凡例
- 文中の〔 〕は訳者による補語、( )は訳者の注釈、1、2……は注を示す。番号を選択すれば注が開く。
- 文中の[ ]は文献の引用を示す。書誌情報は引用文献一覧のページを参照のこと。
- 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。
系図/西晋/元帝(1)/元帝(2)/明帝/成帝・康帝/穆帝/哀帝・海西公/簡文帝/孝武帝/安帝/恭帝
哀帝
哀皇帝は諱を丕、字を千齢といい、成帝の長子である。咸康八年、琅邪王に封じられた。永和元年、散騎常侍に任じられ、同十二年に中軍将軍を加えられ、升平三年に驃騎将軍に任じられた。
升平五年五月丁巳、穆帝が崩じた。皇太后1康帝皇后の褚氏のこと。が令を下して言った、「帝はにわかに病から回復されなかったため、後継者がまだ立てられていない。琅邪王の丕は中興の正統(元帝の嫡子の血統)に当たり、うるわしい徳をそなえた優れた宗室である。昔年の咸康の時世(成帝の時代)では、〔皇帝との〕続柄は後継ぎの立場に相当していたものの、〔その当時は〕年齢が幼く、国家の艱難にはまだ堪えられないとの理由から、顕宗(成帝)は〔御弟の康帝に位を〕お譲りになられたのであった。いま、衆望や境遇2原文「義望情地」。「義望」と「情地」に分解できると思われる。「義望」は他に用例がなく、よくわからないが、「義」は情誼などの意味で取り、「義望」と合わせて人心、衆望の意味で訳した。「情地」については、『漢語大詞典』に「親族としての地位(親族地位)」と「境遇。置かれている立場(処境。置身之地)」の二つの意味が掲載されており、「親族地位」の用例に本紀を引いている。訳語のうえではそこまで限定した意味にこだわる必要はないと思うので、たんに「境遇」と訳した。の点で、琅邪王に比肩する者は誰もいない。そこで、王を大統に奉じるように」。こうして、百官は法駕を整え、琅邪王の邸宅へ迎えに行った。庚申、皇帝の位につき、大赦した。壬戌、詔を下した、「朕は明らかなる命を受け継ぎ、大統に参入して引き継ぐこととなった。振り返って思うに、〔朕が帝位を継いだことによって、琅邪国の〕先王の宗廟は嘗烝の祭祀を主宰する主人をなくし、王太妃の霊堂はがらんどうになって寄るべき人がいなくなってしまった。〔このために朕は〕悲しみに打ちひしがれ、五臓が張り割けんばかりである。宗国(宗室諸侯国)の重要性は、情と礼のどちらにおいても高く、後継ぎの重大性は、義において匹敵するものはない。東海王の奕は、〔朕との〕続柄は近親(弟)にあたり、〔琅邪国の〕本統を奉じるにふさわしい。そこで、奕を琅邪王とする」。
秋七月戊午、穆帝を永平陵に埋葬した。慕容恪が野王を攻め落としたので、守将の呂護は退却し、滎陽を守った。
八月己卯夜、空が裂け、その広さは数丈におよび、雷のような音が鳴った。
九月戊申、皇后に王氏を立てた。穆帝の皇后の何氏が永安宮と称した。呂護がそむいて慕容暐のもとへ奔った。
冬十月、安北将軍の范汪が罪を犯したので、廃して庶人とした。
十一月丙辰、詔を下した、「顕宗成皇帝は顧命のさい、世事が多難であることから、高世の教化を広めようとし3原文「弘高世之風」。「高世」は『漢語大詞典』によれば、(1)世を超絶している(とてもすごい)、(2)世俗を超脱している(隠逸的)の二つの意味があるが、どちらもしっくりこない。自信はないが、ここでは成帝の治世=教化のことを尊んで「高世」と表現していると解した。、徳政を打ち立てて重厚さを普及させることによって、社稷を栄えさせようとしたのである。しかし、国家の災難はやまず、康穆両帝は早世してしまい、後継ぎは長く続かずにいる。朕は徳が薄い身をもって、祖先の事業を復興して継ぐこととなったが、心はいつまでも〔父の成帝を〕忍び、悲しみと痛ましさが一挙につのる4原文「感惟永慕、悲痛兼摧」。よくわからない。「永募」の用例をみると、故人への思いがやまない意で使用されているようだし、文脈的にも成帝を思い出して悲しいということだと思われるので、そのように訳出した。。いったい、昭穆の義というのは、本来は天属(自然の血縁関係)にもとづくべきである。〔それが〕位を継ぎ、事業を受け継ぐときにおける、古今の常道なのである。〔そこで、従兄弟の穆帝を継ぐのではなく〕さかのぼって顕宗(成帝)を継ぎ、そうして本統を整えるのが適当であろう」。
十二月、涼州刺史の張玄靚に大都督隴右諸軍事、護羌校尉、西平公を加えた。
隆和元年春正月壬子、大赦し、改元した。甲寅、田税を減らし、一畝につき二升を徴税した。この月、慕容暐の将の呂護と傅末波が〔晋の〕小規模な軍塁を攻め落とし、洛陽に迫った。
二月辛未、輔国将軍、呉国内史の庾希を北中郎将、徐・兗二州刺史とし、下邳に出鎮させ、前鋒監軍、龍驤将軍の袁真を西中郎将、監護豫・司・并・冀四州諸軍事、豫州刺史とし、汝南に出鎮させ、どちらも仮節とした。丙子、哀帝の生母の周氏を尊んで皇太妃とした。
三月甲寅朔、日蝕があった。
夏四月、旱魃があった。詔を下し、軽微な罪の囚人を釈放し、困窮している者を援助した。丁丑、梁州5涼州の誤り。中華書局の校勘記を参照。で地震があり、浩亹で山が崩落した。呂護がふたたび洛陽を侵略した。乙酉、輔国将軍、河南太守の戴施が宛へ敗走した。
五月丁巳、北中郎将の庾希、竟陵太守の鄧遐を派遣し、水軍を率いさせて洛陽を救援させた。
秋七月、呂護らが退却し、小平津を守った。琅邪王奕を侍中、驃騎大将軍、開府に進めた。鄧遐が進軍して新城に駐屯した。庾希の部将の何謙が慕容暐の将の劉則と檀丘で戦い、これを破った。
八月、西中郎将の袁真が進軍して汝南に駐屯し、米五万斛を運搬して洛陽へ送った。
冬十月、貧窮している者に米を賜い、一人につき五斛を下賜した。章武王珍が薨じた。
十二月戊午朔、日蝕があった。詔を下した、「軍隊が出動中であるため、賦役を軽減することはまだできない。天体の現象が法則から外れ、ひどい旱魃が災害をなした。おそらく、政事が世を潤せていないからであろう。あるいは板築(英布)や渭浜(太公望)のような人士がいるからなのかもしれない。そこで、隠遁している賢才を見つけ出し、くすぶっている優秀な者を抜擢し、細かく厳しい取り締まりを減免することとしたい。法令を詳議し、どれも簡約にすることを心がけよ6原文「咸従損要」。『魏書』巻一〇八之二、礼志四之二に「当祫之月、宜減時祭、以従要省」という、よく似た例がある。また『三国志』呉書一七、是儀伝に「及寝疾、遺令素棺、斂以時服、務従省約」とあり、これも類例であろう。これらの例から察するに、「損要」「要省」「省約」は「節約して簡略にする」という意味あいだと思われる。この解釈で訳出した。」。庾希が下邳から退却して山陽に出鎮し、袁真が汝南から退却して寿陽に出鎮した。
興寧元年春二月己亥、大赦し、改元した。
三月壬寅、皇太妃〔の周氏〕が琅邪国の邸宅で薨じた。癸卯、哀帝はその葬儀に参じようとし、詔を下して司徒の会稽王昱に内外の政務を統べさせた。
夏四月、慕容暐が滎陽を侵略し、滎陽太守の劉遠は魯陽へ敗走した。甲戌、揚州で地震があり、湖や瀆(水運路)から水があふれた。
五月、征西大将軍の桓温に侍中、大司馬、都督中外諸軍事を加え、録尚書事とし、仮黄鉞とした。また西中郎将の袁真を都督司・冀・并三州諸軍事とし、北中郎将の庾希を都督青州諸軍事とした。癸卯、慕容暐が密城を落とし、滎陽太守の劉遠は江陵へ敗走した。
秋七月、張天錫が涼州刺史、西平公の張玄靚を弑し、大将軍、護羌校尉、涼州牧、西平公を自称した。丁酉、章皇太妃〔の周氏〕を埋葬した。
八月、彗星が角亢で光り、天市へ入った。
九月壬戌、大司馬の桓温が軍を率いて北伐した。癸亥、皇子が生まれたため、大赦した。
冬十月甲申、陳留王世子の曹恢を陳留王に立てた。
十一月、姚襄の故将の張駿が江州督護の趙毗を殺し、武昌に火を放ち、官府の所蔵物を略奪してそむいた。江州刺史の桓沖が討伐してこれを斬った。
この年、慕容暐の将の慕容塵が陳留太守の袁披を長平で攻めた。汝南太守の朱斌はその虚を突いて許昌を襲撃し、これを落とした。
興寧二年春二月庚寅、江陵で地震があった。慕容暐の将の慕容評が許昌を襲撃し、潁川太守の李福が戦死した。慕容評はそのまま汝南に侵攻し、汝南太守の朱斌は寿陽へ敗走した。〔慕容評は〕さらに進んで陳郡を攻囲したが、陳郡太守の朱輔は籠城して固く守った。桓温は江夏相の劉岵を派遣して慕容評を撃退させた。左軍将軍を遊撃将軍に改称し、右軍将軍、前軍将軍、後軍将軍、五校尉、三将を廃した7以上はいずれも近衛の将校。五校尉は屯騎校尉、歩兵校尉、越騎校尉、長水校尉、射声校尉、三将は虎賁中郎将、宂従僕射、羽林監を指す。このときの官職の整理は桓温の提案(「省官併職」)によるもので、これらの近衛職のほか、光禄勲、宗正、大司農、少府も整理統合されている。詳細は[川合安一九八四]を参照。。癸卯、哀帝はみずから藉田を耕した。
二月庚戌朔、戸人(戸籍に登録された民)をおおいに検閲し、法の規制を厳格にした。これを庚戌制と呼んだ8庚戌土断とも呼ばれる(『宋書』巻二、武帝紀中、義煕九年の劉裕の上表)。。辛未、哀帝が健康を害した。哀帝は平素から黄老を好んでおり、穀物を絶ち、長生薬を口にしていたが、〔薬物を〕過分に摂りすぎたため、とうとう中毒におちいり9ここで言われているのは、道教・神仙思想における不老長生の術である。穀物は精神を乱すなどといった理由から避けられ、代わりに気などを服食することが推奨されていたという。あわせて薬物の服用も重んじられていたが、そのなかでも尊ばれていた丹薬は多く水銀や砒素などを原料としており、毒性が高かった。哀帝が服食していた薬物もそうした類いのものであったと思われる。[張学鋒二〇〇〇]、[松本二〇〇六]四七―五七、八四―八五頁を参照。、万機を判別できなくなったのである。崇徳太后10康帝皇后の褚氏。穆帝時代にも臨朝していた。がふたたび臨朝して政務を代行した。
夏四月甲申、慕容暐が将の李洪を派遣して許昌に侵攻させた。王師は懸瓠で敗北し、朱斌は淮南へ敗走し、朱輔は退却して彭城を守った。桓温は西中郎将の袁真、江夏相の劉岵らを派遣し、楊儀道を掘削させて漕運を通じさせた。桓温は水軍を率いて合肥に駐屯した。慕容塵がふたたび許昌に駐屯した。
五月、陳の民を安陸11原文は「于陸」だが、中華書局の校勘記の説に従い、「于安陸」として読むことにする。に移して避難させた。戊辰、揚州刺史の王述を尚書令、衛将軍とし、桓温を揚州牧、録尚書事とした。壬申、使者を派遣し、桓温に入朝して宰相に就くよう説諭したが、桓温は従わなかった。
秋七月丁卯、ふたたび桓温を中央に召し、入朝させようとした。
八月、桓温は赭圻に着くと、そのままその地に築城して留まった。苻堅の別軍が河南に侵攻した。慕容暐が洛陽を侵略した。
九月、冠軍将軍の陳祐は長史の沈勁を留めて洛陽を守らせ、〔みずからは〕軍を率いて新城へ逃げた。
興寧三年春正月庚申、皇后の王氏が崩じた。
二月乙未、右将軍の桓豁を監荊州・揚州之義城・雍州之京兆諸軍事、領南蛮校尉、荊州刺史とし、桓沖を監江州・荊州之江夏随郡・豫州之汝南西陽新蔡潁川六郡諸軍事、南中郎将、江州刺史、領南蛮校尉とし、どちらも仮節とした。
丙申、哀帝が太極殿西堂で崩じた。享年二十五。安平陵に埋葬した12『建康実録』巻八、哀皇帝には簡単な批評が載っている。「哀帝は帝位についたとはいえ、政治は自分から動かせず、軍事は桓温に権力があり、国事の要務は会稽王が握っていたので、天子が自由に動かすことはできなかった。そのゆえ、興寧年間の童謡でこう言われたのである。『ふたたび寧(やす)んじるとはいっても、かえって以後は安心して生活できなくなった』と(帝雖即尊位、而政不由己、軍事権於桓温、機務在於会稽、天子不得自由、故興寧童謡云、『雖復寧、転後無聊生』)」とある。。
海西公
廃帝は諱を奕、字を延齢といい、哀帝の同母弟である。咸康八年、東海王に封じられた。永和八年、散騎常侍に任じられ、ほどなく鎮軍将軍を加えられた。升平四年、車騎将軍に任じられた。同五年、琅邪王に改封された。隆和のはじめ、侍中、驃騎大将軍、開府儀同三司に転じた。
興寧三年二月丙申、哀帝が崩じたが、後継ぎがいなかった。丁酉、皇太后(崇徳太后の褚氏)が詔を下した、「帝はとうとう病から回復されなかったため、災難がまたも到来し、先帝以来の事業がとだえかけており、悲しみで沈痛している。琅邪王の奕はうるわしい徳をそなえた優れた宗室であり、〔哀帝との〕続柄は後継者の立場に当たっているため、祖先を奉じて大統を継承するのにふさわしいであろう。すみやかに大礼を整えて、祖先の霊を安んじるように」。こうして、百官は琅邪王の邸宅に迎えに行った。この日、皇帝の位につき、大赦した。
三月壬申、哀帝を安平陵に埋葬した。癸酉、散騎常侍の河間王欽が薨じた。丙子、慕容暐の将の慕容恪が洛陽を落とし、寧朔将軍の竺瑤は襄陽へ敗走し、冠軍将軍長史、揚武将軍の沈勁は戦死した。
夏六月戊子、使持節、都督益・寧二州諸軍事、鎮西将軍、益州刺史、建城公の周撫が卒した。
秋七月、匈奴の左賢王の衛辰と右賢王の曹穀が二万の兵を率いて苻堅の杏城に侵攻した。己酉、会稽王昱を琅邪王に改封した。壬子、皇后に庾氏を立てた。琅邪王昱の子の昌明を会稽王に封じた。
冬十月、梁州刺史の司馬勲がそむき、成都王を自称した。
十一月、〔司馬勲が〕兵を率いて剣閣に入り、涪を攻めると、西夷校尉の毌丘暐は城を捨てて逃げた。乙卯、〔司馬勲が〕益州刺史の周楚を成都で包囲すると、桓温は江夏相の朱序を派遣して周楚を救援させた。
十二月戊戌、会稽内史の王彪之を尚書僕射とした。
太和元年春二月己丑、涼州刺史の張天錫を大将軍、都督隴右・関中諸軍事、西平郡公とした。丙申、宣城内史の桓秘を持節、監梁・益二州征討諸軍事とした。
三月辛亥、新蔡王邈が薨じた。荊州刺史の桓豁が督護の桓羆を派遣して南鄭を攻めさせると、魏興の畢欽が挙兵して桓羆に呼応した。
夏四月、旱魃があった。
五月戊寅、皇后の庾氏が崩じた。朱序が司馬勲を成都で攻めると、〔司馬勲の〕軍は潰走した。〔朱序は〕司馬勲を捕え、これを斬った。
秋七月癸酉、孝皇后(庾氏)を敬平陵に埋葬した。
九月甲午、梁州と益州を曲赦した。
冬十月辛丑、苻堅の将の王猛と楊安が南郷を攻めたので、荊州刺史の桓豁は救援に向かい、〔桓豁の〕軍が新野に駐屯すると、王猛と楊安は退却した。会稽王昱を丞相とした。
十二月、南陽の趙弘、趙憶らが宛城を占拠してそむき、南陽太守の桓澹は逃げて新野を守った。慕容暐の将の慕容厲が魯郡と高平を落とした。
太和二年春正月、北中郎将の庾希が罪を犯し、海に逃亡した。
夏四月、慕容暐の将の慕容塵が竟陵を侵略したが、竟陵太守の羅崇がこれを撃破した。苻堅の将の王猛が涼州を侵略したが、張天錫がこれを防ぎ、王猛軍は敗北した。
五月、右将軍の桓豁が趙憶を攻め、これを敗走させた。進軍して慕容暐の将の趙槃を捕え、京師に送った。
秋九月、会稽内史の郗愔を都督徐・兗・青・幽四州諸軍事、平北将軍、徐州刺史とした。
冬十月乙巳、彭城王玄が薨じた。
太和三年春三月丁巳朔、日蝕があった。癸亥、大赦した。
夏四月癸巳、ひょうが降った。強風があり、木を折った。
秋八月壬寅、尚書令、衛将軍、藍田侯の王述が卒した。
太和四年夏四月庚戌、大司馬の桓温が軍を率いて慕容暐を攻めた。
秋七月辛卯、慕容暐の将の慕容垂が軍を率いて桓温を防いだが、桓温はこれを撃破した。
九月戊寅、桓温の裨将の鄧遐と朱序が慕容暐の将の傅末波に林渚で遭遇したので、これもまたおおいに破った。戊子、桓温が枋頭に到着した。丙申、食糧輸送が続かないので、〔桓温は〕船を焼いて帰還した。辛丑、慕容垂は追撃して桓温の後軍を襄邑で破った。
冬十月、大きな星が西に流れ、雷のような音が鳴った。己巳、桓温は敗残兵を集め、山陽に駐屯した。豫州刺史の袁真が寿陽をもってそむいた。
十一月辛丑、桓温が山陽を発ち、会稽王昱と涂中で会談し、以後の計画を協議しようとした。
十二月、〔桓温は〕そのまま広陵に築城して駐留した。
太和五年春正月己亥、袁真の子の袁双之と袁愛之が、梁国内史の朱憲と汝南内史の朱斌を殺した。
二月癸酉、袁真が死んだので、陳郡太守の朱輔は袁真の子の袁瑾を立てて事業を継がせ、慕容暐に救援を要請した。
夏四月辛未、桓温の部将の竺瑤が袁瑾を武丘で破った。
秋七月癸酉朔、日蝕があった。
八月癸丑、桓温が袁瑾を寿陽で攻め、これを破った。
九月、苻堅の将の王猛が慕容暐を攻め、上党を落とした。広漢の妖賊の李弘と益州の妖賊の李金根が群衆を集めてそむき、李弘は聖王を自称した。集団は一万余人にのぼった。梓潼太守の周虓が討伐し、これを平定した。
冬十月、王猛が慕容暐の将の慕容評を潞川でおおいに破った。
十一月、王猛が鄴を落とし、慕容暐を捕えた。〔前秦は〕慕容暐(前燕)の領域をすべて領有することとなった。
太和六年春正月、苻堅が将の王鑑を派遣して袁瑾を救援させたが、〔晋の〕将軍の桓伊が迎撃し、おおいにこれを破った。丁亥、桓温が寿陽を落とし、袁瑾を斬った。
三月壬辰、監益・寧二州諸軍事、冠軍将軍、益州刺史、建城公の周楚が卒した。
夏四月戊午、大赦し、貧窮している者、子がいない老人に米を賜い、一人につき五斛を下賜した。苻堅の将の苻雅が仇池を攻め、仇池公の楊纂はこれに降った。
六月、京師、丹楊、晋陵、呉郡、呉興、臨海で洪水があった。
秋八月、まえの寧州刺史の周仲孫を仮節、監益・梁二州諸軍事、益州刺史とした。
冬十月壬子、高密王俊が薨じた。
十一月癸卯、桓温が広陵から〔移動して〕白石に駐屯した。丁未、〔桓温は〕闕門を訪れると、廃帝の廃立を画策し、〔次のように〕でたらめを言ってそしった。帝が藩国におられたとき(王であったとき)、はやくから勃起不全を患っていた。〔そのころ〕寵愛を受けていた小人である相龍、計好、朱霊宝らは内寝に入って〔帝に〕侍っていた。ところが〔帝は障害があったのに〕美人の田氏と孟氏は三人の男子を生んだ。〔その子らが〕成長したので〔帝は〕封建するつもりでおられるが、世の人々はこれらの事情に困惑している、と。桓温はそこで、皇太后に伊尹と霍光の故事をそれとなく言って勧めたのである。己酉、〔桓温は〕百官を朝堂に集め、崇徳太后(褚氏)の令を宣読した。「王室に災難が降りかかり、穆帝と哀帝は短命で倒れ、〔両帝の〕後継ぎは育っておらず、太子は立てられていなかった。琅邪王の奕は、〔哀帝との〕続柄は同母弟であったため、〔皇統に〕入って帝位を継いだのであった。しかし予想もしなかったことに、これほどまでに徳が身につかず、〔素行が〕ひどく乱れ、いつも礼法に反している。この三人の庶子は、誰が父かもわからない。人倫の道は失われ、悪名が遠くにまで知られている。社稷を奉じ守り、宗廟をつつしんで受け継ぐのにふさわしくないばかりか、愚かな庶子はみな成長しているというので、すぐに国に封建しようともしている。〔このように〕祖先を欺き、帝業を傾かせているのである。これが我慢できるというのなら、我慢できないことなどなかろう。いま、奕を廃して東海王とし、王を邸宅に帰らせよ。物品供与や護衛の規則は、すべて漢の昌邑王の故事に従え。しかし未亡人(褚氏自身を指す)は不幸なことに、このたびの一大事に遭い、茫然として何も考えられず13原文「感念存没」。よくわからない。「存没」は『宋書』の用例を見るかぎり、「生死」「存亡」と同義とみられるが、ここでは「没」の意味が強く出ているものと解して訳出した。すなわち、「感情を失った」と読んでみたわけだが、それをどうにか訳文のように置き換えたのだけれども、ちょっとちがうニュアンスになってしまったかもしれない。、心が裂けんばかりだが、社稷の大事ゆえ、義としてやむをえない。紙を前にして悲しみに暮れ、どう言葉にしたらよいのかわからない」。かくして、百官が太極前殿に入り、即日、桓温は散騎侍郎の劉享に廃帝の璽綬を取り上げさせた。廃帝は白帢(帽子)と単衣を着用して、歩いて太極殿西堂から降り、牛車に乗って神獣門を出ていった。群臣は拝礼して見送り、すすり泣かない者はいなかった。侍御史と殿中監が兵百人を統率して東海王の邸宅まで護送した14三人の子は殺されたのだという。『建康実録』巻八、廃皇帝に「有三子、並馬繮縊殺之、葬于黄門署北」とある。。
そもそも、桓温は不臣の野心を抱いており、先に河朔で戦功を挙げ、そうして世論を得ようと考えていたのである。しかし枋頭で敗戦し、威光と名声が失墜してしまったので、とうとう廃立をひそかに画策し、そうして権威を伸張しようとしたのであった。とはいえ、廃帝が道徳を守り、世の支持を集めるであろうことを恐れていた。宮中の事柄は奥深くのことで誰にも真実はわからず、寝室の問題は欺きやすいため、そこで廃帝は男性能力がないと言い、ついに廃位を実行したのである。これ以前、廃帝は日ごろから心配をもっていた15原文は「帝平生毎以為慮」とあるのみで、何について心配していたのかがハッキリしないが、『建康実録』廃皇帝には「見桓温専恣、平生為慮」とある。。あるとき、術士の扈謙に筮竹で占わせた。卦が出ると、「晋室には盤石の固さがありますが、陛下には宮殿を出ていく徴(しるし)があります」と話した。とうとうその言葉のとおりになったのだった。
咸安二年正月、廃帝を〔東海王から〕降格して海西県公に封じた。四月、呉県に移住させ、呉国内史の刁彝に勅を下して護衛させ、また御史の顧允を派遣して監視させた。十一月、妖賊の盧悚が弟子である殿中監の許龍をつかわし、早朝に海西公宅の門に行かせ、皇太后の密詔と称し、奉迎して帝位に回復させようとした。廃帝は、最初はそれに従おうとしたが、保母の諫言を聴き入れてやめた。許龍は「大事が成ろうというのに、どうして婦女子の言葉に耳を傾けるのでしょうか」と言ったが、廃帝は「私は罪を得たが、この地で幸いにも寛大な処置を賜わったのだ。どうしてむやみに動こうと思うだろうか。それに太后が詔を下されたのならば、官属がここに来るはずだが、どうしてあなたひとりなのかね。あなたはまちがいなく乱を起こすつもりだ」と応じると、左右の者に許龍を捕縛するよう大声で命じた。許龍は驚愕して逃走した。廃帝は、天命がもう一度くだることはないと悟り、不測の禍が降りかかるのを憂慮したので、頭を働かせることをやめ、何も考えず、終日酒にひたり、女に溺れ、子ができても養育せず、寿命をまっとうすることだけを願った。世の人々は廃帝を憐れみ、彼のために歌をつくったほどだった。朝廷は、廃帝が屈辱のうちに甘んじていることから、もはや不安視しなくなった。太元十一年十月甲申、呉で薨じた。享年四十五。
史臣曰く、(以下略)
系図/西晋/元帝(1)/元帝(2)/明帝/成帝・康帝/穆帝/哀帝・海西公/簡文帝/孝武帝/安帝/恭帝
(2020/2/27:公開)
(2025/3/18:改訂)