凡例
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愍懐太子
愍懐太子の遹は字を煕祖といい、恵帝の長子で、母は謝才人である。幼くして聡明で、武帝は太子を可愛がり、いつも〔自分の〕そばにいさせた。あるとき、〔太子が〕皇子たちと殿上で遊んでいると、恵帝が来朝してきた。〔恵帝は〕皇子たちと〔順々に〕握手してゆき1この皇子たちとは武帝の子を言い、つまり恵帝の兄弟である。、次が太子の番になると、武帝は「これはおまえの子だ」と言った。すると恵帝はやめてしまった2本伝には記載されていないが、巻三一、后妃伝上、恵羊皇后伝附謝夫人伝によると、謝氏は愍懐太子を妊娠してほどなく東宮を離れて禁中へ移り、そこで出産した。太子はそのまま禁中で養育されたため、恵帝は太子が三、四歳になるまで認知していなかったのだという。本伝のこのエピソードは、おそらく恵帝が初めて実子の存在を知った場面のことで、武帝の子供(すなわち自分の兄弟)だと思っていたらじつは自分の子供であったという驚きを描いたものなのであろう。。ある夜、宮中で火事があり、武帝は楼に登って様子を眺めた。太子は当時五歳であったが、武帝の裾3衣服下部まで伸びた襟縁(つまり「すそ」)か。『漢辞海』には「そで」の意味も掲載されており、これも場面にぴったりだが、この意味は珍しい使い方なのかどうなのか判別つかないのでわからない。を引っ張って暗闇の中へ連れて行こうとした。武帝が理由を訊ねると、太子は言った、「夕夜は緊迫する時間だから、非常事態に備えとかないと。人君を明るく照らしておくのはまずいよ」。こうして〔武帝は〕太子を逸材だと評したのである。あるとき、武帝に付いて行って豚舎を見物し、武帝に言った、「豚さんすごく太ってるね。どうして兵士に振る舞わないで、いつまでも五穀(エサ)をあげてるの?」武帝はその考えを嘉し、すぐに豚を煮こませた。そして太子の背中を撫でながら、廷尉の傅祗に言った、「この子はわが家を栄えさせるにちがいないぞ」。あるとき、〔武帝は〕群臣に向かって、太子は宣帝に似ていると言った。こうして〔太子の〕令名が天下に広まったのである。
そのころ、気を観測する者が「広陵に天子の気がある」と言うので、〔武帝は太子を〕広陵王に封じ、食邑を五万戸とした4『太平御覧』巻一四八、太子三に引く「又曰」(王隠晋書)に「太康十年、詔曰、『遹既長且仁、可令以遹為広陵王、以広陵・臨淮為封国、邑五万戸』」とある。。劉寔を師、孟珩を友、楊準と馮蓀を文学とした5師、友、文学はすべて王の属官名。。恵帝が即位すると、皇太子に立てられた。徳行と名声をもつ人士をおおいに選抜して師傅(もり役)とし、何劭を太子太師、王戎を太子太傅、楊済を太子太保、裴楷を太子少師、張華を太子少傅、和嶠を太子少保とした。元康元年、〔宮中より〕出て東宮に赴き、また詔が下った、「遹はまだ幼いまま、いま東宮へ出てゆくので、師傅や諸賢の教導を頼りとしなければならない。そこで、〔遹の〕周囲で共に過ごす人間は、公正で、いっしょに助け合い、たがいに利益を与えられる者であるべきだろう6原文「宜得正人使共周旋、能相長益者」。「使共周旋」と「能相長益」が対遇だと思われる。そこでイレギュラーな読み方だが、「使」は「能」と同じ意味で読むことにした。なお『太平御覧』巻一四八、太子三に引く「又曰」(王隠晋書)は「宜得正人陳共周旋、能相長益者」に作る。」。かくして太保の衛瓘の子・衛庭、司空の高密王泰の子・略、太子太傅の楊済の子・楊毖、太子少師の裴楷の子・裴憲、太子少傅の張華の子・張禕、尚書令の華廙の子・華恒を太子と共に過ごさせ、切磋琢磨させた。
成長すると、学問を好まず、お付きの者たちと遊んでばかりで、保傅に敬意を払わなかった。賈后は太子に令名があるのをふだんから苦々しく思っており、そこで太子のこうした振る舞いに付け込んで、ひそかに宦官に命じて太子に阿諛追従させ、こう言わせた、「殿下さま。大人になったのですから7原文「及壮時」。愍懐太子は咸寧四年(二七八年)生まれで、壮年(三〇歳前後)というには若すぎる。おそらく「大人になった」という程度の意味で、元服(二〇歳)に達したことを言っているのではないか。そうだとすれば、ここのエピソードは元康七年(二九七年)以降のことである。お心の欲するがままに極めつくしてよいのですよ。どうしていつまでもご自分を束縛なさっているのでしょうか」。〔太子が〕怒っている場面を見かけたら、〔その宦官らは〕そのたびにこう嘆息した、「殿下さま。刑罰を用いることを知らずして、どうして天下を服従させられましょうか」。太子が寵愛していた蒋美人が男児を生むと8この蒋美人は後文の蒋俊(蒋氏、蒋保林)と同一人物。『太平御覧』巻七五八、甕に引く「王隠晋書」に「太孫臧外祖蒋迪、呉興人」という記述があり、『晋書斠注』はこの蒋迪を蔣氏の父とする。愍懐太子には臧のほか、虨と尚の二人の子がおり、三人とも母親は不明だが、王隠『晋書』の記述から少なくとも臧は蒋氏が生んだ子であることが確認できる。本伝で言われている男児も臧を指すのかもしれない。、〔その宦官らは〕今度は「蒋美人への賞賜を手厚くし9原文「隆其賞賜」。「其」が何を指しているのかよくわからないが、ひとまず蒋氏と解釈して読んだ。、ご皇孫のためにたくさん玩具を作るべきですよ」と言い、太子はこれを聴き入れた。かくして怠慢がいよいよ顕著になり、朝見をサボってずっと〔東宮の〕後園で遊んでいたこともあった10『太平御覧』巻一四八、太子三に引く「又曰」(王隠晋書)に「頗好遊宴、或闕朝侍、稍失儲副望」とある。。埤車小馬を気に入っており11原文「愛埤車小馬」。「埤車小馬」は他に用例もなく、不詳。『太平御覧』巻一四八、太子三に引く「又曰」(王隠晋書)は「太子好卑居小馬小牛」、同、巻三五八、勒に引く「王隠晋書」は「愍懐太子好卑鶏小馬小牛」、同、巻三五九、羈に引く「郭頒晋世語」は「愍懐太子好卑鶏小馬小牛置田舎」、とそれぞれ作る。、左右の者に乗らせて走らせると、〔太子は〕そのむながいとおもがいを切断し、〔左右の者たちを〕地面に落下させて娯楽としていた。意向に逆らう者がいれば、手ずからむちで打つこともあった。ささいな禁忌に拘泥する性格で12原文「性拘小忌」。この「忌」は「縁起が悪いこと」といったような意味あい。『資治通鑑』巻八三、元康九年十一月に「好陰陽小数、多所拘忌」とあり、胡三省は班固の「陰陽家者流、蓋出於羲和之官、敬順昊天、歷象日月星辰、敬授民時、此其所長也。及拘者為之、則牽於禁忌、泥於小数,舍人事而任鬼神」という言葉(『漢書』巻三〇、芸文志)を引用している。、障壁の修繕や瓦屋根の整備を許諾しなかった。その一方で、東宮の内部に市を立て、〔その市で〕人に肉や酒の商売をやらせ、〔太子は〕みずから〔肉の〕重さを計り、重量をまちがえなかった13原文「使人屠酤、手揣斤両、軽重不差」。『太平御覧』巻一四八、太子三に引く「又曰」(王隠晋書)は「令人屠肉、己自分斉、手揣軽重、斤両不差」に作る。。太子の母親はもともと羊の屠殺屋の娘だったので、太子はこういうことを好んでいたのである。また西園でアオイの野菜、藍子(不詳)、鶏、麦粉製品の類いを売らせ、その利益を収受していた。東宮の旧制では、毎月五十万銭を〔朝廷に?〕請求し14原文「東宮旧制、月請銭五十万」。『資治通鑑』元康九年十一月には「東宮月俸銭五十万」とある。、雑用に充てていたが、太子はいつも二か月分を前借りし、お気に入りの女性にふるまっていた。太子洗馬の江統は五事を述べて諫めたが、太子は聴き入れなかった。その言葉は江統伝のなかに記してある。太子舎人の杜錫は、太子は賈后の生んだ子ではなく、しかも賈后が凶暴な気質であったことから、深く憂慮し、つねに忠諫を尽くして、徳を修めて善に親しみ、讒言から遠ざかるよう、太子に勧めた。太子は怒り、人を使って杜錫がいつも座る毛氈(フェルトの敷物)の中に針を設置させ、杜錫に刺さるよう仕込ませた。
太子は剛毅な性格で、賈謐が賈后の尊貴な身分に恃んで〔自身も尊大に振る舞って〕いるのを察知すると、賈謐のことを容赦できなかった。賈謐が東宮に来ても、彼を放って後庭で遊んでいることもあった。太子詹事の裴権が諫めて言った、「賈謐は中宮(皇后のこと)からひじょうに気に入られていますけれども、〔太子に〕不服な様子をもっています。もし、にわかに離間のたくらみに陥れられれば、大事15原文まま。おそらく太子の地位のこと。が去ることでしょう。深くみずから謙遜して事変を防止し、広く賢才を招いて自衛をなさるべきかと存じます」。太子は耳を貸さなかった。これ以前、賈后の母の郭槐は韓寿の娘を太子の妃にしたがっており、太子も韓氏と結婚して自身の地位を固めたいと欲していた。しかし韓寿の妻の賈午と〔その姉の〕賈后は二人とも承諾せず、太子のために王衍の末娘・恵風を〔太子妃に〕迎えた。太子は王衍の長女が美人であると聞いていたが、賈后は賈謐のために彼女を〔その妻に〕迎えたので、〔太子は〕内心不平で、すこぶる不満を口にしていた。あるとき、賈謐が太子と囲碁16原文は「囲棋」。巻五九、成都王穎伝は「博」(博奕)に作る。を打っていると、道(指し手?)をめぐって言い争いになり、成都王穎がそれを見て賈謐を叱り飛ばしたことがあった。賈謐はいよいよ不満をつのらせ、この事件に乗じて太子のことを謗って賈后に言った、「太子が田畑を広く買い集め、私財をたくさん貯蓄して小人と交際しているのは、賈氏を目の敵にしているからです17原文は「為賈氏故也」。自信はないが、おそらくこういう意味あいではないかと思われる。。ひそかに太子の発言を耳にしたのですが、『皇后が天寿を終えたら、きっと賈謐を始末してやろう』18原文は「皇后万歳後、吾当魚肉之」。「之」は賈謐らを指すと解釈した。と言っていました。これだけではなく、もし主上に不測の事態があれば19原文「宮車晏駕」。天子の崩御を言う。、かの者が帝位に就くこととなります。〔そうなれば〕楊氏の故事に従い、臣(わたし)たちを誅殺して后(おばさま)を金墉城に幽閉するのは、手をひっくり返すように容易いことでしょう。早急に対策を講じ、温順な者をあらためて〔皇太子の位に〕立てて自衛するに越したことはありません」。賈后はその進言を聴き入れた。そのうえ太子の欠点を言いふらし、遠近に流布させた。当時、朝野の人々はみな、賈后が太子を殺害する考えをもっていることを察していた。中護軍の趙俊は、賈后の廃位するよう太子に求めたが、太子は聴き入れなかった。
元康九年六月、桑が東宮の西の廂20母屋の両わきにある部屋。(『漢辞海』)に生え、毎日一尺(約二四cm)余り伸び、数日後に枯れた。十二月、賈后は太子を廃そうと考え、主上の具合が悪いと嘘をつき、太子を呼んで入朝させた。ほどなく到着すると、賈后は接見せず、〔太子を〕別室に待たせ、婢女の陳舞をつかわして酒と棗21酒のつまみとして好まれていたのであろうか。そのあたりの事情はよくわからない。を賜与し、強いて飲ませて太子を酔わせた。〔また賈后は〕黄門侍郎の潘岳に神へ祈祷する文章の如き草稿を書かせ、太子がふだんから考えていることを酔いに任せて書いたかのようにさせた。〔そして〕小婢の承福に命じ、紙、筆、草稿を用いさせて太子にその文章を書かせた。その文章はこのようなものである。「陛下は自分でけりをつけろ22原文「陛下宜自了」。「自了」は、ここでは「自決」と同じ意味ではないかと思われる。。自分でけりをつけられないなら、オレが入ってつけてやる。中宮(皇后=賈后のこと)もさっさと自分でけりをつけろ。けりをつけられないなら、オレがこの手でつけてやる。謝妃23列伝冒頭の「謝才人」および後文の「謝淑妃」と同一人物。愍懐太子の実母。と期日を決めて二人でやる。迷うな。迷えば後日の禍を招くだろう24原文「勿疑猶予、致後患」。和刻本の読み方に従った。。三辰(太陽・月・北斗星)のもと、生肉を食らって血をすすろうぞ25原文「茹毛飲血」。「鳥獣を生で食べる」(『漢辞海』)ことだという。。皇天はお許しくださるだろう、害悪を一掃して、道文(子の虨)を王に、蒋氏を内主(皇后位のこと)に立てることを。願いがかなえば、三牲を北君に捧げ、天下を大赦しよう。要疏如律令26原文まま。「如律令」(すみやかに法令のとおりに実行せよ=すみやかに願いをかなえよ)は神に祈る決まり文句だが、「要疏」はよく読めない。「この文書の実現を願う」という意味か。意味は見当つきかねるが、今回は五字で呪文とみなしてこのまま訳文に置いた。」。太子は酔って意識が朦朧としており、とうとう草稿のままに書き写したが、その字は不完全であった。すぐに補って字を整えると、賈后は恵帝に進呈した。恵帝は式乾殿へ行き、公卿を召し入れると、黄門令の董猛に太子の書と青紙の詔27青紙であることの機能的意義はよくわからない。[冨谷二〇一四]第六章は誅殺などの重大な内容の詔に用いられる紙で、事の重大さゆえに手詔でもあった、と主張している。重大な内容であったのかどうかは別として、手詔であった可能性は高い。なお[野口二〇一六]は、曹魏の時代には青紙詔は存在しなかったと論じている。を読み上げさせた、「遹の書はかくかくしかじかの如くである。いま、〔太子に〕死を賜う」。すべての公王に見せたが、異論を言う者は誰もおらず、張華と裴頠だけが太子の潔白を弁護した。賈后は董猛をして、長広公主28武帝の姉妹、すなわち恵帝のおば。巻四二、王渾伝附王済伝を参照。の言葉だと仮託させて恵帝にこう言わせた、「この事案は速やかに決断なさい。けれど、群臣には個々で賛同しない者がいることでしょう。もし詔に従わない者がいれば、軍法にもとづいて処理しなさい」。日が傾いても、議論は結論が出なかった。賈后は事変が起こるのを危惧し、そこで上表して太子を庶人に免じるよう求めると、詔が下ってこれを承認した。かくして列曹尚書の和郁に節を持たせ、解結を副使とし、大将軍の梁王肜、鎮東将軍の淮南王允、前将軍の東武公澹、趙王倫、太保の何劭とともに東宮へ行かせ、太子を庶人に廃した。この日、太子は玄圃で遊んでいたが、使者が来たことを聞くと、服装を着替えて崇賢門29おそらく宮門のひとつ。へ行き、再拝して詔を受け取った。〔ついで〕歩いて承華門30『資治通鑑』元康九年十二月の胡三省注によれば東宮の門。へ行き、粗末な牛車に乗った。東武公は護衛兵を従えて太子妃の王氏と三人の皇孫を金墉城へ護送し、謝淑妃と太子保林31保林はおそらく妻妾の位のひとつ。の蒋俊を取り調べた。翌年正月、賈后はさらに黄門を自首させ、太子と反逆を起こそうとしていたと自白させた。〔恵帝は〕詔を下し、黄門の供述を公卿にあまねく示した。また東武公を派遣し、兵千人をもって太子を護送させ、あらためて許昌宮の別坊に幽閉し、治書御史の劉振に節を持たせて警備させた。これより以前、次のような童謡があった。「東宮の馬の子はいななくこと無し。臘月(歳末=十二月)になったらおまえのたてがみにからみつく32原文「東宮馬子莫聾空、前至臘月纏汝鬃」。巻二八、五行志中、詩妖は「城東馬子莫嚨哅、比至来年纏女鬃」に作る。原文の「聾空」は意味がよくわからないので、五行志の「嚨哅」で意味を取った。」。また「南風が激しく吹き、白沙を巻き上げる。魯国を遠く眺望すると、鬱蒼とした山々が見える。千年の髑髏に歯牙が生えるだろう33原文「千歳髑髏生歯牙」。意味不詳。」。南風は賈后の名で、沙門は太子の小字である。
当初、太子が廃されると、太子妃の父の王衍は上表して離婚を求めた。太子は許に到着すると、太子妃に書信を送って言った。「鄙(わたし)は頑迷だけども、心では善いことをしようと思っているし、忠孝の節義を尽くすつもりでいるのであって、悪逆の心はもっていない。中宮が生んだ子ではないとはいえ、じつの母親のように奉仕していたのだ。太子になって以来、命令で禁止され、母(謝氏)に会うことができなくなってしまった。〔また〕宜城君34賈后の母・郭槐のこと。郭槐は愍懐太子を後見していた。后妃伝上、恵賈皇后伝を参照。が亡くなって以降は、見舞いを受けることもなくなり、いつもひっそりした部屋の中で過ごしていた。昨年十二月、道文の病気が重くなり、父子の情愛からしてまことに不憫に感じたもので、このときに国家(皇帝=恵帝のこと)に上表して〔道文に〕徽号35原文まま。後文を参照すると、具体的には王爵を指す。を加えるよう乞うたのだが、お許しいただけなかった。〔道文の〕病気が重篤になってから、道文のために恩恵を乞うたのであって、よこしまな心があったのではない。道文が病気になって以降、中宮は三度、左右の者をつかわして見舞いをよこし、『天教(皇帝=恵帝のこと)が汝を呼んでいる』と言ってきた。二十八日の夕暮れ、小さな箱が届き、題辞に『東宮よ、書信を開封せよ』とあり、〔その書信には〕『天教が汝に会いたがっている』とあった。そこですぐに表章を作成して、入朝を求めたのである36『太平御覧』巻一四八、太子三に引く「又曰」(王隠晋書)には「十二月二十八日、后遣宮婢齎書与太子云、『陛下昨夜不快、汝可入朝』。太子如令請朝、詔聴」とある。。二十九日の朝、入朝して国家に謁見しようとしたが、ほどなくして中宮(皇后の居所)に案内された。中宮の側近の陳舞が出てきて、『中宮さまは早朝から嘔吐されていてご気分が悪くございまして』と話し、閑散とした部屋で待機させられた。まもなく、中宮は陳舞をつかわして来て、『聞くところでは、汝は陛下に上表して道文のために王を乞うたが、かなわなかったそうだな。王は封建諸侯であるぞ37原文「聞汝表陛下為道文乞王、不得、王是成国耳」。いまいち意味が読み取りにくい。『漢語大詞典』では「成国」を「大国」の意味で掲載しているが、『晋書』の用例も参照すると、ここは「封国を開建する」という意味だと思われる。つまり王号はたんなる名誉号ではなく、必ず封国を伴う爵号である、ということだろうか。意訳して「封建諸侯」とした。』と言ってきた。〔ついで〕中宮は離れた場所から陳舞を呼び、『昨日、天教が太子に酒と棗を賜与された』と〔陳舞が〕三升の酒と大皿に盛られた棗を持って来ると、それを贈られ、酒と棗をぜんぶ飲食させられそうになった。鄙はもともと酒を飲まないので、三升は無理だと陳舞に伝言させたが、中宮は離れた場所から返答し、『ふつうであれば、陛下が事前に酒を持ってきてくれたのだから汝は喜ぶべきなのに38原文「汝常陛下前持酒可喜」。やや読みにくい。文脈から意を汲んで訳した。、どうして飲まないのか。天が汝に酒を賜与してくださっているというのに、きっと道文を不首尾に終わらせてしまうぞ』と言う。そこで中宮に返答して、『陛下が朝見のために一日をお与えくださったのですから39原文「陛下会同一日見賜」。わからない。ヤケ気味に訳した。、お断りするつもりはありませんが、まる一日で三升の酒は飲めません。それに、じつはまだ食事をとっていませんので、おそらく〔酔いを〕こらえられません40原文「恐不堪」。空腹時に酒を飲むと酔いが回りやすいそうだが、そのことを言っているのだと解釈して訳文を作成した。。また、殿下に謁見する前にこれを飲んでしまったら、転んでしまうようなこともあるかもしれません』と言った。陳舞が再度伝言して来て、『不孝者め。天は汝に酒を賜与して飲ませてやろうというのに、飲もうとしないのか。中に怪しい物が入っているとでもいうのか』と言うのだ。結局、二升は飲めたのだが、一升が残ってしまったので、東宮に持ち帰って飲みたいと要望した。〔しかし許可してもらえずに〕強要されたので、やむをえず、さらに一升を飲んだ。飲み終わると、全身がフラフラし、意識がはっきりしなくなってしまった。ほどなく、ひとりの小婢が封印された箱を持って来て、『詔のご命令で、この文書を書き写せとの由です』と言った。鄙はビックリして箱の中を見たが、白紙が一枚、青紙が一枚入っていて41思うに、白紙は潘岳作成の草稿、青紙は「この文書を書き写せ」との命令を記した(偽造の)詔であろうか。、〔その小婢は〕『陛下がお待ちです』と催促してくる。また、小婢の承福が筆、硯、墨、黄紙42黄紙は詔や選挙文案など官用書類に広く用いられる紙。を持って来て、〔それらの用具を使って〕書き写させようとしてきた。急かしてきて見返すことを許可してくれなかったから、紙に書いた言葉の軽重は本当にわからなかったのだ。父母は至親だから、まことに疑いを向けたくないが、事実は上記のとおりであって、じつは騙されたのである。人々が〔濡れ衣を〕証明してくれることを願っている」。
太子が冤罪で廃されると、多くの人々が怒りを抱いた。右衛督の司馬雅は宗室の遠縁で、常従督の許超とともに太子に気に入られていたので、二人ともこの件を深く悲しみ、趙王倫の謀臣である孫秀に説いて言った、「国に嫡子がおらず、社稷に危機が迫っていますから、大臣に降りかかる禍がきっと起こることでしょう。しかし、公(趙王)は中宮に奉仕し、賈后と親密です。太子の廃位について、みなが『〔公は〕関知していた』と言っていますし、にわかに事変が起これば、禍が必ず及ぶでしょう。なぜ先んじて対策を講じないのでしょうか」。孫秀が趙王に言うと、趙王はおおいに聴き入れた。計画は定まったが、孫秀は趙王を説いて言った、「太子の為人(ひととなり)は剛毅で、志を得た暁には、きっとその欲望をほしいままに振るうことでしょう。明公はふだんから賈后に奉仕しておりますゆえ、世間の噂話では、みな公を賈氏の徒党とみなしています。いま、大功を太子のために立てようと考えていますが、太子が積年の怨みを堪え忍んだとしても、きっと公に褒賞を授けることはせず、『公は百姓の声に押されて身をひるがえし、罪から逃れようとしたにすぎない』と考えるにちがいありません。もし瑕疵があれば、誅殺を免れることすらできないでしょう。延期して期日を先送りにすれば、賈后は必ず太子を殺します。それから賈后を廃し、太子のために復讐するのが最善です。それでもなお功績に値しますし、志を得ることもできるでしょう」。趙王はこれに同意した。孫秀はそこで間者を放ち、殿中の人々が賈后を廃して太子を迎えようとしている、と言いふらさせた。賈后はこれを耳にして不安に思い、そこで太医令の程拠に巴豆杏子丸43原文まま。「巴豆」(ハズ)は生薬に用いられる植物だが、強毒だという。「杏子」は杏仁のことであろう。これも毒性を含むという。この二つの生薬を合成した丸薬を指すのであろう。ウチダ和漢薬「生薬の玉手箱」(https://www.uchidawakanyaku.co.jp/kampo/tamatebako/)の「杏仁(2)」(No. 211)と「巴豆」(No. 257)を参照(最終閲覧二〇二五年四月十九日)。を合成させた。〔永康元年〕三月、〔賈后は〕矯詔を発し、黄門の孫慮にそれを持参させて許昌へ行かせ、太子を殺させた。これ以前、太子は毒殺されるのを恐れ、いつも目の前でみずから食事を煮ていた。〔このままでは毒薬を飲ませられないので、〕孫慮が劉振に相談すると、劉振は太子を小坊の中に移動させ、まったく食事を提供しなかったが、宮人44原文は「宮中」。『資治通鑑』巻八三、永康元年三月が「宮人」に作るのに従った。許昌で太子に給仕していた人々のことであろう。はなお〔坊の〕障壁の上から食事を渡し、太子に提供した。孫慮は太子に薬を飲むよう強いたが、太子は飲もうとせず、便所に席を立ったので、孫慮は薬杵で太子を打ち殺した。〔打たれたさい、〕太子は大声をあげ、その声は外部にも聞こえた。享年二十三。〔朝廷が〕庶人の礼をもって埋葬しようとしたところ、賈后が上表して言った。「遹は不幸にも亡くなりましたが、彼の反逆に心を痛めていたところに、さらに若くして早世してしまうことともなり、悲痛の極みでありまして、感情を抑えきれません。妾(わたし)の個人的な思いといたしましては、故人のことを心に深く刻み込み、さらに孝道〔が廃れないよう〕にお考えを巡らし45原文「更思孝道」。よくわからないが、子をきちんと葬ることも孝道では大事なことだという意味であろうか。いただきたく存じます。太子のために額づき、その名号が正されることを要望いたします。この志が遂げられませんでしたら、〔悲しみに〕悲しみが重なる思いです。遹は罪が極大とはいいましても、なお王者の子孫でございますから、匹夫の礼をもって葬送するのは情としてまことに憐れに感じます。特別に天恩をお恵みになり、王礼を賜与いただきますよう、お願いいたします。妾はまことに愚昧で、礼儀の見識はございませんが、感情を抑えられませぬゆえ、僭越にも奏聞いたしました」。詔が下り、広陵王の礼をもって太子を埋葬した。
賈庶人が死ぬと、〔恵帝は〕劉振、孫慮、程拠らを誅殺し、冊書を下して太子の位を回復し、次のように述べた。「皇帝が使持節、兼司空、衛尉の伊をつかわし、故皇太子の霊に策書を授けて告げる。ああ、なんじは若くして聡明な資質を宿し、先帝から格別の寵愛を受け、おおいに封域が切り開かれ、淮陵を領有した。朕は先帝の遺志を遵奉し、なんじを後継者に立て、もってわが祖先に栄誉をもたらそうとし、なんじに徳行を尊ばせ46原文「祗爾徳行」。よく読めない。上文の「建爾儲副」と対遇構造だと思われるので、この文と同じように訓じてみた。、もって保傅に従わせようとしたのである。〔なんじは〕孝敬をもって親に仕え、礼にそむくことはなかったのに、しかし朕は凶悪な離間のたくらみを見抜けず、なんじを非命47天命によらない、思いがけない災難で死ぬ。(『漢辞海』)の禍に陥らせ、申生や孝己をいまの世に再現させてしまった48申生は晋の献公の太子。献公の寵妻・驪姬の策略にかかって冤罪を着せられ、自殺した。『史記』巻三九、晋世家を参照。孝己は殷の高宗の子で、孝行の誉れがあったが、高宗の後妻のたくらみにかかって放逐され、死んだという。『世説新語』言語篇、第六章に「昔高宗放孝子孝己」とあり、劉孝標注に引く「帝王世紀」に「殷高宗武丁有賢子孝己、其母蚤死、高宗惑後妻之言、放之而死、天下哀之」とある。。幸いにも、宰相が賢明で、人も神も怒り、よって朕を啓蒙したので、罪人を罰し、全員がその罪に伏したのである。〔このようにしたとて、〕どうして〔なんじのこうむった〕苦痛を埋め合わせることができようか。冤罪の魂はきわめて悲痛なのではあるまいか。このゆえに、〔朕は〕悲しみに暮れて後悔し、五臓を震わせているのである。いま、皇太子の葬礼をさかのぼって回復し、京畿に帰らせて埋葬し、太牢をもって祀る。魂に霊があるならば、どうかなんじの心にかなわんことを」。恵帝は太子のために長子の斬衰に服し、群臣には斉衰に服させた。列曹尚書の和郁に東宮の官属を率いさせて吉凶の礼制〔に必要なこと〕を具備させ、太子の遺体を許昌から迎えさせた。
遺体が〔許昌から〕出立するとき、強風が吹き、雷が鳴り響き、帳や蓋が破れて飛んで行った。また哀策文を作成して言った。「(難しそうな文章なので省略します。)」。愍懐の諡号をおくった。〔永康元年〕六月己卯、顕平陵に埋葬した。恵帝は閻纘の諫言に心を動かされ、思子台を設立した。〔東宮の〕旧臣である江統や陸機は、そろって誄頌を制作し〔て太子を追悼し〕た。太子には虨、臧、尚の三人の子がおり、みな父とともに金墉城に幽閉された。
〔虨、臧、尚:愍懐太子の子〕
虨は字を道文といい、永康元年正月に薨じた。四月、南陽王に追封された。
臧は字を敬文という。永康元年四月、臨淮王に封じられた。己巳、詔が下った、「天災の徴候がしばしば現れ、悪人が事変を起こすと、遹はむりやり廃され、非命にして死没した。いま、臧を皇太孫に立てる。太子妃の王氏を位に戻して臧を養育させ、太孫太妃と称することとする。太子官属はそのまま移転して太孫官属とする。趙王倫を行太孫太傅とする」。五月、趙王は太孫といっしょに東宮へ行き、太孫は西掖門から出たが、車服や侍従はすべて愍懐太子の旧来のままであった。銅駝街に着くと、宮人49東宮で給仕する人々のことであろう。は泣き、侍従はみな嗚咽し、通行人は涙をぬぐった。桑がふたたび東宮の西の廂に生えたが、太孫が廃されると枯れた。永寧元年正月、趙王が帝位を奪うと、濮陽王に廃され、恵帝とともに金墉城に移され、まもなく殺された。太安のはじめ、哀の諡号を追贈された。
尚は字を敬仁という。永康元年四月、襄陽王に封じられた。永寧元年八月、皇太孫に立てられた。太安元年三月癸卯、薨じた。恵帝は斉衰期に服し、沖太孫の諡号をおくった。
(2025/4/27:公開)