巻八 帝紀第八 海西公

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穆帝哀帝海西公

 廃帝は諱を奕、字を延齢といい、哀帝の同母弟である。咸康八年、東海王に封じられた。永和八年、散騎常侍に任じられ、ほどなく鎮軍将軍を加えられた。升平四年、車騎将軍に任じられた。五年、琅邪王に移された。隆和年間のはじめ、侍中、驃騎大将軍、開府儀同三司に転じた。
 興寧三年二月丙申、哀帝が崩じたが、後継ぎがいなかった。丁酉、皇太后(康帝皇后の褚氏)が詔を下した、「帝はとうとうかの病から回復されなかったため、災難がまたも到来し、先帝以来の事業がとだえかけており、悲しく嘆き、心を痛めている。琅邪王の奕はうるわしい徳をそなえた優れた宗室であり、〔帝との〕親族関係は後継ぎに相当しているため、祖先を奉じ、大統を継承するのにふさわしいであろう。そこで、すみやかに大礼を整えて、民と神を安んじるように」。こうして、百官は琅邪王の邸宅に迎えに行った。この日、皇帝の位につき、大赦した。
 三月壬申、哀帝を安平陵に埋葬した。癸酉、散騎常侍の河間王欽が薨じた。丙子、慕容暐の将の慕容恪が洛陽を落とし、寧朔将軍の竺瑤は襄陽へ敗走し、冠軍将軍長史、揚武将軍の沈勁は戦死した。
 夏六月戊子、使持節、都督益・寧二州諸軍事、鎮西将軍、益州刺史、建城公の周撫が卒した。
 秋七月、匈奴の左賢王の衛辰、右賢王の曹穀が二万の兵を率いて苻堅の杏城に侵攻した。己酉、会稽王昱を琅邪王に移した。壬子、皇后に庾氏を立てた。琅邪王昱の子の昌明を会稽王に封じた。
 冬十月、梁州刺史の司馬勲がそむき、成都王を自称した。十一月、〔司馬勲が〕軍を率いて剣閣に入り、涪を攻めると、西夷校尉の毌丘暐は城を捨てて逃げた。乙卯、〔司馬勲が〕益州刺史の周楚を成都で包囲すると、桓温は江夏相の朱序を派遣して救援させた。
 十二月戊戌、会稽内史の王彪之を尚書僕射とした。

 太和元年春二月己丑、涼州刺史の張天錫を大将軍、都督隴右・関中諸軍事、西平郡公とした。丙申、宣城内史の桓秘を持節、監梁・益二州征討諸軍事とした。
 三月辛亥、新蔡王邈が薨じた。荊州刺史の桓豁が督護の桓羆を派遣して南鄭を攻めさせると、魏興の畢欽が挙兵して桓羆に呼応した。
 夏四月、旱魃があった。
 五月戊寅、皇后の庾氏が崩じた。朱序が司馬勲を成都で攻めると、〔司馬勲の〕軍は潰走した。〔朱序は〕司馬勲を捕え、これを斬った。
 秋七月癸酉、孝皇后を敬平陵に埋葬した。
 九月甲午、梁州と益州を曲赦した。
 冬十月辛丑、苻堅の将の王猛と楊安が南郷を攻めたので、荊州刺史の桓豁は救援に向かい、〔桓豁の〕軍が新野に駐屯すると、王猛と楊安は退却した。会稽王昱を丞相とした。
 十二月、南陽の趙弘、趙憶らが宛城を占拠してそむき、南陽太守の桓澹は新野に逃げた。慕容暐の将の慕容厲が魯郡と高平を落とした。

 二年春正月、北中郎将の庾希が罪を犯し、海に逃亡した。
 夏四月、慕容暐の将の慕容塵が竟陵を侵略したが、竟陵太守の羅崇が撃破した。苻堅の将の王猛が涼州を侵略したが、張天錫は防戦し、王猛軍は敗北した。
 五月、右将軍の桓豁が趙憶を攻め、これを敗走させた。進軍して慕容暐の将の趙槃を捕え、京師に送った。
 秋九月、会稽内史の郗愔を都督徐・兗・青・幽四州諸軍事、平北将軍、徐州刺史とした。
 冬十月乙巳、彭城王玄が薨じた。

 三年春三月丁巳朔、日蝕があった。癸亥、大赦した。
 夏四月癸巳、ひょうが降った。強風があり、木を折った。
 秋八月壬寅、尚書令、衛将軍、藍田侯の王述が卒した。

 四年夏四月庚戌、大司馬の桓温が軍を率いて慕容暐を攻めた。
 秋七月辛卯、慕容暐の将の慕容垂が軍を率いて桓温を防いだが、桓温はこれを撃破した。
 九月戊寅、桓温の裨将の鄧遐、朱序が慕容暐の将の傅末波に林渚で遭遇したので、これもまたおおいに破った。戊子、桓温が枋頭に到着した。丙申、食糧輸送が続かないので、〔桓温は〕船を焼いて帰還した。辛丑、慕容垂は追撃して桓温の後軍を襄邑で破った。
 冬十月、大きな星が西に流れ、雷のような音が鳴った。己巳、桓温が敗残兵を集め、山陽に駐屯した。豫州刺史の袁真が寿陽をもってそむいた。
 十一月辛丑、桓温が山陽を発ち、会稽王昱と涂中で会談し、以後の計画を協議しようとした。
 十二月、〔桓温は〕そのまま広陵に築城して駐留した。

 五年春正月己亥、袁真の子の袁双之と袁愛之が梁国内史の朱憲、汝南内史の朱斌を殺した。
 二月癸酉、袁真が死んだので、陳郡太守の朱輔は袁真の子の袁瑾を立てて仕事を継がせ、慕容暐に救援を要請した。
 夏四月辛未、桓温の部将の竺瑤が袁瑾を武丘で破った。
 秋七月癸酉朔、日蝕があった。
 八月癸丑、桓温が袁瑾を寿陽で攻め、これを破った。
 九月、苻堅の将の王猛が慕容暐を攻め、上党を落とした。広漢の妖賊の李弘と益州の妖賊の李金根が群衆を集めてそむき、李弘は聖王を自称した。集団は数万人にのぼった。梓潼太守の周虓が討伐し、これを平定した。
 冬十月、王猛が慕容暐の将の慕容評を潞川でおおいに破った。
 十一月、王猛が鄴を落とし、慕容暐を捕え、慕容暐(前燕)の領域をすべて領有することとなった。

 六年春正月、苻堅が将の王鑑を派遣して袁瑾を救援させたが、将軍の桓伊が迎撃し、これをおおいに破った。丁亥、桓温が寿陽を落とし、袁瑾を斬った。
 三月壬辰、監益・寧二州諸軍事、冠軍将軍、益州刺史、建城公の周楚が卒した。
 夏四月戊午、大赦し、貧窮している者、子がいない老人に米を賜い、一人につき五斛を下賜した。苻堅の将の苻雅が仇池を攻め、仇池公の楊纂はこれに降った。
 六月、京師、丹楊、晋陵、呉郡、呉興、臨海で洪水があった。
 秋八月、まえの寧州刺史の周仲孫を仮節、監益・梁二州諸軍事、益州刺史とした。
 冬十月壬子、高密王俊が薨じた。
 十一月癸卯、桓温が広陵から〔移動して〕白石に駐屯した。丁未、〔桓温は〕闕門に着くと、廃帝の廃立を画策し、〔次のように〕でたらめを言ってそしった。帝が藩国におられたとき(位が王であったとき)、はやくから勃起不全を患っていた。〔そのころに〕寵愛を受けていた小人である相龍、計好、朱霊宝らは内寝に入って〔帝に〕侍っていた。ところが〔帝は障害があったのに〕美人の田氏と孟氏は三人の男子を生んだ。〔その子らが〕成長したので〔帝は〕封建するつもりでおられるが、世の人々はこれらの事情に困惑している、と。桓温はそこで、皇太后に伊尹と霍光の故事をそれとなく言って勧めたのである。己酉、〔桓温は〕百官を朝堂に集め、崇徳太后の令を宣読した、「王室に災難が降りかかり、穆帝と哀帝は短命で倒れ、〔両帝の〕後継ぎは育っておらず、太子は立てられていなかった。琅邪王の奕は、〔哀帝との〕親族関係は同母弟であったため、〔皇統に〕入って帝位を継いだのであった。しかし予想もしなかったことに、徳が身につかないまま現在にいたっており、蒙昧かつ混乱しており、いつも礼儀に反している。この三人の庶子は、誰が父かもわからない。人倫の道は失われ、悪名が遠くにまで知られている。すでに、社稷を奉じ守り、宗廟をつつしんで受け継ぐのにふさわしくない。そのうえ、愚かな庶子はみな成長しているというので、すぐに国に封建しようとしている。〔このように〕祖先をあざむき、帝業を傾かせている。これが我慢できるというのなら、我慢できないことなどなかろう。いま、奕を廃して東海王とし、王を邸宅に帰らせよ。〔邸宅に帰らせるさいの〕護衛の礼儀は1原文「供衛之儀」。自信はない。、漢の昌邑王の故事に従え。しかし未亡人(私)は不幸なことに、このたびの一大事に遭い、茫然として何も考えられず2原文「感念存没」。よくわからない。「存没」は『宋書』の用例を見るかぎり、「生死」「存亡」と同義とみられるが、ここでは「没」の意味が強く出ているものと解して訳出した。すなわち、「感情を失った」と読んでみたわけだが、それをどうにか訳文のように置き換えたのだけれども、ちょっとちがうニュアンスになってしまったかもしれない。、心が裂けんばかりだが、社稷の大事ゆえ、義としてやむをえない。紙を前にして悲しみに暮れ、どう言葉にしたらよいのかわからない」。かくして、百官が太極前殿に入り、即日、桓温は散騎侍郎の劉享に廃帝の璽綬を取り上げさせた。廃帝は白帢(帽子)と単衣を着て、歩いて〔太極殿の〕西堂から降り(2022/3/6:修正)、牛車に乗って神獣門を出ていった。群臣は拝礼して見送り、すすり泣かない者はいなかった。侍御史、殿中監の将兵百人が東海王の邸宅まで護送した。
 そもそも、桓温は不臣の野心を抱いており、先に河朔で戦功を挙げ、そうして世論を得ようと考えていたのである。しかし枋頭で敗戦し、権威も名声も失墜してしまったので、とうとう廃立をひそかに画策し、そうして権威と権力を伸張しようとしたのであった。とはいえ、廃帝が道徳を守って〔問題を起こさないで〕いることを忌みきらい、世の支持を集めていることを心配していた。宮中の事柄は奥深くのことで誰にも真実はわからず、寝室の問題はあざむきやすいため、そこで廃帝は男性能力がないと言い、ついに廃位を実行したのである。当初、廃帝は日ごろから心配性であった。あるとき、術士の扈謙に筮竹で占わせた。卦が出ると、「晋室には盤石の固さがありますが、陛下には宮殿を出ていく徴があります」と話した。とうとうその言葉のとおりになったのだった。
 咸安二年正月、廃帝を降格して海西県公に封じた。四月、呉県に移住させ、呉国内史の刁彝に勅を下して護衛させ、また御史の顧允を派遣して監視させた。十一月、妖賊の盧悚が弟子の殿中監の許龍をつかわし、早朝に海西公宅の門に行かせ、皇太后の密詔と称し、奉迎して帝位に回復させようとした。廃帝は、最初はそれに従おうとしたが、保母の諫言を聴き入れてやめた。許龍は「大事が成ろうというのに、どうして婦女子の言葉に耳を傾けるのでしょうか」と言ったが、廃帝は「私はここで(?)罪を得たが、幸いにも寛大な処置を賜わったのだ。どうしてむやみに動こうと思うだろうか。それに太后が詔を下されたのならば、官属がここに来るはずだが、どうしておまえひとりなのか。おまえはまちがいなく乱を起こすつもりだ」と応じると、左右の者に許龍を捕縛するよう怒鳴りつけた。許龍は驚愕して逃走した。廃帝は、天命がもう一度くだることはないと悟り、ひどい災いが及ぶのを憂慮したので、頭を働かせることをやめ、何も考えず、終日酒にひたり、めかけに溺れ、子ができても育成せず、寿命をまっとうすることだけを願った。世の人々は廃帝を憐れみ、廃帝のために歌をつくったほどだった。朝廷は、廃帝が屈辱のうちに甘んじていることから、災いのもととみなさなくなった。太元十一年十月甲申、呉で薨じた。享年四十五。

 史臣曰く、(以下略)

(2020/2/27:公開)

  • 1
    原文「供衛之儀」。自信はない。
  • 2
    原文「感念存没」。よくわからない。「存没」は『宋書』の用例を見るかぎり、「生死」「存亡」と同義とみられるが、ここでは「没」の意味が強く出ているものと解して訳出した。すなわち、「感情を失った」と読んでみたわけだが、それをどうにか訳文のように置き換えたのだけれども、ちょっとちがうニュアンスになってしまったかもしれない。
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