凡例
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劉毅/劉毅(附:劉暾・程衛)・和嶠・武陔/任愷・崔洪・郭奕・侯史光・何攀
任愷
任愷は字を元褒といい、楽安の博昌の人である。父の任昊は魏の太常であった。任愷は若くして見識と度量をそなえていた。魏の明帝の娘を降嫁され、昇進を重ねて中書侍郎、員外散騎常侍に移った。晋国が創建されると、侍中になり、昌国県侯に封じられた。
任愷には国家経営の才能があり、細大を問わず、万機の多くを主管した。忠実な性格で、社稷の運営を自分の責務と捉えていた。武帝は任愷の才能を認めて親任し、政務について頻繁に諮問していた。泰始のはじめ、鄭沖、王祥、何曾、荀顗、裴秀らがおのおの高齢と病気を理由に〔官から退いて〕私宅へ帰った。武帝は〔彼らのような〕大臣たちをとりわけ厚遇していたものの、〔入朝を求めたりして〕労力を煩わせたくはなかったので、しばしば任愷をつかわして諸公に言葉を伝達し、当世の国政について諮問し、〔政策の〕利害について相談した。任愷は賈充の為人(ひととなり)を嫌っていたため、〔賈充に〕長期にわたって朝政を掌握させてしまうことを望まず、いつも〔賈充を〕押しとどめていた。賈充はこのことを不満に思っていたものの、どうしたらよいかわからなかった。のち、折りをみて〔武帝に〕、「任愷は忠誠貞節で、度量があり、公正な人材ですから、東宮におらせて太子(のちの恵帝)を保護させるべきでしょう」と進言した。武帝はこれを聴き入れ、〔任愷を〕太子少傅としたが、侍中はもとのとおりとしたので、賈充の策謀は不発に終わった。そのころ、秦雍(関西地方)が騒乱状態に陥り1泰始年間の禿髪樹機能の乱のこと。泰始六年六月に秦州刺史・胡烈が戦死し、ついで七年四月には涼州刺史・牽弘も戦死した。本文は牽弘戦死後の話である。巻一、武帝紀、『資治通鑑』巻七九、泰始六―七年を参照。、武帝はそのことで頭を悩ませていた。そこで任愷は言った、「秦涼(隴西地方)が転覆し、関西が騒乱していますが、これはじつに国家が深く憂慮すべき事態です。すみやかに鎮圧し、民心に拠りどころをもたせるべきでしょう。威厳と名望を兼ね備え、策略に長けた重臣でなければ、西方を安定させることはできません」。武帝、「誰が適任だろうか」。任愷、「賈充こそ、その人物です」。中書令の庾純も同様に進言したので、かくして賈充に詔が下り、長安への出鎮を命じた。賈充は荀勖の計略を用いて〔洛陽に〕留まることができた2荀勖は賈充の娘を太子に嫁がせることを勧め、それによって賈充は長安への出発を免れたのだという。巻三五、裴秀伝附裴楷伝、巻四〇、賈充伝を参照。。
賈充はすでに武帝から優遇されていたが、名誉と権勢を独り占めしたがっていた3原文「充既為帝所遇、欲専名勢」。「既」字の意味や前後の接続がイマイチわからないが、累加で接続して読むことにしてみた。。しかし、庾純、張華、温顒、向秀、和嶠らは任愷と親しく、楊珧、王恂、華廙らは賈充から親任と礼遇を受けており、こうして朋党が入れ乱れるようになってしまった。武帝は事態を察知すると、賈充と任愷を召して式乾殿で酒宴を開き、賈充らに向かって言った、「朝廷はひとつにまとまらなければならぬ。大臣は睦まじくあるべきだ」。賈充と任愷はおのおの拝礼して陳謝し、それから退去した。ほどなくして、賈充と任愷らは、武帝が事情を知っているにもかかわらず譴責しなかったことから、憎しみ合いはますます深刻になり4原文「充愷等以帝已知之而不責、結怨愈深」。『資治通鑑』巻七九、泰始八年七月に「充愷以帝已知而不責、愈無所憚」を参考に訳出した。、表面的には尊重しあっていたものの、内実ではひじょうに不仲であった。或るひとが賈充のために策謀を立てて言った、「任愷は門下の枢要な政務を統轄しているために、主上と親しく接することができているのです。〔武帝に〕啓して、〔任愷を門下から転任させて〕選挙を担当させるように勧めれば、しだいに疎遠にさせることができましょう。その仕事は一都令史の仕事にすぎませんから5原文「此一都令史事耳」。都令史は令史のなかのリーダー格。門下(侍中)の関わる政務と対比すれば、尚書吏部の政務は機械的な事務作業にすぎず、武帝との距離もおのずと疎遠になるはずだ、と言いたいのであろう。。くわえて、九流6原文まま。人材を九等級(九品)にランク付けすること。は精確を期しがたいのですから、付け入る隙もできやすいでしょう」。そこで賈充は任愷の才能を称賛し、人材を官職に就ける職務にいるべきだと進言した。武帝はこの言葉に疑いをもたず、賈充の推挙は適材であると評した。即日、任愷を吏部尚書とし、奉車都尉を加えた。
任愷は吏部尚書に在任しているあいだ、選挙は公平で、心から職務に尽くしていたが、〔武帝に〕接見する機会はだんだんと少なくなっていった。賈充は荀勖や馮紞と結託し、機会をうかがって〔武帝に接見して任愷を〕中傷し、「任愷は奢侈で、御食器(皇室専用の食器)を使用しています」とそしった。賈充は尚書右僕射の高陽王珪に任愷を告発する上奏をおこなわせ、とうとう〔任愷は〕免官となった。有司が太官の宰人7宮中の炊事の責任者のこと。を拘束して取り調べたところ、当該の食器は任愷の妻である斉長公主(魏の明帝の娘)が賜わった、魏の時代の御食器であった。任愷はすでに免官され、しかも誹謗がますます噴出したので、武帝はしだいに任愷を冷遇するようになった。しかし山濤は「任愷は物事に通暁していて知恵をそなえた人柄です」と弁明し、河南尹に推挙した。〔河南尹の管内に〕賊が起こったのに捕えられなかったかどで罪に問われ、ふたたび免官された。またも〔起家して〕光禄勲に移った。
任愷は元来よりひとの才能をみわける眼をもち、それにくわえ、朝廷に仕えては勤勉で慎み深かったので、朝野の称賛をおおいに獲得していた。しかし、賈充の朋党がまたしても有司に遠回しに要求して、任愷が立進令の劉友と交流していた旨を告発させた8巻四一、李憙伝で、李憙は「故立進令劉友」や山濤らが不正を犯していたことを告発している。これに対し武帝は、不正はもっぱら劉友が犯したもので、山濤ら朝士は彼にたぶらかされただけであり、それゆえ劉友を処罰し、山濤らは不問とした、と応えている。『資治通鑑』はこの件を泰始三年春に配列している(巻七九)。賈充の朋党の告発もこの事件に絡めた内容であったのだろう。李憙が上言した時点で劉友がすでに「故」(故人)であること、武帝の詔に「然案此事皆是友所作、侵剝百姓、以繆惑朝士。姦吏乃敢作此、其考竟友以懲邪佞」とあることから察すると、劉友はこのやりとり以前に告発を受け、誅殺されていたと思われる。そして「侵剝百姓」とあることから、立進令とは県令なのであろう。任愷が告発を受けた時期は、本伝の時系列に従うと泰始八年以降になり、あとから劉友との交際がほじくり返されたようである。。事案は尚書に下され、任愷は供述で否認した。列曹尚書の杜友と廷尉の劉良はどちらも忠実公正の人士で、任愷が賈充に抑圧されていることを知っていたので、弁護して任愷が冤罪であることを訴えようとしていた。それゆえ、議論が遅滞して結論が出なかった。これを理由に、任愷、杜友、劉良はみな免官となった。任愷は官職を失うと、酒に入り浸って歓楽に耽り、美味を追究して養生に努めるようになった。かつて、何劭は公子という身分を鼻にかけて奢侈を尽くし、毎食必ず四方の珍味を極めていたが、任愷はそれを凌駕し、一食ごとに一万銭を費やし、それでもなお「箸を下ろせるところがないなあ」と言っていた。任愷はそのころ、朝見の機会に武帝にまみえるのみであったが9原文「愷時因朝請」。厳密に読もうとすると何が言いたいのかハッキリわからない文だが、〈任愷は武帝にまみえることがほとんどなくなり、朝見の機会にだけ接見していた〉と言いたいのであろうと推測し、訳文のように訳出した。、或るとき、武帝が任愷を慰めて気遣う言葉をかけたところ、任愷は終始何も言わず、ただ泣くばかりであった。のちに起家して太僕となり、太常に転じた。
むかし、魏舒は郡守を歴任していたが、いまだ重用を受けていなかった。任愷は侍中になると、魏舒を散騎常侍に推薦した。任愷が太常に任命されたとき、魏舒は右光禄大夫、開府、領司徒で、武帝は臨軒して〔魏舒に〕任愷への冊授をおこなわせた。魏舒は寛大鷹揚であるのをもって評判を得ていたとはいえ、世の人々は「任愷には王佐の才器があるのに、魏舒は三公に出世し、任愷はわずかに散卿どまりだ」と思い、誰もが憤慨したのであった。任愷は志を得られず、ついに憂憤のあまりに卒してしまった。享年六十一。元の諡号をおくられ、子の任罕があとを継いだ。
任罕は字を子倫という。幼くして家風を身につけており、才能と名声は任愷に及ばなかったものの、徳行によって評判を得て、清廉公平な秀士と評された。黄門侍郎、散騎常侍、兗州刺史、大鴻臚を歴任した。
崔洪
崔洪は字を良伯といい、博陵の安平の人である。高祖の崔寔は漢の時代に高名であった。父の崔讃は魏の吏部尚書や尚書左僕射となり、寛大であることによって称賛を受けた。崔洪は若年にして節操が固いことをもって名を著わし、剛直で他人に雷同せず、ひとに過失があれば、そのたびにそれを咎めたが、過ぎたことをいつまでも言うことはなかった。
武帝の治世中、御史治書になった。そのころ、長楽の馮恢の父は弘農太守であったが、末子の馮淑をかわいがっており、爵を〔馮恢ではなく〕馮淑に継承させたがっていた。馮恢は、父が逝去して服喪が明けると、〔父の意向をかなえてやろうと考えて〕郷里に帰り、〔父の墓のそばに?〕草庵をつくり、唖(おし)になって言葉が話せなくなったように装っ〔て爵の後継者に不適格であるさまを示し〕た。〔こうして〕馮淑が爵を継ぐことができたら10巻四四、華表伝附華廙伝にも、華廙の子・華混が爵の継承をあえて拒むために狂人を装って唖のフリをした、という逸話が記されている。、馮恢はようやく出仕し、博士祭酒になった。散騎常侍の翟嬰は「馮恢はふるまいが高尚で、凡俗を超越しており、いにしえの偉人に匹敵します」と推薦した。崔洪は上奏し、「馮恢は儒の素質を修めておらず、学生を輪番で左右に宿直させています11原文「令学生番直左右」。こういう意味で良いのか、自信はもてない。。爵を〔弟に〕譲ったというささいな善行があるとはいえ、〔現代に〕比肩する人物はいないと称えることはできません。〔それにも関わらずあのような推薦をしてきた〕翟嬰は浮華の類い12原文は「浮華之目」。「目」は科目、項目、類目、カテゴリーといったニュアンス。に相当する人間です」と弾劾した。ついに翟嬰を免官することになったので、朝廷の人々は崔洪を畏怖するようになった。まもなく尚書左丞となると、世の人々は彼のことを噂しあって、「群生したイバラが博陵からやって来たぞ13原文「叢生棘刺、来自博陵」。「群がり生えた(叢生)イバラ(棘刺)」というのは、「たくさんの批判・弾劾」の喩え。「博陵」は崔洪を指す。。南では鷂(ハイタカ)に、北では鷹になりよる14原文「在北為鷹」。『宋書』の用例を見ると、御史台のことを「南台」と呼んでいるので、その対比で尚書台のことを「北」と呼称しているのだろうか。巻二四、職官志によれば、尚書左丞は「台内禁令」をつかさどるとあり、弾劾も職掌に含まれていたようである。鷂も鷹もどちらも猟獣。」と言った。
吏部尚書に登用されると、選挙はひとの才能をよく見分けており、自宅で私的な訪問(請託のこと)を受けることはなかった。雍州刺史の郤詵を自分の後任として尚書左丞に就けるよう、推薦した。のち、郤詵が崔洪を弾劾すると、崔洪はひとに言った、「私は郤丞を推挙したのに、逆に私を弾劾してきおった。これは弩を引いて自分を撃つようなものだな」。郤詵はこれを耳にすると、こう言った、「むかし、趙宣子は韓厥を司馬に任命したところ、〔韓厥は〕軍法にもとづいて趙宣子の僕を誅殺した。すると趙宣子は大夫たちにこう言った、『私を祝いたまえ。韓厥を登用したところ、〔彼は〕職務をしっかり遂行している』(『国語』晋語五)と。崔侯は国家のために有能な人材を選挙しておられるのであり、私は才能を見込まれて選抜されたのだ。官(おおやけ)にのみ尽力し、めいめい至公を明白にするべきなのに、どうしてそんな私的な小言をおっしゃるのだろうか」。崔洪がその言葉を耳にはさむと、大事な言葉だと評した。
崔洪はカネの話をせず、珠玉(宝飾品)を手にすることもなかった。或るとき、汝南王亮が公卿を召して宴会を催すと、瑠璃の杯で酒を注いで回った。酒の順番が崔洪まで回ってきたが、崔洪は〔酒が注がれた杯を〕手に取らなかった。汝南王が理由を訊くと、崔洪は答えて、「『玉を持ったまま走ってはならない』(『礼記』曲礼篇上)という教義があったのを心配しましたので」と言った。しかし、実際は崔洪の習性に合わなかったため嘘をついたのである。楊駿が誅殺されると、崔洪は都水使者の王佑と親しかったので、連座して罷免された15王佑は太原王氏の一人。当初は楊駿の腹心であったが、のちに左遷されている。巻七五、王湛伝附王嶠伝に「父佑、以才智称、為楊駿腹心。駿之排汝南王亮、退衛瓘、皆佑之謀也」とあり、巻四〇、楊駿伝附楊済伝に「駿斥出王佑為河東太守、建立皇儲、皆済謀也」とある。。のちに大司農となり、在官中に卒した。子の崔廓は散騎侍郎となり、やはり正直であることをもって称賛を受けた。
郭奕
郭奕は字を大業といい、太原の陽曲の人である16『世説新語』賞誉篇、第九章の劉孝標注に引く「晋諸公賛」に「累世旧族」とある。『三国志』魏書二六、郭淮伝の裴松之注に引く「晋諸公賛」によれば、郭奕は郭淮の弟・郭鎮の子である。。若くして高名を博し、山濤は「高潔簡素にして度量が広い」と称賛した。最初は野王令となった。〔まだ無名であったころの〕羊祜が或るとき、郭奕を訪問したところ17原文「羊祜常過之」。「常」は「嘗」の意。『世説新語』賞誉篇、第九章だと、野王県を通った羊祜のもとに郭奕が訪問したことになっている。本文の「過之」も「野王を通過する」と読めなくもないのだが、「郭奕を訪問する」と読んだほうがより自然ではある。『世説新語』にあまり合わせようとせずに訳出することにした。、郭奕は感嘆して、「羊叔子(羊祜のこと)は郭大業よりも劣っているとは限らぬぞ」と言った。まもなく、〔羊祜が郭奕を?〕ふたたび訪れると、〔郭奕は〕またも感嘆して「羊叔子は人18原文まま。[井波二〇一四B]が解釈するように、郭奕自身を指す(二〇頁)。をはるかにしのいでおる」と言った。そのまま羊祜を見送り、野王県の境界を数百里出たので、これによって罪に問われ、免官された。咸煕の末年、文帝の相国府主簿となった。そのころ、鍾会が蜀で反乱を起こしたが、荀勖は鍾会の従甥(従姉妹の子)で、鍾会の家で成長したのであった。荀勖は文帝の掾であったので、郭奕は啓して、荀勖を追放するように求めた。文帝はそれを聴き入れなかったものの、郭奕の正直ぶりを実感した。
武帝が即位し、はじめて東宮を立てたさい、郭奕と鄭黙をともに太子中庶子とした。太子右衛率、驍騎将軍に移り、平陵男に封じられた。咸寧のはじめ、雍州刺史、鷹揚将軍に移り、ついで赤幢曲蓋、鼓吹を授けられた。郭奕には夫を亡くした姉がおり、郭奕の赴任先に付いて行っていたが、姉の手下の僮僕は悪事をなすことが多く、ひと(有司?)から検挙された。郭奕は〔拘束された僮僕たちに〕接見して取り調べをおこない19原文「奕省按」。よくわからないのでヤケクソで訳した。、それが終わると言った、「大丈夫たるもの、老姉を利用して名声を得るべきだろうか20原文「大丈夫豈当以老姉求名」。よくわからないが、「親族にも公平に罰則を下している」という名誉を、親族を犠牲にしてまで得ようとは思わない、と言いたいのであろうか。」。こうしてとうとう、釈放して罪を問わなかった。その当時、〔雍州管内の〕亭長であった李含には優れた才能があったものの、寒門だったために豪族から排斥されていたが、郭奕は別駕従事に登用した。その後、はたして李含は名声と官位を獲得したため、世の人々は郭奕を「ひとの才能を見抜いている」と評した。
太康年間、中央に召されて列曹尚書となった。郭奕には高い名声があり、当時の朝臣たちはみな郭奕の下にあった。そのころ、武帝は楊駿に朝政を委任していたが、郭奕は上表し、楊駿は才能に乏しく、社稷を委任するべきではありませんと諫めた。武帝は聴き入れなかったが、楊駿はその後、はたして誅殺された。郭奕が病気になると、詔が下り、銭二十万を下賜し、酒と米を毎日支給した。太康八年に卒した。太常は諡号を景とするよう奏上した。有司が議を奏上して主張するには、「〔近代の慣例では〕高貴な者(君主)と卑賤な者(臣下)とで諡号が同じにならないようにしますが、〔このたびの太常の案だと郭奕の諡号は〕景帝と同じになってしまいますから、これではいけません。穆の諡号となさいますよう提案いたします」。詔が下った、「諡号は〔故人の〕徳行を顕彰するためのものである。案ずるに、諡法によれば『徳を純一に保ち、怠らないことを簡という』。郭奕は忠誠剛毅にして清廉方直であり、徳業を確立し、終始心を変えることはなかった」。かくして、ついに簡の諡号を下賜した21巻二〇、礼志中、『通典』巻一〇四、君臣同諡議には、有司の議に対する王済らの駁議など、もう少し詳しい議の経過が載っている。『通典』によれば王済らは、穆の諡号だと宣帝皇后・張氏(宣穆皇后)と重複していることを指摘し、有司の議は「古典」の「貴賤不嫌同号(上下で称号が同じになるのをいとわない)」に合致していないし、「近代」の「不襲帝后之例(皇帝や皇后と重複しないようにする慣例)」とも乖離していると問題点を挙げ、そして晋朝は無窮であるから、諡号をすべて避けるのは困難だと主張している。これに続けて引用されている成粲らの議もこの意見に同調していると思われ、「聖代」に倣うべきであって、「魏氏近制」を踏襲するべきではない、と言っている。これらによると、臣下の諡号が皇帝の諡号と重ならないようにする慣例は魏の時代から始まったようだが、礼志中に「魏朝初諡宣帝為文侯、景王為武侯、文王表不宜与二祖同、於是改諡宣文・忠武」とあり、君臣で諡号を重複させるべきではないと言い始めたのは文帝(司馬昭)であるらしい(巻二、景帝紀、正元二年二月に引く文帝の上表も参照)。議を経て武帝は、結局景でも穆でもなく、簡という別の諡号を賜わっているが、礼志中に引く武帝の詔に「非言君臣不可同、正以奕諡景不相当耳、宜諡曰簡」とあり、君臣で諡号を重複させないという慣例に従ったわけではなく、たんに景という諡号が郭奕には不適切だったから改めたのだ、と言っている。のち、東晋・孝武帝期にも郭奕の諡号問題が議論されたが、やはり徐邈の議に「按郭奕諡景、詔実不以犯帝諡而改也」とあり、尚書の議に「近惟太康、改諡匪嫌同称」とある(『通典』同前)。憶測すれば、いろいろと配慮した結果、武帝みずからが諡号を選ぶという結論に達したのではなかろうか。。
侯史光
侯史光は字を孝明といい、東莱の掖の人である。幼くして聡明で。同県の劉夏から学問を授かった。孝廉に挙げられ、州は別駕従事に辟召した。咸煕のはじめ、洛陽典農中郎将となり、関中侯に封じられた。
泰始のはじめ、散騎常侍に任じられ、ほどなく兼侍中となった。皇甫陶や荀廙といっしょに、節を持って〔地方の〕風俗を巡視し、帰還すると、巡視報告を奏上して天子の意向にかなった。城門校尉に転じ、臨海侯に昇格された。その年、詔が下った、「侯史光は忠誠純朴で、正義を堅持する心をもち、内外の官職を歴任し、公務に励んでいる。そこで侯史光を御史中丞とする。列校(校尉のこと)の位を折り曲げることになるとはいえ、司直(弾劾官のこと)の才能をまっすぐ伸ばして発揮するためである」。侯史光は御史中丞に在職中、寛大ではあったけれども、罪に目をつぶることはなかった。太保の王祥が長いあいだ、病気を理由に朝見を中止していたので、侯史光は上奏して罷免を求めた。〔武帝は〕詔を下して王祥をいたわったが、侯史光のその上奏は無視した。
のちに少府に移り、在官中に卒した。詔が下り、朝服一具、衣一襲、銭三十万、布百匹を下賜された。埋葬が済むと、ふたたび詔が下った、「侯史光は向上心があり、倹約を心がけ、清廉忠誠の節義をそなえていた。家がきわめて貧窮しているゆえ、銭五十万を下賜する」。侯史光は儒学を修め、いにしえのことに広く精通しており、歴任した官職ではどこでも成績をあげ、文章や奏議はすべて筋道だっていた。長子の侯史玄があとを継ぎ、玄菟太守まで昇進した。卒し、子の侯史施があとを継ぎ、東莞太守になった。
何攀
何攀は字を恵興といい、蜀郡の郫の人である22何攀は『華陽国志』後賢志にも列伝があり、そちらのほうが全体的に詳しい。。州に仕えて主簿になった。やがて、益州刺史の皇甫晏が牙門の張弘に殺されてしまい、大逆の罪を犯したと誣告された。そのとき、何攀はちょうど母の喪に服していたが、〔事件の発生を受けて〕ついには梁州を訪れて上表し、皇甫晏が反逆していないことを証明したため、皇甫晏の冤罪は晴れた。王濬が益州刺史になると、別駕従事に辟召した。王濬は伐呉の策略を立てると、何攀をつかわし、上表文を奏上させに台(中央政府)へ行かせ、伐呉の機が熟していると口頭で述べさせた。詔が下り、〔何攀を〕ふたたび引見して、征伐の時宜について張華と何攀に協議させた。王濬は何攀に、〔洛陽を離れたら襄陽へ赴いて〕羊祜のもとを訪問するようにも命じており、〔羊祜と〕面会して伐呉の策略について話させた23『華陽国志』大同志、咸寧三年十月、同、後賢志によれば、何攀はまず洛陽へ行き、それから襄陽の羊祜のもとへ向かったという。後賢志に「濬曰、『……君至洛、官家未有挙意、便前至襄陽、与羊〔祜〕・宗〔廷〕論之』。攀既至洛、拝表献策、因至荊州、与刺史宗廷論、宗未許、乃見羊祜」とある。。何攀は使者の務めをよくこなしていたので、武帝は何攀を評価し、何攀に詔を下して王濬の参軍事とした。孫晧が王濬に降伏すると、王渾は〔王濬に〕遅れを取ってしまったことに腹を立てて恨みに思い、王濬を攻めようとした。何攀は孫晧を王渾のもとへ送るよう王濬に勧め〔、これを王濬が聴き入れ〕たため、騒動は解決した24巻四二、王渾伝、同、王濬伝、『三国志』呉書三、三嗣主伝にはこのようなことは記されておらず、本伝の誤りと指摘されている(『晋書斠注』に引く「晋書校文」など)。。〔朝廷は〕何攀を王濬の輔国将軍府司馬とし、関内侯に封じた。
滎陽令に転じ、便益のある十の政策を奏上すると、おおいに名声を得た。廷尉平に任じられたが、当時の廷尉卿である諸葛沖は、何攀が蜀の人士であるという理由で何攀のことを軽視していた。〔地方から上がってきた〕疑獄25判決に迷う裁判案件のこと。そのような事案に直面した場合、県は郡国へ、郡国は廷尉へ、判断を仰ぐ定めであった。を共同で審理するようになると、諸葛沖はようやく〔何攀の優秀ぶりに〕感服したのであった。宣城太守に移ることとなったが、赴任しなかった。散騎侍郎に転じた。楊駿が朝政を握ると、親族をたくさん〔諸侯に〕樹立し、褒賞としての封爵をおおいにバラまいて、恩沢を施すことによって自衛を固めようとした。何攀は〔楊駿のこのやり方を〕まちがっていると思い、そこで石崇と共同で議を立てて批判を奏上した。その言葉は石崇伝に記してある。恵帝は採用しなかった。楊駿誅殺に協力した功績26『華陽国志』後賢志に詳しい記述が残っている。「太傅楊駿謀逆、請衆官。攀与侍中傅祗、侍郎王愷等往。恵帝従楚王瑋、殿中中郎孟観策、戒厳、誅駿。駿外已忽忽、攀与祗踰牆、得出侍天子。天子以為翊軍校尉、領熊渠兵、一戦斬駿、社稷用安」とある。事態の経過は巻四〇、楊駿伝とおおむね合致している。によって、西城侯に封じられ、食邑は一万戸とされ、絹一万匹を下賜され、弟の何逢は平郷侯に、兄の子の何逵は関中侯に封じられることとなった。何攀は食邑と絹の半分を固辞し、残りの受け取った分は中外27父の姉妹の子と、母の兄弟姉妹の子。(『漢辞海』)の宗族に分け与えたので、自分のふところにはほとんど残らなかった。翊軍校尉に移り、しばらく経つと、地方に出て東羌校尉となった。召されて揚州刺史に任じられ、三年間務めると、大司農に移った28原文「徴為揚州刺史、在任三年、遷大司農」。刺史に任命するのに「徴」(中央に召す)を用いるのはいささか違和感がある。『華陽国志』後賢志は「遷揚州刺史、仮節、在職数年、徳教敷宣、征虜将軍石崇表東南有兵気、不宣用遠人。徴拝大司農」とあり、こちらのほうが精確だと思われる。。兗州刺史に転じ、鷹揚将軍を加えられたが、固辞して就任しなかった。太常の成粲と左将軍の卞粋が就任するよう何攀に言い聞かせ、中詔29〔尚書などを経由せずに〕宮中から直接発出された皇帝直筆の詔。(宮中直接発出的帝王親筆詔令。)(『漢語大詞典』)も下って激励を加えてきたので、何攀はついに病気と称して官に出仕しなかった30「官に出仕しなかった」の原文は「不起」。「起家」の反対で、官に就かず、家で隠居することを言う。。
趙王倫が帝位を奪うと、使者をつかわして何攀を召喚したが、ふたたび病気が重いと称し〔て応じなかっ〕た。趙王は怒り、何攀を誅殺しようとしたので、何攀はやむをえず、病気を押して召還に応じた。洛陽で卒した。享年五十八。何攀は公正を心がけ、厳粛に職務に臨み、逸材を好み、儒学を尊重しつつ、才能も重視した。梁州と益州の中正になると、世に埋もれている人材を召し寄せた。巴西の陳寿、閻乂31津田資久氏[二〇〇一]は閻纘(巻四八に立伝)と同一人物であろうと指摘している(注7)。、犍為の費立はみな西州(西中国)の名士であったが、そろって郷里から非難を浴び、清議に十余年かけられていた32原文「並被郷閭所謗、清議十余年」。読みにくい。越智重明氏[一九六五]は「清議」を「郷論」の意に解したうえで、「郷論が州大中正の郷品附与を不可としたため州大中正が自主的判断をもってそれに従い、十余年間郷品を与えなかった」と解釈し(一三頁)、津田資久氏[二〇〇一]は「十年以上も清議にかけられていた」と読んでいる(五九頁)。ここは津田氏を参考にして訳文を作成した。巻四八、閻纘伝にも「被清議十余年」と同様の文言が見えている。。何攀は彼らを弁護し、〔疑問視されている彼らの振る舞いの〕是非をハッキリさせたので、みな濡れ衣を免れたのであった。何攀は高官に就いていたものの、家はひじょうに貧乏で、側室や妓女はおらず、貧窮者の救済をひたすら務めとしていた。子の何璋があとを継ぎ、父と同様の風格をそなえていた。
劉毅/劉毅(附:劉暾・程衛)・和嶠・武陔/任愷・崔洪・郭奕・侯史光・何攀
(2023/5/23:公開)