巻三 帝紀第三 武帝(2)

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系図武帝(1)武帝(2)武帝(3)恵帝(1)恵帝(2)懐帝愍帝東晋

 咸寧元年春正月戊午朔、大赦し、改元した。
 二月、将や士ですでに妻を娶った者が多いので、〔それらの〕家で五人の娘がいれば免税措置を与えた。辛酉、もとの鄴令の夏謖に清廉の名声があったので、穀物百斛を下賜した。〔官の〕俸禄が少ないので、公卿以下に帛を賜い、おのおの格差があった。叛虜の樹機能が質任を送り、降服を願い出た。
 夏五月、下邳と広陵で強風があり、木を抜き、家屋を破壊した。
 六月、鮮卑の力微が子をつかわして朝献した。呉が江夏を侵略した。西域戊己校尉の馬循がそむいた鮮卑を討伐し、これを破り、渠帥を斬った。戊申、太子詹事を置いた。
 秋七月甲申晦、日蝕があった。郡国でズイムシ(害虫)が発生した。
 八月壬寅、沛王子文が薨じた。もとの太傅の鄭沖、太尉の荀顗、司徒の石苞、司空の裴秀、驃騎将軍の王沈、安平献王孚、および太保の何曾、司空の賈充、太尉の陳騫、中書監の荀勖、平南将軍の羊祜、斉王攸を、みな銘饗に並べた銘饗の地位に連ねた1原文「皆列於銘饗」。「銘饗」は「名を列記されて祀られることを言う(謂列名受祭)」(『漢語大詞典』)。元勲として名を記録され(=銘)、しかるべき祭礼を受ける(=饗)、ということだろうか。日本語に置き換えにくいので原文のまま訳出した。なお、人名を連ねた箇所の原文は「故太傅鄭沖、……安平献王孚等及太保何曾、……」とあり、訳文の「および」は原文の「及」を反映したものである。「及」以前は故人、以後は存命の人になっている。(2022/12/25:訳文・訳注修正)
 九月甲子、青州でズイムシが発生した。徐州で洪水があった。
 冬十月乙酉、常山王殷が薨じた。癸巳、彭城王権が薨じた。
 十一月癸亥、宣武観に登り、己巳までつづいた。
 十二月丁亥、宣帝廟を高祖、景帝廟を世宗、文帝廟を太祖と追尊した。この月、疫病が大流行し、洛陽で死者が大量に出た。裴頠を鉅鹿公に封じた。

 咸寧二年春正月、疫病の流行を理由に、朝見を中止した。散吏(郡県の下級の吏)から士卒までに絹織物を賜い、おのおの格差があった。
 二月丙戌、河間王洪が薨じた。甲午、五歳刑以下の罪人を赦免した。東夷の八つの国が帰順した。并州虜が塞内に侵入したが、監并州諸軍事の胡奮が撃破した。
 これ以前、敦煌太守の尹璩が卒すると、涼州〔刺史府〕は敦煌令の梁澄に敦煌太守の仕事を領(兼任)させていたが、議郎の令孤豊は梁澄を退け、みずから敦煌郡の政事を領した。令孤豊が死去すると、弟の令孤宏が継いだ。このときになって、涼州刺史の楊欣が令孤宏を斬り、首を洛陽に送った。
 これより以前、武帝は病気にかかっていたが、快癒すると、群臣が長寿の祝いを述べた。詔を下した、「このほどの疫病にかかって死んだ者のことを思うたび、悲しみでやるせなくなるものである。朕ひとりが癒えたていどで、百姓の苦しみを忘れてよいものだろうか。およそ、〔祝いの〕礼品の献上2原文「上礼」。『漢語大詞典』に従った。はすべてやめよ」。
 夏五月、鎮西大将軍の汝陰王駿が北胡を討伐し、渠帥の吐敦を斬った。国子学を置いた。庚午、おおいに雨ごいをした。
 六月癸丑、茘支(ライチ)を太廟に捧げた。甲戌、彗星が氐で光った。春から旱魃がつづいていたが、この月になってようやく雨が降った。呉の京下督の孫楷が軍を率いて来降した。車騎将軍とし、丹楊侯に封じた。二匹の白龍が新興の井戸の中から現れた。
 秋七月、彗星が大角で光った。呉の臨平湖は漢末から〔草が生い茂って〕ふさがっていたが、このときになっておのずと開かれた。父老の伝えるところでは、「この湖がふさがると、天下は乱れる。この湖が開かれると、天下は平和になる」と。癸丑、安平王隆が薨じた。東夷の十七の国が帰順した。河南と魏郡で洪水があり、百余の死者を出した。詔を下して棺を支給した。鮮卑の阿羅多らが辺境を侵略したので、西域戊己校尉の馬循が討伐し、首級四千余をあげ、九千余人を生け捕りにした。こうして〔阿羅多らは〕来降した。
 八月庚辰、河東、平陽で地震があった。己亥、太保の何曾を太傅とし、太尉の陳騫を大司馬とし、司空の賈充を太尉とし、鎮軍大将軍の斉王攸を司空とした。星が太微できらめき、九月には翼でもきらめいた。丁未、洛陽城の東に太倉を建て、東西の市に常平倉に建てた。
 閏月、荊州の五郡で水害があり、四千余家を流した。
 冬十月、汝陰王駿を征西大将軍とし、平南将軍の羊祜を征南大将軍とした。丁卯、皇后に楊氏を立てた。大赦し、王公以下の臣と配偶者がいない高齢の男女に〔物品を〕賜い、おのおの格差があった。
 十一月、二匹の白龍が梁国に現れた。
 十二月、処士の安定の皇甫謐を〔中央に〕召し、太子中庶子とした。楊皇后の父である鎮軍将軍の楊駿を臨晋侯に封じた。この月、平州刺史の傅詢、まえの広平太守の孟桓に清廉の評判があったので、傅詢に帛を二百匹、孟桓に百匹を下賜した。

 咸寧三年春正月丙子朔、日蝕があった。皇子の裕を始平王に立て、安平穆王隆の弟の敦を安平王に立てた。詔を下した、「宗室や親族は国家の枝葉であるため、〔彼らには〕道義を守り従わせ、天下の模範にさせたいと考えている。しかしながら、富貴の地位にいながら品行をつつしむことができる者は少ない。召穆公は兄弟たちを集めると「唐棣」の詩を詠んで戒めたが3召穆侯は召虎のこと。召公奭の子孫で、周の宣王を補佐したとされる。『左伝』僖公二十四年の富振の諫言に「召穆公思周徳之不類、故糾合宗族于成周、而作詩曰、『常棣之華、鄂不、凡今之人、莫如兄弟』。其四章曰、『兄弟鬩于牆、外禦其侮』。而是則兄弟雖有小忿、不廃懿親」とある。、このことは姫氏の根幹と枝葉が百世までながらえた理由である。いま、衛将軍の扶風王亮を宗師とする。行動しようと思っていることがあれば、すべて宗師に意見を聴くようにせよ」。庚寅、始平王裕が薨じた。彗星が西方で光った。征北大将軍の衛瓘に鮮卑の力微を討伐させた。
 三月、平虜護軍の文淑が叛虜の樹機能らを討伐し、みな破った。彗星が胃で光った。乙未、武帝が雉を射ようとしたところ、麦畑を荒らしてしまいそうだと思ったので、射るのを止めた。
 夏五月戊子、呉の将の邵凱と夏祥が七千余の軍を率いて来降した。
 六月、益州と梁州の八郡で水害があり、三百余の死者を出し、邸閣(食糧庫)や別倉(不詳だが食糧庫だろう)を水没させた。
 秋七月、都督豫州諸軍事の王渾を都督揚州諸軍事とした。中山王睦が罪を犯したため、丹水侯に廃した。
 八月癸亥、扶風王亮を汝南王に移し、東莞王伷を琅邪王に移し、汝陰王駿を扶風王に移し、琅邪王倫を趙王に移し、渤海王輔を太原王に移し、太原王顒を河間王に移し、北海王陵を任城王に移し、陳王斌を西河王に移し、汝南王柬を南陽王に移し、済南王耽を中山王に移し、河間王威を章武王に移した。皇子の瑋を始平王に立て、允を濮陽王に立て、該を新都王に立て、遐を清河王に立てた。鉅平侯の羊祜を南城侯とした。汝南王亮を鎮南大将軍とした。〔河間国で〕強風があり、木を抜いた。急激な寒波で水が凍り、五つの郡国で霜が下り、穀物に損害を与えた。
 九月戊子、左将軍の胡奮を都督江北諸軍事とした。兗州、豫州、徐州、青州、荊州、益州、梁州で洪水があり、秋の収穫物に損害を与えたので、詔を下して被害者を援助した。斉王の子の蕤を遼東王に立て、賛を広漢王に立てた。
 冬十一月丙戌、武帝は宣武観に登って閲兵し、壬辰までつづいた。
 十二月、呉の将の孫慎が江夏と汝南に侵入し、千余家を拉致して帰った。
 この年、西北の雑虜、鮮卑、匈奴、五渓蛮夷、東夷の三つの国、〔合わせて〕前後で十余の輩が、それぞれ種族や部落を率いて帰順した。

 咸寧四年春正月庚申午朔、日蝕があった。
 三月甲申、尚書左僕射の盧欽が卒した。辛酉、尚書右僕射の山濤を尚書左僕射とした。東夷の六つの国が朝献した。
 夏四月、蚩尤旗(星の名称)が東井に現れた。
 六月丁未、陰平と広武で地震があり、甲子にも地震があった。涼州刺史の楊欣が虜の若羅抜能らと武威で戦ったが、敗北し、戦死した。弘訓皇后の羊氏が崩じた。
 秋七月己丑、景献皇后の羊氏を峻平陵(景帝陵)に合葬した。庚寅、高陽王緝が薨じた。癸巳、范陽王綏が薨じた。荊州と揚州の二十の郡国で洪水があった。
 九月、太傅の何曾を太宰とした。辛巳、尚書令の李胤を司徒とした。
 冬十月、征北大将軍の衛瓘を尚書令とした。揚州刺史の応綽が呉の皖城を攻め、首級五千をあげ、米百八十万斛を焼いた。
 十一月辛巳、太医司馬の程拠が雉頭裘(雉の頭の毛皮でつくった衣服)を武帝に献上したが、武帝は、珍妙な技芸や奇異な衣服は礼が禁ずるものであることから、それを殿の前で焼いた。甲申、勅を下し4原文「勅」。『文館詞林』巻六九一には、西晋武帝の「勅」が四首収められており、発辞はいずれも「勅」である。漢制ではあるが、『独断』に挙げられている天子の下書の四種のひとつに「戒書」があり、「戒書、戒勅刺史、太守及三辺営官。被勅文曰、『有詔、勅某官』。是為戒勅也」とある。武帝の「勅」も題から判断するかぎり、おおむね地方官への訓戒を主旨としている。しかし、残されている武帝の「勅」は「勅某官」ではじまっておらず、「勅」を発辞とする書式の文書が戒書のほかにもあった可能性も残るため、以上の材料をもとにここの「勅」を即座に戒書とみなすことはできない。ここでは判断を保留し、たんに「勅」と訳出することにした。なお時代は下るが、勅については[中村裕一二〇〇三]八七―一六四頁も参照。、内外(中央と地方=天下)で〔この決まりを〕犯す者がいれば罰するとした。呉の昭武将軍の劉翻、厲武将軍の祖始が来降した。辛卯、尚書の杜預を都督荊州諸軍事とした。征南大将軍の羊祜が卒した。
 十二月乙未、西河王斌が薨じた。丁未、太宰、朗陵公の何曾が薨じた。
 この年、東夷の九つの国が帰順した。

 咸寧五年春正月、虜帥の樹機能が涼州を攻め落とした。乙丑、討虜護軍、武威太守の馬隆に樹機能を攻めさせた。
 二月甲午、白麟が平原に現れた。
 三月、匈奴都督の抜弈虚が部落を率いて帰順した。乙亥、百姓が飢饉であるため、武帝の食事の量を半分減らした。彗星が柳で光った。
 夏四月、彗星が女御でも光った。大赦し、〔質任廃止の基準を〕下げて、部曲督以下の質任を廃止した。丁亥、八つの郡国でひょうが降り、秋の収穫物に損害を与え、百姓の家屋を壊した。
 秋七月、彗星が紫宮で光った。
 九月甲午、麟が河南に現れた。
 冬十月戊寅、匈奴余渠都督の独雍らが部落を率いて帰順した。汲郡の不準が魏の襄王の陵墓を掘り出し、竹簡で小篆文字の古文書、計十余万言を発見し、秘府(秘書閣)に所蔵した。
 十一月、大軍を起こして呉を攻めた。鎮軍将軍、琅邪王伷を涂中へ向かわせ、安東将軍の王渾を江西へ向かわせ、建威将軍の王戎を武昌へ向かわせ、平南将軍の胡奮を夏口へ向かわせ、鎮南大将軍の杜預を江陵へ向かわせた。龍驤将軍の王濬と広武将軍の唐彬に巴蜀の軍を統率させ、長江を船で下らせた。東西で合わせて二十余万であった。太尉の賈充を大都督とし、行冠軍将軍の楊済をその副官とし、全軍を統率させた。
 十二月、馬隆が叛虜の樹機能を攻め、おおいにこれを破り、斬ったので、涼州は定まった。粛慎が楛矢と石砮を朝献した。

系図武帝(1)武帝(2)武帝(3)恵帝(1)恵帝(2)懐帝愍帝東晋

(2020/2/22:公開)
(2021/9/10:改訂)

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    原文「皆列於銘饗」。「銘饗」は「名を列記されて祀られることを言う(謂列名受祭)」(『漢語大詞典』)。元勲として名を記録され(=銘)、しかるべき祭礼を受ける(=饗)、ということだろうか。日本語に置き換えにくいので原文のまま訳出した。なお、人名を連ねた箇所の原文は「故太傅鄭沖、……安平献王孚等及太保何曾、……」とあり、訳文の「および」は原文の「及」を反映したものである。「及」以前は故人、以後は存命の人になっている。(2022/12/25:訳文・訳注修正)
  • 2
    原文「上礼」。『漢語大詞典』に従った。
  • 3
    召穆侯は召虎のこと。召公奭の子孫で、周の宣王を補佐したとされる。『左伝』僖公二十四年の富振の諫言に「召穆公思周徳之不類、故糾合宗族于成周、而作詩曰、『常棣之華、鄂不、凡今之人、莫如兄弟』。其四章曰、『兄弟鬩于牆、外禦其侮』。而是則兄弟雖有小忿、不廃懿親」とある。
  • 4
    原文「勅」。『文館詞林』巻六九一には、西晋武帝の「勅」が四首収められており、発辞はいずれも「勅」である。漢制ではあるが、『独断』に挙げられている天子の下書の四種のひとつに「戒書」があり、「戒書、戒勅刺史、太守及三辺営官。被勅文曰、『有詔、勅某官』。是為戒勅也」とある。武帝の「勅」も題から判断するかぎり、おおむね地方官への訓戒を主旨としている。しかし、残されている武帝の「勅」は「勅某官」ではじまっておらず、「勅」を発辞とする書式の文書が戒書のほかにもあった可能性も残るため、以上の材料をもとにここの「勅」を即座に戒書とみなすことはできない。ここでは判断を保留し、たんに「勅」と訳出することにした。なお時代は下るが、勅については[中村裕一二〇〇三]八七―一六四頁も参照。
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