凡例
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張軌(附:張寔・張茂・張駿・張重華・張耀霊・張祚・張玄靚・張天錫)
張軌
張軌は字を士彦といい、安定の烏氏の人で、漢の常山景王であった張耳の十七世の子孫である。家は代々孝廉を輩出し、儒学をもって著名であった。父の張温は太官令となった。張軌は若くして明敏で、学問を好み、度量と名声があり、所作は規則正しかった。同郡の皇甫謐と親しく、宜陽の女几山に隠棲した1後文を参照すると、張軌は恵帝の時代になって起家したようなので、武帝の時代は隠居していたのではないかと思われる。。泰始のはじめ、叔父の賜官五品を授かった2原文「受叔父錫官五品」。このとき、張軌は十代前半であり、おそらく両親を亡くすなどして生計能力を欠いた張軌のために、朝廷がかつて叔父に授けた五品の「錫官」(賜官)を張軌に受け継がせ、生活を保護したのではないかと思われる。詳しくはブログ記事「張軌伝の「受叔父錫官五品」について」で考察した。。中書監の張華は経義や政策の損益について張軌と議論すると、張軌をひじょうに高く評価し、「安定の中正は善人を覆い隠し、才子を抑止している」と思った。そこで張軌を褒め称える話を言い広め、二品の精英と評した。衛将軍の楊珧が辟召して〔衛将軍府の〕掾とし、〔ついで〕太子舎人に任じられ、昇進を重ねて散騎常侍、征西軍司(征西将軍府の軍司)に移った。
張軌は、世が多事多難であることから、河西に割拠することをひそかに画策し、そのことについて筮竹で占うと、泰卦から観卦に変じたので、筮竹を放り投げて喜び、「覇者の予兆だ!」と言った。よって、涼州刺史の職を求めたのであった。公卿も、張軌の才覚は遠方の統治を荷いうる、と推挙した。永寧のはじめ、地方に出て護羌校尉、涼州刺史となった。そのころ、〔涼州では〕鮮卑が反乱を起こし、盗賊がはびこっていたが、張軌が州に到着すると、即座に討伐してこれらを撃破し、一万余級の斬首をあげたので、ついに威声が西州にとどろき、教化が河西に行き届いた。宋配、陰充、氾瑗、陰澹を股肱や謀主とした。〔涼州〕九郡の学生3原文は「冑子」だが、「胄子」のこと。辞書的には帝王や貴族の長子(世継ぎ)を指すが、ここでは学生くらいの意味であろうと思い、訳文のようにした。五百人を招集し、〔州に〕学校を建て、崇文酒祭を新設し4張軌が涼州に設立した学校で学生を教授する職であったと考えられる。、その位は別駕従事相当とし、春と秋に郷射の礼を挙行した。秘書監の繆世徴と少府5後文で独特な意味あいでの「少府」(および「太府」)も登場するが、ここの少府は中央の卿官を指す。の摯虞は、夜に天文を観察していて語り合った、「天下が乱れつつあり、難を逃れる国は涼州のみだ。張涼州(涼州刺史の張軌)は徳と度量が非凡であるから、たいがい彼のことであろう6原文「殆其人乎」。涼州が戦乱を免れるのは地理的な要因とかではなく、張軌の個人的な能力のおかげであろう、というニュアンスだと思われる。」。河間王顒と成都王穎が変事をしかけ〔、洛陽の長沙王乂へ軍を差し向け〕ると、〔張軌は〕兵三千を派遣し、東の京師へ向かわせた。
そのむかし、漢末のとき、金城の陽成遠が太守を殺して反乱を起こしたが、同郡の馮忠は太守の遺骸に駆け寄って号哭し、血を吐いて死んでしまった7この逸話が前漢末なのか後漢末なのかはわからない。。〔また後漢時代、〕張掖の呉詠は護羌校尉の馬賢に辟召され、のちに太尉の龐参の掾となった。〔しかしその後、〕龐参と馬賢はたがいに誣告し、死罪に相当すると双方が主張しあい、それぞれが呉詠を証人に引き立てようとした。呉詠は比較考量したものの、両方を正当化できる論理がないため、とうとう自刎して死んでしまった。龐参と馬賢は恥じ入って後悔し、たがいに歩み寄って和解した。張軌は二人の墓を祀り、その子孫を顕彰した。
永興年間、鮮卑の若羅抜能が侵略してきたので8原文は「鮮卑若羅抜能皆為寇」。中華書局も『資治通鑑』も「若羅抜能」で一人分の名と読んでいるが、そうだとすれば「皆」字は何かの誤りということになるのだろうか。「皆」も含めて人名と見なすこともできなくはないが、とりあえずここでは訳文に反映させずに読んでみることにした。、張軌は司馬の宋配を派遣してこれを撃退させた。〔宋配は〕若羅抜能を斬り、十余万口を捕虜としたので、〔張軌の〕威名がおおいに振るった。恵帝は使者をつかわして〔張軌に〕安西将軍を加え、安楽郷侯に封じ、食邑は千戸とした。この時期から、〔張軌は〕姑臧で大規模に築城した。その城はもともと匈奴が築いたものであり、南北七里、東西三里で、地形が龍のような形をしていたので、「臥龍城」と名づけられた9陳力[二〇一七]によれば、姑臧城が南北七里、東西三里の規模になった時期に関しては諸説あるという。陳力氏は、張軌の改築時点ではこの規模にならず、のちの張駿時代の増築によってこの規模になったと理解しているようである。。そのむかし、後漢末のとき、博士であった敦煌の侯瑾は、門人にこう言った、「後世、姑臧城の西にある泉がきっと涸れ、双闕10原文まま。門の両脇にそびえる高殿、転じて門。「闕」は多く宮殿に関して使用される字だが、ここでは「立派な高殿(の門)」くらいの意味か。実際のところ、張氏の姑臧城には宮殿も存在していたようで(『水経注』巻四〇、禹貢山水沢地所在「都野沢在武威県東北」注に引く「王隠晋書」)、張軌の時代に築かれた宮殿もあったそうだ(陳力[二〇一七])。「闕」はそのことを意識した用字なのかもしれない。がその上に建って東門と向かい合うことになり、中央に覇者が現われるであろう」。魏の嘉平年間になって、はたして郡府(武威郡)が学校を〔姑臧城の西側に〕建てることとなり11前文で張軌が建てた学校とどのような関係にあるのかはわからない。そもそもこの文自体、前後とどう接続するのかわかりにくいが、姑臧城の西側に学校の建築を計画し、その際に城の西面に新たに門を開通することも計画したというふうに後文へ続くのだろうか。、双闕を〔埋め立てた〕泉の上に築き、東門とちょうど向かい合った。〔張軌が姑臧を改築しはじめた〕このときになって、張氏はついに河西に覇をとなえたのである。
永嘉12中華書局校勘記によれば、永興の誤りである可能性が高いらしい。のはじめ、東羌校尉の韓稚が秦州刺史の張輔を殺したので、張軌の少府13本伝には張軌の府として、太府と少府の二つが登場しているが、どのような違いがあるのか本文上では明らかでない。胡三省は太府を都督府、少府を涼州府と解している(『資治通鑑』巻八六、永嘉二年二月の注)。司馬の楊胤は張軌に言った、「いま、韓稚は命令に逆らい、独断で張輔を殺しました。明公は鉞14威権の象徴。天子から誅罰の権限を委譲されたことを示す。を手にして一地方に臨んでおりますから、不敬者を懲罰するべきです。それは『春秋』の義でもあります。すなわち、『諸侯が滅ぼしあっているのに、斉の桓公は救うことができなかったので、桓公はそれを恥じたのである』(『公羊伝』僖公元年)と」。張軌はこれを聴き入れ、中督護の氾瑗に軍二万を統率させて派遣し、韓稚を討たせたが、まず韓稚に書簡を送って述べた。
いま、王綱は乱れておりますので、牧守は力を合わせて勤王しなければなりません。近ごろ、雍州刺史(劉沈)の檄書を受け取ったのですが、卿は挙兵して内乱を起こした、と言われています。私は一地方を監督し、反乱者を討つのが義です。〔卿へ向けて〕三万の軍隊が続々と進発していますが、「伐木」のごとき旧友への思いを、どうして言葉にできましょうか15原文「伐木之感、心豈可言」。「伐木」はおそらく『毛詩』小雅の篇名。詩序に「燕朋友故旧也。自天子至于庶人、未有不須友以成者。親親以睦、友賢不棄、不遺故旧、則民徳帰厚矣」とあり、旧友と睦まじくすることを歌う。韓稚の素性は不明だが、張軌とは付き合いがあり、私情としては旧友を討つのは忍びないと言っているのかもしれない。。いにしえの用兵では、「敵国を保全したまま降すのが最上である」(『孫子』謀攻篇)とされます。卿がもし、単身でわが軍門に至るのでしたら、〔私は〕卿と協力して世の災難を平定することになりましょう。
韓稚は書簡を受け取ると、〔張軌に〕降服した。張軌は主簿の令狐亜を派遣し、〔河間王に代わって長安に出鎮した〕南陽王模のもとへ表敬訪問に行かせた16本文では詳しい文脈を欠いているが、南陽王に表敬の遣使を送ったのは、これまで関中(長安)に出鎮していた河間王が失脚し、新たに南陽王が出鎮したからだと思われる。そうだとすれば、この遣使は永嘉のはじめころのことであろう。。南陽王はひじょうに喜び、皇帝(懐帝?)から下賜された剣を張軌へ贈り、張軌に宛てて言った、「隴より以西は、征伐と処罰をすべて委ねる。この剣のとおりだ」。まもなく、王弥が洛陽を侵略したので、張軌は北宮純、張纂、馬魴、陰濬らに州軍を統率させて派遣した。〔北宮純らは〕王弥を撃破し、さらに劉聡も河東で破ったため、京師の人々はこのことを歌にした。
涼州の大きな馬、天下を縦横無尽に駆け巡る。
涼州の勇猛なハイタカ、賊を駆逐する。
ハイタカがひらりとひるがえると、恐怖で人をショック死させた。
懐帝は張軌の忠誠を嘉し、西平郡公に昇格させたが、〔張軌は〕受けなかった。張掖の臨松山の石に「金馬」という文字があったが、摩滅していて少しだけ識読できた17「金馬」は金徳の司馬氏の意。その字が摩滅して薄くなっているというのは、晋朝の衰微を隠喩しているということである。。一方で、「張」の文字が鮮明にあり、また「初祚天下西方安万年(天からはじめて禄運を授かり、天下の西方は万年安寧)」という文章もあった18「初祚天下」は少し意味を取りにくく、当てずっぽう気味な訳を取った。「祚」はのちに涼王を称して自立した張祚を暗示しているのかもしれない。『十六国春秋』の佚文とはかなり異同があり、『太平御覧』巻五〇、臨松山に引く「十六国春秋」に「晋元嘉元年、張掖臨松山有石、如張掖字、『掖』漸滅、『張』字分明。又有文曰『初天下、四方安万年』」とある。。姑臧にも玄石があり、白い点が二十八宿を形作っていた。そのころ、天下はすでに混乱しており、各地からの使者が洛陽に来なくなってしまっていたが、張軌は〔洛陽へ〕使者をつかわして〔徴税物などを〕貢納し、毎季節おこたらなかった。朝廷はこれを嘉し、たびたび璽書を下してねぎらった。
張軌はのちに中風を患い、言葉を話せなくなってしまったため、子の張茂に州の政事を代行させた。酒泉太守の張鎮は、秦州刺史の賈龕をひそかに召して張軌に代えようと考えた。そこで秘密裏に使者を京師へつかわし、〔中央の尚書台で勤務している〕尚書侍郎の曹袪を西平太守とするよう要望し、輔車19ほお骨(輔)と下顎の骨(車)。両者が相互依存し同じ利害関係にあるたとえ。(『漢辞海』)の情勢を形成しようと図った20後文の状況から察するに、張鎮の人事の要望は聴き入れられたようである。。張軌の別駕の麹晁は権力の独占をねらっていたので、やはり使者を長安へつかわし、南陽王に張軌の身体障害を報告し、賈龕に交代するよう要請した。賈龕も刺史を引き受けようとした。しかし、賈龕の兄が賈龕をなじって言った、「張涼州は当世の名士であり、威厳は西州(西中国)に歴然としている。おまえはいかなる徳をもって張涼州に取って代わろうというのだ」。賈龕はそこで思いとどまった。〔朝廷は〕あらためて侍中の爰瑜を涼州刺史とした。涼州の治中の楊澹が馬を走らせて長安へ行き、みずからの耳を削ぎ取って盤上に置き、張軌は誣告されていると訴えた。そこで南陽王は上表し、この人事を中止とした。
晋昌の張越は涼州の豪族であった。〔巷間に流布していた?〕予言に「張氏が涼州に覇をとなえるであろう」というものがあったので、才知と力量をもってみずからこの予言に応じようと思っていた。隴西内史から梁州刺史に移ったが、張越の志は涼州〔刺史?〕にあったので、とうとう病気を口実にして河西へ帰り、張軌に代わろうとひそかに謀略を練った。そこで兄の張鎮、曹袪、麹佩に檄書を〔涼州じゅうに?〕発送させ、〔その檄書で〕張軌を廃位し、軍司の杜耽に州の政事を代行させると触れ回った。そして杜耽に〔朝廷へ〕上表させ、張越を涼州刺史とするよう要望させた。張軌は令を下して言った。
私は涼州に着任して八年になるが、区域を安寧にすることができなかった。しかも、中原が戦争で混乱し、秦隴の地(関西地方)が苦境に陥る21原文「秦隴倒懸」。『資治通鑑』は張軌の健康不安に端を発するこの一連の出来事を永嘉二年に配している。「秦隴倒懸」が何を指しているのかいまいちわからないが、斉万年の乱以降、関中は荒廃気味だと言いたいのだろうか。時期に遭い、くわえて重い病にも臥せってしまった。じつのところ、隠退して賢者に〔位を〕譲ることを思案していたのだが、しかし荷っている職務が重いため、ただちに決められずにいたのである。大勢の人々が今回の事変を好き勝手に起こすとは思いもしなかったが、これは〔隠退するつもりでいた〕わが心をよく知らなかったのであろう。私は貴州(涼州のこと)を辞去することを、靴を脱ぎ捨てるようなこと(軽い気持ちでできること)だと見なしているのだ。
主簿の尉髦を今にもつかわして、〔辞職を申し出る〕表を上呈させに闕門(洛陽の宮殿)へ行かせようとした。〔またその一方で〕すみやかに車軸に油を塗らせ、宜陽に隠退しようとした。長史の王融と参軍の孟暢は張鎮の檄書を踏みつけてへし折り、〔張軌の〕寝室の門を押し開けて入室し、諫めて言った、「晋室は事変が多発し、人も神も塗炭の苦しみを味わっています。まことに、明公が西夏(西中国)を安寧に治めていることを頼みの綱としているのです。張鎮兄弟は積極的に悪逆を振るっています。その罪状を訴えて誅戮するべきであり、やつらの志を遂げさせてはなりません」。張軌は黙っていた。王融らは退出すると、戒厳を発した。武威太守の張琠は子の張坦を京師へ急行させ、上表して言った。
魏尚は辺境を安寧にしたのに罪を得て(『史記』巻一〇二、馮唐列伝)、趙充国は忠誠を尽くしたのに咎められました。どちらも前史が批判している事件であり、現代における明白な教訓です。〔かつて後漢時代、〕順陽の民は〔旧県長であった〕劉陶を慕い、〔その冤罪を訴えようと宮殿の〕闕門に待機する者は千人にのぼりました22劉陶は後漢の人士を指すと考えられる。『後漢書』列伝四七、劉陶伝に本文で言われているような逸話は記述されていないが、劉陶は晩年、後漢末の混乱は宦官に起因すると上疏し、そのことでかえって宦官から讒言されて獄に下され、獄死してしまったという。このときのことに関わるエピソードではないかと思われる。。張刺史が臣の州を治めること、慈母が赤子に接するかのごとくであり、百姓が臣の軌を慕うこと、乾いた苗が恵みの雨を得るかのようでした。謹んで拝聞いたすところによれば、〔朝廷は〕流言を信じて〔軌を〕交代させようとしておられるとか。〔もしそうなれば、〕民心は父母を失ったかのように悲しんで騒ぐことでしょう。いま、戎夷が中華を乱しておりますから、一地方を騒擾させるべきではありません。
ほどなく、張軌は子の張寔を中督護とし、兵を統率させて張鎮を討伐させた。〔また張軌は、〕張鎮の外甥(姉妹の子)で、太府23前文の「少府」の訳注を参照。主簿の令狐亜を派遣し、交戦がはじまる前に張鎮を説得させた。
舅(母の兄弟)さま、どうして安危をよくご検討し、成敗をよくお考えにならないのでしょうか。主公(張軌)は河西で徳を著わし、兵馬は雲のごとくに多勢です。猛烈な火がすでに燃えたぎっているのに、〔鎮火のために〕江漢(長江と漢水)の水を待つようなもの、あるいは大河で溺れているのに、越人の救助を願うようなものです。〔これから援軍を期待したところで?〕どうして間に合うものでしょうか。いま、数万の軍がすでに境界近くに迫っています。いまや、どうか老親の生命を守り、門戸を保つようにしてください。誠意を示して官に帰順すれば、必ずや、万全(すべて安全)という幸福を保持できるでしょう。
張鎮は涙を流して、「人が私を誤らせたのだ」と言った。そこで罪を功曹の魯連になすりつけてこれを斬り、張寔のもとに出頭して罪に伏した。〔張寔は〕南に進んで曹袪を討ち24前文にあったとおり、曹袪は西平の太守であったと考えられる。西平は姑臧の南。、これを敗走させた。張坦が〔朝廷の返答を得て〕京師から戻って来た。懐帝は優詔を賜わって張軌をねぎらい、〔同時に〕南陽王の上表を聴き入れて曹袪誅殺を命じたのであった。張軌はおおいに喜び、州内の殊死以下を赦免した。〔張軌は〕張寔に尹員、宋配ら歩騎三万を統率して曹袪を討つよう命じ、それとは別に従事の田迥や王豊に騎兵八百を統率させて派遣し、姑臧から西南の石驢へ向かわせ、長寧(西平の属県)を占拠させた。曹袪は麹晁を派遣し、黄阪で防戦させた。張寔は抜け道で浩亹25金城の属県。金城は西平の東に隣接する。へ向かい、破羌26『続漢書』州郡志には金城の属県として見えている。『晋書』地理志には記載なし。で交戦した。張軌は曹袪と牙門の田囂を斬った27本伝に記載はないが、『資治通鑑』によれば本件の首謀者とも言える張越は鄴へ逃げたという(巻八六、永嘉二年二月)。この張軌の地位をめぐる一連の事件は複数の出来事が絡み合っており、時系列もやや乱れている様子だが、特に整理せず、本伝の記述する順番どおりに訳出した。。
張軌は治中の張閬を派遣し、義兵五千、郡国の秀孝28原文まま。ふつうは推挙科目である秀才と孝廉の合称だが、秀才は州の科目である。あまり細かくこだわる箇所ではないかもしれないが、「州郡」としたほうが適切ではある。、貢計(貢納物と会計簿)、兵器、名産物を移送させ、京師へ寄贈した。〔張軌は〕有司に命じ、州の創立以来で以下の項目に合う人物を詳細に調査させた。すなわち、清廉貞正にして徳行があり、隠遁を楽しんで栄誉を棄て去った者。高才碩学で、経史(経学書と史書)を著述した者。危機に臨んで義に殉じ、君主のために命を棄てた者。忠義の諫言を呈して災禍をこうむり、対外交渉を務めて29原文は「専対」。使者として応答することを言う。憂患を取り払った者。臨機応変の知力と雄々しい勇武をもって、世のために難事を取り除いた者。阿諛迎合して主君を誤らせ、忠賢の人材に被害を加えたり、罪に陥れたりした者。以上の項目に合う人物をつぶさに陳述させて報告させた。州じゅうの父老は誰もが慶祝しあった。光禄大夫の傅祗や太常の摯虞は張軌に書簡を送り、京師が物資不足であると知らせたので、張軌は即座に参軍の杜勲を派遣し、馬五百匹と毯布(羊毛製の布)三万匹を献上した。懐帝は使者をつかわし、〔張軌を〕鎮西将軍、都督隴右諸軍事に進め、覇城侯に封じた。〔その後、〕車騎将軍、開府辟召、儀同三司に進められた30『資治通鑑』は前者の人事を永嘉四年十一月、後者を永嘉五年五月にかけている。。その策書が届く前に、王弥がとうとう洛陽に迫った。張軌は将軍の張斐、北宮純、郭敷らに精鋭騎兵五千を統率させて派遣し、京師を防衛させた。京師が陥落すると、張斐らはみな賊に没した。中原からの避難者が続々とやって来たので、武威を割いて武興郡を置き、そこに居住させた。太府主簿の馬魴が張軌に言った、「四海が転覆し、天子は〔平陽へ連行されたまま〕いまだに戻りません。明公が州の総力をもってただちに平陽へ向かえば、必ず万里が風になびくように服従し、征伐はあれども戦争はない(戦わずして勝つ)でしょう。何を恐れてこれを決行なさらないのか、いまだよくわかりません」。張軌、「それは孤(わたし)の心だ」。また、秦王鄴が関中に入ったことを聞くと、檄書を関中に早馬で発送して言った。
主上が危機にみまわれ、非所31人が十分に正常な生活を送ることができない場所。監獄や辺境などを指す。(不是人能够正常生活的地方。指監獄・辺荒之地等。)(『漢語大詞典』)にお移りになられた。普天は崩壊し、率土は意気阻喪している。秦王は天賦の聖徳をそなえており、神のごとき武略をもって機運に応じようとしておられる。世祖の御孫のなかで、王は現在、もっとも年長でおられる。およそわれら晋人は、率土の産物を口にするともがらであって臣下にあらざる者はおらず32原文「食土之類」。『左伝』昭公七年の「封略之内、何非君土、食土之毛、誰非君臣」をふまえた表現と思われる。、〔秦王を奉じることについて〕亀卜も筮竹も良しとし33原文「亀筮克従」。『史記』巻三八、宋微子世家に「女則有大疑、謀及女心、謀及卿士、謀及庶人、謀及卜筮。女則従、亀従、筮従、卿士従、庶民従、是之謂大同」という記述があり、これを参考に訳した。、死者も生者も帰服している。吉日を選んで、〔秦王を〕帝位に奉じるべきである。いま、前鋒督護の宋配に歩騎二万を統率させて派遣し、ただちに長安へ行かせ、秦王の御車を護衛させ、左右で敵を撃退させる。西中郎将の寔の中軍三万、武威太守の張琠の胡騎二万も続いて進発する。仲秋の中旬、臨晋(馮翊の属県)に集結せよ。
まもなく秦王が皇太子となると、使者をつかわし、張軌を驃騎大将軍、儀同三司としたが、〔張軌は〕固辞した。秦州刺史の裴苞と東羌校尉の貫与は険阻な地勢を恃みに皇太子の使者を拒んだので、〔張軌は〕宋配に命じてこれらを討たせた。西平の王叔は、曹袪の残党の麹儒らと共謀し、まえの福禄令の麹恪をむりやり首領にかつぎあげ、西平太守の趙彝を捕え、東の裴苞に呼応した。〔宋配とともに裴苞の討伐に向かっていた?〕張寔は軍を転進させてこれを討ち、麹儒らを斬った。左督護の陰預は裴苞と狭西で戦い、おおいにこれを破り、裴苞は桑凶塢へ敗走した。この年、北宮純が劉聡に降った。皇太子が使者をつかわし、あらためて前回の位を授けなおしたが、〔張軌は〕固辞した。左司馬の竇濤は張軌に言った。
曲阜の周公旦が辞退せず、営丘の斉望(太公望)が命を拝受したのは、国家の法制を明らかにし、殊勲を奨励するためでした。天下が崩壊し、主上がお移りになられているなか、わが州は僻遠に位置するといえど、〔朝廷の〕護衛を忘れることはありませんでした。そのため、朝廷は〔わがほうに〕心を寄せ、嘉命が何度も下っているのです。朝廷の命に従い、群衆の心にかなうようにするのがよいかと思います。
張軌は聴き入れなかった。
これ以前、張寔が麹儒を平定したとき、悪党の中心集団六百余家を〔別の場所に〕移住させた。治中の令狐瀏は言った、「そもそも悪人を除去するのは、農夫が雑草を刈るようなものであり、その根元を絶えさせて、繁殖させられないようにするのです。いま、全員を移住させて、将来の禍根を断つべきです」。張寔は聴き入れなかった。〔のちに〕麹儒の徒党ははたして反乱を起こしたので、張寔は進軍してこれを平定した。
愍帝が即位すると、〔張軌を〕司空に進めたが、〔張軌は〕固辞した。太府参軍の索輔が張軌に言った。
いにしえは黄金、貝、毛皮、絹を貨幣とし、穀帛34穀物と布帛。どちらも衣食のための生活必需品。の計量による無駄な出費を抑止していました35原文「息穀帛量度之耗」。生活必需品から貨幣として用いる分を取り分けるのは無駄な出費であり、黄金など別の物品を貨幣に代用することによって、こうした損害を止めていた、という意味で読んでみたが、そのような読み方でよいのか自信はない。巻二六、食貨志に載せる安帝・元興年間の孔琳之の議に「穀帛為宝、本充衣食、分以為貨、則致損甚多」とあるのを参照した。。両漢の時代、五銖銭を制定し、交易(売買)はスムーズにおこなわれました。泰始年間、河西は荒廃し、とうとう銭を使用しなくなり、一匹の布地を裂いて数片に裁断し〔、それを貨幣として使用するようになり〕ました36原文「裂匹以為段数」。「段数」の読み方がわからない。「数」は「匹」(一匹)に対応しているのだろうが……。。縑布(織物)はボロボロなうえ、交易も簡便ではなくなりました。いたずらに女工製品(織物)を破壊してしまい、衣服の用途に堪えません。弊害は甚大であります。いま、中原は混乱しているとはいえ、こちらの方面は安全が保たれていますから、五銖銭を復活させて、臨機応変が求められる機会を捉える37原文「済通変之会」。「通変」は「きまりにとらわれず、時に応じて変わる」(『漢辞海』)。よって「通変之会」は「現況に合った対応へ臨機応変に切り替えるちょうどよい機会」といった意味あいであろう。とすれば、「済」は「成し遂げる」の意か。すなわち、「臨機応変な対応をとる機会を実現化する」ということか。そういう理解で合っているのか心もとないが、この解釈を下敷きに意訳した。のがよいかと存じます。
張軌はこれを聴き入れた。制度を定め、布〔の貨幣としての価格〕を基準にして銭を採用すると、とうとう銭がおおいに流通するようになり、人民はそのことによる恩恵38原文は「其利」。銭を使用することでもうけをたくさん得られるようになった、という意味ではなく、銭を貨幣に使用するのがスタンダードになったおかげで生活が便利で豊かになった、という意味での「利」だと思われる。を享受したのであった。このころ、劉曜が北地に侵略したので、張軌も参軍の麹陶に三千人を統率させて長安を防衛させた。愍帝は大鴻臚の辛攀を派遣し、張軌に侍中、太尉、涼州牧、西平公を授けたが、張軌はまたも固辞した。
州に在任すること十三年、病気で寝たきりになった。遺令に言う。
私は、人に恩義を施してこなかった。いま、病気がいよいよ長引き、終わりの時が近づいてきたようだ39原文「殆将命也」。成語としての「将命」は「命令を奉じる」または「命令を伝送する」という意味だが、それだとこの箇所は意味が取りにくい。和刻本が「殆ド将ニ命ナラントス」と読んでいるのに従って、「寿命が近づいている」という意味で読んでみた。。文武の官や将佐は、みな忠諫を広く尽くし、百姓を安んじることに努め、上は国へ報いることを思い、下は家を安寧にすることを考えよ。質素な棺とし、薄葬するように。黄金や玉を副葬してはならない。よく安遜(張寔の字)を助け、朝廷の命令に従うように。
上表して子の張寔を世子に立てた。享年六十。武公の諡号をおくられた40『太平御覧』巻一二四、前涼張軌に引く「崔鴻十六国春秋前涼録」には「葬建陵、冊贈侍中、大尉、諡武穆公。張祚僭号、追尊武王、廟号太宗」とある。諡号が少し違うほか、墓陵があり、のちに張祚が僭号すると武王および太宗と追尊されたという。。
〔張寔:張軌の子〕
張寔は字を安遜という。学識が深く、明察力があり、賢者を敬い、士人を大切にした。秀才に挙げられて郎中となった。永嘉のはじめ、驍騎将軍を固辞し、涼州へ帰ることを求めると、〔朝廷は〕これを承認し、あらためて議郎を授けた。姑臧に到着すると、曹袪を討った功績により、建武亭侯に封じられた。まもなく西中郎将に移り、福禄県侯に昇格した。建興のはじめ、西中郎将に任じられ41前文と重複しているように思うが、よくわからない。、領護羌校尉となった。張軌が卒すると、州人は張寔を推戴して父の位を代行させた。愍帝はそこで策書を下して言った。
なんじの父の武公は、勲功を西夏(西中国)に打ち立てた。近ごろ、胡賊は狡猾で、近甸(京師のすぐ付近)に迫っているが、〔武公のつかわす〕義勇の兵卒は万里を連ねてひっきりなしに到着し、〔武公の献じた〕地方の貢納物や遠方の珍品は倉庫から尽きた年がなかった。まさに〔武公に〕征伐の全権を委ね、九域を平定させようと思っていたが、昊天は憐れみをかけず、わが諸侯(張軌のこと)を衰死させてしまった。そのため、朕は心を痛ませている。なんじは秀儁清麗にして英才果断であり、父子代々にわたって西海(西中国)の範たるにふさわしい42原文「宜世表西海」。「表」がどういう意味か捉えがたいが、下記の『左伝』の用例を参照した。すなわち、『左伝』襄公十四年に「昔伯舅大公、右我先王、股肱周室、師保万民。世胙大師、以表東海」とあり、杜預注に「胙、報也。表、顕也。謂顕封東海、以報大師之功」とある。また同襄公二十九年に「表東海者、其大公乎」とあり、杜預注に「大公封斉為東海之表式」とある。。いま、〔なんじに〕持節、都督涼州諸軍事、西中郎将、涼州刺史、領護羌校尉、西平公を授ける。往(ゆ)けや欽(つつし)めや43原文「往欽哉」。『尚書』の堯典篇などで使われている言葉。任地に赴き、つつしんで仕事を果たせ、のようなニュアンス。。〔なんじに〕先人(張軌)の遺業を発展させ、王室を守護せしめん。
蘭池長の趙奭が上言し、兵士の張氷が璽を入手したが、それには「皇帝璽」という文言があった、と報告した。群僚が祝賀を述べて徳を賛美すると、張寔は言った、「孤(わたし)はかねがね、袁本初が天子のふりをして肘を向けたこと44原文「袁本初擬肘」。袁紹が玉印を入手したときに、曹操に肘を向けるように腕を高く上げてその玉印を見せびらかした故事を指すと思われる。『三国志』魏書一、武帝紀、初平元年に「紹又嘗得一玉印、於太祖坐中挙向其肘、太祖由是笑而悪焉」とあり、裴松之注に引く「魏書」によれば、自分に服従するよう曹操にメッセージを送っていたということのようである。本文の「擬」の意味はよくわからないが、ひとまず「皇帝のふりをする」という意味で取ってみた。に憤りを覚えていた。諸君らはどうして軽々しくこうしたことを言うのか」。そして〔その璽を〕京師へ送った。国じゅうに令を下して言った。
かたじけなくも先人の事業を継ぐこととなり、刑罰や為政が百姓の憂いとならぬよう願ってきた。しかし、このごろの飢餓と旱魃は、政事の過失にほとんど起因している。箴諫の言葉を仰いで、わが欠点を補いたく思う。今後、面と向かって孤の罪を批判する者がいれば、束帛でもってむくいる。文章で孤の過ちを述べる者がいれば、筐篚45(絹帛などの礼物を入れるための)竹製の器、転じて礼物のこと。『毛詩』小雅、鹿鳴の詩序に「鹿鳴、燕群臣嘉賓也。既飲食之、又実幣帛筐篚、以将其厚意。然後忠臣嘉賓、得尽其心矣」とある。でもってこたえる。市場で非難する者がいれば46「市場で(於市)」というのは、現代的な概念や言語感覚で言えば「公共の場で」「公衆のいる前で」ということであろう。、羊肉と米でもってかえす。
賊曹佐で高昌出身の隗瑾が進み出て言った。
聖王が重大な事案を実行しようとするときは、必ず三訊(三たび諮問する)の方法を重んじました。〔また、聖王の時代は〕朝廷に諫官を設置して大理47原文まま。刑獄をつかさどる長官の官名でもあるが、ここでは「天下を治める道理」くらいの意味か。を正し、疑・承(丞)・輔・弼48すべて官名。いにしえの天子に侍ったという四隣または四輔のこと。が欠点を補って過ちを正しました。現在は、事案の細大を問わず、ことごとくご聖慮によって決定されており、軍を動員するのも令を発布するのも、政庁内に〔事前に〕知る者はおらず、かりに誤りがあったとしても、下々が批判を分散して負うことはできません。愚考いたしますに、〔主上の〕ご聡明を停止して、多くの人々の言葉を広く受け入れ、為政や刑罰は大小を問わず、衆とともにこれを決定するようにするのがよいかと存じます。もし、つねにご聖心の内側のみで決定していれば、群僚は威厳を恐れて面従するようになります。善も悪も、もっぱら上に帰すのみであれば、たとえ千金の賞金をかけたとしても、結局発言は出てこないでしょう。
張寔はこれを聴き入れ、〔隗瑾に〕位三等を加増し、布帛四十匹を下賜した。督護の王該を〔京師に〕派遣し、諸郡の貢計(貢納物と会計簿)を移送させ、名馬、地方産の珍品、経史の書物、図籍(管内の地図と戸籍)を京師へ献上した。
そのころ、劉曜が長安に迫ったので、張寔は将軍の王該に軍を統率させて派遣し、京師を救援させた。愍帝はこれを嘉し、〔張寔を〕都督陝西諸軍事に任じた。愍帝は劉曜に降る間際に、詔を張寔に下して言った。
時運は厄運へ向かい、禍が晋室にふりかかり、京師(ここは洛陽を指す)は陥落し、先帝は賊の本拠地でお眠りになられた。〔洛陽が陥落すると、〕朕は宛許の方面へ流浪し、それから旧京(長安)に至った。群臣は、〔晋の〕宗廟に主人が不在であることをもって、その地位を朕に帰し、ついに幼少の身でありながら王公の上を任された。帝位に即いて以来、現在で四年になるが、巨悪を滅ぼして危難を救うことはなしえず、億兆の人民は依然として塗炭の苦しみに遭っている。すべて、朕の不明の致すところである。羯賊の劉載(劉聡のこと)は帝号を僭称し、先帝に危害を加え、ほしいままに藩王を殺した。〔朕は〕仇と恥を深く念慮し、武器をまくらにして床に就き、夜明けを待つほどであった。劉曜は昨年九月より、大軍勢を引き連れ、隙に乗じて深く侵略し、羌胡を脅して人質を取って、北地を落とした。麹允は軍を統べて長安城外に駐在し〔、劉曜に抗戦し〕ていたが、六軍は敗北し、〔劉曜の〕侵攻は京城(長安)に迫り、矢は宮殿にまで飛来した。胡崧らが国難に駆けつけて来たものの、最後尾に留まって何の手柄もない。攻囲の塹壕は十重にも及び、外からの救援は到着せず、食料は底を尽いて人は事態に窮し、とうとう降虜となるに至ってしまった。仰げば上天に恥ずかしく、俯けば宗廟に向ける顔がない。君は父子代々にわたって忠誠篤く、勲功は西夏に明らかで、四海の人々がそろって注目し、朕が頼りにしている人材だ。いま、君を大都督、涼州牧、侍中、司空に進め、承制行事49原文まま。そのまま訳せば「承制して政事を代行する」の意。肩書とまでは言わないが、文脈から判断すると一種の資格を表わしている文言のように思われたので、このままで訳文を作成してみた。とする。琅邪王(睿)は宗室のなかでも近親かつ賢才で50原文「宗室親賢」。琅邪王(のちの元帝)は武帝の子孫ではないが、宣帝の子孫ではある。対して、たとえばこの時代の有力な宗室であった南陽王保は宣帝の弟の子孫である。このような点で「親」と記されているのだと思われる。、遠く江南に滞在している。いま、朝廷が流浪し、社稷が苦境に陥ることになってしまったため、朕は琅邪王に詔を下し、折りを見て帝位を代行するように命じておいた。君は琅邪王を翼賛し、協力して艱難から救い出してくれたまえ。もし〔君が〕主君を忘れずにいるのであれば、宗廟に幸いがもたらされるであろう。夜が明けたら、すぐに城を出て降るつもりだ。それで、〔今日の〕夜に公卿に謁見して後事を委ねると、ひそかに黄門郎の史淑と侍御史の王沖を〔君のもとへ〕つかわし、この詔を持参して授与するよう命じたのである51「ひそかに(密)」つかわしたというのは、公卿たちにも秘密の使者であったということなのだろうか。詳細は明らかにしがたい。。出降に際し、〔君へ〕命を託した。公よ、努めてくれたまえ。
張寔は、天子が〔平陽へ〕連行されたことを理由に、辞退して〔授けられた位を〕拝受しなかった。
建威将軍、西海太守の張粛は、張寔の叔父であった。京師に危機が迫っていることから、先鋒となって劉曜を撃退したいと〔張寔に〕要望した。張寔は、張粛が老年だったので承認しなかった。張粛は言った、「キツネは死ぬときに頭を生まれた丘のほうへ向け、故郷を忘れない。楚の鍾儀は晋に拘留されているあいだも、楚の冠をかぶり、南方の音楽を演奏した。粛(わし)は晋の恩にあずかり、割符をいただき、位を授かったのだ。羯の逆賊が天にみなぎるほどに増長し、朝廷が転覆したというのに、粛は辺境で安穏としておる。国難がふりかかってきながら奮い立たないようでは、どうして人臣たるものか」。張寔は言った、「わが門戸は厚恩を受けて参りましたから、もとより宗族全員で死力を尽くし、社稷に忠義を捧げて護衛し、そうして先公(張軌)の志を継続するべきであります。しかし、叔父さまはすでにご高齢で、気力も衰えてございますから、戦争はご老体には荷が重いでしょう」。〔張粛は〕そこで思いとどまった。まもなく京師の陥落を知ると、張粛は悲憤して卒してしまった。
張寔は、劉曜が天子を拉致していったことを知ると、三日間にわたっておおいに哭泣した。太府司馬の韓璞、滅寇将軍の田斉、撫戎将軍の張閬、前鋒督護の陰預ら歩騎一万を派遣し、東へ進ませて国難に駆けつけさせた。討虜将軍の陳安、安故太守の賈騫、隴西太守の呉紹に命令し、おのおの郡兵を率いて韓璞らの前駆となるよう命じた。張寔は韓璞を戒めて言った、「以前に諸将を派遣したとき、時機上の約束を破ることが多く52原文「多違機信」。「機信」は用例を見つけられず、よくわからない。文の流れも勘案して、「機」を「(軍事上の)機会、タイミング」、「信」を「約束、信用」と解釈して訳してみた。要するに、(タイミング的な意味で)行動の足並みがそろわなかった、ということではないかと思われる。、意見がバラバラで、分裂を招いてしまった。内部が協調できないのであれば、どうして外部を服従させられようか。いま、卿に五将の兵事を監督するよう命じるが、ひとつの身体であるかのようにまとまらなければならない。分裂の知らせを孤の耳に入れてはならぬからな」。また南陽王保にも書簡を送って言った。
王室が有事の事態ですが、身命を投げ捨てることを忘れたわけではありません。孤の州は遠隔にあり、前方にも後方にも厄介事が多くございます。このため、先日は賈騫を派遣し、公の挙動を遠くから観察させていたのですが、〔公から〕符命をいただきましたので53原文「中被符命」。「中」は文脈を勘案して「受け取った」くらいのニュアンスで取ってみた。『資治通鑑』巻九〇、建武元年正月の胡三省注に「符命、蓋保下寔也」とあるとおり、「符命」は南陽王保から張寔へ発せられた命令文書のたぐいを言うのであろう。おそらく、張寔軍が遠くから様子見していることに南陽王が不信感を抱いて怒り、他意がないのなら帰れと命じたのではないだろうか。、賈騫に命じて軍を引き返させた次第です。まもなく、北地が陥落し、賊が長安に迫り、胡崧は進軍せず、麹允が五百金を持参して胡崧に救援を要請した、という動向を知りました。それゆえ、賈騫らを派遣し、進軍させて山嶺(隴山山脈?)を越えさせる決断をいたしました。〔しかし〕折りしも朝廷が転覆したことを知りました。忠義の行動は主君に届かず、派兵は国難に間に合わず、痛憤の極みであり、死んでも罪を償いきれません。いま、さらに韓璞らを派遣いたしますが、公のご命令なら何でも従います。
韓璞が南安に駐屯すると54『資治通鑑』巻九〇、建武元年正月だと、先の南陽王への書簡を記述したのち「璞等卒不能進而還。至南安……」とあり、事情はよくわからないが、韓璞らは進軍の途中で引き返したようである。なお南陽王が駐屯していたのは上邽で、南安より東である。つまり韓璞らは南陽王に合流する手前で撤退していったということになる。、羌が行軍路を遮断した。百余日対峙し、食料が尽き、矢もなくなった。韓璞は車を引くための牛を殺して軍にふるまい、泣きながら兵士たちに言った。
「おまえらぁ、父母が恋しいかあ?」
「恋しいぃ。」
「妻子が恋しいかあ?」
「恋しいぃ。」
「生きて帰りたいかあ?」
「帰りたぁい。」
「オレの言うことを聞くかあ?」
「聞くぞぉ。」
そして太鼓を打ち鳴らし、鬨の声をあげ、進撃した。ちょうど張閬が金城(南安の西北)の軍を率いてあとから続いて到着したので、挟撃しておおいに羌を破り、首級数千をあげた。
そのころ、焦崧55『資治通鑑』は焦嵩(巻八九、忠義伝、麹允伝附伝)と表記している(巻九〇、太興元年三月)。焦嵩の本伝には長安陥落後の動向が記されておらず、詳細不明。や陳安が隴右を侵略し、東へ進んで劉曜と対峙したが56この文が示す状況はよくわからない。まだ陳安が晋からそむいて劉曜に称藩する前のことのはずで、だからこそ劉曜と相対しているのだと思うが、それにも関わらず焦崧と陳安が隴西を「寇」したと表記されているのは不可解である。ただ事情を明らかにはしえないので、ひとまずそのまま訳しておいた。、〔戦乱により〕雍州と秦州の人民は十人に八、九人が死んだ。そのむかし、永嘉年間に長安で童謡が広まったことがあった。
秦川(関中平原)じゅう、血が腕をうずめている57腕をうずめるほどに血が満ち溢れている、という意。。
涼州は柱にもたれて見ているだけ。
このときになって、童謡の歌詞が的中したのであった。焦崧と陳安が上邽(南陽王の駐屯地)に迫ると58これも事情はよくわからない。本伝や『資治通鑑』での時系列だと、この時点ではまだ陳安は劉曜に降っていない。、南陽王は〔張寔へ〕使者をつかわして急を知らせた。〔張寔は〕金城太守の竇濤を軽車将軍とし、威遠将軍の宋毅、和苞、張閬、宋輯、辛韜、張選、董広ら歩騎二万を統率させ、南陽王のもとへ駆けつけさせた。軍が新陽に駐屯したとき、愍帝の崩御の知らせが届いた。〔張寔は〕素服を着て挙哀し、三日間にわたっておおいに哭泣した。このとき、南陽王は尊号を称そうとたくらんでいたので、破羌都尉の張詵は張寔に言った。
南陽王は莫大な恥をお忘れになって、みずから尊位につかんとお望みです。天は〔南陽王の即位を予言する〕図籙59河図や洛書のような予言書のこと。図讖。を授けていませんし、徳は天運に応ずるには不足していますから、結局のところ、世の艱難を救う御方ではないでしょう。晋王(のちの元帝)はうるわしい徳をそなえた近親の諸侯で、先帝(愍帝)は〔晋王に〕託しておりましたから、上表して〔晋王の〕聖徳を称え、尊号につくよう勧めるのがよろしいかと存じます。〔そこで〕檄書を諸侯に発送し、相国府(南陽王)にも〔みなで晋王を奉じるべしという〕進言を添えれば、競争の野心はおさまり、〔野望を抱いている〕人衆は集まる前に離散するでしょう。
張寔はこれを聴き入れた。そこで、檄書を天下に発し、晋王を天子に推戴した。〔そして〕牙門の蔡忠を派遣して江南に上表し、尊位につくよう勧めた。この年、元帝が建鄴で即位し、太興と改元したが、張寔はなおも建興六年と称し、中興の改元に従わなかった60建興は愍帝の元号。愍帝は建興四年に漢に降り、同五年(元帝の建武元年)に平陽で崩御した。元帝はその次の年に即位・改元した。。
南陽王は愍帝の崩御を知ると、晋王を自称し61前文と重複しているようだが、『資治通鑑』はそれぞれを別々の出来事として扱い、前文の「尊号を称そうとたくらんでいた(謀称尊号)」は太興元年、晋王自称は太興二年に配している。巻六、元帝紀も、南陽王の晋王自称を太興二年とするが、本伝のベースであったと考えられる『十六国春秋』前涼録(『太平御覧』巻一二四、張寔、引)は建興五年としている。なお元帝はすでに建興五年(建武元年)に晋王を称していた(そのゆえ、本伝が元帝を「晋王」と呼んでいるのは適切である)。、元号を立て62『太平御覧』巻一二四、張寔に引く「崔鴻十六国春秋前涼録」によれば、その元号は「建康」である。、百官を設置し、使者をつかわして張寔に征西大将軍、儀同三司を授け、食邑を三千戸加増した。まもなく晋王(南陽王保)は陳安にそむかれ、氐や羌がみな陳安に呼応した。晋王は窮迫し、とうとう上邽を去って、祁山に移った。張寔は将の韓璞に歩騎五千を統率させて派遣し、晋王の難に駆けつけさせた。陳安は退却して綿諸を守ったので、晋王は上邽に戻った。ほどなく、晋王はふたたび陳安に敗れ、〔晋王の〕使者が張寔のもとに至り、援軍を請うた。張寔は宋毅を派遣して駆けつけさせたが、陳安は撤退してしまった。そのころ、晋王は劉曜から圧迫を受けたので、桑城に移り、張寔のところへ逃れる計画を立てようとしていた。張寔は、晋王は宗室の名望であるから、もし河西にやってきたら必ず人心に衝撃を与えるであろう、と思い、将の陰監を派遣して晋王を迎えに行かせ、表向きは護衛と言っていたが、実際は晋王が来るのを防ごうとしたのであった。ちょうど晋王が薨じたため、その衆は離散し、涼州に逃げ込んできた者は一万余人にのぼった。張寔は〔自身の本拠地が〕険阻で遠方であることにみずから恃み、すこぶる思い上がっていた。
そのむかし、張寔の寝室の梁(はり)には人を描いた絵があったが、頭がなく、しばらく経つと消えてしまった。張寔はこの絵をひどく気味悪がった。京兆の劉弘は左道(邪道)を身につけ、天梯の第五山に仮住まいしていた。山穴の中で灯火を燃やして鏡を吊るし、輝く光を演出すると、そうして百姓を幻惑した。受道者は千余人おり、張寔の左右はみな劉弘に師事していた。帳下の閻沙と牙門の趙仰はともに劉弘と同郷であったが、劉弘は二人に言った、「天が私に神璽を授けた。まさに涼州の王者となるにちがいない」。閻沙と趙仰はこの言葉を信じ、秘密裏に張寔の左右十余人と計画を練り、張寔を殺して劉弘を主君に奉じようと図った。張寔はひそかにその計画を知ると、劉弘を捕えて殺してしまった。閻沙らは劉弘が死んだことを知らずに、その夜に張寔を殺した。在位六年。涼州の政府は昭公の諡号をおくり63原文は「私諡曰昭公」。「私諡」は「〔朝廷が公的に贈るのでなく〕家族・門人などが私的に贈る諡」(『漢辞海』)。張寔の場合は、張氏の前涼政権が自律的に定めた諡号、という意味あいであろう。後文にあるように、東晋の元帝はこれとは別の諡号を下賜した。、元帝は元の諡号を賜わった64『太平御覧』巻一二四、張寔に引く「崔鴻十六国春秋前涼録」には「晋王宝贈寔大司馬、涼州牧、諡元公」とあり、「晋王宝」(晋王保)がおくった諡号とされているが、保は張寔の生前に薨去しているので誤りであろう。また同佚文には「時年五十、葬寧陵、……。張祚僭号、追尊曰明王、廟号高祖」とあり、やはり墓陵があり、のちに張祚が僭号すると明王および高祖と追尊されたという。。子の張駿は幼少だったので、弟の張茂が政事を代行した。
(張茂以下の附伝は省略します。)
張軌(附:張寔・張茂・張駿・張重華・張耀霊・張祚・張玄靚・張天錫)
(2026/8/16:公開)
