巻七 帝紀第七 康帝

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成帝康帝

 康皇帝は諱を岳、字を世同といい、成帝の同母弟である。咸和元年に呉王に封ぜられ、二年に琅邪王に移された。九年に散騎常侍に任じられ、驃騎将軍を加えられた。咸康五年、侍中、司徒に移った。
 八年六月庚寅、成帝は健康を害すと、詔を下して琅邪王を後継ぎとした。癸巳、成帝が崩じた。甲午、皇帝の位につき、大赦した。各地の拠点の文武の官、および郡太守に、かってに任地を離れて〔葬儀に〕駆けつけてはならないと命じた。己亥、成帝の子の丕を琅邪王に封じ、奕を東海王に封じた。この当時、康帝は喪に服して言葉を発さず1原文「時帝諒陰不言」。『論語』憲問篇「子張曰、『書云、高宗諒陰、三年不言、何謂也』。子曰、『何必高宗、古之人皆然。君薨、百官総己、以聴於冢宰三年』」とある。、政事を庾氷と何充に委任していた。秋七月丙辰、成帝を興平陵に埋葬した。〔その日、〕康帝はみずから西階の下で供物を〔棺に〕捧げ2原文「帝親奉奠于西階」。よくわからない。『礼記』檀弓下篇に「奠以素器、以生者有哀素之心也」とあり、正義に「奠、謂始死至葬之時祭名。以其時無尸、奠置於地、故謂之奠也」とある。、〔陵へ〕棺を引いて出発するおりには、徒歩で閶闔門まで行き、そこから白い車に乗り、陵に到着した。己未、中書令の何充を驃騎将軍とした。
 八月辛丑、彭城王紘が薨じた。江州刺史の王允之を衛将軍とした。
 九月、詔を下し、琅邪国の吏と琅邪王府の吏の位を進め、おのおの格差があった。
 冬十月甲午、衛将軍の王允之が卒した。
 十二月、文武の官の位を二等加増した。壬子、皇后に褚氏を立てた。

 建元元年春正月、改元し、配偶者がいない高齢の男女、親がいない幼子、子がいない老人を援助した。
 三月、中書監の庾氷を車騎将軍とした。
 夏四月、益州刺史の周撫と西陽太守の曹拠が李寿を攻め、将の李恒を江陽で破った。
 五月、旱魃があった。
 六月壬午、束帛をもって処士の尋陽の翟湯と会稽の虞喜をまたも〔中央に〕召した。
 有司が奏し、成帝が崩じて一周年になったので、喪服を着替え、御膳をもとどおりにしてほしいと要望した。壬寅、詔を下した、「礼の軽減というのは、その時々に応じて〔礼を〕省略したり実施したりするのであって、一定の決まりがないものである。〔しかし、〕君主と父母については、〔重さが〕たがいにつりあっていて、名教の要めであるから、この礼を改変させるわけにはいかない。便宜的な礼制は近代(ちかごろ)に構築されたのであり、政治の職務には便利といえども、実際には浮薄の発端である。先王はこの礼を尊重し〔て軽減しなかっ〕たが、後世は怠ったままである。まして、その怠った礼をそのまま受け継ぎ、さらにそれを軽減するというのは、義としてあってはならないことだ」3訳出にはかなり自信がない。
 石季龍が軍を率いて慕容皝を攻めたが、慕容皝はおおいにこれを破った。
 秋七月、石季龍の将の戴開が軍を率いて来降した。丁巳、詔を下した、「慕容皝が羯賊を撃ち破り、羯の死者は八万余人にのぼると報告があったが、これはまさしく天が〔羯を〕滅ぼす発端であろう。中原の事柄について作戦を立てるべきである。そのうえ、戴開は〔こちらが攻勢をかける前に〕もう部下を率いて帰順してきたので、慰労するのがよかろう。そこで、安西将軍(庾翼)と驃騎将軍(何充)に使者をつかわし、軍事の事柄を諮問して謀れ」。
 輔国将軍、琅邪内史の桓温を前鋒小督、仮節とし、軍を統率させて臨淮に進入させ、安西将軍の庾翼を征討大都督とし、鎮を襄陽に移動させた。
 庚申、晋陵と呉郡で火災があった。
 八月、李寿が死に、子の李勢が偽位を継いだ。石季龍が将の劉寧に狄道を攻め落とさせた。
 冬十月辛巳、車騎将軍の庾氷を都督荊・江・司・雍・益・梁六州諸軍事、江州刺史とし、驃騎将軍の何充を中書監、都督揚・豫二州諸軍事、揚州刺史、録尚書事とし、〔何充に〕輔政させた。琅邪内史の桓温を都督青・徐・兗三州諸軍事、徐州刺史とし、褚裒を衛将軍、領中書令とした。
 十一月己巳、大赦した。
 十二月、石季龍が張駿に侵攻したので、張駿は将軍の謝艾に防戦させた。河西で会戦し、石季龍が敗北した。
 十二月、高句麗が使者をつかわして朝献した。

 二年春正月、張駿が将の和麟と謝艾を派遣し、南羌を闐和で討伐させ、おおいにこれを破った。
 二月、慕容皝と鮮卑の帥の宇文帰が昌黎で戦い、宇文帰軍が大敗し、漠北に敗走した。
 四月、張駿の将の張瓘が石季龍の将の王擢を三交城で破った。
 秋八月丙子、安西将軍の庾翼を征西将軍に進めた。庚辰、持節、都督司・雍・梁三州諸軍事、梁州刺史、平北将軍、竟陵公の桓宣が卒した。
 丁巳、衛将軍の褚裒を特進、都督徐・兗二州諸軍事、兗州刺史とし、金城に出鎮させた。
 九月、巴東太守の楊謙が李勢と李勢の将の申陽を攻め4原文「巴東太守楊謙撃李勢・勢将申陽」。とくに校勘はないが、「勢」は一字衍字であるような……。、これを敗走させ、将の楽高を捕えた。丙申、皇子の耼を皇太子に立てた。戊戌、康帝が式乾殿で崩じた。享年二十三。崇平陵に埋葬した。
 はじめ、成帝が病に伏せたとき、中書令の庾氷は外戚であったため朝政にあたっており、その権勢は君主に等しかったのだが、皇帝が交替したのち、外戚が遠ざけられるであろうことを心配した5かりに成帝の子が即位してしまえば、明帝皇后の親族という外戚としての立場は相対的に遠くなってしまう。しかし成帝の同母弟が即位すれば、皇太后の一族という立場をキープできる。ということであろう。。そこで〔成帝に対し〕、国家には手ごわい敵が残っていますから、年長の君主を立てるのがよいでしょうと進言した。こうしてとうとう、康帝が後継に据えられたのである。年号を制定するさい、中朝再興に因んで「建元」と改めた。するとある人が庾氷に「郭璞の〔残した〕讖(予言)に『立始之際丘山傾』というのがありますが、『立』は建のこと、『始』は元のことで、『丘山』は陛下の諱(岳)になっています6つまり「建元之際、岳傾く」になる。」と語った。庾氷は驚いて不安に襲われたが、ほどなくため息をつき、「吉凶が定まっているのならば、定めを変えてお救いすることはできまい」と話した。建元年間に康帝の崩御にいたったので、たしかに予言のとおりであった。

 史臣曰く、(以下略)

(2020/2/27:公開)

  • 1
    原文「時帝諒陰不言」。『論語』憲問篇「子張曰、『書云、高宗諒陰、三年不言、何謂也』。子曰、『何必高宗、古之人皆然。君薨、百官総己、以聴於冢宰三年』」とある。
  • 2
    原文「帝親奉奠于西階」。よくわからない。『礼記』檀弓下篇に「奠以素器、以生者有哀素之心也」とあり、正義に「奠、謂始死至葬之時祭名。以其時無尸、奠置於地、故謂之奠也」とある。
  • 3
    訳出にはかなり自信がない。
  • 4
    原文「巴東太守楊謙撃李勢・勢将申陽」。とくに校勘はないが、「勢」は一字衍字であるような……。
  • 5
    かりに成帝の子が即位してしまえば、明帝皇后の親族という外戚としての立場は相対的に遠くなってしまう。しかし成帝の同母弟が即位すれば、皇太后の一族という立場をキープできる。ということであろう。
  • 6
    つまり「建元之際、岳傾く」になる。
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