毛安之に麾下の軍を統率させ、殿中に宿衛させた。咸安に改元した。庚戌、兼太尉の周頣に太廟に報告させた。辛亥、桓温は弟の桓秘を派遣し、新蔡王晃を脅させて西堂に参らせ、みずから太宰の武陵王晞らと結託して謀反した〔と白状させた〕。簡文帝は新蔡王に対面すると涙を流した。桓温は全員逮捕し、廷尉に引き渡した。癸丑、東海王(廃帝)の二人の子とその母を殺した。もともと、簡文帝は淡白かつ誇り高い性格であり、三代にわたって宰相を務めていたので、桓温は平素よりかしこまっていた。簡文帝が即位すると、桓温は文章を書いてみずから〔武陵王の誅殺について〕述べるつもりであったが、簡文帝は桓温を召して面会すると、対面して泣き悲しんだので、桓温は恐れて何も言えなかった。このときになって、有司が桓温の意向を受け、武陵王晞の誅殺を奏したが、簡文帝は許可しなかった。桓温はこだわって再三にわたり要請したが、簡文帝は手詔を下して返答した、「もし晋の命数がとこしえであるというのなら、公はさきの詔のとおりに従うのが適当である。もし晋の命運がすでに過ぎ去っているのなら、賢者に道を譲らせてほしい」。桓温はこれを見ると、冷や汗を流して青ざめ、もう言うのをやめた。乙卯、武陵王晞とその三人の子を廃し、新安に流した。丙辰、新蔡王晃を衡陽に追放した8武陵王の事件の詳細はよくわからない。元四王伝・武陵威王晞伝に桓温の弾劾の表が掲載されているが、本当のところ何が気にくわなかったのかはよく伝わらない。武陵王の子が袁真の反乱に絡んでいたらしいが、それが主因というわけでもなさそうである。謀反が冤罪かどうかも判然としないが、武陵王と簡文帝は兄弟で、武陵王が四歳年長だったので、そのあたりの事情が絡んでいる可能性もある。伝によれば、孝武帝の太元六年、晞がそのまま新安で亡くなると、一族は赦免され、まだ生存していた三人の子の一人である遵にあとを継がせ、さらに同十二年には武陵王の位も回復された。桓温は太元以前の寧康元年にすでに亡くなっていたが、桓温が没してすぐに回復されていないあたり、桓温個人の意向が働いた事件というより、会稽王国と武陵王国との軋轢である可能性は捨てきれないかも。なお新蔡王については伝に詳しい記述がない(宗室伝・高密文献王泰伝附新蔡荘王確伝)。。
戊午、詔を下した、「王室は多難で、穆帝と哀帝は早世し、皇統の後継ぎが早くに〔帝位に〕移ってしま〔うので後継ぎが不在になってしま〕い、神器(帝位の比喩)を守る主人がいなくなってしまった。東海王は哀帝の同母弟で近親であったことから、皇統に入って継いだが、位を継いで数年が経っても、暗迷で秩序を乱していて、人倫は失われ、禍がいまにも下りそうであったため、わが祖先の霊は頼りにする人物がわからなくなってしまった。皇太后は帝業を深く案じたので、時宜に応じて重大な計画を定めたのである。大司馬(桓温)は天と民に従い、力をあわせて神妙な計略を発揮し9原文「協同神略」。よくわからない。、みずから群臣を率い、つつしんで〔皇太后の〕命を受けた。雲霧が晴れ、政治秩序の根本が清められると、朕のほうに目を向け、大事業を継ぐように仰ぎ見たのである。伊尹が殷を安寧にし、博陸侯(霍光)が漢を安定させた故事であっても、これ(桓温による定立)をしのぐことはなかろう。朕は徳が薄い身をもって、にわかに元首の位につくことになったが、愚小な身ではこの重責をになえないのではないかとまことに不安で、戦々兢々とし、〔川の〕渡るところがわからない〔ごとくである〕。万民とともに一新して再始動しようと思う。そこで、天下を大赦し、五日間の酒盛りを賜い、文武の官の位を二等加増する。孝順の者、忠貞の者、配偶者がいない高齢の男女、親がいない幼子、子がいない老人に米を賜い、一人につき五斛を下賜する」。己未、桓温の軍の三万人に、一人につき布一匹、米一斛を下賜した。庚申、大司馬の桓温に丞相を加えたが、受けなかった。辛酉、桓温が白石から〔姑孰に〕戻り、そのまま姑孰に鎮した10原文「旋自白石、因鎮姑孰」。帝紀に記載はないが、桓温伝によれば桓温は哀帝の末年に鎮を姑孰に移している。その後、広陵などいろいろな箇所に築城しているが、廃帝の太和六年十一月、広陵から白石に移り、廃位を実行している(海西公紀)。桓温伝によると、桓温は白石に戻ると、姑孰に帰ることを上疏したのだという。本文はこれをふまえて訳出することにした。なお胡三省によれば、姑孰は「前漢丹楊春穀県地」(巻九二、太寧元年の条の注)、白石は「蓋在牛渚西南」(巻一〇三、咸安元年十一月の条の注)という。。冠軍将軍の毛武生を都督荊州之沔中・揚州之義城諸軍事とした。
十二月戊子、詔を下し、京師に数年間の蓄えができたことから、一時的に一年間の〔京師への〕漕運を停止した。庚寅、東海王奕を廃して海西公とし、食邑を四千戸とした。辛卯、はじめて酃淥酒を太廟に捧げた。
二年春正月辛丑、百済と林邑の王がそれぞれ使者をつかわし、産物を朝献した。
二月、苻堅が慕容桓を遼東で攻め、これを滅ぼした。
三月丁酉、詔を下した、「朕は三代のあいだ阿衡を務めたが、かの〔堯の〕「時雍」11『尚書』堯典篇「黎民於変、時雍」、孔伝に「黎、衆。時、是。雍、和也。言天下衆民、皆変化化上、是以風俗大和」とある。を成すことができず、はてには海西公が徳を失い、皇業の命運をほとんど絶やしてしまう事態にまでおちいった。祖先と天地の神の徳に頼り、皇太后がみずから時宜に応じになり、藩屏は忠実賢明で、百官が力をあわせたため、邪悪な気を青空からはらい、太陽を宇宙に輝かすことができたのである。そしてとうとう、愚小のこの身をもって、王公の上を任されたのである。賢臣たちが朕の欠点を助けてくれることに頼ろうと思う。いったい、根本を厚くして末業を抑制し、華美な競争を抑圧することで、かりに清と濁が流れを分かち、有能と無能が道を異にし12原文「殊貫」。用例はしばしばあるのだが、よくわからない。、官人から悪政がなくなり、士人からうらみごとがなくなり、〔ことさらに〕勧善懲悪することもなくなれば、どこに徳と礼をほどこす必要があろうか13原文「徳礼焉施」。『左伝』文公七年「六府三事、謂之九功。水火金木土穀、謂之六府。正徳、利用、厚生、謂之三事。義而行之、謂之徳礼」とあり、杜預の注に「徳、正徳也、礼以制財用之節、又以厚生民之命」とある。ただしこれが出典かどうかはわからない。たんに「儒にもとづく政治」を指しているようにも思われるので、その意で取った。。さらに、強大な賊はまだ滅んでおらず、労役はまだやんでいない。もし軍事、国事、戦争、祭祀の重要ではないものがあれば、それのぜいたくで無駄な出費をすべて廃止せよ。そもそも、心をのびやかにして辺鄙な谷に隠れた賢者や、泥にまみれ波しぶきを浴びてさすらっている士人たちは、たとえ志をはるかな天空に堅持し、ひっそりと深いほら穴で静かに過ごしていようとも、それだけでは満足せずにその高尚な道を曲げて、〔国政に〕協力するという美事を盛んにさせるのと、〔あるいは〕山水に満足し、丘陵や山谷に隠棲し、つまらぬ匹夫の潔癖を守り、兼済14わが身だけでなく天下をも善くすること。『孟子』尽心章句上「窮則独善其身、達則兼善天下」に由来するらしい。の大事を忘れるのと、どちらであるべきだろうか。古人は、賢者を過去から借用してきたのではなかった。朕がいまの世をむなしく思うゆえんである。内外の百官は各自の仕事にはげみ、善人を推薦しないことや、悪人を報告しないことのないように。詩人からただ飯食らい15原文「素餐」。『毛詩』魏風、伐檀に「彼君子兮、不素餐兮」とあり、毛伝に「素、空也」とある。また『漢書』巻六六、楊敞伝の顔師古注に「素、空也。不称其職、空食禄也」とある。の批判をなくさせ、そのうえ私に虚心坦懐の要望(人材募集のこと)を満足させるように」。
癸丑、詔を下した、「私は祖先の大事業を受け継いだが、政治の道に暗く、まことに百官を治め16原文「允釐天工」。『尚書』堯典篇に「允釐百工、庶績咸熙」とあり、孔伝に「允、信。釐、治。工、官。績、功。咸、皆。熙、広也」とある。、先代以来の事業を繁栄させられないのではないかと不安であり、〔朝から〕夕べになっても心配で、深い川を渡るときのよう〔な恐怖〕である。幸いにも、宰相は忠実で徳があり、道は伊尹と太公望〔のような業績〕をうちたて17原文「道済伊望」。「道」がわからないが、『魏書』巻七四、爾朱栄伝に「功格天地、錫命之位必崇。道済生民,褒賞之名宜大」とあったりするので、うちたてた何かのことなんだと思う。、諸侯は誠心を尽くし、ぴったり力を合わせ、内外の士が輔翼の計画に努め、文武の官がわが身をかえりみない節義を果たしている。この道に沿っていくことで、最終的に〔艱難からの〕救済が成しとげられることを強く望んでいる。いつも気にかかっていることは、戦争がいまだ終わらず、公私とも疲弊していることである。藩鎮18『晋書』での用例はそれほど多くないが、おそらく「征鎮」と同義であろう。は境界統治の職務があり、外征の軍事拠点は『東山』19『毛詩』豳風に収められている詩の題名。詩序に「東山、周公東征也。周公東征、三年而帰、労帰士大夫美之。故作是詩也」とある。が顕彰するような仕事をかかえている。ある者は白髪になっても従軍しているのに、その忠誠と功労はいまだ評価されておらず、ある者は行軍がますます長期間になっているのに、わずかな蓄えもない。〔これらを思えば、〕未明に起きて〔仕事をはじめ〕、夜は寝るのも忘れて励まないことがどうしてあろうか。まだこれらの兵士を慰安して巡回することはできていないが、〔朕の〕この思いを伝えたいと思っている。〔そこで、〕大使をつかわし、大司馬(桓温)のもとへ向かわせ、あわせて方伯20ここでは前文の「藩鎮」を指していると思われる。を慰問させ、辺境の軍事拠点にまで訪問させる。〔そして各所で〕詔を宣読させ、ねぎらいの飲食を供させ、彼らの安心できる事柄を探させることとする。また、恩賜を計画し、全員にゆきわたるようにせよ」。
乙卯、詔を下した、「かつての事変(永嘉の乱であろう)ののちは、多くの制度がまだ整っておらず、官僚たちの俸禄はすべて少なかったが、当時の状況に合わせた道義であったのだろう。しかし、食事を減らして朝廷に身を列し〔節倹の美徳を体現し〕ているにもかかわらず21原文「退食在朝」。『毛詩』召南、羔羊「退食自公、委蛇委蛇」、毛伝に「公、公門也。委蛇、行可従迹也」とあり、鄭箋に「退食謂減膳也。自、従也。従於公、謂正直順於事也。委蛇、委曲自得之貌。節倹而順心志定、故可自得也」とある。『漢書』巻八三、薛宣伝の顔師古注「自、従也。召南羔羊之時、美在位皆節倹正直。其詩曰、『退食自公、委蛇委蛇』。言卿大夫履行清絜、減退膳食、率従公道也」とある。、俸禄が農耕収入の代替になっておらず、不変22原文「経通」。衛瓘伝に「瓘以魏立九品、是権時之制、非経通之道」とあり、「権時」(一時的)の反対の意味であると考えられる。の制度ではない。いま、朝廷の貯蓄がしだいに増えてきたので、俸禄の増加について計画するべきである」。騶虞が豫章に現れた。
夏四月、海西公を呉県の西柴里に移した。さかのぼって庾后(廃帝の皇后ですでに故人)を降格し、夫人とした。
六月、使者を派遣し、百済王の余句を鎮東将軍、領楽浪太守に任じた。戊子、まえの護軍将軍の庾希23太和二年正月に海に逃亡していた(海西公紀)。が挙兵してそむき、海陵から京口に侵入した。晋陵太守の卞眈は曲阿へ逃げた。
秋七月壬辰、桓温は東海内史の周少孫を派遣して庾希を討伐させ、〔周少孫は〕庾希を捕えた。〔庾希を〕建康の市で斬った。
己未、会稽王昌明を皇太子に立て、皇子の道子を琅邪王に立て、領会稽内史とした。この日、簡文帝は〔太極殿の〕東堂で崩じた。享年五十三。高平陵に埋葬した。廟号は太宗とされた。遺詔があり、桓温を輔政とし、諸葛亮や王導の故事に倣うよう命じた。
簡文帝は若くして風采があり、立ち居振る舞いが良く、書籍に心をくだき〔つつも〕、家にじっと座っているつもりはなかったので、座席には塵がいっぱいに積もるほどであった。あるとき、桓温、武陵王晞といっしょに車に乗って版橋で遊んだことがあった。桓温はいきなり太鼓を鳴らさせてつの笛を吹かせ、車を急発進させてみて、二人がどう反応するかを観察しようとした。武陵王はおおいに怖がり、車から降ろしてほしいと懇願したが、簡文帝は落ち着いていて怖がる顔色を見せなかった。桓温はこの一件から〔簡文帝を〕はばかって服するようになったのである。桓温が文武の職務を帯び、しばしば高い功績を挙げ、さらに廃位まで実行すると、その威は内外の人々を震撼させるようになった。〔そのため〕簡文帝は帝位についたといっても、手をこまねいて何もせず、道徳を守るのみであって、いつも廃位されてしまうことを心配していた。これより以前、熒惑が太微に入ったことがあったが、それからまもなく海西公は廃された。簡文帝が即位すると、熒惑がまたも太微に入ったので、簡文帝はこれをひじょうに嫌がった。当時、中書郎の郗超が宿直していたので、簡文帝は召して引見し、「命の長短はもともとわかりようがない。だから、過日と同じ事件がふたたび起こることはないと断言できようか」と言うと、郗超は「大司馬の臣の温は、内は社稷を固め、外は四方の平定を拡張し、尋常ではない事業を打ち立てています。臣は百口24「百口」は、ここでは家族や一族を指しているのであろう。百口については、中村圭爾『六朝政治社会史研究』(汲古書院、2013年)338-341頁で取り上げられている。をもって彼のことを保証しましょう」と答えた。〔その後、〕郗超が急ぎ帰郷して父(郗愔)を見舞いたいと求めると、簡文帝は郗超に言った、「尊公(郗愔)によろしく伝えてくれ。国家の事態がとうとうこのようにまでなってしまったのは、私が道をもって正し守ることができなかったからだ。この恥辱と嘆きはどうにも言い表しようがない」。そして庾闡の「志士痛朝危、忠臣哀主辱(志士は朝廷の危機に心を痛め、忠臣は主君の屈辱に悲しむ)」という詩をうたい、とうとう泣いて涙を落とし、襟を濡らした25訳出にあたっては、『世説新語』言語篇、『芸文類聚』巻一三、晋簡文帝に引く「晋陽秋」を参照した。庾闡の詩にはどういう意味が込められているのかいまいちわかっていない。家族を優先する郗超への当てつけ?。簡文帝は見識に優れ、穏やかで悠々とした人となりであったが、時世を救済する計画はなかった。そのため謝安は、〔簡文帝は〕恵帝と同類であって、清談がまさっているだけだと評したのである。沙門の支道林は「会稽王は偉大なご身分を有してはいるが、偉大な智略をそなえてはいない」と言ったことがある。謝霊運が〔『晋書』の編纂にあたって〕簡文帝の事績を跡づけたときも、周の赧王や漢の献帝の同輩だと評したのであった。
簡文帝/孝武帝
(2020/2/27:公開)